◆弁護士の仕事◆
あさま山荘事件の場合
弁護士会からの依頼
あさま山荘事件を含むいわゆる連合赤軍事件の被告人坂口弘さんの上告審の弁護を依頼されたのは1987年の5月でした。
当時、私は弁護士になってほぼ2年。そのころ、私は、国選弁護事件でいやな思いをしたこともあってあまり国選弁護事件を受任していませんでした。事務所にいたときに私の所属する第二東京弁護士会の刑事弁護委員会の副委員長から電話がかかってきました。私は、とっさに「君は若手の人権派のくせに国選弁護をあまりやっておらんようだね」などとおしかりを受けるのかなと思って電話に出ました。そういう負い目があったところに、「実は一件特別案件をお願いしたいんだが、連合赤軍事件の坂口弘なんだ」と言われました。私は、突然言われて、坂口ってどういう立場の人だっけなんて考えて「はあ」と生返事をしていました。そうすると相手は、私が即座に断らなかったので「やってくれるかね」と言ってきました。私は当時弁護士会からやれと言われたことを断っていいとは考えていなかったので、断りきれずにそのまま受けることになりました。はっきり言えば、このときはことの重大性がよくわからないままに、弁護士会からの依頼だということで断れなかったということです。
後から知ったところでは、私の前に15人が電話を受けて即座に断っていたそうです。また、後年、別の著名殺人事件で弁護士会がこの事件は3人の弁護人が必要だということで東京地裁と交渉したとき、東京地裁は、特別案件は弁護士報酬も高くしてあるので経験5年未満の弁護士は不適切だと言って弁護士会の推薦した3人目の候補者を拒否したと聞いています。その基準から言えば、当時経験2年の私は、当然に外してもらえたはずなのですがね。
事件記録は205冊
2審の判決を判例時報で読むと、坂口さんについては殺人16件、傷害致死1件、殺人未遂17件。当然のように1審、2審とも死刑。でもこのあたりではまだ「気が滅入る事件だなあ」という程度でした。その後、普通の刑事事件同様にまず記録の閲覧をしようと、最高裁に電話を入れ、最高裁の書記官室に行きました。担当書記官は、私を部屋の奥のロッカーの前に連れて行き、「この棚全部そうですが、どれから閲覧しますか」と言いました。記録は1分冊あたり厚さ5cmくらいで205冊。ことここに至り、自分にのしかかった事件の作業量の膨大さを実感するに至りました。
刑事事件の2審以降での記録の検討は、要するに判決が有罪の認定に使った証拠構造と矛盾する証拠を探し出す作業です。記録の中に埋もれた証言のかけら同士を照合するわけですから、記録の分量が増えると作業量は幾何級数的に増大します。こんな量になったら完全を期することは不可能といえます。そしてこれは死刑事件です。弁護する立場からすれば、自分の仕事に欠けたところがあって人1人死刑にしたらと思うと寝覚めが悪いです。かくて性質上きりのない作業に良心のとがめが手伝って九牛の一毛を探し続けることになります。
口頭弁論
5年間にわたり、記録を読み続け、上告趣意補充書を書き続けました。受任してから5年後の1992年11月、死刑事件の慣例として行われる口頭弁論が開かれることになりました。共同被告人の永田洋子さん、植垣康博さんには私選弁護人がついており合わせて8人の弁護士で最高裁と交渉し、異例の2日間合計6時間の弁論時間を確保しました(最近行われた「もんじゅ」訴訟の口頭弁論でも1時間ですからかなり異例だということがわかると思います)。私は2日目の最初の50分をかけてあさま山荘事件の事実認定の杜撰さ、誤りを論じました。弁論が終わったとき、永田洋子さんの主任弁護人の大谷恭子さんから「君は傍聴席に希望を与えすぎた」と言われ、複雑な思いをしたことを覚えています。
判決とその後
1993年2月19日、坂口さんらがあさま山荘に籠城を始めたちょうど21年後、最高裁は上告棄却の判決を言い渡しました。大谷さんと2人で書記官室に判決文を取りに行きあまりの薄さに茫然としながら(それでも最高裁にしては理由が書かれているだけましだということですが)記者クラブの要請で会見に臨みました。翌日の新聞各紙の社会面には記者会見に臨む弁護団の写真が大きく掲載されました。裁判で負けた側の弁護士の写真がこんなに大きく掲載されたことはないのではないでしょうか。
この事件で私に支払われた国選弁護報酬は100万円でした。裁判所の発想は弁論回数が基準ですから特別高くしたのでしょう。でも私がその5年間にこの事件にかけた時間からすれば(もちろん概算ですが)時間給は500円未満のはずです。
この事件では、いろいろな人の事件への思い入れ、坂口さんが朝日歌壇に事件の反省を示した短歌を投稿していたことなどから、本当にいろいろなことがありました。たぶん、最高裁で口頭弁論時間をあんなにとれたのもその1つでしょう。公には話しにくいことが多いですが、最後に1つだけエピソードを紹介して締めくくります。私は、このころ日弁連広報室の嘱託をしており、その業務の1つとして日弁連新聞という日弁連の機関紙の取材・執筆・編集をしていました。日弁連新聞では弁護士出身の最高裁判事の就任時・退官時にインタビューをしています。第3小法廷で連合赤軍事件の裁判長を務めた坂上判事が、折しも定年退官し、私がインタビューをすることになりました。私が用意した質問の第1項目「一番印象に残る事件は?」に坂上元判事はほぼノータイムで「連合赤軍事件です」と答えました。
(2005.5.2記)
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