◆たぶん週1エッセイ◆
映画「殺しのナンバー」
CIAが極秘指令に使う乱数放送局とそれをめぐる暗闘を描いたサスペンスアクション映画「殺しのナンバー」を見てきました。
封切り2週目日曜日、全国21館、東京では唯一の上映館シネマスクエアとうきゅう(224席)午前11時の上映は2割くらいの入り。
乱数放送による指示をその時一度だけ使う乱数表と照合して解読し、暗殺や爆破などの指示に従って冷徹に任務を実行してきたCIAの諜報員エマーソン(ジョン・キューザック)は、本部の指示でCIAを裏切った元諜報員を暗殺するが、それを目撃した娘になぜ撃ったと問い詰められ娘を撃ち殺せずに戻ろうとしたところを上司のグレイ(リーアム・カニンガム)が娘を射殺し、カウンセリングに回された上で、イギリスサフォーク州の片田舎の元米軍基地内にある秘密放送局ブラックレグに左遷される。ブラックレグでは、民間人を雇用して極秘指令を暗号化してナンバーのみにして読み上げてCIA諜報員に伝えており、エマーソンの任務は暗号オペレーターキャサリン(マリン・アッカーマン)の安全と放送局の秘密を守ることだった。任務は女性民間オペレーターとCIA諜報員のペアで数日交替で行われ、もう一組のデビッド(ブライアン・ディック)とメレディス(ルーシー・グリフィス)は恋仲だった。キャサリンからのほのめかしにもドライな対応を崩さないエマーソンだったが、次第にキャサリンに心を開きつつあった。そんなある日、交代のために放送局を訪れたエマーソンとキャサリンはいきなり銃撃を受け、放送局内に逃げ込むが、デビッドとメレディスは殺されており、残されていた録音記録から放送局が襲撃されメレディスが暗号操作を強いられている様子がわかり、コンピュータの記録は抹消されていた。エマーソンがそのことを緊急通信で伝えると、本部はキャサリンを殺害した上で放送局を撤退するように指示してきたが…というお話。
テーマはかなりシンプルに、秘密を知る者を皆殺しにすることを要求する権力者・官僚のやり方に対し、その駒として雇われている諜報員はどこまで従えるか、疑問を持たずにやれるかという点です。とりわけ何の罪もない目撃者やさらには組織のため、国のために一生懸命働いてきた仲間をも、単に秘密を知っているというだけで殺せという指示に従えるか。
殺すという指示なので、極端に見えますが、組織が効率的に機能するためには指令系統が確立し末端はその指示に忠実に動くことが必要で、そのような組織のルーティーンに、違法な指示が入ってきたとき、ふつうの組織でも、同様の問題が生じます。程度の差はあれ、国や官僚組織では、組織の利害のために法規に反する指示が出されることは十分にありうると思います。そして官僚組織は秘密が大好きで、あらゆる場面で秘密保持を言いたがります。その秘密には、官僚組織の問題点や秘密裏に行われる違法指示の隠蔽が絡み合うことが容易に想定できます。
組織からの指示があってもこれだけは従えない、違法な指示に対して正義を貫きたい、こう思う部下・一官僚がどれだけ出てくるかは、本来的には組織の民主性・健全性のバロメーターなのだと思いますが、果たして現実には…
そして、指示を暗号化したナンバーの読み上げによる通告という形に単純化することは、情報漏洩のリスクを極限まで減らすとともに、指示が一方通行で理由等の告知もないことから指示を受けた者が疑問を抱く余地、抵抗する余地をなくすことを目的としていると考えられます。上意下達の極限ともいえる形です。
それは、冷徹な組織の論理を貫くための、机上の論理では有効な道具なのですが、ここではそれ故に組織が危機に陥るというパラドックスも描かれています。そういう点でも、制作者側は権力者・官僚・諜報組織のやり方に批判の目を向け皮肉っているわけです。
それでも官僚たちはそういう危機意識は持たないか、何よりも組織の維持を優先して既存の組織をより固める方向で動き続けるのでしょうけれど。
裏切り者の殺害というスパイアクション的な象徴表現から離れて現実を見ると、よけい暗い思いになりますが、そういうことはおいて、正しいことをしようと懸命になる人もいるとか、極限状況でも人間的な感情が生き残ることもあるという少しホッとした思いで映画館を出てこれればねというところで作品を楽しんでおきましょう。
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