庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「スター・ウォーズ9 スカイウォーカーの夜明け」
ここがポイント
 血統よりも自分の意思による選択が大事というテーマは納得できる(ハリー・ポッターと共通だけど)
 憎しみによる殺害は許されないが大義ある戦争での殺害は許されるということでいいのか
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 スター・ウォーズシリーズの完結編(といっても、ディズニーはまだまだスピン・オフ作品を量産する意向のようですが)「スター・ウォーズ エピソード\ スカイウォーカーの夜明け」を見てきました。
 公開3日目日曜日、丸の内ピカデリーDOLBYCINEMA(255席)午後0時5分の上映はほぼ満席。
 ピカデリー(松竹)がDOLBYCINEMAを「究極のシネマ体験」と派手に宣伝し、スター・ウォーズ9をアナと雪の女王2とともに推奨していたのにつられて見に行きましたが、四方八方から音を巡らせることができる音響システムがあっても、それを意図して作られていない映画では、スクリーンの範囲で若干の音源の移動は感じられてもサラウンドな体感もなく、あまりありがたみを感じることはありませんでした。

 レイア将軍(キャリー・フィッシャー)率いるレジスタンスの中で訓練を続けるレイ(デイジー・リドリー)は、レイアとハン・ソロの息子でありながらダークサイドに堕ちファースト・オーダーの首領となったカイロ・レン(アダム・ドライバー)との交信/幻影に悩まされていた。前作でスノークを殺害してファースト・オーダーの首領となっていたカイロ・レンは、ファースト・オーダーを背後で操るダース・シディアス/パルパティーン(イアン・マクダーミド)から、巨大な艦隊を提供する申し出を受けるとともに、レイの殺害を強く求められた。ファースト・オーダーの拠点に潜入していたフィン(ジョン・ボイエガ)らから、巨大な艦隊が銀河の位置不明の場所「エクセゴル」で出撃を準備しており、16時間後にレジスタンスに対する総攻撃が始まるという情報を得たレイは、エクセゴルの場所を突き止めるために必要な「ウェイファインダー」を捜す旅に出て…というお話。

 ストーリー、テーマとしては、血統・生まれよりも、意思、自らの選択が重要なのだという、「スカイウォーカー家の物語」を長らく紡いできながら、しかしアナキン・スカイウォーカーをダークサイドに堕として銀河帝国の幹部ダース・ベイダーに転身させた旧3部作から示唆されていた落としどころは、シリーズの展開として納得はできます。「スカイウォーカーの夜明け」と銘打ったのも、終盤の展開からやや意外感はありますが、全体テーマと合わせてみればなるほどと思えます。

 映像としては、宇宙ものという点からは意外なことですが、私は「ハリー・ポッターシリーズ」を度々連想させられました。レイが敵方との交信/幻影に悩まされる様、レイが蛇と会話する様子、レイとカイロ・レンが輸送船を引き合う(映像上は光線で)様子、ダース・シディアスがレイのパワーを吸い取る様子(ディメンター:吸魂鬼が魂を吸い取ろうとする映像のような)など、1つ1つはある意味でどこでもありそうな感じともいえますが、こう重なってくると制作側が意識してないとは思いにくい。血統よりも自分の選択が大事だという大テーマ自体、ハリー・ポッターシリーズと共通のものですし。

 憎しみや憤怒から相手を殺害することでダークサイドに堕ちるということが重要な設定になっています(アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちたのもそういうこととして描かれています)が、それ故にダース・シディアスからその憎しみを自分にぶつけて殺せと挑発されたのに対しては武器を向けずに手をこまねいていて、その後ダース・シディアスから攻撃を受けたのに対しては反撃してダース・シディアスを抹殺するのはOKという扱いは、今ひとつ理解できません。いったいどう違う、どれほどの違いがあるというのか、自分が直接攻撃されていないとしてもすでに仲間たちがダース・シディアスの艦隊と交戦中で次々と死んでいく最中でどうせ後で抹殺するならさっさとやれば被害が小さくて済むのに…と思ってしまいます。
 巨大な艦隊との交戦が終わり、生還した戦士たちが仲間や家族と生還を喜ぶシーンが比較的長く描かれているのは、命の大切さ、主役級以外の戦士にも家族や大切な人がいるということを思い起こさせます。しかし、他方において、戦闘等で命を落とした者への哀悼を示すシーンはありません。ましてや敵方の乗員にも命・人生があることや家族や大切な人がいることにはまったく思いも及ばないのでしょう。ファースト・オーダーのストームトルーパー(装甲兵)にも子どもの頃にさらわれてしかたなく乗務している者が多数いることを脱走兵のフィンやジャナ(ナオミ・アッキー)が語っているのですが、そういう者たちが問答無用で殺害されることに痛みを感じる描写は、もちろん、皆無です。
 憎しみや憤怒等による個別の殺害は許されないが、大義のある戦争/戦闘では殺害される相手に個別に非難すべき点がなくても敵方はいくら殺害してもかまわない、敵方の一人一人に命や人生、家族や愛する人(その死を悲しむ人)がいることなど考える必要はない、そういうことがいいたいのでしょうか、そういうことでいいのでしょうか。

 エピソード7(フォースの覚醒)では、悪役/敵役のカイロ・レンのチャラさ加減にミスキャストだと散々文句を付けましたが、裏で操る本当の悪役はダース・シディアス/パルパティーンだということで、この作品の展開なら、あえてカイロ・レンはチャラくしておいたのかという見方もできますし、今回は重々しいマスク(仮面)作ってチャラさを少し減らしているので、そこはあまり違和感を感じずに見ることができました。

 最後に、私の個人的な趣味ですが、登場人物に人種や容姿等も含めてさまざまな人をあしらいポリティカルコレクトネスにずいぶんと気を配った感のあるこの作品では、主役のレイには、これまでのストイックさから見ても、近年のディズニー作品で見ても「アナと雪の女王」のエルサのように、アセクシュアル(恋愛感情を他者に向けられない、恋愛に関心を持たない)として描いた方がよかったように思います。終盤のキスシーンは、むしろない方がよかった(とってつけた感がある)と思うのですが…
(2019.12.22記)

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