◆たぶん週1エッセイ◆
映画「テッド2」
コメディとしては前作よりパワーダウンしているように感じる
裁判のテーマのテッドは人間かはけっこう微妙な問題があるかも
しゃべるテディベア「テッド」の結婚と市民権への挑戦を描いたコメディ映画「テッド2」見てきました。
封切り3日目日曜日、TOHOシネマズ新宿スクリーン9(499席)午前10時30分の上映は9割くらいの入り。
しゃべるテディベアのテッドは、バイト先のスーパーの同僚のタミーリン(ジェシカ・バース)と結婚したが、1年後には夫婦関係は悪化、局面を打開するために子どもを作りたいとタミーリンに打ち明けて賛同を得て、精子提供者を求めて人工授精をするが、医師からタミーリン自身が過去の薬物摂取で身体がガタガタで妊娠不能と告げられる。あきらめられずに養子をもらおうとしたテッドとタミーリンは、その手続で政府の調査を受け、テッドは人間じゃないから養子縁組はできないと宣告され、結婚も無効とされ、勤務先からも解雇されてしまう。親友のジョン(マーク・ウォールバーグ)と相談して、市民権を認めさせる裁判を起こすことにしたテッドは、一流の弁護士事務所に相談するが、弁護料が払えないことから、所長の娘の成り立ての弁護士の初仕事としてプロボノで(公益活動として無料で)受けてもいいと言われて依頼することになるが、弁護士のサマンサ(アマンダ・セーフライド)の部屋を訪ねると強力な違法薬物が置かれていて…というお話。
コメディなんですが、笑いを取る部分は単発的でギャグの寄せ集めの印象があり、かわいいテディベアが下品な言動を繰り返すギャップの衝撃はすでに前作で使い尽くして慣れたところがあり、その点ではパワーダウンした感じです(前作も見たんですが、感想記事書いてないのは、どうしてだったか…)。
ストーリー的には、市民権を否定され裁判を決意して以降、タミーリンとの絆は深まり、裁判に向けてジョンとテッドとサマンサの調査が続き、サマンサのヤク中ぶりから来る脱線はあるものの、権利への闘争が比較的まじめに追求されて行きます。
裁判のテーマはテッドは人間か property (日本語字幕では「所有物」と訳していましたが、法的な概念としては「財産」か「物」と訳した方がいいと思います)かということです。相手方の弁護士が、簡単なことだとバカにしていましたし、そうも思えますが、上訴審で人権派の大物弁護士ミーガン(モーガン・フリーマン)が示唆するように、少し検討すべきことがあるように思えます。
私が、もしこの事件で、陪審に訴えかけるとしたら、次のようなことを論じるでしょう。被告側弁護士は、テッドは、布と綿でできているから人間ではないと論じました。技術の発展はめざましいものがあります。事故に遭って身体のほとんどを失った人が現在のあるいは近い将来の医療技術で身体のほとんどをチタンやカーボンの材料で再生した時、その人の身体の「素材」が金属だとかカーボンだからということでその人は「人間ではない」ことになるでしょうか。極端な話、身体の損傷の度合いによって、脳以外のすべてが人工の素材で再生された場合でも、その人が人間であることは間違いないのではないでしょうか。その場合、その人の脳も強いダメージを受けてその人の記憶をプログラムした人工知能に置き換えられたらどうでしょう。その場合は、その人はサイボーグあるいはロボットであって人間ではないということになるでしょうか。そうだとすれば、そこでは、人間であるかどうかの境界線は、その人の意思、思考がプログラミングされたものでない、独自のものであることにあると考えられます。テッドは、被告側の弁護士が指摘した通り、生まれた時はただのテディベアとして製造されました。決まった言葉だけがプログラミングされ、機械的にしゃべるだけでした。しかし、その原因はまったくわかりませんが、ジョンと過ごすうちに、テッドは予めプログラムされた範囲を遥かに超えて、人間の言葉をしゃべり、独自の意思と思考を持ち、行動するようになりました。このテッドの自由な意思と思考は「製造者」が作ったものではありません。テッド独自のものです。そしてテッドの意思と思考は、他の人間がまさに「人間のもの」として理解し、コミュニケーションできるものです。独自に人間の意思と思考と言葉を持ち操るテッドは、人間としての特徴を持っているのではないでしょうか。
なんだか、けっこう微妙な問題に見えてきませんか。相手が、陪審じゃなくて、職業裁判官なら、言っても無駄でしょうけど。
ところで、アメリカ映画なんですから、当然調べて作ってるんでしょうけど、アメリカの民事裁判で、上訴審でも陪審が審理するんでしょうか。私が聞く限りでは、陪審は第1審だけのはずですし、日弁連のサイトのアメリカの裁判制度紹介のページでも、そう書いてるんですけど…
(2015.8.30記)
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