庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
わかりやすい文章って…
 私たち法律家の書く文章は、悪文の典型として指摘されることがよくあります。
 その理由は、1つの文が長い、まわりくどいことにあります。それは、私たちにもわかっています。法律家の文章が長く、まわりくどくなる理由は、できるだけ正確に、フェアに書こうとすると、そうなってしまうということです。法律問題では、ほとんどの場合、「例外」があります。何かを論じたり説明するとき、「こうなるはず」「こうなります」と書こうとすると、法律家の頭には、すぐに「でもこういう場合は別」というのが浮かびます。これを説明しないと不正確になります。で、それを文中に入れようとすると、複文(主語・述語が多数含まれる文)になり、括弧が多用される文になるわけです。事実や証拠の評価でも同じです。事実にはたいてい多くの側面がありますし、様々な評価が可能です。それを「こういうほかない」と断言するのは躊躇します。というか、そういいきるだけでは説得力がありません。そうすると、こういう見方もあるけど、こっちの方がより妥当だなんて議論になります。裁判で出てくる証拠も、当然、自分の出す結論と矛盾する証拠が出てきます。それを無視して書けば、論旨は明快ですが、説得力がありません。で、やはり、他方においてこういう証拠もあるが・・・ということも触れざるを得ず、話が行ったり来たりすることになるわけです。
 そういう文章を、短文で書こうとするとどうなるかというと、同じ主語を繰り返し書くことになり、何かますます下手な文章に見えます。同じ主語だからといって省くと、今度は主語のない文だとか、不正確だとかいわれることになります。括弧を使わずに短文でつなげると、話がますます行ったり来たりして話のメインストリームがわかりにくくなります。
 原発訴訟の支援者から、このサイトの裁判の話を読んで、「こんなにわかりやすく書けるのなら、裁判の準備書面もわかりやすく書け」という指摘も受けました。原発訴訟の準備書面は、裁判の性質上、記者や支援者にもそのままコピーして配っていますから、一般読者を想定しろというのはその通りです。ただ、原発訴訟については、法律論の問題に加えて、扱っているのが技術論だということもあります。激しく争う訴訟で相手方の反論を受けることを考えると、正確性の問題がかなり厳しく問われます。
 とまあ、こういう言い訳をすることになるわけですが、実際のところは、そういう文章を書き慣れてしまうと、そういう必要がなくても、何となく、そういう文章を書いてしまいます。自分で読み返して、違和感がないわけです。
 このサイトを開設して、できる限り分かりやすい文章を書こうと気をつけてはいます。しかし、ざっと書き下ろすと、やっぱり、長めの文になりがちです。数日たって読み返してみると、やっぱり長いなと思って微修正することがしょっちゅうです(もちろん、誤字とか変換ミスに気づいて修正することはもっとしょっちゅうあります)。
 最近、クリスチャン・オステール(Christian Oster)の「待ち合わせ」(Les rendez-vous)という小説を読みました。標準的な文で1つの文が数行、長くなると平気で1つの文が十数行にわたっています。法律家でも、これほど長い文はまず書きません。それも観念的な内容を含んでいて、流し読みではとてもつきあいきれません。この小説でも、場面が急展開するところでは短文でつづられていて、話や気分が停滞しているところは長文、急展開や気分がいいところは短文と、それなりのメリハリがつけられてはいるのですが(こういうふうに評価はフェアにしなくっちゃと思って付け加えるのが、文章が長くなり、話があちこち飛ぶ原因ですね)。
 こういう文章を読んでみると、「長い文は、それだけで悪文である」というのが体感的に理解できます。
 言い訳はできるだけやめて、長い文は避けようと、決意を新たにしました。

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