私の読書日記  2010年4月

12.我・神 花村萬月 集英社
 沖縄出身のホームレス謝花に拾われて共に暮らす孤児の少年臥薪正太郎が、ホームレス狩りの高校生や暴力団の幹部を仲間にし、組長の娘の下半身不随の美少女霧絵の指示の下に沖縄で教団を立ち上げ勢力を増して行き、最後の審判に至るという小説。前半の大和編では、わりと丁寧にホームレス生活をするあどけない「神の子」と周囲のキャラクター設定、人間関係を書いていたのに、後半の琉球編になると、話が飛びがちで大雑把になり、育てたキャラもあっさり捨てられていきます。前半で存在感たっぷりで妖しい魅力を放っていた霧絵は、後半ではただの補佐役になりまるで魅力が感じられません。それと入れ替わりのように登場した羊子も、すぐにただ愚かしい存在に成り下がります。「自慰爺を救わなければ世界は救えない」という正太郎のこだわりや、羊子が語る主のお告げの話は、その後の展開を考えると、一体何だったんだろうと思います。連載で書き継いでいくうちに気が変わったのかめんどうになったのか。やはりこういう話は書ききるのが大変なんでしょうね。収拾がつかなくなって叩き切っていった感じの終盤です。まぁ、神、宗教の話ですから、荒唐無稽で不条理なものと割り切れば、それはそれでいいんですが、もう少しじんわりとした読後感を持たせて欲しかったなと思います。

11.使える武術 長野峻也 ちくま新書
 武術・武道界の現状と技法や考え方についての解説書。著名な武術家の経歴偽装とかインチキぶりを憤る部分がけっこう多くて、そのあたり、面白いと感じるか、鼻につくか。「世間的には有名で多くの著作をだしてメディアにも頻出している人物が、実際に少し本気で手合わせすると素人同然の者にさえ適わなかったという事例がビックリするほど多いのも、武術の世界の偽らざる真相なのです」「はっきり書けば、試合をしない型稽古オンリーの合気道や太極拳といった流儀では、高段者や師範クラスであっても、フルコンタクト空手を半年くらいやった者に、何もできずに一方的に蹴り倒されてしまうケースがふつうにあります」(198ページ)とか、興味深い話ですが。脱力が武術の基本(20〜26ページ)、ウェートトレーニングをして部分的に筋肉を肥大させても全身の連携が途切れるので逆効果(79〜80ページ)、酔拳は重心が揺れ動くことで威力を発揮する、個人的には本当に酔っている方が威力が発揮できると思う(82ページ)、武術を教えたらすぐに強くなるのはプロのダンサーだと思う(91〜92ページ)、武術は元々フェアに勝負するという概念が乏しく戦闘理論として「相手に何もさせずに一方的に倒す」という観点からできあがっている(171ページ)など、意外な視点が読み物として興味深いところです。いざというときに戦える技術を持ちつつ基本は戦わずして勝つことにあるということは、他の分野でも生きる考えだと思います。

10.ぼくは12歳、路上で暮らしはじめたわけ。 国境なき子どもたち編著 合同出版
 途上国のストリートチルドレン等の支援活動をしているNPO法人「国境なき子どもたち(KnK)」のスタッフがアジア各地の路上や支援施設で出会い支援しているストリートチルドレンの状況をレポートして活動報告をしている本。路上で生活している子どもたちや親に売られた子どもたちのエピソードには目頭が熱くなります。墓場で暮らしている子どもはインタビューで「生きてる人の方がよっぽど怖いよ。死人はぼくに意地悪しないもの」って(22ページ)。後半は、支援活動の広報になっていますが、それでも保護施設を運営しているスタッフが、「保護施設が増えさえすれば子どもたちの問題は解決するという考えは、あまりにも単純で問題の一面しか見ていないことを痛感したのです」(61ページ)という、そのスタンスから語られる日常活動は、読んでいて共感しました。前半で統計が出てきて、日本との比較がされているのですが、日本との比較よりアジアの各国同士で見るとカンボジアの数字(32ページ)がすごさが目につきます。数字の魔術という面もあるでしょうけど、こういうの見せられると「人は生まれる国を選ぶことはできません」という主張(79ページ)に説得力を感じてしまいます。

09.古⇔今 比べてわかるニッポン美術入門 和田京子編著 平凡社
 現代日本美術の作品を過去の主として国宝・重文級の作品と対比させながら解説する本。著者が美術研究者でなく編集者というところから、本のスタイルは雑誌のムック風ですし、論じ方も大胆な感じがします。基本的には、私の知らない現代美術作品が、過去の著名作品と並べられることによってある種権威付けされ、持ち上げられるという性質の本です。現代美術の作品だけに作者が今も生きていて、そちらの評価は遠慮がちと言うか少し媚びを感じます。他方、古典の名作についても、発表当時は現代美術だったわけでそんなにしゃちほこばって見るのはやめましょうやという意味もあります。そういう作品の相対化というか、視点の流動化が楽しく感じられます。現代作品と古典名作の対比取り合わせも強引なところが散見されます。取りあげた作品、特に現代美術作品への著者の思い入れも強く、読んでいてどうしてこれが取りあげられるの?って思うことも多々あります。そういう点も含め、著者の主張がかなりはっきりしているので、それに共感できるかによって、かなり好みの別れる本でもあります。

08.記憶の海 松田奈月 講談社
 人間の記憶をデジタルコピーすることは可能になったが機械によってはその再生ができず人間が媒介者となって記憶を再生することの研究を進めている大学の研究室で、その実験のため志願して海馬の機能を停止して第三者の記憶を読み込む実験中に海馬の機能を失い事故の5年前以降の記憶を失い3分間しか記憶が保たなくなった研究者広田学と、学の記憶回復の可能性とともに研究材料として学に第三者の記憶の再生を続けさせる研究室の人々、その中で葛藤する学の恋人小野里美と学の弟の淳の思いを描いた短編連作。記憶再生実験の被験者のタイトルが付された6編で構成されますが、基本線は自己の現状に疑問を持ち葛藤する学とそれを見守る里美でつなげています。カルテ002、カルテ003、カルテ004と題した2〜4章が被験者の方に焦点を合わせた短編の色彩が強くなっていますが、1章と5章、6章はストレートに学と里美の物語として綴られます。ドラマ原作大賞ということでドラマ化を意識しているからとは思いますが、短編としての独立性を志向した2〜4章と学と里美の物語に絞った形の1章、5章、6章のバランスが少し悪くなっている感じがします。しかし、全体を通して、自分との3年間の記憶を失い知らない人としてしか認識してくれない恋人に対する里美の切ない思いが強く感じられ、そちらの方への思いが圧倒的になりますので、読み通してみるとバランスのことはあまり気になりません。ほどよく涙ぐみ切なくもハートウォーミングなよい読み物だと感じました。

07.オバマ演説集 三浦俊章編訳 岩波新書
 アメリカ大統領バラク・オバマの選挙中と大統領就任後の演説の中から10本を選んで日本語訳した本。原理原則にこだわらず柔軟な姿勢で対立ではなく団結を説き、すべては変化しうるとして未来の希望を語るオバマの姿は、政治家としての資質を感じさせ、読んでいて少し胸が熱くなります。特に選挙中のチェンジを語り希望を語る姿、まさしくアメリカンドリームを信じて語る姿は、キング牧師の演説集にも見られるような感動を与えます。しかし、政治家であり大統領でもあるオバマはそこにはとどまれず、選挙中はあれもやるこれもやると公約を掲げねばならず、大統領としてはアメリカ軍の司令官として戦闘員を讃え正義の戦争を語らねばならず、演説の輝きは失われていきます。それでも、政策を実現し、アメリカの利害への賛同を得るために、対立する陣営にも気を配りながら、前進を語る姿は、実務家として手本を見せられている気がします。医療保険制度改革で公的保険の導入を論じる際に、競争がないと保険会社がサービスを低下させるという説明をするにも「保険会社の重役がこういうことをするのは彼らが悪人だからではありません。それが利益を生むからです。保険会社の元重役の一人が議会の公聴会で述べていましたが保険会社では重病人への保険適用を断る理由を探すことを奨励しているだけでなく、理由を見つけたら報奨金が与えられるのです。その重役の言葉を借りれば、『利益に対するウォールストリートの容赦ない期待』に応えるためなのです」(175〜176ページ)と目配りしたり(これはむしろ皮肉か)。単に敵を批判するのではなく、味方でない陣営のうち多くは協調でき一致できると位置づけて共感を誘って切り崩し、味方につけ、ごく一部を真の敵と位置づけて批判する、その姿勢は、国際的にはイスラムに向けた演説や、国内的には医療保険改革のための影説に顕著です。このあたりのしぶとさ、したたかさ、巧さには学ぶべきものが多いと思います。ただパレスチナに対しては暴力を放棄しなければならない、黒人の解放は暴力によってではなくアメリカの建国の理念を平和的に語り続けることで実現したと語りながら(143ページ)、アメリカ大統領はガンジーとキングのお手本だけに導かれるわけにはいかない(225ページ)として「正義の戦争」の存在を強調するのは、立場上仕方がないとはいえ、その場しのぎだなと感じてしまいます。

06.ビッチマグネット 舞城王太郎 新潮社
 父親は家を出て愛人の元に走り、母親は引きこもり状態の語り手広谷香緒里が、中学生になっても一緒の布団で寝てた弟友徳との関係や弟の女性関係、自分の交際相手、父の愛人とのあれこれを語る青春小説。最初の方は、弟との関係に終始し、そこがテーマかと思うと、弟に女ができ自分も交際相手ができと進み自分の話が中心になると思うと、終盤はまた弟に戻りという具合で、ちょっと焦点がぶれた感じで読み味が落ちつきませんでした。タイトルからすると弟にポイントを置くつもりなんでしょうけど、弟のエピソードは伝聞や推測の形が多くなってはっきりしない感じがしますし。文体にもムラが感じられます。最後の一文だけですますだったり。主人公が中学生から大学院を出て社会人になるまでの話ですが、時間の進み方も、最初はゆっくりで、ぽんと飛んだりします。軽いテンポで読みやすくも思えるんですが、どうも読んでいて落ちつかない気持ちになります。最初は、雑誌連載で書いてるうちに構想が変わったかと思って読んでいたんですが、初出を見ると一気掲載のようですし。う〜ん、ずらしていくことが持ち味の作家なんでしょうか。

05.スタイリストの鉄則 梅原ひさ江 講談社
 テレビや映画、雑誌などの撮影のために必要な衣装や小物をコーディネイトするスタイリストになるための仕事と営業のノウハウを自分の経験で解説した本。業種は全然違うんですが、メディアに扱われたり派手な結果しか一般人には知られないけれども、現実の仕事は地道な作業と経験から来るセンスというかひらめきの積み重ねで、個人自営業者として仕事上の信頼関係や営業センスも必要というところ、一自営業者として共通のものを感じます。スタイリストとして独立する前提というか修行段階でのアシスタントの適性について語られているところが、スタイリストに限らず仕事をする人のあり方として興味深く読めます。「失敗を経験として次に活かせる人は、さらりと注意しただけで、きちんと反省できるものです。その逆に、どれだけきつく叱ろうが、自分の責任を自覚できない人は、何度でも同じ失敗を繰り返します」(49ページ)とか、「編集部に電話して、○○さんにアポイント取れましたって、報告しておいてね」と頼んだら「あのう・・・電話したら、○○さん、いませんでした」「そう、伝言は残してくれた?」「いいえ〜」「何時頃お戻りかしら?」「聞きませんでした」(59〜60ページ)とか。ファッションセンスより、そういう人としてビジネスとしての自覚や責任感の方が大事って、どの業界でも同じなんですね。

04.教養としての官能小説案内 永田守弘 ちくま新書
 官能小説(ポルノ小説)の戦後の歴史と分野別分類を論じつつ濡れ場シーンを紹介する本。警察の摘発とそれをかいくぐる表現を工夫する作者・出版社の対応、様々な作家の登場や新たな分野の開拓、ノベルズサイズや文庫化で読者層を拡げてきた経緯などが、戦後の歴史として語られていて、この部分がこの本の大部分を占めています。後半での分野別分類は、むしろ濡れ場シーンの紹介のためのような感じで読者サービスの色彩が強い感じ。全体としては歴史に重点が置かれて、その中での作者の紹介という要素が大きいので、かつて週刊誌や夕刊紙で見た作家へのノスタルジーを感じられる層向けの本かなという気がします。紹介した作品の濡れ場シーンの抜き書きも多々ありますが、「官能小説を読むときに、セックスシーンだけを拾い読みする読者もいるだろうが、それで淫心をかきたてられるのは、せいぜい十代の勃起少年ぐらいのものであろう」(208ページ)と著者も言っているくらいですから、それを狙って読むようなことは・・・

03.なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか ロバート・フェルドマン 講談社
 日常生活の様々な場面で遭遇する嘘について心理学者の観点から論じた本。邦題の「10分間に3回嘘をつく」は初対面の自己紹介の場面での心理学者の実験結果の紹介から取っています。こういった日常生活の場面でのありふれた嘘から詐欺などの営利目的の作為的な嘘、マスメディアの虚構など、様々な場面での嘘を順次論じていきます。著者は一方で嘘というときには詐欺のようなケースを想定しがちだが現実に人が遭遇する嘘の圧倒的多数は日常生活での嘘だと指摘した上で、日常生活での嘘を礼儀やマナー関係や会話を円滑にするもので全く嘘のない生活をあなたは送りたいだろうかと問いかけ、他方において作為的な嘘もなりたかった自分を演出し自尊心を守ることに動機があったかもしれないことも指摘しています。これらの指摘は、一般人の嘘についての既成概念を相対化するものですが、著者のいう作為的な嘘が日常生活での罪のない嘘の延長線上にあるのか、はっきりと異なるものなのかについて著者の立場は揺れているように感じられます。様々な嘘について論じている分、邦題の「なぜ・・・うそをつくのか」の結論ははっきりしなくなっています。むしろこの本では、人がなぜ騙されるのかという点と嘘を見抜くことは極めて難しいということの方が結論ははっきり書かれています。人が日常生活で一つ一つの判断にエネルギーを割いていたら生活できないということから、人は無意識のうちに基本的に聞いたことを真実とみなしているという「真実バイアス」、そして自尊心や良好な関係の維持のため相手のいうことを信じたがっていること、そして上手い嘘つきはそういった相手の心理や状況を読むことに長けているといったことから人は容易に騙される。そしてポリグラフ(嘘発見器)や一般人が嘘の徴候とするしぐさ(目をそらすとかそわそわするとか)は、真実を語っているのに嘘と思われないかという不安や猜疑心を持たれる状況での緊張などからも生じるし、逆に嘘をつくのに不安や緊張を生じない人もいて、現実には嘘を見抜くのに役立たない、心理学者の実験では一般人が嘘を見破れる確率は47%程度(つまりコイン・トスと変わらない)で、ポリグラフ検査官や警察官や裁判官の嘘発見能力は一般人と変わらない(40〜41ページ)とか。このあたりこそ、肝に銘じておくべきなんでしょうね。

02.リアリズム絵画入門 野田弘志 芸術新聞社
 リアリズム絵画についての著者の考えや姿勢を論じた本。リアリズム絵画を、著者は、物が存在するということのすべてを2次元の世界に描ききろうとする試み、物がそこにあるということを見える通りに、感じる通りに、触れる通りに、聞こえる通りに、匂う通りに、味のする通りに描ききろうとする試みと定義しています。ただ「見える通り」ではなく、物の存在感、重量感、存在の意義ややがて朽ち果てるまでの時間をも絵に塗り込めると、著者は論じます。そうした著者がリアリズム絵画の傑作とするのはフェルメールの「牛乳を注ぐ女」とレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」。リアリズム絵画とは細密画ではなく、むしろ無用な細部を切り捨て、背景・壁も人物と同じ密度で描き現実空間の重量感を表すものと著者は論じています。1作に1年も2年もかけるという、その制作過程が同僚の画家へのインタビューでも示されています(人物画でそうしてるのって、モデルの人も大変)。本の内容が、技術論はごく一部で、大部分が哲学的な話となっていることとあいまって、画家の本というよりも、哲学者というか求道者の趣です。これで食っていけるのかしらと思うところに、最終章で著者がこれまでの経緯を振り返り、若いうちはパトロンがいたり売れる絵を描いていたとかの説明があって、なるほどと思います。全体に説教臭いし、フェルメールやダ・ヴィンチを論じる箇所はプロの視点というよりも一ファンの視点になっている嫌いがありますが、ちょっと変わった美術の教科書的な意味合いで読んでみるには面白い本でした。

01.カラヴァッジョ 灼熱の生涯(新装版) デズモンド・スアード 白水社
 16世紀末から17世紀初頭にかけて活躍したイタリアの画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(カラヴァッジョのミケランジェロ・メリージ:カラヴァッジョは出身地の町)について、主として人物像に焦点を当てた解説書。カラヴァッジョは、写実的な絵画の技術と暗闇と光のコントラストで有名で近年その評価が高まっていますが、この本は、作品については、絵としての解説よりも誰の依頼で書いたとか誰をモデルにしたとかその絵がいくらで売れたとかの事実の方に関心を持っています。そしてカラヴァッジョは、ローマで有力者に気に入られ、売れっ子画家として名声を確立しながら、気むずかしく激しやすく剣を持ち歩き度々決闘や刃傷沙汰を引き起こして度々逮捕され、ついには路上で殺人を犯してローマから逃亡し、有力者に匿われながらマルタ騎士団に入って安全を確保するとまた有力者に重傷を負わせて投獄されてマルタからも逃亡するという破天荒な私生活を送り、教皇庁の赦免状を求めつつローマに戻る過程で死亡するという波乱の生涯を送り、著者はむしろそちらに強い関心を持って書いています。著者は、これまでのカラヴァッジョ研究者はカラヴァッジョを特殊視しすぎていると論じ、当時のイタリアの都市や郊外の危険性を考えれば、カラヴァッジョの行動は当時の人間としては珍しくないと指摘し、ゲイだという説は誤りだと断じています。カラヴァッジョの活躍した時代がカトリック側が反宗教改革のためにカトリックの教義を民衆にわかりやすく示す必要があった時期にあり、カラヴァッジョの絵の大半が宗教画でトレント宗教会議の布告にマッチしていたという指摘をはじめ、イタリアの地理と歴史が頭に入っていないと、スッと入らない部分も多々ありますが、歴史読み物としても興味深い本ではあります。

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