◆たぶん週1エッセイ◆
映画「人魚の眠る家」
子どものためという親の意見・思いを、素直にも、覚めた目でも考えさせられる
国のお墨付きをいうクライマックスとキャッチには違和感を持つ
脳死と推定される娘を最先端の技術で状態をコントロールし続ける夫婦の姿と思いを描いた映画「人魚の眠る家」を見てきました。
公開3日目日曜日、新宿ピカデリースクリーン1(580席)午前10時15分の上映は、3〜4割の入り。
描いた絵を見せ、きれいなところを見つけたの、今度連れて行ってあげると微笑む6歳の娘瑞穂(稲垣来泉)を母千鶴子(松坂慶子)と妹美晴(山口紗弥加)に預け、夫の浮気を契機に別居中の夫和昌(西島秀俊)とともにお受験の模擬面接に臨んだ薫子(篠原涼子)は、瑞穂がプールで溺れたと知らされて、和昌とともに病院に駆けつけるが、医師(田中哲司)から、瑞穂は脳死状態と推定されると告知され、臓器提供の意思の有無を確認される。自宅に戻り、瑞穂が四つ葉のクローバーを見つけた際に、それが幸せを呼ぶから持ち帰ったらといわれて、瑞穂は幸せだからいい、他の人に残してあげると答えたことを思い出した薫子は、瑞穂なら他の人の役に立ちたいと考えるだろうと、いったんは臓器提供を決意した。ICUで、親族が集まり、瑞穂に別れを言う中、弟生人(斎藤汰鷹)がお姉ちゃんさよならと言ったときに瑞穂の手がピクリと動いたのを感じた薫子は、この子は生きていますと、臓器提供の意思を撤回する。障害を負った人の補助テクノロジーを開発する会社の社長である和昌は、自社の研究者から聞き及んだ情報に基づいて、横隔膜ペースメーカーを埋め込む手術で瑞穂に電気信号で呼吸をさせ、さらに脊髄への磁気刺激で手足を動かす技術を研究している星野(坂口健太郎)に信号で瑞穂の手足を動かすよう求めたが・・・というお話。
何が子どものためなのかということを、素直にも、同時に覚めた目でも考えさせられる作品です。自分の意思を表示できない/できなくなった子どもの周囲で、それぞれが瑞穂ちゃんのためには、と思い、語り、それがある場面では頷け、ある場面では自己満足な身勝手な考えではないかと思える、その繰り返し、移り変わりが、味わいどころと思えました。場面は違うのですが、仕事がら、離婚事件で、裁判所も(裁判官も家裁調査官も)、双方の当事者も(父も母も)、代理人も(原告代理人も被告代理人も)、言葉としては未成年子のため(業界人の言葉では「未成年子の福祉」)と口をそろえつつ違う主張を闘わせる姿を想起しました (-_-;)
映画では、原作にあった薫子が夫との離婚をしないままに別の男と逢瀬を繰り返す場面や江藤雪乃ちゃんを救う会に潜入する場面(これは和昌が行くことに替える)など、読んでいて薫子に心情的に反発を感じやすい(私はそういう反発があり原作の薫子に入りにくく思いました)ところを切り落とし、プール事故前に瑞穂が薫子に絵を見せて微笑む美しいシーンを追加して、薫子を屈折した底意地の悪い女からまっすぐな女に作り替え、エンターテインメントとしてわかりやすくしています。原作で感じた、薫子の行為がいかにも金持ちの自己満足という印象が薄れ、子を持つ親の多くが思う悩みのように感じられます。その点、私には、むしろ映画の方がうまいように思えました。
公式サイトのトップにある「娘を殺したのは、私でしょうか。」というキャッチに、すごく違和感があります。原作でも感じたのですが、瑞穂は生きていると主張し、寄り添い続ける薫子が、法的評価、国のお墨付きを求める問いかけをするクライマックスは、原作者の問題意識・問題提起がそこにあるとしても、母の行動・価値観・心情としてはあまりにも不自然に思えるのです。むしろ薫子の行動の流れからは、国がどう言おうが関係ない、私は瑞穂を守る、という主張が行動の基準となるはずなのに。薫子の行動、作品の全体の中では浮いて感じられるその場面での薫子の台詞を使ったキャッチは、作品全体の印象からかけ離れ、読む者をミスリードするだけだと思います。気を引きさえすれば、かまわないという感覚でこういったものが作られているとしたら、残念です。
自分も親として、薫子の心情を思い泣かされるだろうと予想していたのですが、むしろ、子どもたち(瑞穂や、若葉や生人)の心情に涙ぐみました。
(2018.11.18記)
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