◆たぶん週1エッセイ◆
映画「TAJOMARU」
芥川龍之介の「藪の中」の再映画化「TAJOMARU」を見てきました。
封切り2週目祝日の午前中、新宿ミラノ1(1064席)はかなりガラガラ。ミラノ1サイズのスクリーンでで上映するのはちょっと無理があるんじゃないかと・・・
「藪の中」の侍を応仁の乱中の室町幕府管領家の畠山本家の次男直光(小栗旬)、女をその許嫁阿古(柴本幸)として、将軍足利義政(萩原健一)から金塊を隠し持つと言われる大納言家の阿古を娶った者が畠山家を継ぐよう言い渡された長男信綱(池内博之)が阿古を手籠めにして連れ去りそれを知った直光が阿古を奪い返してわずかな家臣と共に逃避行を続けるが、子どもの頃に盗人をして捕まったところを助けて召し抱えていた桜丸(田中圭)の裏切りにより老臣も斬られて2人となって山中を放浪するうちに山賊多襄丸(松方弘樹)と出会ったという設定になっています。
失意の直光と阿古の前に現れた山賊多襄丸と直光が斬り合い、多襄丸が勝って気を失い縛られた直光の前で、妻になれと口説く多襄丸に対して阿古は直光を殺せと言い放ち、隙を見て阿古は逃亡、あの女をどうするかと多襄丸が直光に問いつめて縄を切るという芥川原作「藪の中」のストーリーのうち侍の亡霊の話に沿ったストーリーが展開します。しかし、ここからストーリーは独自の展開を見せ、多襄丸の隙を見て刺し殺した直光が新たに多襄丸を名乗り、出会った山賊を従えて山賊の頭として自由な生き方を始めます。その間、桜丸は信綱を殺害して直光に成り代わって畠山家当主となり、阿古を娶り、次期管領も間近となります。直光復帰の噂を聞いて真相を確かめるべく畠山家に単身乗り込んだ直光は桜丸に囚われるが、折しも京都所司代(本田傳太郎)の家宅捜索が入り、桜丸を偽物と名指す阿古の申告を契機に白洲で所司代の裁きがなされることとなり、新たな事実が明らかとなるが・・・というお話。
前半で兄弟や兄弟同然に育った家臣、許嫁にも裏切られて人間不信に陥る直光を描き、後半では復讐と純愛路線に収斂させていく展開は、エンタメの正統派といえます。芥川の原作「藪の中」の真実はわからないというテーマには反しますし、黒沢「羅生門」の人間の業や性を描く道行きとは反対ですが。原作や「羅生門」と似た方向性としては、足利義政の正しいか間違いかはどうでもよい、正しいことからよいものが生まれるとは限らないという台詞のいい加減なような諦念のような妙な説得力くらいかなと思いました。
意識するなという方が無理なんでしょうけど、直光らと出会った(先代)多襄丸(松方弘樹)の演技は、ガチガチに「羅生門」を意識している感じ。若き日の三船敏郎の多襄丸に呪縛されています。
また、「藪の中」では登場しない、すべてを見ていた第三者(「羅生門」では木こり)を登場させて、「藪の中」では提示されなかった(真相はわからないということがテーマだから提示されるはずがない)真実を語らせるというアイディアも「羅生門」を受け継いでいます。
しかし、「TAJOMARU」で示された真実からすると、先代多襄丸はかわいそう。山賊としてさんざん悪いことをしてきた報いとは言えますが、情をかけて命を救ってやった相手に卑怯にも背後から刺されて死ぬわけですし。そのあたりを振り返ることなく小栗旬が英雄視されて終わるのはちょっと・・・山の中で生きていくのにきれいな着物して旅に出る阿古のトンデモぶりと合わせて、違和感が残りました。
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