◆たぶん週1エッセイ◆
映画「エヴァの告白」
理不尽な運命の下でも折れないエヴァの心、それを表現したマリオン・コティヤールのまなざしのアピール力が見どころ
しかし現代の主人公としては積極的に運命を切り開かない「耐える女」エヴァは物足りない
理不尽な運命に翻弄されながら生きた女性の志を描いた映画「エヴァの告白」を見てきました。
封切り2週目土曜日、全国10館、東京で2館の上映館の1つ新宿武蔵野館2(84席)午前9時45分の上映は3〜4割の入り。
1921年1月、両親を目の前で兵士に殺害されたポーランド人エヴァ・シブルスカ(マリオン・コティヤール)は妹のマグダ(アンジェラ・サラフィアン)とともに戦火を逃れすし詰めの移民船でニューヨークのエリス島に辿り着いた。しかし、移民局の審査官は、マグダは感染症の疑いがあるとして隔離し、エヴァに対しては居住予定先の叔母の住所が実在せず叔父の迎えもないとして強制送還を示唆した。エヴァに一目惚れした男ブルーノ(ホアキン・フェニックス)の工作でエヴァは移民局を脱出し、ブルーノの元に身を寄せるが、ブルーノは女たちを劇場で踊らせ売春をあっせんすることを生業とする男だった。エヴァは自分の生活費と妹の治療費を稼ぐため、ブルーノがあっせんする客を取るようになるが…というお話。
理不尽な運命に翻弄され、売春を繰り返しながらも、妹を救い出し一緒にアメリカで生きていくのだという強い意志を示し続けるエヴァの志(折れない心)がテーマとなっていて、マリオン・コティヤールのまなざしのアピール力で魅せ感動させるという趣向の作品だと思います。
レイプされても、売春をしても、心は強く高潔にという主人公の強さとその姿勢の肯定というのは、考え方としてわかるのですが、一面ではそのような場合に折れない心を提示することが適切か(普通のレイプ被害者やセックスワーカーはどう評価される?)、他面で今どき「耐える女」としての強さだけを強調することにどれだけの意味があるのかという疑問も感じます。折れない心と志を持っていても、状況に対して常に受動的で、自ら打開策を求めて積極的に行動する姿が見られない(叔母の家を探し求め、叔母に借金を申し入れるところは一応積極的な行動とは言えますが、あくまでも親戚頼み他人頼みです)エヴァは、現代の映画の主人公としては物足りなく思えます。
エンドロールの最後に、“ THE END ”が表示された後、“ Keep your head ”の文字が浮かぶのは、エヴァのように志を持ち続けよという趣旨でしょうか。それとも、単にまだ映画館が暗いけど「慌てるな」という意味?
エヴァに思いを寄せるブルーノが、エヴァに一度頬に手を触れて拒絶された後、売春をあっせんしながら自らはエヴァに肉体関係を求めないというあたり、見ていて少し不思議。そもそも一目惚れして連れてきた相手を、売春させる男って、どういう気持ちなんだろう。ブルーノの場合、エヴァに売春させなければ自分の生活ができないという様子でもないし、エヴァが客を取ることが悔しいという様子でもなく、それでいて従兄弟のオーランドとエヴァが親しげにしていると激しく嫉妬しています。う〜ん、やっぱりわからない。
“ judge ”が何度か「見下す」と訳されていました( “ Do you judge me ? ”が「私を見下してる?」など)。判断としての judge にはいい判断の場合も含まれるはずですが…裁判官には見下されているという思いが一般的ということでしょうか。
(2014.2.23記)
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