たぶん週1エッセイ◆
映画「千年の愉楽」
 若松孝二監督の遺作となった映画「千年の愉楽」を見てきました。
 封切り3週目土曜日、テアトル新宿(218席)午前11時の上映は2〜3割の入り。観客の多数派は中高年男性。

 紀州の山を背後に持つ海沿いの集落「路地」で長年にわたり産婆をしてきたオリュウノオバ(寺島しのぶ)が死の床で、写真の中の伴侶礼如(佐野史郎)と対話しつつ、自分が取り上げた路地の男たちのうち、魔性の魅力を放ち女たちが入れあげるが短命に終わる「中本」の血筋の男たち、半蔵(高良健吾)、三好(高岡蒼甫)、達夫(染谷将太)らの生き様を思い起こし懐かしむお話。

 中上健次の原作のうち「半蔵の鳥」「六道の辻」と「カンナカムイの翼」の前半を映画化したものと思われ、達夫の出生に関するエピソードを半蔵の出生時のエピソードにし、達夫は北海道に行ったきりとされて、達夫の話は付け足しのような感じで、短編が2.5話というような作りになっています。映画として特に分割はしていませんが、内容は、「半蔵編」「三好編」「達夫編」という感じで、ぶつ切り感があります。原作が短編連作だからしかたないという面もありますが、達夫のエピソードを半蔵に替えるなど設定の入れ替えをするのであれば、半蔵を軸にしてそれに三好を絡ませてみるとかして1本のストーリーにした方が見やすいんじゃないかと思いました。

 妖しい魅力を放つイケメンに女たちが言い寄り群がるという構図は、日本の村社会での奔放な性(せい)への許容性と女の性(さが)を描いていますが、そこでの女たちが開放的/解放的でありながら幸福感がそれほど見えず、おじさんにはうらやましいモテモテでやりたい放題の中本の男たちも幸せそうに見えず、閉塞感ややるせなさを感じさせています。若松監督の性についてのメッセージというよりも耽美的な映像を優先したものと見た方がいいかもしれませんが。
 中上ワールドで被差別部落を意味する「路地」の生まれの中本の男たちが美しい容貌と妖しい魅力で女たちを虜にする様は、差別感を薄めるのでしょうか。「アメリカン・ドリーム」の存在によって、出自に関係なく努力すれば報われるという期待が生じるとともに、それがごく稀なケースで大半の場合は努力してもやはり報われないにもかかわらず過大な幻想を与えることで差別・社会の実情から目をそらせ差別・格差是正の措置は見送られ放置されがちになるということが考えられます。中本の男たちの場合、「努力すれば」ではなく、もてはやされる資質自体が家系・血筋によるもので、中本の家系以外の「路地」の男たちには与えられる余地はありません。中本の男たちの存在が、出生地・血筋による差別を社会が改善克服すべきことを忘れさせるとすれば、「路地」の人々にはやりきれないばかりだと思うのですが。

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