私の読書日記 2011年11月
05.飢える大陸アフリカ ロジャー・サロー、スコット・キルマン 悠書館
アフリカでいまだに度々起こる飢餓の多くは人災であることをレポートし告発する本。アジアとラテンアメリカでは小麦や米の品種改良と農業技術の発展からなる「緑の革命」により飢饉が克服され飢餓地帯が穀倉地帯化し、緑の革命の父といわれたノーマン・ボーローグは1970年にノーベル平和賞を受けている。それなのになぜアフリカでは今もなお飢餓が続いているのか、という問題意識から著者は説き起こしていきます。確かに農業技術的にも、小麦や米といった単品種の穀物で農業と主食の供給が可能なアジアやラテンアメリカと異なり、アフリカでは気候が様々で主食も様々なため、気候の変化に強く収穫量の多い品種改良が簡単でなかったこと(トウモロコシの場合、他家受粉のため高収穫品種が開発されても農家は毎年業者から種を買わなければならないという問題も)はあるが、ノーマン・ボーローグと笹川アフリカ協会の活動で、品種改良は進んだ。それで収穫が上がっても、市場が整備されず、輸送手段も保管手段も確保されないために、豊作となれば価格は暴落して農家は買い叩かれ栽培意欲をなくしてしまう。むしろ豊作が続いた後に干ばつが来たときに致命的な飢餓が起こりそこで農家が蓄えもなく種を食糧に回し資産を売り払い没落してしまう・・・ここまでなら、アフリカの各国政府の無策といえるかもしれない。しかし著者の問題意識はそこにとどまらない。むしろ最大の問題は、自由貿易を主張しつつ自国の農家には多額の輸出補助金を出し続ける欧米諸国政府にあるというのが著者の主要な主張である。欧米、特にアメリカの農家は多額の輸出補助金を受け、収穫した農産物を大量に輸出し国際価格を低下させつつ(それが輸出されずに国内にとどまれば国内価格が低下するので、政府はそれを避けて国内農家を保護するために輸出補助金を出し続ける)、自己の収入は補助金で確保できるので生産を増加させるインセンティブを持ち続ける。他方において世界銀行やIMFなどのアフリカ諸国の債権者たちは融資の条件として、アフリカ諸国に対しては農家への補助金を禁止し、小さな政府への構造調整を求める。その結果、アフリカの農家は低下する国際価格との競争に勝てず、アフリカ諸国での農産物市場や輸送インフラ、灌漑施設などの整備は進まず、いつまで経ってもアフリカの農業は育たず農家は飢餓の度に没落していく。欧米の食糧援助は自国産の農産物に限定され、実は地元で大量に余剰を生じているアフリカの農産物が購入されることはない。2003年のエチオピアの飢餓の際にも、エチオピア国内には買い手の付かない余剰穀物があふれている中をアメリカ産の援助物資だけが各地に配給されていた(132〜139ページ)。アメリカからの食糧援助は、アメリカの農家に利益をもたらし、アフリカの農家にさらに打撃を与えている。アメリカの食糧援助は、アフリカの農業を壊滅させてアメリカの食糧に依存させて永遠に食糧援助を受け続けさせるという構図をもたらす。著者が紹介しているマラウイの実例はこの構造の欺瞞と人災ぶりをよく示しています。マラウイで2004年に大統領に就任したムタリカは、世界銀行とイギリス政府の圧力に抗して自国農家に種子と肥料を提供する補助金プログラムを開始した。2005年から開始された補助金はたちまちに効果を現し、2004年に1億1000万ドルの緊急食糧援助を受けたマラウイは2007年には国内需要を全て満たした上で余剰トウモロコシを1億2000万ドルでジンバブエに売却し、さらに飢餓に苦しむ他国のために世界食糧計画にトウモロコシを寄付するまでになった(249〜251ページ)。このように欧米が自国の農家のためにアフリカの農業を抑圧することをやめて、アフリカの農家を支援すれば飢餓を克服することは可能だ、そしてそのことに目覚めた人たち(U2のボノやビル・ゲイツ財団など)がすでに動き始め、欧米も次第に態度を変えつつあるというメッセージで締めくくられています。アフリカの飢餓については、他にもいくつかの原因はあるにせよ、アフリカの農業を支援して自立できるインフラを整備すれば飢餓は克服できる、これまでそれがなされなかったのは欧米諸国の政府とそれに踊らされたアフリカ諸国政府の利害の結果だったというメッセージは力強く、心に響きます。
04.六月の輝き 乾ルカ 集英社
家が隣同士で同じ日に生まれた親友同士だった強がりの外崎美奈子と病弱で優しい瀬戸美耶が、美耶が時間を戻してけがや病気を治す不思議な力を持つことがわかった5年生の夏休み前から疎遠になり、美奈子の父親が倒れて美奈子が美耶に助けを求めるのを美耶の父親が大金を要求して拒否し眠っていた美耶が起きてこず美奈子の父親が死んだときから決定的に決裂し、美耶を憎む美奈子と美奈子の許しを待ち美奈子の指示通りに力を使い続けて衰弱し続ける美耶の関係を中心に、1章ごとに(連載の1回ごとに)語り手を変えて視点を相対化しそのまわりの人々の人生をも描きつつ展開させた青春友情小説。本人が優しく病弱で、働かずにパチンコ狂いの父親と働きに出つつ夫もそして娘をも嫌い娘をネグレクトし続ける母親の下で、虐待されながらもけなげに生き続ける美耶が、理不尽な恨みを持ち続ける美奈子に思いを寄せ続ける姿が、悲しくて切ない。時間を戻す力とその力を使うことで加速的に老いていくという荒唐無稽な設定ですが、そういうことをおいてもあまりにピュアな心情が涙を誘います。本人は勝ち気で、父も母も人間味にあふれ幸せな家庭だったのに父には小学5年生で、そして母にも高校生で先立たれる美奈子の不幸と、それを乗り越えようと強く生きる美奈子の姿にも共感します。荒唐無稽な設定だけど、美耶の母とかいくら何でもこんなのいるかとも思いますが、それにしても第6章と最終章あたりではのめりこんで涙してしまいました。
03.望月青果店 小手鞠るい 中央公論新社
岡山県のひなびた温泉街の青果店の娘として育った鈴子が、病的な近視で「あたしはつぶれかけの果物屋と結婚と鈴子にな、乙女の青春をまるごと奪われたんじゃ」などと憎まれ口を叩き続ける母親を嫌って都会に出て、中年になり盲導犬訓練士となってそこで知り合った目が見えないピアニストの誠一郎と結婚してアメリカに移住し平穏な結婚生活を送っていたところに、母親の病状が悪化して帰国しようとするが、記録的な豪雪の下その計画は危うくなり、その過程を過去の回想と行き来しながら綴る形の小説。鈴子と母親の敵対心というのか埋まらない溝を軸に、幼い頃からの憧れと想いつつ満たされなかった過去の思い出と過去への思いに彩られた隆史との関係、誠一郎との愛と秘めた後ろめたさ、高校時代に憧れていた自立した女性の先輩としての涼香とのつきあいなどの人間関係の交錯が読みどころとなっています。どちらかといえば、基本的にいい人たちの集うハートウォーミングな恋愛小説が多い印象の作者には珍しい、あくの強い母親との嫌悪感に満ちた関係が強い印象を残します。しかし、それだけに母親との関係も隆史との関係も、また鈴子の憧れだった涼香の扱いも、どこか宙ぶらりんな感じのラストは、扱いかねたかと思ってしまいました。
02.曲り角の日本語 水谷静夫 岩波新書
日本語の乱れを指摘し、文化審議会や学校文法の誤りを主張するとともに、言葉はうつろうものという前提で今後の日本語の変化について論じた本。タイトルからは、今どきの若者はと嘆く本かと思いましたが、どちらかといえば若者よりもこれまでの文科省などの方に批判的で、変化自体には寛容な書きぶりになっています。文法論は、数式で表現されたりしていることもあり、私はあまり理解できませんでした。むしろ、今後の予測部分の方に興味を持ちました。格助詞の使い方で、これまで「に」を用いてきたところに、「で」が使われることが増えるとか、「可能」を示すときには「ら抜き言葉」が標準として使われて「ら抜き言葉」にならない「受け身」と区別されてそれはむしろ文法規則としては統一的になり合理的という指摘は、そうだろうと思います。でも、使役は4段活用1段活用を問わずに未然形に「させる」をつける、つまり「行かさせる」「切らさせる」(こういうの「さ入れ表現」っていうんですね。今ATOKの警告で知りました)という形に統一される可能性が非常に大きい(180ページ)とか、サ行3段活用の動詞で「議論する」とか「恋する」は「議論しる」「恋しる」になる可能性がかなりあります(182〜183ページ)っていわれると、衝撃的というかついて行けない感じがしました。「成就するものは恋ではない」(4ページ)とも書かれていますが、私はやっぱり「恋する」心を大切にしたい。
01.片思いレシピ 樋口有介 東京創元社
学習塾で起こった塾講師の殺人事件を、塾に通う小学6年生の柚木加奈子が、お嬢さま同級生妻沼柚子の兄の中学生翔児、事件に強い関心を抱いて金に飽かせて聞き込みを続ける柚子らの祖父、困った担当刑事にも頼まれて動く元警察官のジャーナリストの加奈子の父らとともに調べていくミステリー小説。ミステリーだし、謎解きはしてるんですが、謎解きはちょっと強引で取って付けた感があります。タイトルになっている加奈子の翔児への淡い思いと、それを理解しない翔児のオタク少年キャラも、進展に乏しくそっちをメインに読むのもちょっと。世間離れした勉強嫌いお料理好きの柚子とか、美女好きでだらしない加奈子パパとか、体長1メートルにもなる猫の恋之介とか、一度も実際には登場しないながらおそれられる論客の加奈子ママとかも含めた、濃いというか変なキャラでコミカルな雰囲気を読ませている小説といった方がいいかなという気がしました。
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