◆たぶん週1エッセイ◆
映画「華麗なるギャツビー」
1974年にロバート・レッドフォード主演で映画化されたスコット・フィッツジェラルドの青春小説 "The Great Gatsby "をレオナルド・ディカプリオ主演で再度映画化した「華麗なるギャツビー」を見てきました。
封切り3週目土曜日、新宿ピカデリースクリーン2(301席)午前9時25分の上映は3割くらいの入り。
バブル景気に沸く1922年のニューヨーク。証券会社に勤務するニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)は、いとこのデイジー(キャリー・マリガン)から夫の富豪の御曹司トム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)の浮気についての愚痴を聞かされ、トムに連れられて浮気相手の人妻マートル(アイラ・フィッシャー)らとの乱痴気騒ぎに参加し、そこで毎週末に開かれる豪邸でのパーティーの主催者ギャツビーの名を聞かされるが、ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)はニックの隣人であった。ある日、ニックにギャツビーからパーティーの招待状が届き、パーティーで出会ったギャツビーはニックを誘い連れ回す。そしてギャツビーはニックに、デイジーをお茶会に誘って欲しいと申し入れ、ギャツビーと親しくなっていたニックはデイジーを自宅に呼んでギャツビーと引き合わせるが…というお話。
原作にほぼ忠実に描かれていて、原作を読んで映画を見た場合、予想外の場面はほとんどないといってよいでしょう。ただ、原作の小説では、すべてニックの語りの形式のため、ニックがいない場面、つまりギャツビーとデイジーが2人きりの場面が推測・ほのめかし程度ではっきり描写されていないのに対して、映画ではある程度描写されています。あらら、人妻のデイジー、ギャツビーとHしまくりじゃないのと、小説でははっきりしなかったところが印象的です(2人きりで会ってるんだからしてるにきまってると思わない私は純情/かまとと?)。
2人で逃げようと誘うデイジーに、あくまでもトムに対して「あなたを愛したことはない」と言わせようとする、そしてデイジーがトムにそう断言すると信じるギャツビーは、純情なのか、頭でっかちの理念/妄想先行なのか、オタク的思い込み/思い違い男なのか…5年前に戦争のために会えなくなった女を思い詰め、再会を期して成り上がり巨万の富を得て錦を飾り、その女と再会するためだけに近くに豪邸を買い毎週盛大なパーティーを開き続けと、その女のためにすべてを注ぎ込んできたのだから、相手の女も片時も自分のことを忘れず、結婚したのも仮の姿で愛などあったはずがないという思いには、そこまで一途に頑張ったのだからと同情したくもなるけど、やっぱり自己満足の妄想だよなと思え、今どきの感覚では「勘違い男」と評価されるのが関の山と思います。もっとも、ギャツビーの経歴、成り上がる過程を考えれば、ずっとデイジーを思い続けていたというのも、そんなに純情に思い詰めるということも、本当かなと疑問に思えるのですが。
ギャツビーのある種純情さ、一途さ、滑稽さ、哀れさがテーマかと思えますが、そうなると今どきならデイジーのしたたかさを描いて欲しい気がします。しかし、この映画でもデイジーは、優柔不断の不思議ちゃんで、自分の意志を貫こうとはせず状況に流されていくイメージです。原作の小説が書かれた時代の制約でしょうけど、今見るにはちょっとなぁという感じがします。
パーティー・乱痴気騒ぎ場面でのど派手感と、キッチュな映像なども含め、1920年代のイメージを味わう映画かなとも思いました。
原作の小説は、私の読書日記2013年5月分11.で紹介しています。
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