庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「TAR」
ここがポイント
 「帝王の孤独」か、「ハラスメントは許されない」か
 シンプルなわかりやすい解釈が求められている作品ではないように思える
    
 2023年アカデミー賞6部門ノミネートにして受賞0の映画「TAR」を見てきました。
 公開3日目日曜日、渋谷WHITECINEQUINTO(108席)午前9時40分の上映は2割くらいの入り。

 クラシック音楽界で華々しい成功を収め、今はベルリンフィルの首席指揮者を務めるリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、マーラーの交響曲第5番のライブ録音に備え、連日リハーサルに励んでいた。ターはレズビアンであることをカミングアウトし、ベルリンフィルのコンサートマスターのシャロン(ニーナ・ホス)、養女のペトラと同居していたが、シャロンは体調が優れず、ペトラは学校でいじめに遭っていた。ターは副指揮者を希望しているアシスタントのフランチェスカ(ノエミ・メルラン)から、若手指揮者クリスタからメールが来ていることを伝えられて無視するように指示していたが、その後クリスタは自殺してしまい、ターは自分のクリスタへの関与の痕跡を消すためにフランチェスカに対しクリスタとのメールをすべて削除するように命じた。しかし、ターが自分のパソコンの調子が悪いと言ってフランチェスカのパソコンを借りてメールをチェックしてみると、フランチェスカはクリスタとのメールを削除していなかった。ターが、ピントはずれの意見を言う副指揮者セバスチャンの解雇を決め、チェロのソロ奏者を第一チェロに任せずにオーディションをすると言ってオーディションの結果新人のオルガ(ソフィー・カウアー)を抜擢するなど、楽団内できしみが生じていたところに、クリスタの自殺についてターを告発する動きが出て…というお話。

 基本線は、傑出した能力を持ち多大な努力の末に頂点に達した者が、その独善的・高圧的な振る舞いから人望を失い、周囲の者に対するハラスメントを理由に転落するというところにあり、いかに能力があってもハラスメントは許されないという主張であろうと思われます。
 傑出した才能は、とりわけ、私はそちら方面の造詣はないのでよくはわかりませんが、たぶん指揮者のような仕事は、強力な自我、一切の妥協を排した厳しい要求(他人に対しても自分に対しても)があってこそ、開花するものと思えます。しかし、現代社会では、華々しい成果よりもハラスメントをしてはいけないことが優先され、芸術の世界であれすべてはハラスメントをしないという枠組みの下で、その範囲でのみ追求されるべきものということなのでしょう。
 もっとも、この作品には、単純にそう考えていいのかという含みもあるように見えます。
 ジュリアーノ音楽学院の授業で、バッハが白人優先で女性を抑圧したとしてバッハはやりたくないという学生マックスに対して、ターが音楽性に目を向けてバッハを学ぶべきと述べる場面。ターがマックスの矛盾を指摘してそれについて賛同する者に挙手させ、マックスが感情を害して去るという描き方は、ターのやり過ぎを印象づけ、制作者はやはりハラスメントは許されない、ターの失脚は自業自得という考えだと示唆していますが、他方で、リスナーとして聞きたくないというのは自由であっても、プロになろうとする者が自分の好みないしは信条でバッハはやらないというのに、あなたの意見はよくわかると応答すべきなのでしょうか。
 クリスタとの関係も、実は映画の中で、映像として、実際に何があったかは明示されていません。
 オルガの抜擢も、チェロのソロ奏者のオーディションでは、ブラインドテストで他の数名の審査員と全員一致で決められています。
 これらの場面で、果たしてターの言動が本当に問題だったのか、相対的に弱い側から告発があると強者の行為はその地位を利用したハラスメントだと見てしまいがちだということではないのか、という疑問も描かれているように見ることもできます。
 そう考える場合、フランチェスカの離反は副指揮者のポジションをめぐる権力闘争として、シャロンの離反は私生活面ではターの裏切り(クリスタとのことを隠していたこと、今はオルガになびいていること)への反発、楽団ではやはりコンサートマスターとしての地位を確保することの優先性、そして楽団の見限りはメンバーの心の離反と世論に怯えて(媚びて)の尻尾切りと見た方が、ハラスメントは許されないという考えからのターへの嫌悪と見るよりも現実的で深み・したたかさがあると思います。
 ターが気に病んだ夜中の音やオルガとは結局何者だったのかなど、結局よくわからない(単に、私にはわからなかったというだけかもしれませんが)ことが少なからず残されていることを見ても、シンプルなわかりやすい解釈が求められている作品ではないんじゃないかなと思いました。
(2023.5.14記)

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