◆たぶん週1エッセイ◆
映画「運び屋」
外面がよく見栄っ張りではあるがまじめに働いてきたアールが、家族に見放され時代に取り残されて孤立する設定が哀しい
運び屋/犯罪者に対する先入観が事実を見ることを妨げる描写が印象的
88歳のクリント・イーストウッド、10年ぶりの監督・主演作「運び屋」を見てきました。
公開2週目日曜日、新宿ピカデリースクリーン8(157席)午前11時15分の上映は9割くらいの入り。
華やかだが1日でしぼんでしまう「デイリリィ」の栽培に打ち込み、高い評価を受けていたが、家庭を顧みず妻・娘との約束を破り続けて愛想を尽かされ、事業もインターネットに対応せず先細りとなって、自宅も農場も差し押さえられたアール・ストーン(クリント・イーストウッド)が、孫娘ジニー(タイッサ・ファーミガ)のフィアンセとのパーティーに顔を出して娘のアイリス(アリソン・イーストウッド)や元妻のメアリー(ダイアン・ウィースト)の不興を買い、帰ろうとしたところでパーティーに出席していた男から車を運転するだけで金になる仕事があると紹介され、言われた場所に赴く。指示されたとおりに、指定されたホテルまでトラックで荷物を運び、車を降りて1時間して戻るとダッシュボードに大金が入っていた。アールは驚きつつも、その金でジェニーの結婚披露宴の2次会の費用を支払い、感謝されて気をよくする。退役軍人会がパーティーを開くのに使っていたバーが火事に遭い閉店し、店主から誰かが2万5000ドル寄付してくれるとかでもなければ営業は再開できないと言われたアールは、また運び屋の仕事を求めて連絡した。バーの再開のパーティーで褒め称えられたアールは上機嫌になり、味を占めて、運び屋の仕事を繰り返す。シカゴに赴任してきた麻薬取締局(DEA)の腕利き捜査官ベイツ(ブラッドリー・クーパー)は、麻薬組織のメンバーの弱みを握りスパイとして使って、毎月100kg以上のコカインをシカゴに運び込む新たな運び屋「タタ」の存在を掴み、検挙に向かうが…というお話。
大輪の花を咲かせるが1日でしおれてしまうという「デイリリィ」の栽培に打ち込むというあたりから、宮澤賢治には「山師」と呼ばれるであろうアールですが、仕事に打ち込み、90歳になるまで無事故で違反切符も切られたことがない、実直な人物です。これが、外面がよく、周囲から褒め称えられることを好み、ある種利用されてしまうところがあり、品評会や仕事を優先し、またそういう場が居心地がいいために家庭を顧みず、妻との記念日や娘の各種の行事・式にも現れずに家族から愛想を尽かされる。そして、インターネットも利用せず、メールも打てないといった具合に頑固にアナログを貫いて、時代にも取り残され、事業も先細りになり、自宅も農場も手放すハメになる。このアールの設定が、まずもって身につまされ、切ない。
家族の心情を思えば、致し方ないところはありますが、ただ外面がよく見栄っ張りでまわりの人に気前よすぎる(そういう形で浪費する)けれども悪いことをするでもなく怠惰でもない人物をこう悪く描き見放して孤立させてしまうのは、ちょっとどうかなと思う。そこのところの「違和感」というか、悲哀を感じさせるのが、むしろ制作サイドの狙いかも知れませんが。
家庭を顧みずに妻子に見放された(孫娘しか味方がいない)アールが、家族のことを思いやらなければならないと、家庭回帰を試みるというのが、この作品のメインテーマとなっています。それはそれで、特に娘の手前もあり複雑な心境を見せるメアリーとの関係では感動的ではありますが、同時に、今改めて採り上げるテーマかなという印象も持ちます。
作品のテーマではないと思いますが、私は、この作品に先入観の強さへの問いかけを感じました。長らく生業を持ち経営者だった無事故無違反の90歳の白人というのが、麻薬の運び屋の人物像とまるで合わない、このことが、ベイツ捜査官やその他の警官がアールと至近距離ですれ違いながら検挙に至らないという場面の繰り返しを生みます。運び屋はヒスパニックの粗暴な若者と決めつける、その偏見が事実を誤らせるということが印象深く語られているように思えたのです。
麻薬組織のボス(アンディ・ガルシア)に招待されてコンパニオンの若い女性をあてがわれ、2人にベッドに押し倒された後、庭で休むアールの監視役の手下フリオ(イグナシオ・セリッチオ)に組織を辞めた方がいいんじゃないかとアドバイスして拒絶され、また部屋に戻る際、男になりに行くとつぶやくアール…90歳でも、できるんだと感心してしまいました (*^_^*)
(2019.3.17記)
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