たぶん週1エッセイ◆
映画「臨場」
ここがポイント
 検視官倉石義男の人物像の魅力で見る映画
 通り魔殺人事件の犯人が精神病を装い弁護人と精神科医が組んで心神喪失をでっち上げるというタカ派メディア好みの偏見に満ちた設定と血に飢えた描き方には呆れる

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 検視官倉石義男シリーズのTVドラマを映画化した「臨場」を見てきました。
 封切り2日目日曜日・映画サービスデー、新宿バルト9シアター9(429席)午前11時30分の上映は7〜8割の入り。観客層は若者が多数派

 4人が殺害された通り魔殺人事件から2年後、その被告人を心神喪失で無罪とする原動力となった弁護人と精神鑑定医が殺害された。弁護人の死体を検視した倉石義男(内野聖陽)は、ズボンの臀部に大量に付着した緑茶の染みに違和感を持ち、肛門での体温測定からの推定死亡時刻に異を唱え、肝臓の温度を測定し、死体に死亡推定時刻の偽装工作がなされたことを発見した。警察は連続殺人事件と判断し、警視庁と神奈川県警の合同捜査本部が設置され、通り魔殺人事件の遺族を重点的に調査するよう指示がなされたが、倉石は遺族が死体への偽装工作などできるはずがないと反発する。鑑定医の死体の解剖を担当したのは倉石の恩師安永泰三(長塚京三)だったが、推定死亡時刻への工作の跡はなかったという。そこへ殺された弁護人と鑑定医が組んだ別の事件がクローズアップされ・・・というお話。

 服装や態度などの見た目から組織になじみにくくお行儀は悪いものの、実力は認められ、信念に基づいて職責をこなし、組織の論理にのらずに正論と真実追究に突き進んでいく、しかし同時に自分の限界も認識している、そういった検視官倉石義男の人物像は、よく描かれていると思います。基本的には、その魅力で見る映画だろうと、例によってTVドラマは見ていない私は、思います。
 検視シーンのリアリティも、私自身、司法解剖は立ち会ったことがありますが検視の方はありませんけど、特に違和感を覚えない程度には表現されています。
 ストーリーは、それなりに布石は打たれどんでん返しがあり、それなりには見せ場を作っています。私には、別事件の絡みがわざとらしく、真犯人の動機は無理でしょと思えますが。

 この作品のテーマになっている、通り魔殺人事件の犯人が精神病を装い弁護人と精神科医が組んで心神喪失をでっち上げるという話。一弁護士として、こういう話がTVや映画で描かれ、そういうことが信じられていくこと自体が、とても悲しいしやるせない。私自身、もう5年あまり刑事事件の現場から遠のいていますし、心神喪失が絡む事件は一度もやったことがありませんから、あくまでも一般論に終始しますし、自分が経験したこともないのでそもそも「弁護士として」論じる資格があるともいえません。しかし、こういうことを言いたがるメディアが多い昨今、一言言わせてもらいます。
 まず詐病で心神喪失が認められるなんてことがあるのでしょうか。心神喪失の鑑定もかなり綿密になっていますし、精神科医が心神喪失の鑑定をしても裁判では心神喪失が認められないで心神耗弱の減刑止まりということも多いということを別としても、この映画で描かれているように心神喪失で無罪となってもその後何年もの医療観察入院が待っており、この映画のケースでいえば2年間の入院中始終接している主治医を騙し続けられるでしょうか。
 心神喪失で無罪はけしからん、精神病なら何をやってもいいのかという議論は常にありますが、仮に無罪になっても(実際には裁判所が心神喪失を認める確率はかなり低いですがそれを無視したとしても)その後長期間精神病院に閉じ込められ、退院できたとしても精神病者のレッテルを貼られて社会復帰も困難になるわけで、それで人が殺せるものなら安いものだと思って犯罪を犯す者などいるでしょうか。
 そもそも通り魔殺人の犯人は、むしろ死刑になりたいと思って犯行に至るケースも多く、その場合、詐病なんて考えもしないでしょう。
 この映画で、真犯人が見たと主張している、「被告人の笑い」にしても、そういう疑いを持った目にはそう見えるということもあり、目撃証言の難しさにも通じる、思い込みの怖さという問題を抱えていると、私は思います。
 弁護人が詐病を疑うかについては、難しい問題があります。まず弁護人の職務として、被疑者・被告人の主張を頭ごなしに否定すべきでないということがあります。世の中には、こういった映画・ドラマも含めて弁護士は悪人の虚偽の主張の片棒を担ぐものと言いたがるマスコミの論調を受けて、弁護士と見るとこういう議論をふっかけたがる人がいますから、何度かお話ししていますが、被疑者・被告人、特に身柄を拘束された被疑者・被告人は、警察官にも検察官にも自分のいうことを信じてもらえず嘘つき呼ばわりされ続け、家族や友人とも会えなかったり逮捕されたこと自体で疑われたりして孤立した状態にあります。その中で唯一の味方になるはずの弁護人から、自分の主張を簡単に否定されたら、絶望感にうちひしがれ自暴自棄になって警察の作るストーリーに従った自白に追い込まれて行きかねません。多くの冤罪事件でそういうことが起こり、冤罪事件とわかると、昨今ではマスコミも最初の弁護人は何をしていたと非難がましく報じているところです。そして、弁護人自身、事件についてごく限られた情報しかない中で、直感的に被疑者・被告人の主張が怪しいと思ったとしても、それが真実である保証はどこにもないというのが多くの事件の現場での感覚です。そこで弁護士の間でいわれているのは、「弁護士は被疑者・被告人を裁いてはいけない」ということなのです。弁護人が怪しいと思ってもそれは確実な事実ではなく錯覚かもしれない、その確実とはいえない直感で被疑者・被告人の主張を否定して、被疑者・被告人を絶望させて虚偽自白に追い込んだら目も当てられない、それこそ弁護人の職務違反です。ただ、被疑者・被告人の主張を否定しないことと、裁判上どのような主張をどのように行うかは一応別の話で、裁判上主張することは弁護人として確信を持てた範囲で行う、あるいは確信が持てるような主張の仕方をするということになると思います。
 さらにここでいう「詐病」にはさらに別の問題もあります。精神障害における「病識」の問題です。イデオロギー的な問題もあり、さまざまな意見はありますので深入りは避けたいと思いますが、少なくとも精神障害においては病識、すなわち自分が病気であるという認識があるとは限らないわけです。本人が、「自分は正気でした」と言ったら精神病じゃなかったなんて簡単な話じゃないと思います。
 そういう状況の中、被害者・遺族の厳しい視線(それを別にしても弁護士自身それは痛ましく思っているはず)、マスコミの批判や心ない「市民」の嫌がらせと、そして弁護人にとって何よりつらい被疑者・被告人とのコミュニケーションが難しいという事態やむしろ死刑になりたいと思っている被疑者・被告人による後ろから飛んでくる矢とかに挟まれて弁護活動を続ける弁護人は、大変な状況にあると思います。弁護士の利益のためになんて、そういう刑事事件での弁護士報酬なんてほとんど期待できないのがふつうですし、そういう事件で有名になっても同種の困難ばかり多くて報酬が期待できない事件が多数来るだけでしょうし、そんなことを考えて受任したり弁護方針を考える弁護士がいるとは、私には考えられません。
 さらに言えば、こういうドラマや映画や、さらには報道に携わる人たちが自分たちは被害者・遺族のためにやってるような言い分にも違和感を持っています。この映画でも、むごたらしい殺害シーンや、検視でも抑えたつもりでも女性被害者の胸部のアップとかが出てきますが、そういうシーンを作る必要性があるでしょうか。遺族といっても価値観は一様ではありませんから、被害者が安楽に死んだと思われたくないと考える人もいるでしょう。しかし、執拗な刺殺・流血シーンの再現には抵抗感を持つ遺族が相当数いると思いますし、若い女性(若くなくてもかもしれません)被害者の遺族には殺害されると死体解剖はもちろんのこと検視の際ですら全裸にされて男性の検死官の目にさらされて「乳頭右下何センチに刺創」とかの確認をされるということを一般人にイメージとして描かれることに嫌悪感を持つ遺族も少なくないと思います。制作者側は犯罪のむごさを知らせ犯罪への憎しみを表現するためなどというでしょうが、私自身、そういうところよりも、遺体にすがりついたり呆然とする遺族、その後も被害者の死亡の意味を求めてむなしく奔走する遺族、何年も経っても諦めきれない遺族の姿の方にこそ犯罪のむごさと遺族の悲しみを素直に感じました。こういう描き方を見るたびに血に飢えているのはマスコミの方ではないかと思えてしまいます。

 エンドロールの後、もう続編はないぞという宣言が見られます。続編に続くというさもしいアピールをする映画が多い中で、これはちょっと潔さを感じます。

(2012.7.1記)

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