庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「タンゴ・リブレ 君を想う」
 看守がタンゴ教室で知り合った受刑者の妻に惹かれる恋愛葛藤映画「タンゴ・リブレ 君を想う」を見てきました。
 封切り3週目月曜日祝日、全国2館・東京でも2館の上映館の1つヒューマントラストシネマ渋谷シアター3(60席)午前9時40分の上映は8〜9割の入り。

 規則を忠実に守る一人暮らしの中年男の看守J・C(フランソワ・ダミアン)は、通っているタンゴ教室に新しく入ってきたアリス(アンヌ・パウリスヴィック)に惹かれる。J・Cは翌日刑務所でアリスが2人の受刑者と面会し服を肌脱ぎしているところを目撃する。タンゴ教室で、囚人の家族と個人的に接することは規則で禁じられていると伝えるJ・Cに対してアリスはそれなら踊らなければいいと突き放す。15歳の息子アントニオ(ザカリー・シャセリオ)を連れて、手分けして交互に夫のフェルナン(セルジ・ロペス)と愛人のドミニク(ジャン・アムネッケル)と面会し、集団面会室で抱擁やキスをするアリスを凝視するJ・Cをいぶかって関係を問い詰めるフェルナンに対し、アリスはタンゴ教室で一緒だと答える。アリスにタンゴなどやめろといって、あんたもやってみればいいと言い返されたフェルナンは、休憩時間にアルゼンチン人を探してタンゴを教えろと迫るが断られ、騒ぎになったところへ止めに入った看守たちからJ・Cを見つけ飛びかかる。思いを募らせるJ・Cはアリスに連絡をしようとするが通じず、他方懲罰の解けたフェルナンは刑務所内でアルゼンチン人からタンゴを習い始め…というお話。

 アリスを中心に夫フェルナン、愛人ドミニク、横恋慕の看守J・C、息子アントニオと、4人の男たちの愛憎と嫉妬に揺れる思いが、タンゴのダンスと音楽を媒介にどのように変化し展開して行くかがテーマであり見どころの作品です。
 フェルナンとドミニクは長いつきあいの友人同士。ドミニクがアリスに付きまとう男をボコボコにしてアリスとドミニクのつきあいが始まり、その後フェルナンともつきあうようになったアリスがフェルナンと結婚という展開をして、お互いの存在は承知の上。アリスは集団面会室で2人と交互に面会してキスと抱擁を繰り返しています。でも、ドミニクがフェルナンに対してアリスと寝るなと言い、フェルナンがアリスは俺と結婚したんだと返すように、100%納得してるというわけでもない様子です。
 アントニオは15歳で難しい時期に、父親のはずだったフェルナンから本当の父はドミニクだと告げられ、そこへJ・Cのこともあり、母さんが誰とでも寝るからこういうことになるんだと癇癪を起こします。
 その微妙な関係の中に、「規則」を破って入り込むJ・C。口では「規則」を言いながら、距離を置いているアリスに対してある面ストーカーのようにこだわり続けます。
 この関係がいつ破裂するかという危うさを微妙なラインでコントロールする様子が監督の腕の見せどころになっています。

 この作品では、職業上の禁忌というかプロフェッショナルの倫理が問われ、考えさせられます。受刑者の関係者と個人的に接してはならない、より端的には受刑者の妻と不倫してはならない/横恋慕してはならないというのは、仮に規則で定められていなかったとしても、職業柄やってはならないことだと思います。公務員として買収されたりそれを疑われたりしないように、そして他の受刑者から公平を疑われたり反抗の口実にされないように、自らの職業についての自覚があれば当然に自ら襟を正すべきことがらと理解できるはずです。
 私の職業柄、弁護士の場合を考えますと、刑務所の看守などの公務員の場合とは守るべき利益状況が少し異なりますが、事件の当事者やその関係者との不倫や恋愛がそれに当たると思えます(依頼者の妻と不倫すれば依頼者と利害が対立することになり、相手方やその妻と不倫すれば当然依頼者からは相手と通じているなどと疑われることになります。依頼者本人ととなると、依頼者自身の主観はそれでもよかったりするかもしれませんが、1つには弁護士と依頼者というどっちが上かケースにより微妙なこともありますが上下関係があるときにはそれを背景としてセクハラ問題があることと、もう1つ別の観点ですが事件を第三者の目で冷静に判断するべき弁護士の第三者性が損なわれることから、やはり職業柄避けるべきと考えられます)。私の経験上は、事件の当事者やその関係者については、異性としてどれだけ魅力的な人であれ、そういった感情は端からシャットアウトされるというか感じたことはありません。
 J・Cの場合、タンゴ教室で出会い惹かれた時点では受刑者の妻・愛人とは知らなかったという点で同情すべき部分が全くないではないと言えるかもしれませんが、既に不倫してしまってから受刑者の妻と知ったというのならともかく、出会った翌日にはもう受刑者の妻と知ったわけですから、そこで踏みとどまり思いを断ち切るのが当然だと思います。好きになったものは仕方がない、というのが制作者側の提示かもしれませんが、プロフェッショナルとしては明らかに失格だと思います。
 J・Cは、冒頭シーンで、見渡す限り車が1台も見えない平原の道路で、信号で停車ししかも停止線を数十cmオーバーしたのをバックして信号が変わるのを待つことに象徴されるように、規則の遵守を心がけてきたのに、なぜここで規則を守れなかったのか、「愛」の力はそれほど大きいというのが制作者の問題提起にも見えます。しかし、J・Cは、自分の職業を自覚してその禁忌の意味を理解して行動していたのではなく、ただ規則を守っていればいいという認識だったから、受刑者の妻と不倫してはいけないという規則の本質的な重要性が見えなくなり車が通行していない道路での信号停止と同レベルの認識で規則違反に至ったのではないかと思うのです。形式的に規則は守ろうという意識だから、破るとなったら重要なルールもその重要性を実感できないままに破ってしまうということなのでしょう。
 そういったあたりで、プロ意識というか、プロフェッショナルの倫理について、J・Cの自覚のなさを反面教師にせねばと、思ってしまうわけです。作品の味わいとしてはそういう思考は妨げになるかとも思いますが…

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