◆私のプロフィール詳細版◆
刑事法学への憧憬
現在では、刑事裁判からほぼ引退状態になっている私ですが、学生時代は、主として刑事法学に強い関心を持っていました。
サークルで人権論みたいなことを学ばされていたこともあり、教養部でもまれるうちに反権力志向を強く持ったこともあり、いかに国家の横暴を抑えるか、市民の自由を守るかという観点から刑事法学を学びたいという気持ちでした。
3回生の後期からはじまるゼミは、迷うことなく刑事訴訟法を選択しました。当時の京都大学の唯一の刑事訴訟法の講義を担当していた鈴木茂嗣先生は、どちらかと言えば実務肌で、私のような青臭い議論は好きではなかったでしょうに温かく見守っていただきました。
鈴木先生の話の中で、裁判は裁判官への、捜査弁護は検察官への説得であるということは、学生時代には、ふ〜んという程度でしたが、弁護士になってみて沁みました。さらに言えば刑事に限らず裁判に限らず私たちの仕事の多くは誰かへの説得の作業で、説得の相手が誰なのか、その人を説得するには何が有効で今何が足りないのかを考えるのが習い性となっていますが。
当時、確か31人だった(これがゼミか?)鈴木ゼミ10期生の中で、概ね私が人権というかいかに無実の人を守るかという観点から発言し、問題提起する役割でした。鈴木先生が司法試験委員だったこともあり、多くのゼミ生は司法試験受験の観点から刑事訴訟法を学ぶという姿勢で、積極的に討論をしようという感じではありませんでした。
その頃、徳島ラジオ商殺し事件で富士茂子さんが何度も再審請求を棄却され無念のうちに亡くなった後遺族が起こした再審請求が認められて、日本で初めての死後再審開始の決定がありました。これに対して検察官が即時抗告をして抵抗しました。検察官の即時抗告が報道された日のゼミに、私は部屋に入るなり「検察官は、鬼ですな」と言って着席、日頃相手方として秩序維持の立場から論を張る学生が「やはり法秩序は守らないと」というように応じる、他の学生から「そう言うと思った」と声がかかるといった具合でした。そういうときに、さらりとではなく、目を潤ませてしまうところが、私の弱点です(このことは、今でも、自分が担当するという前提でない事件については同じで、可哀想な人にはすぐ同情してしまいます。自分が担当するということになると、プロとして事実を見きわめなければという意識が強くなるので、醒めた目で見てしまうのですが)。
この頃は、私は、司法試験に受かったら刑事事件を主体としてやっていくつもりでした。例によって、情報収集ができない私は、刑事事件だけで食べていける弁護士などほとんどいないということは知りませんでした。そういう話をしているとき、青山吉伸君から、刑事事件なんて面白くない、民事裁判の方がやりがいがあるよ、僕は公害裁判をやって行くんだということを言われ、ハッとしました。それなら君は何で刑事訴訟法ゼミにいるんだなんて突っ込みはせず、日頃おとなしく自分から意見をあまり言わない青山君が、しっかりと自分の将来像を見据えていることに驚きました。実際、青山君は、4回生で司法試験に合格して弁護士になると西淀公害訴訟の弁護団に入って活躍していました。なかなか治らなかった腰痛がオウム真理教のヨガ道場に通って治ってしまったのがきっかけでオウム真理教に入ってしまったと、事務所の人から聞きましたが、オウム真理教に入って転落しなければ今頃どんなにいい弁護士になっていたかと残念です。そのことはおいて、学生の頃、刑事事件を主体にと考えていた私が(刑事裁判もそれ相応にはやりましたが)結局は民事裁判を主体に原発訴訟などをやることになり、公害裁判に燃えていた青山君がオウム真理教で刑事事件で奔走しまた自身も巻き込まれていくことになるなどということは予想もできませんでした。
基本法の中で、最も理念的観念的な論争が学者の間で交わされるのは、実は憲法ではなく、刑法総論という領域です。個別の犯罪類型、例えば殺人とか強盗とかを論じるのが刑法各論で、刑法総論は、すべての犯罪を通じて、故意とは何か、過失とは何か、犯罪の実行に着手したことになるのはいつか、犯罪が完了するのはいつかとかを論じます。そんなの個別の犯罪ごとに論じればいいじゃないのとも思いますが、刑法に「総論」というのがあって現実にそういう法律の条文があるのでその解釈論はせざるを得ないわけです。
この刑法総論の領域で、犯罪となるべきでないものを犯罪とせずに救うという観点から私にとって最も魅力的だったのが、中山研一先生の説です。刑法の世界では、当時、大方判例通説と言われるのが、團藤重光(團藤先生は後に最高裁判事となり、最高裁判事となってからはリベラルな判決を多数書きましたが、学者としてはかなり強硬派でした)・大塚仁説で、これに対する少数説が平野龍一説でした。中山説は、その平野説をさらに理論的に推し進めた見解でした。当時中山先生は「口述刑法総論」という、主要な論点には言及しているものの基本書と呼ぶには言及していない問題が多い本しか書いていませんでした。しかし、中山先生の本を読んだ私は、すぐ中山説の信奉者となりました。
当時、中山先生は、京都大学に在籍していたのですが、中山研一名での講義を許されず、しかも刑法の講義を許されておらず、「乾研一」という名前でソビエト法の講義を持っていました。ですから、私は中山先生が京都大学にいることすら最初は知りませんでした。中山先生が当時京都大学でそのような憂き目にあっていた理由は、私は知りません。中山先生本人か鈴木茂嗣先生にでも聞けば教えてくれたのでしょうが、ちょっと怖くて聞けませんでした。
学生の勉強会で、中山説で論陣を張る私を見て、同期生が今度中山先生に刑法を教えてもらう自主ゼミを開こうと思うんだが来ないかと誘いました。私は一も二もなく参加し、中山先生と親しく議論させてもらえるようになりました。当時の私は、当然裁判の実務は知りませんし、刑法総論では理論的な一貫性が尊重される傾向にありましたから、中山説でこの論点で一貫すると別のこの論点ではこういう立場になるはずなどと、平気で中山先生本人に意見していました。中山先生は、そういうところを気に入ってくれて、自主ゼミが終わった後も、今度口述でない「刑法総論」を出すことになったんだがといって原稿を見せてくれ、私が中山先生の研究室に通って中山先生の原稿を題材に議論をするということが続きました。一学生の意見にも耳を傾ける中山先生の柔軟で包容力のある姿勢に感激しました。
司法修習生となり、前期修習(修習の最初の東京での全体修習)の検察講義の最初に、検察教官から、実務では平野説は通じない、平野説は捨てろとはっきり言われました。また裁判官を説得するにはそもそも仮に通説であっても学説なんて相手にされない実情を見て対応するうち、学説は仕事では使わなくなり、いつしか忘却の彼方になってしまいました。
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