私の読書日記  2009年7月

15.雉猫心中 井上荒野 マガジンハウス
 元教師で同僚と結婚して専業主婦になった中年女大貫知子が、庭に通ってくる雉猫の飼い主で、古本屋の営業をしつつも事実上は会計士の妻のヒモ状態の中年男晩鳥と、妻の留守中の晩鳥の家、夫の留守中の大貫の家で、ところかまわずひたすら肉体を貪りあい、近所の中学生たちに知られて追いつめられ、2人で町内会長の蔵に逃げ込んでさらに肉体を貪り続け、それにもかかわらず大貫は夫の元に戻って平然と日常生活を続け、妻と娘に去られた晩鳥は拡声器を積んだ車で町内を回って大貫を淫乱女と喚き続けるという小説。主人公2人の身勝手さ、自制心のなさ、無責任さにはほとほとあきれます。裏切り続けた妻と娘に去られ、ろくに仕事もしてこなかった結果として金もなく行く先もなく飽きられて大貫にも去られる(大貫がその程度の女だということも当然わかっていたはずだし)という自業自得としかいいようのない状況で狂気または未練から醜態をさらし続ける晩鳥の救いようのない幼児性には、ただあきれます。夫を裏切り続けて平然と元の暮らしを続けられる大貫の図太さ・無神経さには、さらにビックリしますが。これだけ堕ちられる人間の業を描いたのでしょうか、そこまでして性欲に溺れたい男女のさがを描いたのでしょうか。できればこういう人とは関わらずにいたいなと思ってしまうのですが。

14.地球のまん中 わたしの島 杉本りえ ポプラ社
 父の故郷の人口100人くらいの島に両親が民宿を開くことになって移り住んだ中2の少女灯子が、島の生活にとけ込んでいく過程を描き、漁業と過疎の島の生活と観光開発をめぐる人々の思いを背景にした青春小説。観光客嫌いの急先鋒で、観光客と度々問題を起こす竜太を灯子の唯一の同級生に置くことで、島の大人たちが声高には語らない漁業で生きる島の人々の本音と誇りをクローズアップし、街の育ちで民宿経営者の娘灯子を主人公とすることで観光開発をする側と客の立場を代弁させて、双方の立場を対置させています。主人公が灯子なので、閉鎖的な地域の伝統を守ろうとする人々に、日々の厳しい生活を忘れて楽しみを求める(その分金を払う)観光客の立場を理解して欲しいという方向が優位に置かれます。灯子自身初心でまじめなキャラ設定で、青春恋愛小説としても、竜太への淡い思いがまっすぐに描かれています。本来的にはもっと難しくなりがちのテーマが、ちょっとスムーズに行き過ぎ、簡単に収まりすぎているような感じがしますが、想定読者層の中学生あたりの親にとっては、子どもに安心して読ませられる健全な読み物です。

13.トゥルー・ビリーヴァー ヴァージニア・ユウワー・ウルフ 小学館
 スラム街のアパートに母と2人で住む15歳の少女ラヴォーンが、親友のアニーとマートル、ハンサムになって戻ってきた幼なじみのジョディ、理系クラスのクラスメイトパトリックらと愛憎に揺れながら過ごす青春小説。幼い頃に父親を殺され、学校でも銃撃事件や不審者が現れる環境に育ったラヴォーンは、大学に行こうと、まじめに勉強を続けます。異性関係にも初心なラヴォーンは、原理主義者の教会に入り進化論を否定し潔癖を強調するようになったアニーらには反発しつつ、ジョディへの憧れは素直に口にすることができません。ラヴォーンを好きなのか、ただの幼なじみと思っているのかブレのあるジョディの態度に一喜一憂するラヴォーンですが、ジョディの部屋で目撃した衝撃のシーンにショックを受け傷つき、原理主義者の教会に深入りするアニーらとも仲違いして孤立していきますが、母親の愛情と教師のはからいでラヴォーンは立ち直っていき、成長を見せ、エンディングに至ります。ラヴォーンの親世代としては、厳しい環境の中にありながらけなげに頑張るラヴォーンの姿に、素直に感動し、応援してしまいます。その揺れる思いの切なさと、それでも倒れずに立ち直る強さに打たれます。本来の読者層のラヴォーンと同じ世代が、素直に受け止めてくれるかはわかりませんが。

12.アトリエの巨匠に会いに行く 南川三治郎 朝日新書
 写真家の著者が芸術家の自宅・仕事場を訪ねて撮影した写真とインタビューの感想を綴った本。芸術家の人となりが見えて、美術ファンには興味深い本です。著者もおもしろがって冒頭に持ってきたんでしょうけど、シャガールの妻の尻に敷かれてままならない様子とか、意外というか微笑ましいというか。著者にとっては思い入れのある、アポを取るまでのいきさつも、芸術家の個性が見えて楽しい。でも、もともとが「芸術新潮」の1989年〜1995年の連載がベースだし、写真の撮影年も1970年代と1980年代が中心で、一番新しいものでも1998年。何で今頃出版するのと思ってしまいます。過去の遺産でもう一儲けということなんでしょうけど。

11.スクール・バッグいっぱいの運命 板橋雅弘 講談社
 高校1年生の田口冬馬が、入学式の日にコインロッカーに預けていたスクール・バッグをすり替えられ、謎の木箱が入っていたことから、小学生時代の同級生伊藤絵地子、入学式当日にひょんなことから知り合った松平欧次、白洲媛子らとともに、その後も起こるコインロッカー荒らし、田口の部屋荒らしなどの事件に巻き込まれる青春ミステリー小説。キャラ設定のわざとらしさ、ミステリーとしては事件と謎解きのショボさが目につきますし、ストーリーに挟まれている「手記」も思い込みが強すぎる感じですが、まぁそこらをおいて初心な青春恋愛小説として読めば、悪くはないかも。でも結局白洲姉妹の悩みは何も解決していないように思えますが。

10.ふたりの季節 小池真理子 幻冬舎
 全共闘時代に高校生で、同じ時代の空気は吸ったが学園闘争には入っていかなかった2人が、30数年を経て再会し、恋人時代を回想する、全共闘世代向け青春回想ノスタルジー小説。主人公2人の立ち位置が、闘争には参加せず、喫茶店で議論を繰り返し「されどわれらが日々」を読み、愛を語り、傍観者でいながらあさま山荘事件で時代の終わりを感じたという、全共闘世代のサイレントマジョリティに置かれているあたりに、商業的な志向を感じます。再会の場所が清水谷公園の向かいの洒落たカフェというのも、学園闘争に若干のシンパシーを持った過去と、高級感・上流感への憧れとなじみを持つ現在、帰らぬ過去へのノスタルジーと大人になった現在への肯定感の両立する主人公の意識を象徴しているように見受けられます。2人とも今は1人身で再会するという都合のいい設定で、若い頃は理解できなかった・我慢できなかったことが今ならわかるという、あの頃に理解できていれば、いや今からだって・・・というノスタルジーと焼けぼっくい妄想が渾然となった全共闘世代にもう一花の夢を売る小説ですね。主人公自身、デモ隊を遠くから見ていた、「されどわれらが日々」の感想を語り合った、しかし三島事件で「先を越された」(70ページ)という節操が感じられない言動を繰り返していますから、全共闘運動のことは語れないけどあの時代のことは知っているという人たちが安心して読める筋立てです。全共闘に参加していた人たちにありがちな批判や糾弾の色彩はこれっぽっちもありません。でも、いくらワープロで書いているとしても、あの世代の作者が「連体を求めて孤立を恐れず」(73ページ)ってあんまり(こちらまで変換ミスと思われても何だから一応指摘しますけど、もちろん本来は「連帯」です)だと思うんですけど。

09.フランク・ロイド・ライトの伝言 ブルー・バリエット ヴィレッジブックス
 著名な建築家フランク・ロイド・ライトの建築物「ロビー邸」を所有者の大学が解体して複数の美術館の所蔵とすることを決めたのに対して、反対する教師の教え子、ペトラ、コールダー、トミーの2人組が、ロビー邸をめぐって登場する人物と事件の謎に取り組み、解体を阻止しようとするちょっと冒険小説。カバー見返しでは「ミステリ」とされていますが、ミステリーとして読むには、結局解かれない謎というか放置されたパズルのピースが多すぎて、欲求不満が残ります。前半ずっとペトラとトミーの不仲、その間で右往左往するコールダーという図式が続き、3人組の人間関係の方に重点が置かれていることもあわせ、むしろ青春冒険小説と読んだ方がいいでしょう。といって、ハラハラドキドキの冒険というほどでもないもので、「ちょっと冒険」小説かなと。

08.選挙報道 メディアが支持政党を明らかにする日 小栗泉 中公新書ラクレ
 元日テレ記者・キャスターによるメディア(特に新聞)が支持政党を表明することの提言。不偏不党を掲げ形式的な平等を建前として維持する日本の選挙報道に苦言を呈し、アメリカの2008年大統領選挙でのメディアのオバマ支持の明確化を対照的に取りあげています。しかし、2大政党制が確立し、インターネットによる選挙活動が自由なアメリカの、それも長期にわたる選挙戦で政策面の詳細な論争が戦わされる大統領選挙の例だけを取りあげ、しかもメディアがこぞって民主党と政権交代を支持した選挙だけを取りあげて日本でもそうしようと提案することはかなり不公正に思えます。日本では、インターネットによる選挙運動が非常に厳しく制約され、マスメディアとりわけテレビの影響力が強く、選挙運動期間も短く政策論争も少なくイメージの力が非常に強いわけで、その状態でマスメディアが政党支持を打ち出せばその支持自体の効果がかなり強くなると予想できます。そういう状態でメディア側の自由を強調することには、違和感を覚えます。著者自身の狙いは、マスメディアが権力批判をしていれば無難という姿勢に陥っていることを嘆いている様から見ても、伝統的に権力批判を使命と捉えてきたマスメディアが恥ずかしげもなく政権与党の支持を打ち出せる環境整備にあると見えます。それを隠すためにメディアが民主党と政権交代を支持した際のアメリカ大統領選挙を引き合いに出すのもアンフェアに思えるのです。そして読者・視聴者とスポンサーの獲得・維持が経営上不可欠なマスメディアに政党支持を表明させるとすれば、基本的には政権与党の自民党、せいぜいがあとは民主党まででそれ以外の少数政党が支持表明されることはほぼ考えられません。自民党支持を表明しライバル社に他の政党支持を表明させることで経営上有利になる日テレ・読売新聞グループにはこういう提言・アドバルーンも有用という読みなんでしょうね。新聞の社説の検討でも、朝日新聞の民主党寄りの社説をピックアップして強調しながら、読売新聞には「右寄り、自民党寄りというレッテル張りもあったという。」(165ページ)と読売新聞が自民党寄りと評価するのは偏見だと言いたいらしい。麻生首相が「景気の底割れ」を「底上げ」と読み間違えたことを指摘したメディアにもお冠の様子(187ページ)ですけど、底割れと底上げじゃ意味が全然違うし逆の意味にもなりかねないわけで、単に漢字が読めないだけでなくしゃべっている内容も理解しないで官僚の作文を読んでいるということとしたら十分報道価値があると思いますがねぇ(日本の首相の場合、珍しくもないか)。他のメディアに支持政党を明らかにすべきと提言するなら、自分がまず支持政党を表明すべきじゃないでしょうか。新聞と同様、表明されなくてもわかりますけどね。

07.地下水の科学 日本地下水学会、井田徹治 講談社ブルーバックス
 地下水についての基礎知識、水質、種類、性質、掘削と過剰くみ上げ(地盤沈下問題)、地下水の汚染問題、これからのあり方等について、科学者の原稿を元に記者が編集して一般向けの解説書にしたもの。そのためか、日本地下水学会著でブルーバックスということから予想されるよりも、社会科系統の話題が多い感じです。飲料水の地下水依存度の高さと地下水汚染の深刻さと回復の難しさに関する部分が、最も考えさせられました。回復の方法としてのバイオレメディエーション(汚染物質を食べて無害化する微生物による浄化)の紹介には、光明を見いだせますが、実用レベルにするまでのハードルやこの本では触れていませんが生態系への影響とか特定微生物の人工大量培養による他の危険などそう簡単にはいかないのではという疑問も感じます。地下水が土地所有者のものではなく、その流動性から河川と同様の共有財産と考えるべきとの提言は、法律家としても考えさせられます。様々な領域で考えさせられる本と言えます。その分つっこみ不足の感は残りますが。

06.ラブキャナル 産廃処分場跡地に住んで ロイス・マリー・ギブス せせらぎ出版
 アメリカのニューヨーク州で化学工場廃棄物と一般廃棄物の処分場として利用されていた土地が土をかぶせて売却されてその上に小学校や住宅が建てられ、移住してきた住民に様々な病気が発症し、室内や裏庭で高濃度の化学物質が検出され、住民が政府に対して小学校の廃校と政府の費用で住民を移住させるよう求める住民運動を開始し、動かない行政に対してマスコミと政治家への働きかけで移住を実現するまでを記録したノンフィクション。地域住民の先天性異常や流産率が異常に高くなり、室内で高濃度の化学物質が検出されても、健康への影響を否定し続ける行政の姿勢には怒りを覚えます。住民に協力した研究者に対する研究費を取りあげて嫌がらせをするあたりも。低濃度の有毒物質への被曝と健康被害の因果関係は、その性質上立証することが極めて困難なものです。熱意を持ってデータを集めて研究する研究者が出なければ、立証の糸口も見つけられません。企業や役所に楯突いてまでそういう研究をする研究者がもともと少ないところに嫌がらせをされては。自らはデータを集めず(しかも提供されたデータはいつの間にか行方不明にしたり)もちろん研究の助成はせず(企業と役所に有利な方向の研究は支援して)、健康被害が立証されたら救済してやるが健康被害は立証されていないと開き直るやり方は、とても卑怯なやり口です。地下に埋められた有毒化学物質が噴出するような土地に小学校や住宅を建てるというのはあまりに杜撰でビックリしますが、日本でも企業の跡地で似たようなケースが出ていますし、放射性廃棄物の処分場もいずれそうなるんじゃないかと思え、よそ事とは思えません。住民運動と、行政、研究者の生き様などを考える上でも興味深い読み物でした。

05.いつもそばにいるよ 江上剛 実業之日本社
 会社に3日間泊まり込んで仕事を続けた挙げ句7階から転落した死体で発見された建設会社営業職の死の真相をめぐって、過労自殺を主張する妻とそれを否定しようと組織ぐるみの隠蔽工作を続ける会社側の戦いを軸に、談合や行政との癒着を進める建設会社と、そこに勤める従業員の苦悩を描いた小説。基本的には陰謀体質の企業・管理職とそれを暴こうとする者の確執を描くという社会派的な作品のはずですが、語り手が死んだ社員の幽霊という設定がとぼけ味を出してユーモラスな印象になっています。タイトルは、その幽霊の語り手が、家族や自分の味方となってくれる同僚たちに語りかける様子から取られています。過労死についてはそれなりに取材した跡が見られますが、終盤の軸になる裁判シーンが、あんまり。おそらくはアメリカの刑事裁判ドラマか、それを安直に模倣した日本のドラマのイメージで書いたのでしょう。民事裁判の法廷で終始、公判とか弁護人とかの刑事裁判用語が用いられ(民事裁判ではそれぞれ口頭弁論、代理人)、準備書面や証拠説明書もなくいきなり法廷で主張を始め、それに相手方の弁護士が(証人尋問でもないのに)「異議あり」と叫んだり、それに裁判所が異議の理由も言わせずに異議を認めたり(238〜239ページ)、次の期日を決めるのに裁判長が弁護士を近くに呼び寄せたり(244ページ)、証人尋問中に予告なく突然新たな証拠を出したり(268ページ)、事前に申請していない「在廷証人」を尋問したり(325〜329ページ)と、日本の民事裁判ではまず見られないか、少なくともやってはいけないとされていることのオンパレードです。面白くするために敢えてやっているのか、単に無知・取材不足なのかわかりませんが、これだけ実情からかけ離れられるとまじめに読んでられません。

04.虚夢 薬丸岳 講談社
 4年前、統合失調症の青年藤崎の連続通り魔殺人事件で娘を殺され、自身も深手を負った佐和子と、事件後人が変わってしまった佐和子と離婚した元夫三上が、ネットカフェを転々とする藤崎を発見し、佐和子は藤崎が自分を殺そうとしていると取り乱し、三上は佐和子を落ちつかせるために藤崎の監視を続け・・・というストーリーの小説。精神病者による犯罪の不起訴と納得できない被害者という、マスコミの大好きな話題を取りあげ、大勢に沿った展開をしつつ、バランスを取るために三上の友人の精神科医師松岡を登場させて苦渋の説明をさせています。佐和子の狂気と思惑が作品のキーポイントになっていますが、作者のこの問題提起、精神科医が読んだらどう思うんでしょうか。佐和子はもちろんですが、事件現場にいなかったのに娘を救えなかったと苦しむ三上のトラウマとすでに別れた妻の取り乱す様子を見て救いたいと切実に願う様子は、痛々しく涙ぐましい。そして藤崎と情を交わして逃避行を共にするキャバクラ嬢のゆきの人生と思いがまたさらに切ない。メインテーマの扱いは技巧的な点も含め必ずしも私は共感できませんが、それぞれの人物と生き様には感じ入るものがありました。

03.小さな講演会2 向上心について ベルナール・スティグレール 新評論
 哲学者が、哲学とはものごとの本質を探究するもので、人間の本質は向上心にあるということを語る講演会をとりまとめた本。子どもを対象とした講演会なので、哲学者とは「難しい(抽象的な)」ことを好みわかりたいという欲望が哲学の原動力であり、子どももまた(自分にとって)難しい困難なことを好んでそれを乗り越えることで成長していくのだから、子どもは哲学に向いていると、アピールしています。そして人間を特徴づけている、人間を人間たらしめているのは向上心、大きくなりたいという欲望であること、限界がある中で技術を身につけて向上していくことの大切さを論じています。同時に征服や蛮行もまた向上の名の下に行われることから「上を目指すこと自体がいいことだとは必ずしも言えません。でも、いいことというのはすべて、自分を高めたいという欲望に関わっているのです。」(110ページ)と結んでいます。向上心で悪いことが起こることもある、でも向上心を捨ててはいけないというところですね。向上心の対極として怠慢があり、ある程度の怠慢は避けられないししばらくさぼることで向上心が復活するけれども、テレビによって人の怠惰・怠慢がますます助長されていると戒めています。「テレビは、結局のところ怠け心をますます助長してしまい、見ている人に何もいいことをもたらさないどころかどんどん愚かな存在にしてしまうように思えてなりません。」(51ページ)。哲学者にとってテレビは敵というところでしょう。私自身、最近はテレビはほとんど見ていないのでわかりませんし、むしろ今後はインターネットの方がいい、テレビなんて見ないという子どもが増えるような気がしますけどね。

02.小さな講演会1 恋愛について ジャン=リュック・ナンシー 新評論
 フランスで子供たちを対象に行われている定期講演会のうち、哲学者が恋愛について語った回をとりまとめた本。講演の中心に座っているのは、「愛」の絶対性。「愛している」というのは「いわば完全表現で、それ以上何も付け加えることはできない」(21ページ)、量や程度を示せるのはまだ愛ではない(23〜24ページ)、(ゲーム機を持っているとか金髪だとか)愛している理由が言えるのは愛ではない(29〜30ページ)、人を愛するとはその人にただ存在していて欲しいということ(32ページ)とか、言っていることはわかるけどずいぶんと観念的。哲学者が愛を語るのですから、当たり前とはいえますが。愛を言葉で語ることの難しさと、「恋してる人の態度や行動は、その気持ちを雄弁に物語っている」(62ページ)とかの方が、愛する人の喜びと切なさを実感させます。質疑では、愛においては、与えることと求めることははっきり区別することはできない、見返りを求めない愛は難しい(52〜53ページ)って、あるべき理想論から離れた議論も展開しています。こっちの方が読む側には興味深いところです。

01.天井に星の輝く ヨハンナ・ティデル 白水社
 乳癌の母と2人暮らしの13歳の引っ込み思案の少女イェンナが、憧れのサッカー選手の上級生サッケへの想い、親友のスサンナとの友情と軋轢、大嫌いな美人で人気者の同級生ウッリスとの確執と交遊を通じて、様々な心の揺れを見せながら変わっていく様子を描いた青春小説。大好きだった母が病状が悪化して変わっていく様子への嫌悪感と、嫌悪している自分への嫌悪感に挟まれて揺れるイェンナの思い。母と2人の生活に割り込んできた祖父母、特に祖母への嫌悪感と、祖母の愛情への気付き。そして美人で人気者で軽薄で尻軽なウッリスに抱いていた嫌悪感が、アル中の母を持ち実は寂しがり屋のウッリスが見せる意外な優しさと素直さにほどけていく様子。素直に一直線には進めない思春期の情緒不安定な心の変化/成長が、切なく描かれています。イェンナとウッリスの接近に反感を持って離れていくスサンナが、さらに切ない感じもしますが。

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