◆たぶん週1エッセイ◆
映画「サントメール ある被告」
弁護士としては、法廷での尋問の実務がフランスと日本で大きく違うことに驚いた
法廷劇としてよりも、母が、女が、幼児殺の罪を問われることの意味を考えさせる作品だと思う
母親による幼児殺の裁判をテーマとした映画「サントメール ある被告」を見てきました。
公開3日目日曜日、ル・シネマ渋谷宮下7階(268席)午前10時30分の上映は2割くらいの入り。2022年ベネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作の公開後最初の日曜日(全国17館・東京2館上映)のメインスクリーンの状況としてはやはり寂しい。日本の観客はやはり宮崎駿一極集中か…
パリの大学に通いつつライターをしているラマ(カイジ・カガメ)は、フランス北部の海沿いの町サントメールで大学に復学して哲学を学んでいたロランス・コリー(ガスラジー・マランダ)が生後15か月の幼児を海岸に置き去りにして殺害したとして起訴された刑事裁判の記事を書くために傍聴し始めた。ラマは、傍聴に来ていたロランスの母と話すようになり、また自分自身が妊娠していることもあってさまざまな感情が押し寄せ…というお話。
公式サイトのキャッチが「真実はどこ?」「あなたは誰?」「彼女は本当に我が子を殺したのか?」「世界中の映画祭を席巻、かつて見たことのない衝撃の法廷劇!」というのですから、法廷での迫真のやりとりの末に意外な、衝撃の真実が明らかになるという展開を期待しましたが、その点は、はっきり言って期待はずれでした。
私にとっては、フランスの刑事裁判が、これまで思っていたよりも日本の刑事裁判とは大きく違うというのが一番の驚きでした。
裁判の開始時点でまず、参審員がその場で選ばれ検察官・弁護人が忌避できるというのを見て驚きました。参審員というのは事件ごとに選ばれるのではなく特定の裁判官と一定期間すべての事件で一緒にするものと認識していたのですが、違うのですね。
裁判では、まず裁判官が次々と一方的に質問をし続け、裁判官が気が済んだらそこで、検察官どうぞ、弁護人どうぞと言われるだけ。超職権的・糾問的構造で、これだったら弁護人なんて要なし、何のためにいるの?って気がします。そして、その促されてする質問が、質問になっていない。質問じゃなくて自分の意見を言っているだけという感じです。日本ではやってはいけない/素人かと見下される尋問の典型です。素人が作った映画だからね、ということではなくて、公式サイトのイントロダクションには「実際の裁判記録をそのままセリフに。」と記されています。ここはもう、裁判制度、裁判の実務が日本とはまったく違うのだと考えざるを得ません。
そういった点で、裁判の実務の構造や考え方自体が違うのだということが実感できたのが、弁護士としては驚きであり、勉強になりました。
ロランスの不倫相手であり、殺害された幼児リリの父親であるリュック・デュモンテ(グザヴィエ・マリ)の言葉の信用性と責任問題をはじめ、ロランスと母、ラマと母の関係、そして序盤にラマが大学で受ける講義で1944年のパリ解放の際にドイツ兵の愛人だったフランス人女性が次々と剃髪されてさらしものにされた映像が映されそれに関するマルグリット・デュラスの論考がテーマとされていることなどが、果たして単純に被告人のロランスを断罪すれば済むのかを問うています。
作品そのものとしては、紹介されている法廷劇として見るよりも、母が、女が、幼児殺犯人として罪を問われることの意味を考えさせる作品として見るべきだろうと思います。
(2023.7.16記)
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