私の読書日記  2010年3月

22.ブルー 久美沙織 理論社
 小学生の時に父を亡くしたパパッ子の中学2年生今里杏が、母が恋人との間の子を流産して大泣きしている日に学校をさぼって行った図書館がお休みで茫然としているときに出会った、中年女性作家小椋佐代子とともに、1975年のバス転落事故で死んだ佐代子の中学の教師の死をめぐって調査するうちに、杏は大好きだった父との想い出を整理するとともに母の人生への理解を深め、佐代子は死んだ教師への思いと当時の事情や事故の関係者への思いを整理していく青春・ノスタルジー小説。1975年の青木湖のバス転落事故という現実の事故を扱う小説ですが、ありがちな事件小説ではなく、あとがきによれば実際に作者の中学時代の教師がその事故で亡くなっていて、作者自身の恩師への思いを綴った小説のようです。作者が私とほぼ同じ年ということもあって、出てくる1970年代の描写のリアリティがツボにはまります。「白い恋人たち」がグルノーブルオリンピックの記録映画のテーマソングだとか札幌オリンピックで日本がジャンプでいっぱい金メダル取ってとか、さらにはホイチョイ・プロのというか原田知世の「私をスキーに連れてって」まで登場(135〜137ページ)。そしてそれは、当然のことながら中学生の杏にはちんぷんかんぷん。60年頃の生まれには、ノスタルジーと世代の差を感じさせるところです。こういう話、中高生は、私たちが戦前や戦中の話を聞くのと同じレベルで昔話として聞くんでしょうね。本来想定している読者層にはリアリティを感じにくく、中高年には自分の歳を感じさせるという感じです。

21.日本列島の地形学 太田陽子、小池一之、鎮西清高、野上道男、町田洋、松田時彦 東京大学出版会
 プレートテクトニクスや活断層・地震、火山活動、海面変化、気候変化、降雨・山崩れ等による浸食、河川による浸食・堆積、自然災害、人工改変等による日本列島の地形の形成・変化について多方面から解説した本。日本列島がプレート境界にあり、東北日本が反時計回りに回転し西南日本が時計回りに回転してさらに小笠原弧の先端としての伊豆半島が衝突して形成され、全体として圧縮場にあり、現在も地殻変動が進行中であることが印象的です。最終間氷期の海面の最大上昇期(MIS5e:12万5000年前)の海面は現在と概ね同じですがその頃形成された海成段丘面が現在では海抜数十m〜200mになっている(82ページ)、しかもその高さがかなりばらついていることは、日本列島の地殻が現在も相当な速度で隆起していることをよく示しています。変動帯にあるため地殻変動が活発なだけでなく活断層による地震や火山活動が活発な上、山地が多く多雨という条件のために山崩れや河川による浸食等で地形が大きく変化しやすいことが改めてわかりました。これらの研究が、年代測定の近年の発達により急速に進んでいることも実感できます。その意味で、多方面の研究の現段階を概略的に知るにはいい本だと思います。ただ様々な領域の研究者の共同執筆のため、執筆者の関心に応じて、理論的な説明と具体的事例の重きの置き方などのスタンスが違い、概説としてみても全地域が説明されているわけでないなど、中途半端な感じも残ります。学術用語の説明も親切とは言えず、素人が読むには少し辛いかなとも思います。

20.マンハッタンの哀愁 ジョルジュ・シムノン 河出書房新社
 フランスで有名な俳優だったが女優の妻を若い俳優に寝取られて失意のうちにアメリカに渡り落ちぶれたフランソワ・コンブが、ニューヨークの深夜営業の軽食堂で出会った虚言癖のある女性ケイと飲み歩いた挙げ句に安ホテルで肉体関係を持ち、執着と嫌悪、過去の男たちへの嫉妬に揺れながら恋に落ちる中年恋愛小説。48歳の一度は功成り名を遂げたフランソワのケイへの執着とケイを失うことに対する不安と恐怖、ケイの過去の男性関係に対する嫉妬とケイの虚言癖への苛立ちと軽蔑、ケイが帰ってくる前夜の期待とむなしさと若い女性との関係という、まるで子どものような感情と行動のブレの大きさをどう読むか。落ちぶれた中年男の余裕のなさと見るか、恋に落ちれば人間そんなものと見るか。退廃的で露悪的で自虐的で観念的なタッチも含め、やさぐれてうらぶれたもの悲しさを味わえるか・我慢できるかが評価の分かれどころでしょうね。

19.キャラクターとは何か 小田切博 ちくま新書
 日本のキャラクタービジネスについて、従来の議論が漫画やアニメの個々の作品や作者への思い入れに偏った「コンテンツ」からの語りや、出版社などの版権元の片手間的な業務が中心だったことを指摘し、プロのビジネスとしてみるべきことを論じた本。日本のアニメの質が高いから欧米でも受けているというような幻想を批判しつつ、同時に日本のキャラクタービジネスがコミケでのパロディやワンダーフェスティバル等でのガレージキット(アマチュア作成のフィギュア)などの無許可あるいは著作権者の一時的許可や黙認による複製によって市場を拡大してきたことを指摘しています。ファンによる複製を、著作権侵害として排除すべきか、タダで宣伝してくれていると見るべきかは微妙な問題で、売れていないうちは後者で売れてきて確実に利益が上がると見ると前者に出るのが著作権ビジネスに群がる人々の行動パターンですが、それって下積みのうちは内妻に食べさせてもらって人気が出ると内妻を捨てるスター(うちの業界では内妻に食べさせてもらっていた司法試験受験生が弁護士になると別れるとか・・・)みたいで、人間的には許せない感じがするのですが。学者じゃなくてフリーライターが書いたものにしては概念の議論が多い感じがして、例えばキャラクタービジネスはコンテンツの問題ではなくてプロパティの問題だとか議論してたりしますが、違う概念を持ち込んでだからどうなるの?って思います。「イエロージャーナリズム」の語源が、新聞漫画の走りの「イエローキッド」を2つの新聞「ニューヨーク・ワールド」と「ニューヨーク・ジャーナル」が同時に連載し醜い取り合いをしたことにある(126〜128ページ)というのは初めて知りました。

18.こんな日弁連に誰がした? 小林正啓 平凡社新書
 現在新人弁護士の就職難等のために見直しが議論される司法試験合格者を年間3000人に増員するという決定に至る日弁連(日本弁護士連合会)の失敗の過程を論じた本。著者の主張によれば、その時点で年間1000人程度を打ち出せればそれ以上の増員を防ぎ得た1994年12月の臨時総会で1000人への増員容認を打ち出せず、ロースクール(法科大学院)構想が大幅増員と密接に結びつくのが明らかなのに当初はこれを見抜けず、その後は実現の見込みのない日弁連の戦前からの悲願の法曹一元(裁判官は一定年数の弁護士経験後に弁護士から選ばれるという制度)実現が可能という幻想を持って年間3000人を積極的に打ち出したことが失敗とされています。それ自体は、そうだとは思いますが、後から見ればそう言えるということですし、その経過もしたたかな官僚(裁判所、法務省、そして文科省)の組織的対応に対して、執行部が毎年変わりプロではなく民主主義的な意思決定過程を持つそういう性格の組織である日弁連が闘う能力が足りず手もなく捻られたということだと私は思います。著者は、それでも5年先延ばしをした中坊執行部、司法修習1年半の変則性で事実上増員にブレーキを残した鬼追執行部の交渉力に対してその他の執行部のふがいなさを嘆いているのでしょうが、そう言われると、官僚組織との交渉というのがどういうものか一度自分でやってみたらどうかという気もします。著者自身、あとがきで、この本を読んだ弁護士ならたぶん全員が感じる「まるで見てきたようなことを書いているが、そういうお前はなにをしていたのか?」という疑問に対して、一連の司法改革の議論の当時東京で弁護士登録していたが全くの無関心派だったと書いています。裁判所の青法協攻撃について、何もできないままに弾圧されたのであれば、悲劇の主人公といわれる前に権力組織の構成員として無能という烙印を押されることになる(39ページ)と、著者が左翼とレッテルを貼った者に対しては容赦なく切り捨てられています。何もできないままに弾圧されたことさえ批判する立場を取る著者が、当時何もしないでいて今になってこういう本を書くことに私は違和感を持ちました。失敗を正視しろということは正しいと思いますが、著者の論調はむしろそれ自体を超えて、人権を声高に叫ぶ弁護士を左翼とレッテル貼りして諸悪の根源という印象を与え、弁護士の大勢が人権問題に無関心な状況を当然視する立場からの日弁連批判の一環として語られているものに思えます。それは人権派弁護士を批判したいマスコミの関心は呼ぶとしても、日弁連の今後についての生産的な議論にはつながりにくいと私は思いました。

17.受刑者処遇読本 鴨下守孝 小学館集英社プロダクション
 元刑務所長による行刑関係法規の解説本。サブタイトルは「明らかにされる刑務所生活」とされていますが、具体的な事実や事例の説明は皆無に近く、統計と行刑関係の法律・規則の説明に終始しています。マスコミでの報道や出版物には刑務所の実情について誤解があると述べ、それを正すことを目的としているようですし、まえがきでは「主に、一般読者を対象として書いたつもり」とされていますが、著者の目的を果たせそうにありません。まず業界人(法律家と行刑関係者)以外でこの本を通読できる「一般人」はほとんどいないと思います。法律用語丸出しの記述に加えて、言葉を優しくしているところがあっても、事実・事例なしで法規の解説だけが続くのでは読み通す意欲が、少なくとも一般人にはわきません。私が読んでも、「第4章 受刑者はどのような生活をしているのか?」でさえ法規の解説しかなく具体的事例がないことがわかったとき、放り投げたくなりましたから。そして現在の行刑を批判している人たちは現実の運用実態を批判しているわけですから、それに対して事実で応じるのではなくただ法規を説明して法規がこうだからその通り行われていると言うだけでは、議論としてかみ合わないことが確実ですし、説得力がありません。著者もあとがきでは当初はもっと具体例を挙げて説明しようと思っていたが法令の規定の説明だけの平板なものになってしまった(ところもある)と述べていて、諸般の事情があったのかなとも思いますが、この内容で著者の言う「誤解」に対抗できると思うところがいかにも役人の感性だと思います。著者の経歴からして法務省サイドの公式見解・建前論に終始すること自体は予想できましたが、それにしてもここまで法規の解説だけとは、サブタイトルからは予想できませんでした。この内容ならサブタイトルは「平成17年法改正を踏まえた行刑法規の解説」とでもして、ぎょうせいとか第一法規とかの業界人向けの出版社から出すべきじゃないでしょうか。最後の方で刑事施設視察委員会と民間刑務所のところでだけ諸外国でうまく行かなかったと書いて日本の制度が優れているような印象を与えていますが、一番大事な受刑者の処遇のところでは諸外国、特にヨーロッパとの比較など1行たりとも触れないのはどんなものでしょう。裁判例を書くときも手錠・腰縄剥き出しでの護送以外では刑務所の処遇が違法とされた判決には一切触れずに刑務所側が勝った判決ばかり紹介していますし。紹介されている統計で一つ興味深いのは、本国での服役を希望して外国に移送された外国人受刑者が制度開始から2009年4月末までに142人いるのに同じ期間に外国から日本に移送された日本人受刑者は2人だけという話(37ページ)。受刑者が処遇を評価した結果か刑務所側が外国人を追い出したがっているということかは不明ですが、これだけ見ても世界に誇れる処遇とは言えないことが見て取れると思います。なお、被告人の勾留(身柄拘束)の説明で「裁判所は、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合で、定まった住居がなく、証拠を隠滅し、又は逃亡し、若しくは逃亡するおそれがあるときは、勾留することができます」(58ページ)と書いています。この文だと、住居不定でなければ勾留できないように読めます。ここは「定まった住居がないか」とすべきだろうと思います。また「証拠を隠滅し」は「証拠を隠滅するおそれ」と書くべきでしょう。

16.死刑と無期懲役 坂本敏夫 ちくま新書
 元刑務官が自らの体験を元に死刑の実情と冤罪の存在、終身刑への疑問を語る本。最初に語られている1980年代に著者が東京拘置所保安課長着任した後初めての死刑執行の際、1日に2人の死刑執行をする命令があり、1人目は担当警備係長の進言を無視して上官の命令は絶対という姿勢で死刑囚を騙して房から出して気づかれて大騒動になり大幅に遅れて死刑囚が気を失った状態で執行するという大失態を演じ、2人目は日常死刑囚とつきあいがある警備係長に任せてスムーズに執行できたという体験(19〜52ページ)が鮮烈です。著者自身が反省を込めて語っているように、1960年代の少なくとも大阪拘置所では死刑囚も運動などは他の受刑者とともに行わせ、執行も2日前には予告して家族との面会やお別れ会をしていた(29〜30ページ)のに、現在では執行は直前にしか知らせずマニュアル通りに執行することが最優先され著者が経験したようにだまし討ちで連れ出したりする、そういうやり方には強い疑問を感じます。また終盤で語られている拘置所の支所長と「特別な関係」になった女性被告人が過去のレイプ事件を警察にもみ消されてそれがその後の夫の殺害の伏線となっているという事件で著者の担当の連続強姦殺人犯の死刑囚が懺悔した未解決の強姦事件がその事件という上申書を書かせたという話(177〜206ページ)も涙なくして読めません。刑務官として日常的に接していると冤罪の受刑者はわかる、冤罪は意外に多いという意見や、無期懲役の受刑者は仮釈放の希望があるから処遇できるのに昨今の仮釈放がほぼ絶望的な運用やましてや終身刑の創設となったら刑務所での処遇は困難になるという主張は、異論はあるでしょうが、刑務官としての経験を背景にしているだけに説得力があります。著者の主張が気に入らなくても、体験部分だけでも読む価値があると思います。

15.千年の恋人たち 稲葉真弓 河出書房新社
 建築事務所を経営していた夫が失踪し、南房総の母の家に移り住んだ佐和が、母の死後、夫が庭先に残した石造りの塔を眺めながら夫の失踪の謎に苦しみつつ、美大時代に習得した草木染で身を立て、画廊の経営者に思いを寄せながら自立してゆく様を描いた小説。夫の不幸、佐和の不幸、娘の明日香の不幸を並べつつ、それでも人はなんとか乗り越えて生きて行く、それが「生の原理」というのがメインストリームになっています。語りが、基本的には佐和ですが、夫や明日香の語りになったり、さらには塔の語りになるところもあり、2回だけ出てくる幽霊なのか幻覚なのかわからない「かさねの人」の位置づけもはっきりしません。そういうあたり、連載の過程での思いつきで書いてるのかなと感じてしまいます。「千年の恋人たち」のタイトルも、それに見合う中身なりエピソードが見あたりません。佐和のしたたかさと庭先の塔を通じての不在の夫の存在感をもっとまっすぐに際だたせた方が読み応えのある作品になったんじゃないかなと思うのですが。

14.V.T.R. 辻村深月 講談社ノベルズ
 人を殺すことが許されたマーダーライセンスを持つ者が1000人いる世界で、今はヒモとして生きるマーダーティーが、3年前に別れた恋人のマーダーアールから突然の連絡を受け、アールが3年間で売春組織を経営し自らも売春をしつつ、マーダー界の伝説のトップマーダー「トランス=ハイ」のファミリーのマーダーを殺し続けていることを知り、アールの行方を追い久しぶりに仕事をする気になったティーの行方は・・・というヴァイオレンス系に見せた恋愛小説。率直に言うと最後まで焦らせた挙げ句に、どんでん返しだけは見せるものの作ってきた設定を収束させずに放り投げた感じで、読後感は全然スッキリしません。序盤からアールがなぜ自らの身を貶めてまでトランス=ハイの手下を狙い続けるのかが読者の最大の関心事になりますが、何しろこれが結局謎のまま。アールの思いの中身もはっきりしませんし、またトランス=ハイの手下をそこまで憎むのならなぜ・・・という疑問がどうしても残ります。ティーとアールの友人の銃職人Jの思いもとても納得できません。である調とですます調の混合された素人少女っぽい文体にもおじさんとしては違和感を感じます。ストーリーは読者の通常の予想と期待を裏切るものですし、退廃的で耽美的な雰囲気に快感を感じられないと、辛いところです。

13.ウェブを炎上させるイタい人たち 中川淳一郎 宝島社新書
 インターネットでの自己発信を勧め賞賛する意見に対して、ウェブはバカと暇人のもの、ネットから素晴らしいことが生まれることは滅多にないとして、ネットに使ってきた時間は無駄だったと結論づける本。ウェブで仕事をしてきた著者がこう断言しちゃうのって、すごくて虚しい。はじめにで、私は世代論が嫌いだといいながら(21ページ)、インターネットはオッサン世代が不遇なロスジェネ世代に与えた究極のガス抜きツール(220ページ)、ロスジェネ世代がネットにハマってリアル世界でのスキルを獲得しないでいるうちに就職状況の良い時代に職を得た若者がより多種多様な仕事経験をして優秀なビジネスマンになっていく、こうしてロスジェネ世代は完全にオッサンに負けたっていうのも、哀しい。最後には、ネットにはまってもロクなことにはならない(244ページ)にとどまらず、インターネットよりも女のオッパイの方がすごいんだ(237ページ)って・・・。インターネットは便利なツールで、よく使うも悪用するも上手く使うも時間を浪費するも、それは利用者次第。ただの悪口ばかりのサイトや他人の仕事を利用して広告ばかり貼り付けてるサイトが多いのも事実ですが、素晴らしいコンテンツや献身的な仕事に会えることがあるのも事実。ネットで何でもできるかのように言うのも何ですが、ここまで全否定するのもどうかなと思います。サブタイトルの「面妖なネット原理主義者の『いなし方』」も、それらしいところは、自分が悪いと判断したら素直に謝る、悪くない場合バカの意見は無視する、反論する、きちんと謝ったのにごねるときは「いい加減にしろ」で終わりにする(134ページ)くらいで、あまり書かれていません。ネットで叩かれる13項目というのも書かれている(162〜167ページ)けど、意見として発言しようとしたら普通どれかに引っかかるよねって思いますし。まぁ著者は最後には「なにも発信しなければ『炎上』なんて起きない」(247ページ)と言っちゃうわけですが。

12.おへそはなぜ一生消えないのか 武村政春 新潮新書
 「食べる口としゃべる口はなぜ別ではないのか」「年をとるとなぜ傷が治りにくくなるのか」「リ・ド・ヴォーはなぜ美味いのか」「人の赤血球にはなぜ核がないのか」「おへそはなぜ一生消えないか」「胎盤という器官はどう作られたか」の6つのテーマについて論じた本。1つめ(口というか食道と気管の単一性)と5つめ(へそ)は進化・発達の観点から、他の4項目は分子生物学・ゲノムの観点から説明しています。3つめのリ・ド・ヴォー(小牛の胸腺)の話はタイトルに偽りありで単に胸腺の役割の説明です。説明の多くは、仮説・私見で、どちらかといえば人体の謎がいかにまだ解明されていないかの方を感じさせる本です。そして本全体としての統一感がなく、学者さんにありがちな様々な機会に雑誌に書いたことを並べて本にしたのかという疑いを感じながら読んでいましたが、あとがきによれば書くのに5年かかったとのこと。最初の頃と著者の関心も説明の仕方も最新の知識も変わるよね、それじゃあ、と納得しました。読む方にとっては困ったものですが。

11.ミアの選択 ゲイル・フォアマン 小学館
 交通事故にあい両親は即死、弟と自分は瀕死の重傷を負い、なぜか集中治療室で自分の体から外に出た17歳の女子高生ミアが、懸命の治療を続ける医療スタッフ、次々と訪れる親族友人、恋人を尻目に、このまま体から去り死を選ぶか体に戻って障害の残る孤児として生きるかの選択をするまでの24時間を描いた青春小説。パンクロックバンド出身の父の下で育ったミアはクラシック音楽好きのチェリスト。西海岸でメジャーになりつつあるロックバンドのギタリストと交際しながら、ニューヨークのジュリアード音楽院のオーディションを受け、音楽と進路に悩んでいます。理解のある両親の下、まっすぐに育ち恵まれた青春を過ごすミアに突然訪れた不幸って設定です。事故と病院での治療、病院を訪れる人々のエピソードに、過去のエピソードを挟んで行きつ戻りつの展開をし、現在の思いと過去の想い出をオーバーラップさせています。そのあたりのふくらませ方と余韻は巧みな感じがします。しかし、ポイントをミアが生と死のいずれを選ぶかに絞ってしまったことで、それにしては焦らせすぎというか、そのパターンなら青春小説で他の選択はないでしょって読者の予想からしても最後まで読むテンションを保つのが少し辛いように思えます。

10.抗うつ薬は本当に効くのか アービング・カーシュ エクスナレッジ
 抗うつ薬でうつが改善しているのは、薬の化学成分の効果はごくわずかで効果の大部分は薬が効くという期待・予想によるプラシーボ効果だと論じている本。プラシーボ効果は他の疾病でも認められるが、特にうつの場合症状が絶望感の悪循環にあり、有効な治療がなされるという期待そのもので症状が改善する。抗うつ薬の臨床試験でプラシーボ(偽薬)投与の対照群と比較して効果が認められるのは、試験が二重盲検(患者にも投薬する医師にもどの患者が薬を投与されどの患者がプラシーボを投与されるかを知らせないこと)で行われるが通常のプラシーボには副作用がなく抗うつ薬には決まった副作用があるので抗うつ薬の投与を受けた患者が自分は抗うつ薬を投与されていると気づいて効果があると期待することで症状が改善するため。現に実質的な副作用がほとんどない抗うつ薬が開発されたが臨床試験でプラシーボ対照群をはっきり上回る効果を出せず商品化は断念された(29ページ)。そして活性のある(副作用のある)プラシーボを用いた場合、抗うつ薬はほとんどの試験でプラシーボ対照群に優位な差をつけられなかった(35ページ)。そもそも現在の抗うつ薬は脳内の神経伝達物質であるセロトニン、ノルエピネフリン、ドーパミン等の濃度低下を抑えるというしくみだが、これらの濃度低下を促す物質を投与した場合もうつ症状が改善している(123〜125ページ)。抗うつ薬の投薬は効果があるが、プラシーボ効果によるものを除くと改善効果はごくわずかで臨床的な改善の度合いとしては改善と評価できない程度である。というのが著者の論旨。基本的にこれまでの臨床試験や研究論文のメタアナリシスで、元の試験のデータの読み方の正しさがどの程度担保されているかが読めませんが、そのあたりの検証は専門家に任せるとして、素人としてこの本を読む限り、説得力のある論証と思えます。こういう大企業の悪辣さを暴露し、それを科学的に論証していく読み物って、私は好きです。科学的な論証だけじゃなくて、製薬会社が臨床試験のうち都合の悪い結果が出たものは公表していないとか、FDA(米国食品医薬品局)やMHRA(英国医薬品庁)、EMEA(欧州医薬品庁)はそれらの都合の悪い結果が出た臨床試験データを見ながらも抗うつ薬を認可し続けてきた、さらにはFDAは都合の悪い臨床試験の結果を隠すように製薬会社に要請したということまで書かれていて(57〜68ページ)とても楽しい読み物です。読書日記を始めてからはまれになっていた「私のお薦め本」に入れようかなとも思っていました。ただ、著者としては抗うつ薬がプラシーボ効果以上の効果がないという以上別の治療の選択肢を示すべきだという責任感で書いているのでしょうが、終盤で心理療法が最も優れているということを書いているのが、著者が心理療法士であることを考えるとちょっと興醒め。やっぱりそこに行っちゃうかと。

09.ギザギザ家族 木下半太 講談社
 「芦屋の不動産王」の息子で趣味でバーを経営しながらハーレー・ダビッドソンを乗り回す不良中年斧田元気、夫婦仲は醒めて義父の遺産相続後に離婚をもくろみそれを有利に進めるためにボランティアにいそしみ「高槻のマザー・テレサ」と呼ばれる妻斧田千里、惚れた男とは絶対結婚するがすぐ離婚し3度目の元夫がヤクザの出戻り娘斧田指子、家庭教師と肉体関係を持つ息子斧田歩の家族が、歩とも元気とも肉体関係がある元レースクィーンの家庭教師堀井ハンナとともに茨城に旅行する途中に事故にあい、東京をさまようというストーリーのドタバタコメディ小説。それぞれの登場人物の視点から同じ経過をダブらせながら進めていきます。テーマは、家族の美しき誤解、というところでしょうか。シニカルでスラップスティックでスプラッターな展開が、ちょっと心温まるラストにまとめられています。でも、読み味としては、そこよりも、ドタバタぶりにあると思いますが。

08.深夜零時に鐘が鳴る 朝倉かすみ マガジンハウス
 繊維を扱う商社の事務職29歳匂坂展子が、学生時代に通ったハンバーガー屋で知り合った作話症の気のある不思議ちゃん「リコ」の元彼との遭遇を機に、6年前に失踪したリコを探し始め、その過程で恋愛に目覚める恋愛小説。魅力のあるような問題のあるような話題の人物リコを不在にしてそこを中心に話を進めるというところが作品の工夫なのだと思います。元彼の根上茂とそのフィアンセのそら豆さんのあくの強さがちょっと疲れますし、展子の会社の先輩で今は作家のはとりみちことその作品中の「タイム屋文庫」の関係とか最後に関連づけていますけど今ひとつしっくり来ないというか無理してる感じがしてしまいます。リコをめぐる推理として読むにはさして謎解きになってないというか、詰められた感じがありません。やはりリコの不在をダシにした展子の恋愛小説と読むべきでしょう。そう読んだときに今ひとつドキドキ感・高揚感がないのは展子の性格とか29歳という設定のためなんでしょう。ぼちぼち行こかくらいの恋愛小説なんだと思います。

07.なにがケインズを復活させたのか? ロバート・スキデルスキー 日本経済新聞出版社
 2008年秋の金融危機以降各国で急速に進んだ新古典派経済学への批判とケインズ経済学の再評価を機に、ケインズ研究者の著者が、どちらかといえば歴史学者としての視点から、新古典派経済学の誤りを指摘しケインズの主張とその現代的意義を記した本。著者は、理論と倫理を重視し、理論的側面では市場原理主義とも言うべき新古典派経済学が市場のプレイヤーが合理的予想をして十分な情報を得て情報を効率的に使用した行動をすることを前提とするのに対して、ケインズは不確実性を前提として不確実に直面した人にとっては慣行に従ったり思考停止することがむしろ合理的(コストから考えれば)と考え人々がなにを予想して行動するかが重要としていたなどケインズの現実性を評価し、倫理的側面では新古典派経済学が富の追及を最優先し働きに見合わない巨額の金を稼ぐことを正当化してきたと批判してケインズは金儲けはよい生活を実現する範囲で正当化できると考え金儲けは目的ではなく手段と位置づけていたなどと論じています。ケインズ自身は、経済界や官僚の世界に身を置きながら自ら投資・投機を行って大儲けと破産の危機を繰り返していて、その経験が理論と言動に反映しているようです。その意味で、うさんくさく怪しげであるとともに面白そうなおじさんだったのね、とちょっと親近感を持ちました。本としては、数式が全くないという点では助かりますが、それでも経済学上の話は噛み砕かれているとは言いにくく、素人がスッと読み通すにはきつい感じです。

01.02.03.04.05.06.サムライガール1〜6 キャリー・アサイ メディアファクトリー
 わがままな気まぐれお嬢さん光郷ヘヴン19歳がロサンジェルスの結婚式場で謎の忍者に襲われて最愛の義兄を目の前で殺害されて逃走してアメリカなどを放浪しながら、義兄の友人の武術家植本ヒロや許嫁だった雪村テディ哲也らと行きつ戻りつの関係を繰り返す青春恋愛小説。タイトルにサムライガールとあり、格闘シーンがやたらとあるんですが、その手の小説に普通ある長く苦しい修行がほとんどなく、朝合気道の型を少しやっただけでもうシャワーを浴びてテレビでも見たいと思うレベルの主人公が1か月かそこらでプロの殺し屋と互角以上に戦えるようになるとかいう安直な設定ですから、スポーツ根性ものや成長ものとしての読み方は無理。それほど修行をしなくても飲み込みが早く天才とされる主人公ですが、プロの殺し屋が追い続けしょっちゅう襲撃されて命からがら逃げているのに変装ひとつせずに街をうろうろし繁華街のクラブに行っておおっぴらに遊び、酒に溺れて体がいうことを聞かなくなって痛い目にあっても性懲りもなく酔いつぶれるという、注意力も学習能力も致命的に欠けている人物で、こういう人が武道の才能があるはずがない。キャラ設定にあまりにも無理を感じます。主人公は、基本的にいつでも男のこと、大部分では植本ヒロのこと、その彼は自分のことをどう思っているのかだけを考え続けていて、襲撃や格闘シーンは変化をつけるためというかストーリーが行き詰まりかけるとそれでつないでるって感じがしてしまいます。そういう点でも武道・修行・格闘ものでは決してなくて、そういう設定を使った恋愛小説という感じです。殺し屋に追われ続け、その結果としてまわりの人物が次々と巻き込まれて犠牲になり続けるという展開ですから、普通ならそのことに心を痛めるわけですが、この主人公はそういうことはほとんど感じません。ヒロと仲良しだったカレンはヘヴンと間違えられて誘拐され3日間監禁されますがヘヴンは恋敵としてカレンを怨み続けるだけですし、ヘヴンをルームメイトにしたために家に放火されて全身に火傷を負うシェリルにもほとんど気遣う様子もなく後に敵対するとすべてシェリルが悪者と位置づけます。そういうヘヴンの性格の悪さというかジコチュウぶりに加えて、読んでいて居心地が悪いのは、ヘヴンの他人に対する評価がその場の気分でころころ変わり少し前まで敵として憎んでいた者を何の根拠もなく信じて味方だと位置づけ、またすぐにやはり敵だと憎むということが繰り返されることにあります。何を考えているのか理解できない主人公の語りを読むのは、読者として辛いものがあります。ヘヴンの愛憎の基準として度々出てくるのがヤクザとの関係で、ヤクザと関わっていると思うと途端に敵だという位置づけになるのですが、ヘヴン自身ヤクザの親方の子でその金で裕福に育ち、逃走中にもヤクザの幹部の義理の叔父の下でぜいたくをすることに何ら罪の意識も感じずにいるわけで、そういう人物がなぜ他人にはヤクザと関わっているといって軽蔑し敵と決めつけるのか、理解できません。そういうでたらめさ加減を第6感・直観を大切に、心のままになんて言われても、とても納得できません。私も直感に従って、第1巻でぶん投げた方がよかったと思います。

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