私の読書日記 2006年11月
26.極みの京都 柏井壽 光文社新書
京都人による京都観光ガイド。前半は、京都観光検定試験や雑誌の京都特集の上っ面・半可通の知識を批判して、京都人の心を語っています。そのあたりは、私も学生時代を京都で過ごしましたので、半分くらいは、まあそうだねえと思いながら読みました。でも、後半は京都の名店ガイド・グルメ記事です。全体としては少し落ち着き気味の京都観光ガイドというところですね。私としては、京都については基本的に二十数年前の記憶ですので、地名はなつかしく、店の名前はわからずというところが多くありました。
25.きみのいもうと エマニュエル・ボーヴ 白水社
かつて貧乏人で今は有閑マダムに囲われている主人公アルマンが、貧乏人の友人リュシアンとの再会にとまどいながらその妹マルグリットの部屋を訪れキスしたことから、有閑マダムに追い出され貧乏人の世界に戻るというようなストーリーの小説。アルマンの貧乏人への同情・友情と違和感・嫌悪の間を振れる思い。現在の不自由ない生活にどこか居心地の悪さ(むしろ据わりの悪さというか)、自分がそこにいることがふさわしくない気持ちを感じつつ、しかしそれを失うことへの恐れを持つアルマンのアンビバレントな思い。この小説は、そうしたアルマンの心理劇が主要なテーマと、私は読みました。ストーリーそのものや、リュシアンの怒りやマルグリットのおののき、そして有閑マダムジャンヌの反応などは、アルマンの揺れ/振れる思いを導く装置・配置に過ぎないようにも見えます。ストーリー的には、ふとしたいたずら心から、あるいは同情心から、幸せな生活が崩壊したアルマンの悲劇と読めますが、アルマン自身は、貧乏生活への逆戻りに、どこかそれでいいんだとホッとしています。それはそれで哀しさを感じさせますが、でも貧乏生活を脱していたアルマンが友人だった貧乏人への違和感・嫌悪・いらだちを示す前半にもやはり哀しみがあり、そのままには終われないところでした。貧乏人への共感の視線の先にはこういう結末がふさわしかったのでしょう。でも、やはりやるせなさが残りますね。
24.永井荷風という生き方 松本哉 集英社新書
永井荷風の日記(「断腸亭日乗」等)を中心に永井荷風の人生や当時の風俗を紹介した本。昔の文体や漢語が苦手なもので永井荷風の作品は読んだことがないのですが、新書で軽めにまとめられているのでわりと手軽に読めました。反骨、人嫌い、女好きの永井荷風の人柄が偲ばれます。日記で反戦を書いていたのはともかく、金の国勢調査が来て国に取られるのなら捨ててしまえと金の口金付きのキセルを捨てに行った話(207頁)とか、かつてわいせつとして発禁になった永井荷風の「腕くらべ」が出征兵士の士気高揚のために贈るとかで5000部増刷になった話(212頁)とか、けっこう笑えます。人嫌いの荷風ですが、全財産入りのカバンを落として(それは戻ってきたのですが)その報道を見て、そんなにお金があるのなら少しお恵みをという手紙やはがきが全国から舞い込んで荷風の人嫌いがひどくなったという話(175頁)は、さすがに同情します。いつの時代にもそういう信じられないほど厚かましい人っているんですね。でも親の遺産と莫大な印税で生活に困ったことがないからやりたい放題やっているというところもあって、そのあたりはちょっと幻滅。
23.搾取される若者たち バイク便ライダーは見た! 阿部真大 集英社新書
バイク便ライダーとしての稼働経験を元に若者が「やりたい仕事」に不安定雇用で従事したときにワーカホリックとなって企業に使い捨てられていく様子を論じた本。歩合制のバイク便ライダーは請負契約の形をとることで売上がなければ収入もゼロの最低賃金法以下で使われ、事故にあっても労災ではないとして自己負担が強いられるという厳しい条件で働かされています(24頁)。「13歳のハローワーク」などで巷に氾濫している「やりたいことを仕事に」ということでバイク好きがバイク便ライダーになったときには、仕事によってその趣味の内容が更新されて労働者の純然たる趣味の領域がなくなり、趣味でありかつ仕事であるバイク便の業務に没頭しワーカホリックになっていく(72〜75頁、86〜87頁)ということが著者の主張の根幹となる指摘です。そして最初時間給で入ってきたバイク便ライダーが歩合制を選択してワーカホリックになっていく原因は、配車係が元歩合給ライダーであること(力量を見切られて時間給では割が合わないように仕事を入れられる)、ユニフォーム(趣味のバイク乗りにはださく、バイクのパワーではなくすり抜け等での速さを誇りにするバイク便ライダーのプライドを支える)、時給から歩合給に転換できるが逆はできない一方通行のシステム(事故や病気で働けなくなったライダーは歩合給では食えないので辞めるほかなく結果として歩合でバリバリ働けるライダーしかいないので、時給で入った者には歩合給ライダーが格好良く見える)の3点にあると著者は論じています。著者は、会社は悪意でそうしているのではなく、誰が悪いのではない、職場のトリックだとしています(123〜128頁)が、経営者側がそうしたことを全く意図していないというのは、私にはかなり疑問に思えます。バイク便ライダーの場合、交通事故のリスクや、排ガスによる呼吸器系の病気のリスクが大きくなりますが、著者も言うように「やりたいことを仕事に」した非正規雇用の若者が、雇用条件の不安定さへの不安と「やりがい」からワーカホリックになり健康を害していく危険は他の職種でも同じです。著者の指摘する「『13歳のハローワーク』に代表されるような無責任な自己実現を促す職業教育」(131頁)だけでなく、昨今の「規制緩和」の号令下に財界の言うままに労働条件の切り下げや非正規雇用の拡大を容易にし企業にやりたい放題にさせてきた政治の問題の解決こそが重要だと、私は思いますが。自分の経験部分というか社会学者としてのフィールドワーク部分を「体験型アトラクション」なんて書くセンスは読んでいて気恥ずかしいし、「処方箋」部分はあまりに貧弱ですが、本体部分はものすごく読みやすいし、問題提起としてかなりいい線行っていると思います。
22.統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか? 門倉貴史 光文社新書
各種の統計について、元にするデータの性質や算出方法によって様々なバイアスがあり、必ずしも実態を反映していないことを紹介する本。警察庁発表の交通事故死亡者の激減は24時間以内の死亡者だけを対象にしているため救急医療の進歩によって見かけ上減っている(4〜6頁)、平均初婚年齢には結婚しない人が入っていないから実感より若くなる(47〜48頁)、合計特殊出生率はその年の各年齢の女性の出産数だけで算出するので晩婚化が進んでいる時期には実態より低くなる(49〜53頁)、「割れ窓理論」によるニューヨークの犯罪発生率の減少は実際には軽犯罪取締よりも景気の回復による部分が大きいのではないか(59〜64頁)、消費者物価指数には上方へのバイアスがあり景気回復の判断に使うのには慎重であるべき(172頁〜)などが論じられています。シンクタンクが発表する各種の「経済効果」の計算手法とその限界というかいい加減さ・無意味さや、各国が算出している経常収支がすべての国の経常収支を足すと大幅な赤字になるという不思議(理論的にはゼロにならなければならない。企業の海外収入の一部が申告されていないためではないか:166頁)、中国やインド、ロシアなどのGDPの精度への疑問など、経済問題を議論するときに当然の前提としている各種の数字がけっこう危ういものだという指摘は目からウロコでした。
21.現場で使える統計学 豊田裕貴 阪急コミュニケーションズ
営業や企画の仕事で統計学を使うための統計学の解説書。前半は平均や標準偏差などだけで、比較的簡単なものの組み合わせでもけっこう使えるということを論じています。後半では、少ないデータで仮説を立てて検証する際のやり方を論じ、統計学で文系の人間にはいやになる「仮説検定」を使う前にグラフの組み合わせ等を勧めた上で、仮説検定の説明もしています。仮説検定で出てくる「有意確率」って、問題にしている仮説の原因の変化が結果の変化と関係がない確率(因果関係があるという判断が間違いである確率)のことなんですね。つまり「これが原因だ」という仮説を立てた場合、有意確率が小さければ仮説が正しいと考えた方がいい。有意確率が大きければ仮説は間違いでそれは原因でないと考えた方がいい。言葉のニュアンスと逆ですよね、これ。統計学は使わなくてすむのなら使わない方がよいと「はじめに」で書いているように、仕事に使うという観点からは、統計はデータの要約だから必ず情報が捨てられるが捨てられる情報にこそビジネスヒントがあることが多い(18頁)とか、データは多ければいいとは限らず135名のデータなら要約前に元データを検討できその検討の上でのグラフと信頼できるが135万人のデータでは元データを見る気もしなくていきなり要約したものかも知れないからビジネスの現場では135名の結果の方がいいこともある(149〜150頁)とか、統計の落とし穴の指摘もなされています。万能のように扱われがちの仮説検定(カイ二乗検定等)も、例えば有意確率がほぼゼロとなった仮説(結果の原因はこれと判断できた仮説)を原因と結果を逆にして検討すれば同じ結果となり、仮説検定自体では因果関係を確定できない(163〜164頁)とか、仮説の前提部分(何が指標として重要か、何を判定基準とするか等)を崩されたら論証が崩壊する(171〜172頁)など、統計学を用いた論証の限界(相手方の論証への反論方法)も紹介されていて、勉強になりました。
20.インターネット公売のすべて 掘博晴 ぎょうせい
元東京都主税局職員・現ヤフー官公庁担当の著者が、税金滞納者から差し押さえた物のインターネットでの公売を推進した経緯を紹介し、積極的展開を薦める本です。税金(社会保険料も)というのは法律上最強の債権者で、滞納者に対しては裁判も裁判所の決定もなく、役所の一存で自宅や職場などに踏み込んで財産の差押えができます。著者はその権限をどんどん行使することを推進し、ヤフーと提携してインターネット公売をすることで税収の確保をすることを推進してきたのだそうです。そのいきさつの話は、まあおもしろいと言えばおもしろいですし、税金を滞納するのが悪い、滞納者を放置するのはまじめな納税者に申し訳ないという著者の言い分は、もちろん正論です。しかし、権力を持つ者が正義を振りかざしてやりたい放題に権力を行使する姿は、私にはとても共感できません。滞納者が協力しないからといって金庫を電気ドリルで破壊した(結局何も入っていなかった)話(52頁)や、差押え禁止財産以外は何でも持ってくる姿勢が重要だ(61頁)とか、差押え終了後は相手から何を言われても振り向かずに「何か言いたいことがあれば、明日、役所に来てください」と言って帰る(67頁)とか、ここまで言う?って思いますが。それにインターネット公売にしたって、役所は宝石とか本物かどうかは保証しません。参加者は役所が出品するってことで信頼していると思うんですけど。そのことはもちろん参加前に文書を読んで「同意します」のボタンを押してから参加するわけですが、そういう文書ってまじめに読む人、一体何人いますかねえ。それから、著者自身が言うように「せり売り方式ですと、落札額は必ずと言っていいほど市場価格より高くなります。・・・特に終了間際になると、値段がぐんぐん上がっていくため、自分でも気がつかないうちに熱くなります。」(78頁)というのに、それで落札してやっぱりやめた人から著者は厳しく公売保証金を没収しています(36頁)。もちろん、手続上それは適法なのですが、熱くなって冷静な判断ができずにしたことだと判断していることを、行政がそれを利用して稼いで、冷静になってやっぱりやめたというのを全く認めないというのは、行政のやり方として、私はかなり疑問に思います。
19.古代エジプト 文明社会の形成 高宮いづみ 京都大学学術出版会
エジプトの先史時代から古王国前半までの歴史を解説した学術書。必ず古代史から入って現代史に入れずに終わる日本の学校の世界史の実情を反映して、私は古代史が比較的好きです。古代エジプトも興味を持っています。それでも、こういう地道な学術書を通し読みするのはけっこうきつい。対象が古王国から新王国までの王朝よりも、その前に比重があって、ナカダ文化とか知らなかった時代と遺跡が語られているのは、勉強にはなりましたけど、やっぱり興味を持ち続けるのは厳しい。それよりももっと後の時代の記述で、「ファラオの墓」(竹宮恵子の漫画)のスネフェルって実在の(それも第4王朝のかなり有力な)王だったんだ、とかいうミーハーな発見に喜んでしまうのは不謹慎でしょうか。それとか古代エジプトの象形文字というか絵で、人物は髪の生え際(額)から足元までを18分割したグリッドを元に決まったプロポーション(地面から腰までが9、地面から脇の下まで14.5、地面から首まで16とか)で描かれていた(263頁、273頁)なんてことも興味深かったんですけど。古代エジプトの集落は日乾し煉瓦と植物で作られ(雨も降らないし地震もないからそれで十分)ナイル川の定期的な増水にあわせて集落自体移動するし集落跡はナイル川の増水で洗われてしまうため、集落の遺跡はほとんど発見されないそうです。その結果、ピラミッドなどの王や高官の墓の絵やレリーフ、副葬品などを手がかりにせざるを得ず、王権や王家の神話、王家や高官の生活が中心となります。古代エジプトの生活様式の考察もされていますが、庶民がそういう生活をしていたかは疑問ですね。著者は、エジプト文明はエジプトの人々の独自の発展と自主的な受容の結果で、西アジアからの文化の移植や伝播ではないとの立場のようですが、終章で論じられているように、エジプト文明への西アジア(メソポタミア文明)の影響については、議論があり決着を見ないようです。うーん、奥が深いけど、やっぱり素人にはわかりづらい。
18.となり町戦争 三崎亜記 集英社
居住地の町(舞坂町)がとなり町との戦争を始め、町から一方的に偵察業務従事者に任命されて戦争に巻き込まれた主人公北原君と、ともに戦争推進室分室勤務となる公務員香西さんの戦争下の日常を描いた小説。2005年の文学界を席巻した「となり町戦争」、図書館で寝ているのを見つけて、読んでみました。確か、昨年あちこちで見た書評類では、「戦争」というタイトルに引きづられてか、リアリティのない戦争、ヴァーチャルな戦争の不気味さみたいな書き方が多かったような記憶があります。でも、実際に読んでみると、行政・役場の救いのなさ・怖さがテーマなのだと私は思います。戦争、多数の戦死者を出すことさえ、まるで道路の拡張工事のように予算を立て計画し、汚れ仕事はすべてアウトソーシングして自らは手を汚すことなく着実に淡々と実行してしまう役人たちの懲りない、非人間的な姿。となり町との間での戦争を、となり町との間で協力して戦争を遂行していこうと協定書を結び定期的な勉強会をしながら遂行していく両町の役人たち(147頁)。ほとんどの住民が戦争を知らず参加せず関心も持っていないのに「今の時代はやはり地域住民の意向を無視しては戦争や工事はできないんですよ」(141頁)と住民の意向で戦争をしているという誤った使命感。分室での「性的な欲求処理に関する業務」の分担のために週1回北原君の部屋を訪れて必ず自分が上になって性交する香西さん(それがわかった後も淡々と続けられる北原君も、ちょっとすごいけど)。住民への説明会で「なぜ、となり町の人間と殺し合いをしなければならないのか」と問われて、「なぜ」には答えずに「我々はとなり町と“殺し合い”は行っておりません。殺し合うことを目的に戦争をするわけではありませんし、戦争の結果として死者が出る、ということですからお間違えのないようにお願いします。」と説明する戦争推進室長(89頁)。しかも、こういうテーマだと役人が何か利得している姿を書きがちですが、この作品では役人たちは何か利益があるわけでもありません。ただただ業務だから計画したからそれを実行することが自己目的化したものとして、自己満足的な使命感だけで淡々と続けているわけです。そういった役人の業というか性というか、そういうものを戦争という極端な素材を用いることでアイロニカルに自嘲的に描いたものだと、私は読みました。その意味では、「戦争」でなくてもよかったのだと思います。戦争というテーマで見ると、リアリティのなさよりも、共同体の喪失というか、愛国心も高揚感もなく(せいぜい26〜28頁の小学校での軍事教練のシーンくらいですね、そういうのは)連帯感もなく住民の関心もほとんどなく、それでも戦争が行われ多数の死者が出ていくということの不気味さを感じました。でもそれは、たぶん、より小さなテーマかなと。終章に入って、淡々とした叙述が少し観念的・修辞的になり、少し高級に・グレードアップしたいという作者の気取りを感じます。主人公の北原君をどこか冷めたリアリティのない人物に造形して、役人たち・香西さんの胸ぐらをつかんで責めたりするシーンを1つとして設けない、そういう描き方を選択したのですから、むしろ第5章までの淡々としたスタイルで最後まで書ききった方が凄みがあったように、私には思えましたが。作者が男性なのにペンネームで女性っぽく見せているのはちょっと残念。香西さんの描き方なんて女性がこういう書き方をしていると思って読むから、ギョッとしつつ許せるかなと思える面もありますからね。それにしても、無名の新人のデビュー作ということを考えると、すごいですね、これは。読んでから作者が公務員というのを知って、それはむべなるかなと思いましたが。
17.ネット決済売り方マニュアル 鏡味義房、磯崎マスミ 明日香出版社
個人事業主がインターネット上でショップを持つときの顧客からの代金支払いの確保について利用できるサービスの案内書。前半は一般論を展開していて、事業者のニーズに応じてサービスごとのメリット・デメリットがあるので何が最良とは言えないと言っていますが、後半の各サービスの紹介でも、これを重視するならこのサービスがお薦めという仕分けが全然ありません。事業主の立場でのガイドブックの体裁ではありますが、どうもサービス提供者の宣伝文句をそのまま紹介している感じで、著者の独自の評価が見えません。サービス業者への遠慮が感じられます。サービスの内容の紹介も、現実に使っての感想ではない感じがします。それをおいても解説がネット利用を前提にしているわりには管理画面とかの表示も具体的解説もなく平板な感じがしました。ニーズがはっきりしている事業者が読むのなら収穫があるかも知れませんが、教養の観点から一般人が通し読みするのは、かなり辛いと思います。
16.シルクロード 華麗なる植物文様の世界 古代オリエント博物館編 山川出版社
エジプト、ギリシャ、メソポタミア、インド、中国、日本の出土工芸品を植物文様の観点から解説した本。タイトルからすると植物文様がシルクロードを経由してどう伝わったかが解説されているのだと思いましたが、それらしいことは、葡萄唐草と蓮華座、あとはせいぜいパルミット文様(ナツメヤシ)くらい。各地の工芸品の写真を楽しめればいいという見方ならいいんですが、文化の伝播という観点での解説があまり試みられていないのは残念。執筆分担がバラバラで執筆者の意思統一がされていなかったのでしょうか。
15.春の魔法のおすそわけ 西澤保彦 中央公論新社
45歳直前の女性作家が酔っぱらって取り違えた他人のカバンに2000万円が入っていて途方に暮れていたところに出会った美青年と一夜のアバンチュールに浸るという設定の小説。主人公は、日頃は保守的というか小心だけど、内心は過激というかキレやすく、酒に酔うと大胆になるタイプ。第1章での心の動きなんて、ものすごく行き当たりばったりだし極端ですぐキレて、ついて行けません。第2章なんて、路上で出会った美青年にいきなり「いくら?」って聞いて突然股間を触りまくるとか、本当にやったら犯罪だし、男性だったら即逮捕もの。それを作者(中年男性)が主人公を女性に設定して、内心では自分でもこんなことやっちゃいけないってもう一人の自分が叫んでいる設定で、それをどこか正当化しようとしている姿勢が、読んでいてものすごくいやらしく感じました。率直に言って前半は読み味かなり悪く感じました。こんなの読むだけ時間の無駄、気分が悪くなるだけ、作者が自分の幻想の中でやりたいと思っていて素直に書いたら軽蔑されるだけのことを主人公を女性に設定することでかろうじて許されると自己満足してるだけじゃないかって。第3章の後半からようやく主人公が少しまともになってくるのと、中性的なキャラの優弥と恵那の味わいでようやく前半の失点を取り返し、第4章の恵那の語りで読み味よく終わっています。尻上がりによくなっているので、読後感は悪くありませんでした。前半は即投げ出したくなるけど、トータルとしては、エンターテインメントとしてはまあそこそこかなと。
14.訴えられた遊女ネアイラ デブラ・ハメル 草思社
古代ギリシャのアテナイで、弁論家のアポロドロスが、政治的な思惑での裁判への復讐のためにその相手方の内妻を訴えた裁判の弁論を元に、古代ギリシャでの娼婦の生活、裁判の実情について論じた本。研究書的な性格のものですが、内容的には娯楽読み物に近い感じがします。第1部は裁判にかこつけて古代ギリシャの売春の話をし続けてますし。第3部になると、私が弁護士で、違う社会の裁判制度に関心を持てるから娯楽として読めるのかも知れませんが。アテナイでは、職業法律家はいなくて、弁護士も裁判官もおらず、当事者が時間制限以外は自由に(ウソも言い放題)に弁論して、素人の陪審員が合議もせず結論だけ投票して多数決で結論を出していたそうです。この裁判自体は、アテナイでは外国人がアテナイ市民と結婚状態で同居していることが法律違反で、それをアテナイ人なら誰でも(全く関係ない人でも)訴えることができて、勝訴すれば被告の財産は全部没収の上その3分の1を訴えた原告がもらえるというしくみ(208頁)にもとづいて起こされています。原告が陪審員の5分の1の賛成を得られなかったときは1000ドラクマ(職人の2年分程度の稼ぎ)を支払わなければならない(181頁)という抑制があるとはいえ、ずいぶん危ない制度ですね。こういう制度の下では原告となることを職業というか金儲けの手段と考える輩が生まれてきます。登場するネアイラの夫または愛人のステパノスもアポロドロスに2度裁判を起こしているほかに度々その人生で裁判の被告や原告となり、アポロドロスも度々裁判の当事者となっているようです。裁判では相手を「告訴乱発者」と罵りあっています。この裁判は、そういう者達の諍いの手段として、相手方の家族ないし愛人が狙われたもので、かなり気の毒な話。アテナイといえば訴訟中毒の社会として有名(161頁)と著者も書いていますが、全財産没収とか死刑とかいうことがかかった裁判が度々起こり、しかもそれが出していい証拠の制限もなく、法律家もいないから法律の内容についてまでウソの言い放題で、それをゆっくり検討することなくその場で全くの素人が投票して決めるって、かなり怖い。この裁判について、アポロドロスの弁論しか記録が残っていないので、結果はわかりませんが、著者はアポロドロスの弁論を分析しても、ウソや誇張が多く、弁舌は爽やかだが実は重要な事実はほとんど論証できておらず主張の根拠は薄弱としています。陪審員がそのアポロドロスの弁論に引きずられて原告を勝訴(ネアイラを敗訴)させたのかはわかりませんが、なんかかわいそうに思いますね。古代ギリシャのアテナイの社会と民主制について、だいぶ印象が変わりました。
13.カレーを作れる子は算数もできる 木幡寛 講談社現代新書
現在の算数教育は How to に偏っており Why の視点が欠けているという観点から、現在の教科書や「百ます計算」が算数嫌いを拡大再生産しているとして、より実践・実験的な算数の教え方を語る本。前半は実験がいろいろ入って楽しくわかりやすく書かれている感じですが、後半はなんかありがちな話だし結局暗記っぽくなっている感じ。構成を他人の提案した4項目にあわせてやっているから、後半続かなくなったんじゃないかなあ。しかも前半のおもしろいところは算数よりも理科って感じですし。表題の「カレーを作れる子は算数もできる」は4項目の2項目目で「レシピを見て料理を作ること」=筋道立てて考える練習のたとえ話にカレーが出てくるだけ。カレー作りのように物事の後先を考えて仕事をする能力があれば算数もできるという著者の主張はこの本のバックとしてずっとあるわけですが、本の中身はそれとは直接関係ない話です。
12.安野光雅 風景画を描く 安野光雅 NHK出版
絵を自由に書くということをテーマにした旅とスケッチのエッセイ。オーヴェール・シュル・オワーズ(ゴッホの描いた教会で有名なフランスの村)やポントワーズ、アルシュ、リクビール、ストラスブール、オンフルール(以上フランス)、コッツウォルズ、ワトフォード、ラヴェナム(以上イギリス)、ピエンツァ(イタリア)での風景のスケッチ・水彩画とエッセイが並んでいます。最初はゴッホへの想い。著者は淡い色づかいを好む作風で、この本でも「赤や黄色があるとわたしはむしろ逃げ出したくなるほうで、なんとか落ち着いた色合にできないものかと考えます。白黒写真でも秋は撮れる、というくらいの気持ちで描いたほうがいいのではないかとわたしは思います」(43頁)なんて書いてます。その人が、ゴッホへの憧れを語るのは、ちょっと意外でした。人は自分にない(できない)ものに憧れるのでしょうけど。掲載と書いた順は、実際には一致しないんでしょうけど、最初の方の絵は、ゼロから始めるということで、著者の絵本とかの絵と少し感じが違いますが、終わりの方の絵はやっぱりいかにもの安野作品になっています。まあ、当然といえば当然ですが、やっぱり企画に無理があったような感じもします。
11.大活字版 心臓病のリハビリと生活 伊東春樹 主婦と生活社
心筋梗塞等の心臓の病気をした人のリハビリや日常生活、予防等についての本です。リハビリでは、手術した人も含めて、安静にではなく運動した方がいい(再発率が下がる)そうです。運動って言っても歩いたりストレッチとかで、もちろん、サッカーやバスケットボールをやれって意味じゃないですが。喫煙は心臓病の最大の敵といっても過言ではありません(119頁)というのは、そうでしょうねえ。喫煙者の妻の心筋梗塞発症率はそうでない人の2倍近くなるというデータもある(119頁)とか。医療機器の最近の情報もあって、ペースメーカーと携帯電話の関係も、22cm離れていれば安全だとか(40頁)、数字を書かれるとなんとなく安心します。心臓発作で倒れた人の救命装置AED(自動体外式除細動器)の使い方とかも出ていて(115頁)勉強になりました。
10.赤い手袋の奇跡 ギデオンの贈りもの カレン・キングズベリー 集英社
貧しくともボランティア活動を続ける両親の下で育った純真な8歳の少女ギデオンが、白血病にむしばまれながら伝道所でホームレスに食事を出すボランティアを希望し、そこで出会った51歳のひねくれたホームレスのアールに、信じる気持ちを取り戻すことを願って贈ったプレゼントをめぐって巻き起こる愛と感動のドラマ・・・。ページ数は160頁あまりありますが、判型も小さく、ちょっと長めの短編の分量。ですから、ストーリー展開はひねらずストレートです。その分、わかりやすく力強く、今時ちょっと恥ずかしく思えるほど、ストレートに愛と感動のドラマしてます。でも、この迷いのなさが、いいんです。「いかにも」のつくりなんですが、でも素直に感動してしまいました。なぜなんでしょうね。アールが実はお金持ちなんてあたり、そんな都合のいい設定って放り出したくなっても不思議はないんですが。単に小学生の娘を持つ親父には、純真な薄幸の娘って設定だけで何でも許せてしまうってことかも知れませんが・・・
09.絶対、最強の恋のうた 中村航 小学館
タイトルから想像できるように、若くて純真なカップルの恋愛小説です。主人公の大野君とその彼女の「ミート君」(またの名をカナリアA)の恋愛物語は、とんとんと進み39頁で半年後にHしよう(という言葉は出てこないんですが、そういう意味)と約束します。こうなれば、それがどうなるのかという興味で読み進めるのが普通の読者でしょう。でも、ここからとんと進みません。そこから後は大野君の友達の坂本君とその蛮カラの先輩木戸さんの話が延々と続き、それが終わったと思ったら「ミート君」の過去が始まり、100頁くらい間が開いてやっとミート君から見た大野君の話が始まります。主人公2人の恋愛小説としてみる限り、40頁からそのまま138頁(145頁でもいい)に跳んでも何の問題もありません。それでも進展もなくステディなデートを重ねて問題の半年後がようやく来たら、先送りにした挙げ句、最終章は坂本君の話でおしまい。大野君とミート君は一体どうなったの?大野君とミート君のデートの話は、確かにほんわかとしたり爽やかだったりしてその部分の読み味はいいんですが、恋愛小説で進展・行方を見せずに、じらした挙げ句に放り出されると、読み終えたときはやはり「何だこれ?」って言いたくなります。ミート君が大野君とつきあい始めるきっかけのところで「だって私はもみじ饅頭をもらったのだ。これがもし、ういろうとかだったら断ったかもしれない。きび団子だったら、私はサルでもキジでもないと抗議したかも知れない。だけど、もみじ饅頭をくれるような人の誘いを、断れるわけがなかった。」(146頁)という表現があります。私は、こういうのあまり好きじゃありません。名古屋人とか岡山人への差別じゃない?これ。もし作者が広島県民だったらこの本ぶん投げてやると思って作者のプロフィールを見たら岐阜県出身。岐阜県民の自己卑下だったのね。でもつきあわされる岡山県民は・・・
08.ラーマーヤナ4 聖都決戦 下 アーショカ・K・バンカー ポプラ社
07.ラーマーヤナ3 聖都決戦 上 アーショカ・K・バンカー ポプラ社
6月発売の「蒼の皇子」上下の続き、原作では第2巻です。タータカーを倒した後ラーマたちが、聖人の導きによりアヨーディヤにはまっすぐに戻らず、コーサラ国の王家と遠縁の王が治めるヴァイディーハ国の首都ミティラーに向かいそこで皇女シーターの婿選びに参加することになり、アヨーディヤ攻撃の前にミティラー攻撃に結集した阿修羅軍団の主力部隊を撃破することとなるまでの話。日本語版ではタイトルが「聖都決戦」とぼかされ、阿修羅軍団の第1攻撃目標がアヨーディヤと思わせぶりな記述が続いて終盤でミティラーが阿修羅軍団の第1攻撃目標と明かされるという趣向になっているように読めますので、こう書いてしまうのはネタバレと怒られるかも知れません。しかし、原書のタイトルは、SIEGE OF MITHILA(ミティラー攻囲)ですから、著者にはそれを隠す意図はないし、表紙にも原題は書いてありますので、気にせず書いておきます。第2巻では、ラーマたちの旅とラーマたちの留守中のアヨーディヤ王宮での陰謀、阿修羅側の動きが絡み合い、第1巻より複雑な進行になっています。お話の大部分は、よりおもしろく読み応えのあるものとなっていると言っていいでしょう。第1巻の感想として、指輪物語の愛読者ならきっとおもしろく読めると書きましたが、著者も意識しているんでしょうね。第2巻第2部のタイトルは「2つの塔」。そして・・・これこそ具体的に書くともろにネタバレですが、最後のクライマックスのあっけなさも指輪物語並み。それがちょっと、この長い本の読後感としては残念。原作は6巻までで最近完結したそうですし、アヨーディヤ王宮での陰謀はまだ未解決、阿修羅の王の従妹シュールパナカーのラーマへの歪んだ思いとか含みは残されていて続きを読みたいとは思いますけど、疲労感も強いですね。まあ次の日本語版がいつ出るか未定ですけど。
06.ラーマーヤナ2 蒼の皇子 下 アーショカ・K・バンカー ポプラ社
05.ラーマーヤナ1 蒼の皇子 上 アーショカ・K・バンカー ポプラ社
古代インドの大叙事詩「ラーマーヤナ」をもとに再構成した物語。コーサラ国の第1皇子ラーマが、魔力を持つ聖人の力に助けられながら、阿修羅の軍団を相手に大活躍します。第1巻に当たる「蒼の皇子」は、「落ちることのない城」アヨーディヤに羅刹が侵入したことから阿修羅軍団の侵攻を察知した聖人が、阿修羅軍団を牽制して侵攻を思いとどまらせようとしてラーマと第4皇子ラクシュマナを連れて敵陣の「恐怖の森」バヤナカ・ヴァナに侵入してその支配者タータカーを倒すまでの話。「ラーマーヤナ」は、ヨーロッパ人にとっての「イリアス」「オデュッセイア」にあたるもので、一度読んでみたいと思っていました。長らく愛唱されてきた叙事詩だけあって、構成も雄大で、おもしろい。私が(古代)インド好きなせいかも知れませんけど。でも少なくとも、指輪物語を愛読した(最後まで読めた)人には、きっとおもしろいと思いますよ。ただ、イリアスにしても指輪物語にしても同じですが、好戦的なお話で、戦闘シーン・殺戮シーンが多くむごたらしいのが、私にはしんどい。むしろ寿命の尽きようとするダシャラタ王が長らく顧みなかった第1王妃カウサリヤーと復縁してむつみ合う本編冒頭に感じ入ってしまうのは、やはり私が歳だからでしょうか。ただ、現在アヨーディヤ問題(ヒンドゥーの聖地にあったモスクの破壊とヒンドゥー寺院の再建)がヒンドゥーナショナリズムの象徴となり、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立の象徴となっていることを考えると、アヨーディヤを舞台とし、基本的に宗教戦争(正しいヒンドゥー対阿修羅・タントラ教)の体裁を取っている物語を、純粋な読み物として楽しみにくい思いが残ります。
04.ブラボーセブン 維住玲子 中央公論新社
受験エリート校を目指す全寮制の私立高校の落ちこぼれ組担任になった女性体育教師の奮闘を描いた小説。裏表紙の絵とか冒頭のシーンからは、荒れた高校のツッパリものかと思いましたが、受験エリートを集めた坊ちゃん学校が舞台。試験の成績がクラス分けから生徒会長等の役職まですべてを決めるというシステムの中で冷めて荒んだ生徒と一部の教師の心を、主人公の谷口奈々絵が解きほぐし熱中させていくというお話。エリート生徒の陰謀、奈々絵のアパートの老人バンド、受験勉強とスキーの両立を目指して両親と対立した奈々絵の過去、鬱屈した教師たち・・・と前半はいくつかの要素を絡ませた展開ですが、後半になるとひたすら10周年記念式典でのクラス発表でジャズ演奏をすることだけに収斂していきます。そのあたりちょっと単純ですが、わかりやすい青春ものとして読めばいいでしょう。最後に学年主任をぶん殴って辞表を叩きつけてやめるのは「坊ちゃん」風。表題は生徒たちのバンドの名前「BRAVO BAND」と生徒が奈々絵につけたニックネームの「セブン」から。
03.地盤診断 高安正道 日経BP社
木造一戸建て家屋建築を想定した地盤診断のハンドブック。専門的な調査をしなくても地名や周辺地形、近隣建物の様子(壁や塀のひび割れや建具の歪み)、地図等の情報からおおよその地盤を判断する方法や、業者の報告書の見方や簡易調査法を解説しています。持ち歩きやすいように小型サイズなのも便利そう。役所で近くのボーリング柱状図が入手できる(場合がある)とか、車止めのある遊歩道は暗渠(水路を地中に隠したもの)であることが多い(車両の通行による交通振動に耐えられないため)とか現実の調査に役立ちそうな情報もちらほら。平板載荷試験では平板の直径の2倍程度の震度(約60cm)までしか荷重が伝わらないのでそれ以上の深さに軟弱層が潜んでいる場合にはその沈下が計測できていない(140頁)とか、一般に信じられているほどベタ基礎の剛性強度は大きくはない(148頁)、ベタ基礎は基礎幅が大きいので発生する地中応力は深い震度まで到達する、ガラなどの地中障害物が基礎直下に接触してこの支点として作用するといっそう不同沈下しやすくなる(148頁)など試験やベタ基礎への過度の信頼を諫める記述もあって参考になりました。
02.図解スーパー業界ハンドブック 川嶋光 東洋経済新報社
スーパーマーケットについての各種の話題について取材してまとめた本です。収支構造についての話が興味深く読めました。大型店では売上の約7%が家賃、13%が人件費、粗利が24〜28%なので利益は4〜8%、スーパーは登場した頃は粗利は18%程度に抑えていてそれが売りだったが大規模化して仕入れ力が上がり利益率が上昇しているとか(84頁)。でも万引きで売上の2%の損失があるそうです(66頁)。小売業には1・7・2の原則というのがあり、商品の10%は他店より安く、70%はほぼ同レベル、20%は他店より高いそうです(90頁)。安い10%を以下に目立たせ高い20%に気がつかせないようにするかが腕の見せ所というわけ。粗利率は衣料品が40〜50%、家庭用品が25%、食品が18〜20%(101頁)、食品の中では総菜類は40〜50%で酒はビールと発泡酒しか利益にならない(108頁)とか。スーパーのプライベートブランドは、かつてはナショナルブランドに匹敵する商品を格安で提供するといっていたのが、今や利益率が高いからプライベートブランドを売りたいとなっている(88頁)そうです。そういったスーパー業界の本音的なところが読ませどころですね。1テーマ見開き2ページ構成ですので突っ込んだ記述はありませんが。
01.東尋坊 命の灯台 茂有幹夫 太陽出版
自殺の名所東尋坊で「心に響くおろし餅」の店を開いて自殺防止活動をしている元警察官の手記。第1章で著者が遭遇した自殺企図者の例を紹介していて、それがこの本のメインです。私も仕事柄、わがままな人、困った人と出会う機会は少なくありませんが、この本を読んでいると、もっとわがままで困った人に根気よくつきあっている様子に頭が下がります。私にはとてもとてもここまでは・・・。著者は、男性の自殺者が多い理由に、行政の駆け込み寺がないことを挙げています。行政のつれなさ、まさしく「お役所仕事」ぶりはこの本でも言及されていますが、それでもそれさえないのでは自殺が減るわけもありません。自殺防止を著者のような民間ボランティアに頼っているのでは、情けない限り。さらに著者の活動に対して「東尋坊のイメージが悪くなる」と反対運動まであるそうです(237頁)。やりきれないですね。
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