私の読書日記  2008年12月

17.アメリカ人弁護士が見た裁判員制度 コリンP.A.ジョーンズ 平凡社新書
 ニューヨーク州弁護士で現在は日本の法科大学院教授の著者が、アメリカ弁護士の立場からアメリカの陪審と日本の裁判員制度の違いを説明した本。著者の主張は、裁判員制度は、国民の司法参加を余儀なくされた裁判所が裁判所に都合のいいように修正した、裁判所のための制度で、裁判の結果や制度の失敗を裁判員のせいにできて、裁判員は守秘義務のために真実を明らかにできないということにあります。法律が誰のためにあるかはその法律が誰に義務を課し誰に自由(裁量)を広く認めているかを見ればわかるとして、法律上も裁判官に都合がよくできていることを論じています。著者が最も危惧するのは、裁判員制度では、陪審と違って裁判官が評議に加わり、しかも裁判官と裁判員のやりとりが公開の法廷ではなく密室で行われ、裁判員には評議の内容について守秘義務が課され、その結果裁判官が密室でどのように不公平なことを言って裁判員を誘導してもそれは公にならず誰も検討さえできないということです。アメリカの陪審ならば、有罪無罪の決定は陪審のみで行われ、裁判官が陪審に行う法律の説明(説示)は公開の法廷で行われ、陪審員には守秘義務もないということです。著者の思いは、「陪審制度は個人を公権力から守る最後の砦であるのに対して、率直にいって、私が見る限り、裁判員制度は裁判官と国民が一緒になって悪い人のお仕置きをどうするか決めるための制度である。」(10頁)という表現に端的に表れています。半分以上が、日本の法制度が役所に都合よく役所のために作られていることと裁判所も役所であることの説明と、アメリカの陪審制度の歴史と制度趣旨の説明に費やされていて、裁判員制度について書かれているのは後ろの3分の1くらいです。著者の主張を説明するために前半の議論が必要なのはわかりますが、前半をもっとコンパクトにして裁判員関係をもう少し詳しく書いてくれた方が、タイトルにはマッチすると思います。裁判員制度が裁判所・裁判官に都合よくできていることと、陪審制度とはかなり違う制度だということについて理解するのには、わかりやすい本だと思います。

16.スマッシュ×スマッシュ! 松崎洋 徳間書店
 怪我で挫折した天才テニスプレイヤー笠松勇太が、アスペルガー症候群の少年立花颯人にテニスのコーチをしながら、メンタル面で成長し、再起を果たすというストーリーの小説。傍若無人だった天才が挫折して力み焦ってさらに落ち続ける姿と、平常心を取り戻し無駄に見えることにも取り組んでいく中で力を抜くことを知り再起していく姿が対比的に描かれます。スポーツに限らず人生も、回り道も無駄じゃないよというのがテーマでしょう。第1章(第1セット)と第2章(第2セット)で別々に進められる勇太と颯人の過去の話が、第3章(第3セット)で交わりますが、そこに至るまでバラバラの感じで少し読みにくい。ラストが、ハッピーエンドに持っていくのに無理しすぎの感がありますし、そっちで終わるかなと思います。軽い読み物としてはいいとこだと思いますが。

15.怪人二十面相・伝 北村想 小学館文庫
 遠藤曲馬団の曲芸師で動物飼育係だった武井丈吉が、30人そこそこの見物人を相手にするのは飽きて、金持ちの物を盗む見せ物をしようと怪人二十面相となり、明智小五郎とライバルとなって競うが、気球で脱出する際に小林少年が乗り込んで気球を銃で撃って気球が爆発してその後行方不明となるまでを、丈吉と遠藤曲馬団での弟子だった遠藤平吉らの視点で描いた小説。二十面相の側から、富豪から盗むことの美学を描き、明智小五郎の欲と悪知恵、子どもを使えば手を出せまいという少年探偵団結成の狡猾さを批判的に描いています。サーカスの団員の視点ですから、貧民の立場から、多くの民を飢えさせ、空襲で死亡させた政治の誤りが指摘されます。ただ、それでも怪人二十面相については、貧者の怒りではなく、あくまでも個人的な美学が強調され、そこは直線的ではないのですが。映画「K−20」の原作とされていますが、少なくとも、ここまでは全然別の作品です。映画で登場するのは、一番最後の「ノガミ」(上野)のバラックで死にかけた子どもを養うために食べ物を持ち帰る子ども(この子どもが「葉子」!)のエピソードくらいです。続編の「怪人二十面相・伝Part2」では平吉が修行して怪人二十面相を継ぐという話のようですから、映画に近づくかも知れませんが(読んでませんからわかりませんが)。映画よりは、庶民目線を感じる小説です。

14. 高橋治 集英社
 1992年2月1日の首都圏大雪の日を題材に、アムステルダム行き航空便の乗務後にパリで恋人と会う約束をしている客室乗務員が、成田まで行き着く苦労、出発の遅れ、乗員チームの不安と疲れなどの経過を経てようやくパリにたどり着くが・・・という小説。なんとか便が飛んで欲しいと思い続ける主人公と、疲れなどからできれば飛びたくないと思う同僚、職業意識からみんなを奮い立たせようとしまた思いやる乗務員、さらには主人公の相手の男の甲斐性なさを知る故に会わせたくないと思う同僚の思惑の心理描写を読ませる小説です。一面では、国際線運行スタッフの業界話としても楽しめます。しかし、読み終わって初出を見ると「すばる」の1997年。今頃何で1992年の話とは思いましたが、どうして今頃になって単行本化されたんでしょうか。「同じ制服を来た」(15頁)なんて今頃では考えられない変換ミスも、その頃のワープロならではのものを敢えてそのまま単行本でも再現したのでしょうか?

13.あの映画は何人みれば儲かるのか? 松尾里央 TAC出版
 映画や音楽、出版のエンターテインメント業界の利益とコストの構造、損益分岐点の考え方を解説した本。「はじめに」ではエンタメを題材に会計を学ぶようなことが書かれていて、「さおだけ屋」の二番煎じかと思いましたが、会計のことはそれほど突っ込まれていません。その分読みやすいとも言えますが。「あの映画」というタイトルからは具体的な映画のデータで興行収入とかコストが分析されているのかと期待しますが、例えばこの費用がこうだとすればという形で話が進められ、個別の映画についての知識ではなく、あくまでも「考え方」が語られます。その意味で、興味深い話ではありますが、裏話ではなく業界の世間話というところ。内容的にも、会計関係の部分よりも、業界の慣習とかエンタメビジネスの構造部分の方が、興味深く、なるほどなと思いながら読めました。

12.ゼルダ 最後のロマンティシスト ジル・ルロワ 中央公論新社
 作家志望の将校と結婚した身持ちの悪い娘ゼルダが、フランス人飛行士と出奔して淫蕩の日々を過ごした末捨てられ、次第に精神を病み精神病院に入院しながら過去の栄光を脚色・作話しながら語り続ける小説。話者が心を病み、自らの語りや医者・カウンセラーへの語りというスタイルで進められるため、同じエピソードが少しずつあるいは大幅に違って繰り返され、とても読みにくい。何が真実なのか読み取ろうとして読むと、とまどいを感じ、また苛立ちます。放蕩娘の話ですから、決して高尚なことは書かれていませんが、ジュンブンガクしているというか、実験小説的というか、エンタメとして読むには辛い作品です。そして主人公に共感することもまた難しい。夫を捨てて男と淫蕩の日々を過ごした後で夫の元に戻り、「私が何をしたって言うの?」(130頁)です。主人公の語りにはまっとうな価値観ではつきあいきれません。ゴンクール賞受賞作だそうですが、新潟出張の車中という環境でなければ、私はきっと途中で投げ出したと思います。

11.氷の心臓 カイ・マイヤー あすなろ書房
 1893年のロシアのサンクトペテルブルグのホテル・オーロラを舞台に、ホテル・オーロラで生まれ育った12歳の少女マウスと、雪の女王、雪の女王の暗殺をもくろむ魔女タムシンを中心に、ホテルの人々、ロシア皇帝、秘密警察らが繰り広げる騒動を描いたファンタジー。マウスの初期の過剰な恐怖心、自信のなさ、タムシンと雪の女王の間での迷走ぶりが、主人公としての魅力を弱めていて、後半にその成長が描かれますが、ちょっと印象が弱い。皇帝暗殺グループのアナーキストの娘という設定で、母へのシンパシーを感じながら、人を殺す計画には反対し、といってそれが親への反抗・親からの精神的自立と意識づけられているわけでもありません。非常な支配を理由に雪の女王の殺害は皇帝・貫徹されながら、ロシア皇帝の暗殺計画は挫折させられます。主人公のキャラ設定にも、ストーリー展開にも、一貫した強いメッセージが感じられず、中途半端さ、迷いを感じさせます。世の中そう単純ではないよというメッセージかも知れませんが、ロシア皇帝が守られてしまうのは政治的には日和っただけかなとも感じてしまいます。物語としてのすっきり感はありませんが、マウスの成長物語、雪の女王とタムシンのキャラから女の子が楽しく読める読書ガイドで紹介しておきます。

10.建材・設備はどこで何から作られているのか 内田信平 エクスナレッジ
 一級建築士が、自宅を建てた際に、使った建材・設備はどこでどのように作られているのかに好奇心を持って調査したレポート。様々な意味で、好奇心をそそられるテーマです。特に石膏ボードに用いられる石膏が、今では公害防止のための排煙脱硫装置の稼働の副産物がほとんどという話(110〜113頁)には興味を引かれました。ただ、その話も含めて、建材や設備がリサイクルの原料をこんなに使っているということが強調されていて、それはそれで、だから建材の使用に良心の痛みを感じなくていいよという感じがまた気になります。取材したメーカーがダイオキシン発生の測定値を偽っていたとかダイオキシンガス漏洩の事故を起こして後で問題になったというエピソード(188頁)が教訓的です。減価償却の終わった機械を大事に使って1人の作業員で多くの工程を管理すれば海外生産にしなくてもやっていけるという話(170頁)も、経営者側にはなるほどとうならせる話でしょうけど、労働者側の負担はずいぶんと大変だろうなと思ってしまいました。

09.宇宙を孕む風 片山恭一 光文社
 福岡の中規模高校受験塾のずるくなりきれない熱血経営者が進出してきた大手との競争の中であれこれ悩む姿を、アルバイト講師として手伝う大学生の従妹の視点から描いた小説。タイトルの「宇宙を孕む風」はオーロラのこと(オーロラを起こす太陽風のことでしょうね)。ストーリーとはほとんど関係ないですが、宇宙の、長期の地球温暖化などのできごとの深刻さから考えれば日常のことはささいなことだけど、でも人間は特定の誰か好きな人を通じてしか世界を感じることができない、出会いと別れの日常でしか生きられないというようなことを語らせるためのシンボルです。「世界の中心」がエアーズ・ロックだと言われたときの落胆・違和感・驚きと比べれば、言葉から予想される意味通りで、まぁそうかなとも思いますが、学習塾の熱血経営者と地球温暖化を並べて、それも地球温暖化をさらに広大で幻想的にするためにオーロラを持ってこなくても、とタイトルの謎がわかったときに思いました。学習塾の熱血経営者の思いは共感できるのですが、出てきた問題は、結局決着をつけられずに、語り手の心の整理だけで終わってしまいます。問題は果てしなく生成して、気の持ちようで折り合っていくしかないということかも知れませんが、小説としてはそれなりの決着をつけて欲しかったと思います。

08.いやしい鳥 藤野可織 文藝春秋
 文學界新人賞の表題作を含む短編3編。表題作はオカメインコを買う大学講師がずうずうしい学生に転がり込まれて居座られ、オカメインコを食べられて復讐しようとしたら、オカメインコのたたりが・・・というような話を隣人の主婦と大学講師サイドの視点を交差させながら語っています。セットされた2作も恐竜に喰われるという幻視体験が共有されたり、動物を喰う胡蝶蘭の話だったりします。どれも他の生物の脅威というか肉食の他生物とのつきあい方というような感じですが、SFっぽくもなく、コミカルでもなく、どこか不気味感が残ります。ジュンブンガクしてるというのか、昔見た「怪奇大作戦」や「ウルトラQ」を思い出すというか。

07.エイジハラスメント 内舘牧子 幻冬舎
 年のわりには若く見え年齢と若く見せることばかりに関心を持つ34歳の大沢蜜が、パート先で年増扱いされたことに腹を立ててパートを辞め、夫が高校の後輩の若い女と浮気していることに衝撃を受け、ひたすら若さを保とうとアンチエイジングの施術をしようかと悩み、夫の浮気相手に会いに行き、最後には大学に入り直そうとするというストーリーの小説。全編を通じて、日本の男は若い女ばかり持ち上げると年齢差別を声高に非難し続けていますが、この主人公にそれを言われても説得力を感じませんし、私は全然共感できませんでした。主人公の夫は妻を愛しておりかなりの理解を示しながら、若く見せることばかりに心を砕き、年のわりに中身のない成長のない妻に物足りなさを感じています。若さの問題ではなく、むしろ年齢相応の中身がないことが問題なのに、問題が起こる度に外見を磨こうという方向にさらに走るわけです。この主人公にとって年齢差別自体が問題なのではなく、自分が差別されるときだけ年齢差別が問題なのです。自分は若く見せることであわよくば差別する側に回りたいわけで、自分より老けて見える同年齢の者に優越感を感じ、年齢を気にしていない自分の母などにはもっと外見に気を遣えと言っています。そして、若い義妹との罵り合いの底意地の悪さ、大人げなさには読んでいて鳥肌が立ちます。パリやニューヨークの男たちは女を年齢ではなく人間性で評価するという話を聞いて羨ましいと言い日本の男を非難していますが、人間としての中身で評価したらこの主人公のような人物こそまるで相手にされないと思うんですが。作者が年齢差別を本当に問題にしたいのならば、キャラ設定を変えた方がいいと思いました。私は、差別は嫌いですが、この作品で問題にされている言葉レベルでの年齢差別に関して言えば、人種とか性別とか身分とか血筋とかの生まれによる差別に比べれば、深刻さは低いと思います。他の種類の差別と違って、年齢差別を受ける側の人、若い人をうらやむ人は、もれなく平等にそのうらやんでいる年齢の時期を自分も過ごしてきたのですから。自分にもその年齢の時期が平等に現実にあってその時代を過ごしてきたのですから、今の若者がその時期を過ごすのは当然です。そして自分がその年代に何を考え何をしてきたかを考えれば、若者が自分を年寄り扱いするということを声高に非難するのはそれこそ大人げないと、おじさん扱いされる歳・容貌の1人としても、思います。

05.06ライラの冒険 琥珀の望遠鏡【軽装版】上下 フィリップ・プルマン 新潮社
 「神秘の短剣」の最後にさらわれたライラを探してウィルがさまよい、ライラをめぐってアスリエル卿と教会側が争奪を繰り広げ、ウィルはライラ救出後ライラとともに死者の国へ行って幽霊たちを解放し、メアリー・マローン博士が「ダスト」の究明を続ける世界にたどり着いてライラとウィルが愛に目覚めるが・・・というお話。3部作の完結編ですが、完結しても、シリーズの通しテーマのはずのダストの正体と、ダストの異常な動きが回復する理由、魔女の予言にあった、教会側も恐れていたライラの使命も、釈然としません。お転婆娘ライラが思春期になり愛に目覚め少年と結ばれるのが、ダストの異常を元に戻し人類を救うこと(教会側からは人類を堕落・破滅させること)なんですか?1巻、2巻と大風呂敷を広げたのが巧く収拾できずに、児童書だからこれくらいでいいかって適当にぶん投げた感じがします。この「琥珀の望遠鏡」では、ライラは前半「いばら姫」状態ですし、後半もウィルに付き従うだけで、自信に満ちたライラは消え去り自信なげにおびえるライラばかりです。これまた「ライラの冒険」と呼ぶのはかなりの違和感を覚えます。この流れだったら、何がライラの使命だったにしても、ライラが果たしたのではなくてウィルとライラが果たしたと評価すべきですし、それなら最初から「ウィルとライラの使命」でライラが「イヴ」ならウィルも「アダム」だと予言しておくべきでしょう。そして、その野心と狡猾さで怪しげな魅力を振りまくコールター夫人も、結局は、突然の母性愛で毒気が抜かれ、やはり誇大妄想とも言うべきスケール感で圧倒的な存在感のあったアスリエル卿もあっけないし、1巻で設定したキャラの魅力が活かされない感じというかキャラ設定が裏切られる感じがします。形式面でも「琥珀の望遠鏡」になって突然、章ごとにエピグラフがついて衒学趣味的な感じが強まり、児童書として読みにくくなっています。3巻を通して一貫しているのは、児童書にしては異例に強い反教会の姿勢、特に神をあっさり崖鬼に喰わせたり天上界を敗北させる大胆さくらいでしょうか。

03.04.ライラの冒険 神秘の短剣【軽装版】上下 フィリップ・プルマン 新潮社
 「黄金の羅針盤」でアスリエル卿が開いた異世界への窓をくぐり抜けて別世界にやってきたライラが、私たちの世界から逃げ込んだ少年ウィルとともに異世界への窓を自由に切り開くことができる「神秘の短剣」を得て、失踪した冒険家のウィルの父を捜して旅をし続けるというお話。「黄金の羅針盤」では自信満々のお転婆娘だったライラが、12歳の少年ウィルと出会うや、おとなしくなり、ウィルに従い、「黄金の羅針盤」でライラの最大の武器だった真理計を使うことまで封印してしまいます。ライラはウィルの陰に隠れてしまい魅力がなくなります。この「神秘の短剣」を「ライラの冒険」と呼ぶのはかなり疑問です。「ライラの冒険」は日本語版で独自につけたシリーズタイトルだからでしょうけど。しかも、このウィルが、どこかウジウジした暗さがあって、ファンタジーの主役を張るには役不足。暗黒物質研究者のメアリー・マローン博士と気球乗りのリー・スコーズビー、魔女のセラフィナ・ペカーラが代わりに活躍しますが、あくまでも脇役ですから、やはりファンタジーとしての醍醐味を感じにくい。設定も、パラレルワールドを渡って行った世界が子どもたちが支配できる世界とかキリスト教色の強さはいかにも「ナルニア国物語」を意識させますし、境界が崩壊したことで世界の均衡が崩れたっていうのは日本では「ゲド戦記」と名付けられている “BOOK OF EARTHSEA” を思い起こしますしね。大人の魂をむさぼり食って廃人にする「スペクター」はハリー・ポッターのディメンターそっくりですが、これはハリー・ポッターの方が後ですね。お話自体というか、アスリエル卿と教会の戦いは、「黄金の羅針盤」よりも大きくなっていくんですが、空回り感が強くなり、主役の魅力減少もあって、読んでいて疲れました。

01.02ライラの冒険 黄金の羅針盤【軽装版】上下 フィリップ・プルマン 新潮社
 異世界の学寮で育った11歳のお転婆娘ライラが、さらわれた友人を助け出そうと、「ジプシャン」や鎧熊、魔女などとともに戦うファンタジー。この「黄金の羅針盤」では、ライラは元気いっぱいで嘘つきでタバコは吸うし酒は飲むし、(後で協力するものの)ジプシャンやタタール人への偏見といい、怪力でないピッピ(長くつしたのピッピ)のようなキャラで、親の目からは問題がありますが、子どもの目には魅力たっぷりに描かれています。また、ライラ以外の登場人物も、当初はライラの伯父とされ実は父親のアスリエル卿のマッドサイエンティストぶり、ライラを捨てた母コールター夫人の権力志向と狡猾さと妖艶で怪しげな魔性の女ぶり、勇壮で一本気な鎧熊イオレク・バーニソン、さらにはジプシャンの長老や魔女まで含めて魅力的な人物が多数登場します。それらの登場人物が、波瀾万丈、虚々実々の戦いを見せ、ファンタジーの作りとしてはとても魅力的です。さらに言えば、児童書でありながら、これだけ反教会的なテーマ設定も珍しい。「黄金の羅針盤」だけで完結されていれば、私はかなり満足して読み終えられたと思うのですが。残念ながら、「黄金の羅針盤」だけでは、大テーマの「ダスト」の正体や役割は全くわかりません(実は3巻まで読み終えてもよくわからないというか釈然としないのですが)し、アスリエル卿の反教会の戦いも予言だけですし、もちろんお話としても途中です。新潮社の表紙見返しには「<カーネギー賞>で創設以来70年間のベストワン作品に選ばれた、世界的ベストセラーの冒険ファンタジー!」と紹介されていて、確かに「黄金の羅針盤」を読んでいる間はそれらしい高揚感と期待は感じましたが、2巻以降はそう評価すべきでしょうか。2巻以降はどうも話が小粒になりどこかで見たような気がし、雰囲気が変わって、私には今ひとつに思えました。そして、日本語版のシリーズタイトルの「ライラの冒険」も「黄金の羅針盤」に限って言えばふさわしいと思いますが、2巻以降をそう呼ぶのは違和感を覚えます。原作のシリーズタイトルには「ライラ」は出て来ず “His Dark Materials” です。この原書のシリーズタイトルは「黄金の羅針盤」冒頭のエピグラフの「失楽園」(もちろん、渡辺淳一のではなく、ミルトンのです。念のため)の引用部に登場するのですが、日本語版では原書のシリーズタイトルであることを意識していないのか、「失楽園」の訳文をそのまま当てて「玄妙な材料」と訳しています。この本のシリーズタイトルとしてはとんちんかんな気がしますが。

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