◆たぶん週1エッセイ◆
映画「私は貝になりたい」
田舎町で細々と理髪店を経営していた市民が第2次大戦で召集を受けて2等兵となり米軍捕虜処刑を上官に命じられたことから戦犯として有罪になり処刑される経過を描いた映画「私は貝になりたい」を見てきました。
封切り2日目日曜午後でしたが、郊外では半分以下の入りでした。
理髪師として修行中にやはり理髪師の房江(仲間由紀恵)とできてしまい追い出されて行き場を失い高知の田舎町にたどり着いて理髪店を始めた清水豊松(中居正広)が、第2次大戦末期に召集されて2等兵となり、空襲時に撃墜されて重傷を負い樹に縛り付けられた米軍戦闘機の乗組員を、上官から処刑を命じられ躊躇するが上官の命令は陛下の命令と言われてやむなく斬りつけたところ、戦後それを理由に戦犯として逮捕され、死刑宣告されて、再審請求や助命嘆願を行い、巣鴨での処刑が途絶え釈放されるかに見えたところ結局処刑されるというストーリー。
清水は実は上官に強要されて斬りつけたものの腰が据わらず結局銃剣は米兵の腕をかすっただけで、そのため上官から激しく殴られた、米兵は樹に縛り付けられて衰弱しその前に死んでいたと、房に帰ってから同房者には話します。そうだとすれば理屈としては米兵を殺害したわけではなく無罪になるはずです。裁判シーンではそのことは何ら話題にならず、弁護人に清水がどう話していたのか、後日弁護人を通じて再審請求したということが出てきますがそこではそれを主張しているのか、仕事がら、とても気になります。清水が弁護人に話していなかったとすると、被告人が弁護人を信頼せず、あるいはコミュニケーション不足により事実が話されなかったために有罪となったということです。
そして裁判については、日本軍で上官の命令に従わないなどということがあり得ないことを理解できない米軍裁判官の無理解と、通訳の問題などが話題にされ、そういう問題のために罪を問われるべきでない2等兵に死刑が宣告されたことが問題視されています。いわば裁判官と被告人の文化的ギャップのために、被告人の行動をめぐる事実認定や評価が正しく行われなかったということです。
この映画は、一般市民が戦争に巻き込まれて過酷な運命を強いられた過去の話として話題にされていますが、私には、今、外国人犯罪についての裁判で同じことが起こっていないか、日本人弁護人とのコミュニケーション不足や日本人裁判官と外国人被告人の文化ギャップということは今の日本でもありそうなことですから、改めて気になりました。
人間ドラマとしては、やはり、家族愛に打たれます。田舎町から3日がかりで巣鴨まで面会に来た房江が心情を訴え、息子健一(加藤翼)のけなげさ・かわいさがあふれる面会のシーンには思わず涙しました。豊松に言われて、戦犯として蔑まれお上に逆らう恐怖感から多くの人から拒絶される中を、助命嘆願署名を集めに遠方の村まで雪の中を民家を訪ねて回る房江のけなげさ。その署名が結局は効果を現さないことを考えるとやるせなさがつのります。
囚人たちの姿にも心を打つものがありました。ブロック全体にお世話になりましたと挨拶して潔く処刑場に向かう最初の同房者大西(草g剛)、処刑場の前で米軍の非戦闘員に対する焼夷弾による空襲を批判して命令者の裁判を要求するとともに米兵捕虜殺害事件の責任者は自分であり自分以外は釈放するよう要求して処刑台に登った矢野(石坂浩二)、そして最終段階で清水が転房となりそれを減刑と判断して喜ぶ同房者西澤(笑福亭鶴瓶)とブロックの囚人たち。他人の減刑を我がことのように喜ぶ囚人たちの連帯感にも感動しました。
他方、減刑・釈放の希望を持ったところに死刑の執行を告げられた豊松の嘆きは、確かに悲痛ではありますが、考えさせられるところです。つまらない人生だった、もう一度生まれ変われるならば人間にはなりたくないと、誰にも知られない深海の貝になりたいというのは、深い深い絶望感の表明としてはわかります。しかし、豊松は愛した妻と一緒になって、その妻は献身的に雪の中を歩き回って署名集めもしてくれ、かわいい子どもたちとともに自分の帰還を心待ちにしているのです。それでも人間として生まれた意味はなかったというのか、妻や子どもについては、人間でなければ妻や子どもたちのことを心配しなくて済むという足かせのようにしか感じられないのか、そこにどうにも割り切れない、ストンと落ちないものが残りました。
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