◆私のプロフィール詳細版◆
私のいちご白書
私が京都大学に入学したのは1978年4月。世間では学園闘争は終結していましたが、京都大学はガラパゴスのように当時なお1970年の雰囲気を残していました。前年に最後の盛り上がりを見せた竹本処分粉砕闘争(この元になった事件を描いた映画「マイ・バック・ページ」はこちら)は終結し、時計台に白いペンキで描かれた「竹本処分粉砕!」の文字は私が入学したときにはもう消されていたと記憶しています(ネットでは80年頃まで残ってたと書いている人もいるので私の記憶違いかもしれませんけど)が、教養部正門左手にあった武道場「尚賢館」、経済学部地下(その名も「喫茶ガラパゴス」という談話室もありました)、文学部地下、農学部地下は赤ヘル(ノンセクト・ラジカル。全共闘時代の用語では反代々木系)学生が占拠を続け、教養部地下は民学同が占拠し、法学部地下は民青系自治会が占拠していました(ひょっとしたら法学部自治会は「占拠」ではなく大学当局の許可を得ていたのかもしれませんけど)し、西部講堂の屋根にはペンキで3つ星が描かれていて、これは何と聞くとテルアビブ空港(ロッド空港)乱射事件に参加した日本赤軍の3勇士を示しているとか、そういう状況でした。
教養部の正門前には、いわゆるトロ文字で書かれた文字看板が立てられ、ハンドマイクを2つ握りしめた赤ヘル学生がアジテーションを続ける姿が見られ、10人前後の赤ヘル学生が学内をシュプレヒコールを上げながらデモする姿も時折見られました。
朝教室に行くと、民学同(学内の早起きの人が置きビラする)や中核派、革マル派(学外から時々やってくる)のビラが置かれていたりしましたが、基本的には、あまり騒然とした雰囲気はなく、多くの学生は、学生運動には興味がないか、若干は興味を持ちつつ遠巻きに見ているという感じでした。
人から聞くところでは、私が入学する前の年までは、かなり荒れた様子だったようですが、私が通っていた頃(実質的には1回生の頃の教養部と3回生の頃の法学部で、2回生とか4回生以降はあまり通ってないですが)は、暴力事件とか集団での衝突とかを目の当たりにすることはありませんでした。
私は、中高生の頃は、政治意識などなく、分類するならばむしろ少し右寄りの感性を持っていたと思いますが、ほのかに憧れていた先輩の影響で赤ヘル学生と、高校の同級生のつながりで民学同と、入ったサークル(憲法研究会:教授や院生で構成する立派な方のではなく、学生サークルの)のチューターなどの人脈で法学部自治会とつきあいができ、もともと好奇心が強いこともあって、当時おそらく同期の法学部生では唯一と思われる、尚賢館にも教養部地下にも法学部地下にも普通に出入りできる学生になっていました。
どちらかといえば、話をするには赤ヘル学生の方が感性が近く、親近感を持っていましたが、それが「ノンセクト」を標榜していても、私は組織に属するのがきらいでしたので、あくまでも自分は自分というスタンスでいました。
1回生の頃、昔からの沿革は実は聞いてもよくわからないところはありましたが、教養部の自治会が成立しているのか自体に争いがあり、民青系の執行部には焦りがあったのだと思いますが、自治委員会での議事は、強引なところがあり、私の目には民主的なものには見えませんでした。そういうことを、ビラにして自分で、あるいは先輩と2人で配っていました。私は、組織に属する気はなかったので、ビラは全部自分でガリ版を切って自分で謄写版で刷り、自分で教養部の正門前に立って手渡していました。ですから100枚とかせいぜい200枚くらいしか刷らないのですが、私は基本的に自分が経験したことしか書きませんでしたし、教条的なことではなく具体的事実を書いていますので、信用性はそれなりにあり、危機感を抱くのか、それに対する反論のビラが私が配った何倍も撒かれていました。
といって、民青の人たちともよく話はしてましたし、議論・批判はするけど、たぶん嫌われてはいなかったと思います(法学部に行ってからはオルグもされましたし)。
1回生の時に、教育学部の赤ヘル学生の教育実習について、今では正確に覚えていないのですが、高校側で受入拒否をしたのだったと思います。暴力学生は教師にさせないというような趣旨の文書が出たりして問題になりました。京都の高教組が日本共産党系で、さらには京大の職組もからんでこじれたような感じもしますが、赤ヘル学生の間では、これを思想差別、思想処分として、闘争課題とされました。当時の呼び方では当該のイニシャルから「S君闘争」と呼ばれていました。
ある日、冬の時期だったと記憶していますが、赤ヘル学生が占拠しているところ(たぶん尚賢館だったと思いますが、他のところだったかもしれません)で雑談をしていたときに、教育学部長と団交が始まったという知らせが入り、その場にいた学生たちが教育学部長室に駆けつけました。団交の議題とかも覚えていませんが、教育学部の学生のことだから教育学部として解決のために動けというようなことだったろうと思います。私が着いたときには、教育学部長室で、学部長を十数名の学生が追及しているという状態でした。交渉といっても学部長側で妥協することもなく、学生側でも引くこともできず、押し問答が続いていました。だいぶ時間が経ち、学部長が煙草を吸おうとしたら、学生側のリーダー格の人が、「煙草なんて吸ってる場合じゃないだろ」と声を荒げて学部長の手から煙草を引き抜きました。私はちょっといやな感じがしたので、つい、「煙草ぐらい吸わせてやりなよ」といい、リーダー格の人とにらみ合いになりました。リーダー格の人が引いたところで学部長が煙草に火をつけながら私の方にすがるような目を向け、その時私は、自分の父親よりも年上の権力者が、怖がり弱気になっていることに、自分が何か後ろめたいことをしているという意識を持ちました。何時間学部長室にいたか今では覚えていませんが、夜になり、川端署から機動隊到着という知らせが入り、そのときいた学生全員が撤収しました。教育学部の玄関前まで来たとき、20mくらい先に機動隊と公安が並び、こちらに向けてストロボが何度も焚かれました。普通に歩いて立ち去ろうとしましたが、玄関を出てしばらくすると、合図があり機動隊が動き始めたのでみんな走り出し、その後は機動隊との追いかけっこになりました。私はすぐ裏手に逃げ、フェンス沿いに遠回りして大学を出ました。警察官と追いかけっこをしたのは、後にも先にもこのときだけです。このとき捕まっていたら私の人生は変わっていたでしょうか。
私は、1回生の頃は赤ヘル学生と一緒にいることが割とありましたが、(赤いのに限らず)ヘルメットをかぶったことはありませんでした。1回生の終わり、たぶん新年度の受験関係の行事の時に、私がいつも通り普通の格好でビラを撒こうとしたら、赤ヘルの人から、今日は公安がたくさん来ているから覆面をした方がいいといわれました。教育学部前で写真を撮られたことも思い出し、それで初めて赤いヘルメットをかぶってタオルで覆面をしてビラを撒きました。ヘルメットとタオルの間から目だけ出してみる世界はいつもと違って見えました。自分を見る人、ビラを渡そうとする相手が、自分に対して引いているというかびびっているのが感じ取れるのです。それを見て、私はその後、二度とヘルメットをかぶりませんでした。
1回生が終わり、いろいろな事情で、クラスの自治委員としての活動(自治委員会に出席するとか、その報告をするとか)を除いた活動からは足が遠のき、2回生は、サークル活動や麻雀などに明け暮れるようになり、学生運動(運動というほど継続的で規模のあるものではないですが)からは日和りました。
3回生からは、「司法試験」のところでも書いたように、専ら法律の勉強に自分を追い込んでいましたが、自治委員としての活動は続けていました。
3回生の秋、法学部の自治会委員長が同期生になり(確か彼は1回生の時は民学同だったと思うんだが)、学費値上げ反対でストライキをやると言い出しました。それは当時民青系自治会の統一方針だったと思います。私は、率直なところ、学費値上げでストかよと思いましたが、金持ちの子しか大学には入れないのは不正義だといわれると、まぁそうだなと思い賛成しました。でも正式に学生大会を開いて決議するのだから決議されればバリケード封鎖なりピケを張ってストをすべきだと主張しましたが、これは受け入れられませんでした。学生大会は無事に成立し、ストが可決され(委員長、泣いてました)、ストが実施されました。しかし、ピケラインも張らずに説得するだけというので、教授は授業を行い(私は鈴木ゼミ生でしたので、鈴木先生にスト決行中ですので授業はしないでくださいと頼みましたが、授業をするのは僕の職務だといわれ、それはその通りなので引っ込みました)、学生がふだんの3分の1くらいになっただけでした。説得して教室に入らずにいてもらった学生の少し恨めしそうな目がつらかった。
その後、自治委員会や学生大会の都度、私は執行部の議事の問題点を中心にした報告を模造紙に書いて壁新聞にして貼るようにしました。書いていることは事実だし、正論だから、それなりの支持はありました。昔書いたビラを持ち出して矛盾してるじゃないかと匿名で批判を書いてくれるマニアックな読者もいましたが。
高校生まで特に政治的な意識もなく育ったこともあり、学生時代を通じて、私のスタンスは事実を確認する、民主的に行われているか検証する、それを組織や他人の言いなりにならずに自分でするということであり、そこにとどまりました。いきおいその主張は何かへの批判でありアンチであり、積極的に、じゃぁおまえ自身は何がいいたい、どうしたいんだと追及されれば黙り込んでしまうことになります。
私が1回生の頃、あまり詳しくは話していませんが、私の様子を見た母親が良徳は学生運動をやってるようだけど大丈夫かねぇと心配して相談したところ、父親はあいつは一時跳ねても結局戻ってくるとあっさり断言したとか。やっぱり個人的な資質の問題か・・・
そういうこともあって、私の「学生運動」は短期間、それも運動の周辺を基本的に一人で歩き回っていたところにとどまり ( a child came out to wonder ってところかも)、いちご白書っぽい思い出にとどまっています。
でも、そのスタンスは、今の仕事にも通じているのかなと思っています。
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