私の読書日記  2013年3月

19.刑法総論[第5版] 大越義久 有斐閣
 刑法総論の教科書。
 刑法における「違法性」の概念に行為者の行為態様や内心(意図)に対する評価を取り込むことを避けて、違法性を裏付けるのは「法益侵害」であることを貫こうとする「結果無価値論」をかなり純粋に貫く立場で論じています。結果無価値論は、違法性については客観的に、つまり法益(生命・身体・健康・財産・名誉等)を侵害する結果やその具体的危険があったかどうか、違法性阻却事由では優越する法益の保護等があるかによって判断し、責任の議論で行為者の主観的事情を考慮することになり、結果的には処罰すべきパターンが狭くなります。主観説や「行為無価値論」が処罰すべきでないものをできる限り「違法性がない」として排除しようとするのに対して、結果無価値論は違法と評価しても責任で救えばいいじゃないかという姿勢をとることになります。
 昔、学生時代に、当時少なくとも教科書を出していた刑法学者の中で最も徹底した結果無価値論の立場をとる中山研一先生と自主ゼミを持ち議論させていただいた経験では、中山先生でさえ、結果無価値論の立場をとりつつ主観的違法要素を認めるやや妥協的な立場で有力説でありながら実務では無視ないし敵視されていた平野龍一説に誘惑されがちでした。一学生として刑事実務とか学会のことなど考慮する気も必要性もなく、単純に理論的一貫性から、もっと純然たる結果無価値論を貫くべきではないかと論じていた私の議論と、この著者の説はほぼ同じに思えます(私自身、学生の頃隅々の論点でどう言っていたか、今や忘却の彼方なので、厳密には言えませんが)。当時中山先生が逡巡した論点でもあっさり結果無価値論の必然的帰結と説明する著者の姿勢には一種の悟りの境地さえ感じてしまいました。
 刑法学者として1991年にこの本の初版を刊行した後に一時は大阪地裁で裁判官となり、現在の研究テーマとして学説と実務の架橋を挙げる立場でこの学説を維持することは大変だと思います。健闘をお祈りします。

18.日本を滅ぼす消費税増税 菊池英博 講談社現代新書
 財務省主導の均衡財政目標はデフレ政策であり、そのデフレの下で消費税を増税すればさらにデフレが進行して所得税・法人税の税収が減少しさらなる消費税増税という悪循環に陥り国民の首を絞めてゆくことになると警告する本。
 消費税を導入した1989年から2010年までの消費税総額が224兆円でその間の法人税の減税(税率の引き下げ)とデフレによる減収が208兆円で、結局消費税は法人税の減収分を補填する役割を果たしてきたし、今後も法人税の減税(税率引き下げ)を消費税増税で穴埋めしようというのが「社会保障と税の一体化」の実態だという指摘(24ページ)、消費税の税率を上げれば輸出還付金が増えて輸出額の大きい大企業の益税となり輸出企業にとっては法人税は下がり消費税益税は増え、消費税増税は庶民から取り上げた消費税が大企業の利益となる仕組みになっているという指摘(同)はまったくその通りと、私は思います。
 他方、国内金融機関へのBIS規制の導入や時価会計の導入などの銀行への規制を批判し、銀行の貸しはがしや貸し付けの減少などのデフレ促進方向の行動もすべて政策のせい(49〜50ページ、63〜68ページ)で銀行には責任がないかのような物言い、銀行への公的資金の導入は褒めそやす姿勢(54〜55ページ、109〜110ページ)を見るにつけ、銀行出身の人にこう言われてもねぇという思いがあります。そして、代案はとにかく公共投資を増やせですから、またしてもコンクリートへの回帰、土建国家への回帰というのでは、歴史に学べと繰り返す著者の姿勢とあわせても「いつか来た道」かなぁと感じてしまいます。
 なお、本筋には関係ありませんが、弁護士としてひと言しておくと、2004年1月1日から労働基準法が改正されて解雇が自由化された(62ページ)というのは、法的には明らかな誤りです。労働基準法(現在は労働契約法)の解雇権濫用法理に関する規定は、裁判所の判例で確立されていた考え方を条文で明文にしたもので、解雇について裁判所で判断される基準は改正前後でまったく変わっていません。むしろ、改正前は民法の規定で解雇が原則自由であり、判例でそれが限定されていたものが、明文で合理的理由を要するようになったのですから、法律の条文上は解雇規制が強化された形になります(最初に説明したように、実態は改正前後で変化はないのですが)。

17.トラウマ 宮地尚子 岩波新書
 過去のできごとによって心が耐えられないほどの衝撃を受け、それが同じような恐怖や不快感をもたらし続け、現在まで影響を及ぼし続ける状態(3ページ)を意味する「トラウマ」について、さまざまな観点から解説した本。
 人々がトラウマとトラウマを抱えた人に対して持つ先入観や思い込みに対して、トラウマの影響がさまざまであり得ることを、誤解を受けないようにいろいろ気を遣いながらアピールしています。危険な状況に追い込まれたときに瞬時に闘争か逃走かを選択できずむしろ固まってしまうことは自然なことで、意識や記憶を一時的に失ったり失禁してしまうことは珍しくないとか、「裁判などで『事件の次の日も平気で仕事に行ったのは不自然』ということで犯罪被害の事実が否定されることがありますが、被害者が事件の次の日に仕事に行くというのは珍しいことではありません。どうしていいかわからず、とりあえずは誰にも知られたくないので、予定通りの行動をこなすという人もいます。事件の衝撃のために思考能力が落ち、習慣的になった行動をとり続ける人もいます。あまりに衝撃が強く、感情が麻痺してしまうために、事件後の被害者や遺族が『冷静』に見えるということは、少なくありません」(12ページ)というのは、裁判関係者として頭に置いておきたい指摘です。
 医師として被害者と向き合う中でトラウマが語られることの難しさ、医師・支援者・友人の立ち位置の難しさも随所で語られています。「話をする中で、彼女は時々ぽろっと、私に話していなかった被害内容を打ち明けてくれます。私はそのたびに打ちのめされてしまいます。被害内容の重さやグロテスクさ、その果てしなさ。自分がそこまで聞けていなかった未熟さ。彼女がそれらの記憶に一人で耐えてきたこと。彼女自身も、私に語れるようになるまで、時間をかけながら、少しずつ消化を進めていったのだろうと思います。けれどまだまだ語られていない内容が多くあるに違いなく、彼女の抱え込んだ(抱え込まされた)<内海>の深さに途方に暮れそうになります」(51ページ)。そして被害者の「ただそばにいることの難しさ」を指摘し、傷ついた人のそばに「たたずむ」(寄り添うですらない)ことを語る著者の姿勢に、この問題に長く関わってきた者の経験から来る謙虚さ・慎重さそして優しさがにじみ出ているように思えます。
 後半はさまざまな観点からトラウマと被害者を固定観念から解き放って語ろうとする意図からでしょうけれども、著者の専門・経験からはみ出して無理に拡げすぎた感があり、ぼやけた印象で、前半の鋭さ、周到さとのアンバランスな感じがあります。
 はじめにで「震災のように目立たなくても、心に傷を抱えた人は、あなたのすぐそばに必ずいます。その人たちを無視しながら、震災や事件の直後だけ、被災者・被害者の『心のケア』の必要性を訴えても、あまり意味はありません」「幸い、トラウマは、誰かわかってくれる人がいて、きちんとサポートを得られ、心身の余裕が与えられれば、時間はかかるものの、少しずつ癒えていきます。…もちろん、心の片隅に傷痕や痛みは残り続けることでしょう。起き上がれない日もあれば、誰にも会わずに心を閉ざしておきたいときもあるでしょう。痛みや苦しさをなくすのが目標ではなく、それらを抱えながらも少しずつ生活範囲が広がり、生きる喜びや楽しさを時々でも味わえるようになることが、回復の現実的な目標と言えるかもしれません」と語られているのが、胸に染みました。

16.とうへんぼくで、ばかったれ 朝倉かすみ 新潮社
 職場で50過ぎのおばちゃんから影が薄くてセクシーじゃないと断言されてしょぼくれる42歳独身の榎又辰彦が、札幌で広告代理店で働いていた時代に撮影で立ち会ったことがあるデパートの契約社員23歳の吉田苑美から知らぬ間に一目惚れされる中年恋愛小説。
 最初の章が榎又が話者で、次の章が吉田が話者なので、その後交互に続くかと思ったら、ずっと吉田が話者の章が続き、おいおいとかあれあれとか思います。
 前のめりになり、ストーカーまがいののぼせ方をする吉田を、親友の重量級の前田と軽量級のりえぽんが抑えたりすかしたりのバランスが読みどころかと思いました。
 23歳処女に憧れられ入れあげられた榎又さんの力の抜けたマイペースさ加減というかマメになれないというかずぼらさというかは、元々が「影が薄い」と評価される42歳男としてはそんなもんだろうなぁと思いますが、それに対する吉田の思いを見ると…あぁそうだよね、人の振り見てわが振り直せだなぁと、ちょっと背筋を伸ばしてしまったりします。

15.自殺の国 柳美里 河出書房新社
 家庭では受験生の弟にかまい続ける母と弟から不倫中と聞かされた父親に囲まれ、学校ではいつも一緒の5人グループとのつきあいに疲れ、特段虐待されているわけでもいじめられているわけでもないけど疎外感を持つ高1の市原百音が、掲示板の自殺スレで知り合った人々と自殺を試みるという小説。
 甘え気味やしらけ気味のお子様言葉が交じり、女子高生ってこういう文章書くよなぁという気もするし、いゃこういう物言いはしないだろという気もして、どちらにしても読んでて恥ずかしい気持ちになります。
 小説全体の半分くらいが、駅や電車のアナウンス、テレビ等の音声、周囲の知らない人々の切れ切れの会話などのノイズで、それは主人公の心象風景なり気分の描写の側面もあって、一定の効果はあるのですが、読んでいてどこか水増し・手抜きの印象が残りました。

14.6日目の未来 ジェイ・アッシャー、キャロリン・マックラー 新潮文庫
 イケメンの陸上部の先輩に憧れつつチャライ男とつきあっている高校2年生のエマと、隣に住む幼なじみの高校1年生のジョシュが、1996年に15年後の未来のfacebookを発見し、そこでエマは結婚生活に絶望し、ジョシュは学校一の美少女と結婚しているという未来を見て驚愕・動揺して悩むという青春恋愛小説。
 15年後の未来がわかるという設定はSFですが、エマが何かをする度に15年後のエマのfacebookのプロフィールや書き込みが変わっていき、バタフライエフェクト(ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスでトルネードを引き起こす)が現実のものとなるのを目の当たりにし、それに一喜一憂する様子の方がテーマになっています。未来を知ることの驚きや絶望も、未来がこれだけあやふやなものなら、知っていても知らないのと同じことじゃないかと思えます。結局は、未来を知るというのは素材・道具となっているだけで、普通に青春している男女の恋愛小説とも読めます。
 作者が男女のペアで、語り手はエマとジョシュが交代で担当しています。私は自分が男性なので、ジョシュの側の視点で読みましたが、この分担がどちらの読者にも入りやすくしているかもしれません。
 ジョシュの立場で、幼なじみの1つ年上のエマを好きな気持ちがあり、半年前に思いを打ち明けてキスしようとして親友なのにと断られて気まずくなったことを後悔し続けているという状態で、学校一の美少女と結婚している未来を見せつけられて現にその美少女から誘われた場合、悩ましいでしょうね。しかも、その美少女も、小説でありがちな、美人だけど性格が悪いという設定じゃなくて、いい子だということになると。そういう実生活では味わえない贅沢な悩みを考えさせてくれるのが青春小説のいいところでしょうか。

13.頼むから、ほっといてくれ 桂望実 幻冬舎
 トランポリンのオリンピック日本代表選手とそのライバルたちの少年時代から青年期、社会人時代と引退、その周辺のコーチや審判員、協会の広報担当者らの人生の選択と思いを切り取る形でつなぐ短編連作群像劇風の小説。
 競技での、そして人生での勝者と敗者、ある局面での選択とそれについての思いを、それぞれの視点から描いたショートストーリーで、ちょっと鼻がツンとくるような切なさを感じさせてくれます。その切り口は、巧いなぁと思います。
 他方、連載でもないのに、視点と時期が跳んでいるのは、読んでいて生まれた感情と感傷がぶつ切りになり居心地の悪さを感じさせます。スポーツをテーマにしていながら、大一番の競技会のクライマックスの描写を避けているのは、あさのあつこの「バッテリー」同様、スポーツではなくスポーツの選手・関係者の人間を描きたいんだという主張でしょうけれど、読者としてはフラストレーションがたまります。

12.結婚 井上荒野 角川書店
 結婚詐欺師古海健児とその周囲の女たちの関係と執着と怨念を描いた小説。
 誠意のかけらもない結婚詐欺師をめぐって騙された女たちが同じように騙された女に見栄を張り争う様子や、騙されたことが明らかなのにそれを認めたくなくて結婚詐欺師を捜し求め、あるいは待ち続ける女たちの様子は、痛ましくまた寒々としますが、まぁこれは想定内です。結婚詐欺師に騙された既婚の女たちが捨てた夫と崩壊家庭も同様です。結婚詐欺師とうすうす感づきながら素知らぬ顔で結婚生活を続ける妻と詐欺の相棒を続けながら結婚詐欺師に飽きられて女としては相手にされなくなったことに嫉妬して妻に嫌がらせ電話をかけ続けるるり子も、小説としてはそういう設定に行くかなとも思えます。しかし、10年も前に結婚詐欺師に妻を奪われ、2年前からバツイチ同士でつきあっている女性と円満な関係を続けながら、なお自分を捨てた元妻の電話を待っている月島恭輔は、いくら小説の中でも哀しすぎる。いや登場人物がみんな哀しさ・侘びしさを背負ってはいるんですが、多くの人はどこか自業自得と思えますから、まぁしかたないんじゃないのって思うんです。月島の場合、どうして10年も前に男を作って出て行った妻に引きずられるのって、そう思ってしまう。それは、自分がおじさんだからなのでしょうけど。

11.ウェブでの<伝わる>文章の書き方 岡本真 講談社現代新書
 「Yahoo!知恵袋」での経験等からウェブサイトで、「伝える」のではなく相手に「伝わる」(読まれかつ理解される)文章の書き方を論じた本。
 ネットでは書かれた文章がいつ読まれるかわからず、特に用済みになっても消されずに残ることが少なくないことから「いつ」について注意して年月日を記載すべきこと、本等のように全体をざっと眺めたりぱらぱらめくることが困難なので最初の方で全体の見通しやステップを説明することがわかりやすさに通じるなどの、ウェブ特有のアドバイスはなるほどと思います。
 その他の点は、ネットに限らず文章全般かなと思うことが多いですが、文を短くする、改行を増やす、箇条書きを活用する、画像を活用する、変化を明示するなど、心がけておいた方がいいところかなと思います。現実にサイトで記事を書くときどれくらい実行できるかは心もとないですが…

10.原発アウトロー青春白書 久田将義 ナックルズ選書
 福島原発で地震前から働き、原発事故後復旧作業に従事する作業員4名の話で現場の状況や作業員の心情などをレポートした本。
 インタビューの中には、地震直後に原発内で配管が破裂するような音が聞こえた(59ページ)などの話もあり、東京電力が聞き取って都合のよさそうなところをつまみ食い的に報告書に掲載した「現場の声」で吸い上げられていない現場の情報がまだ相当埋もれていることが垣間見えます。
 作業員たちは、事故後の原発で復旧作業に従事する動機を金のためと述べてはいますが、原発で作業してきた者として復旧のためにできることをしないと、自分たちがやらなくてどうするみたいな使命感が感じられ、生まれ育った故郷の地への思い、家族への思いがそれを支えているのだと思います。負い目とかしがらみという言い方もできますが、ある種愚直な誠実さがあって、損なことやってるよなと思いつつ笑える人々がいて、それで社会が成り立っているところがあるのだと思います。それで、人間、捨てたもんじゃないとも思えるのです。
 そうした作業員の故郷の汚染と共同体の崩壊を嘆く声、帰還への絶望感には、読んでいて胸をかきむしられるところがあります。私には、それはストレートに彼らから、そして十数万人の人々から故郷を奪った東京電力への怒りとなるのですが。
 4名の作業員への取材だけで書かれていることから、作業員の多くの置かれた状態を代表するといえるかはわからず、基本的には、作業員の労働環境と心情の実例の1つという位置づけで読むべきですが、現場の作業員に目を向ける契機として貴重なものだと思います。

09.検証 福島原発事故・記者会見 日隅一雄、木野龍逸 岩波書
 福島原発事故後、東京電力と政府の記者会見に足を運び続けた2人の著者が、記者会見場でのやりとりから判明した東京電力と政府の情報公開の姿勢と両者がいかに情報を隠し誤った情報を流し続けたかをレポートした本。
 第1章では、事故直後の時点でメルトダウンの可能性が高いことを予測しながら、初期にメルトダウンの可能性を素直に認めた中村幸一郎審議官を広報担当から外し、交代した西山英彦審議官に炉心溶融を否定する発言を続けさせた保安院と、保安院と歩調を合わせて松本純一原子力立地本部長代理に炉心溶融ではなく炉心損傷と説明させ続けた東京電力の姿勢が描写されています。ここでは、メルトダウンを予測しつつそれを隠蔽して虚偽の情報を流し続けた保安院と東京電力の姿勢があらわにされていますが、5月中旬に東京電力と保安院が立て続けにメルトダウンを認めたことについては、マスコミ同様に、「ついに認めた」という評価になっているのはちょっと残念な気がします。保安院と東京電力が2011年5月中旬になって一転してメルトダウンを認めるとともに事故発生直後にメルトダウンしていたと主張し始めたのは、そういうストーリーにしないと特に1号機で地震による配管損傷を否定しつつ早い時期に格納容器圧力と原子炉圧力が同レベルになったことを説明できないからではないかと私はずっと疑い続けています。保安院と東京電力が早期のメルトダウンを認めたことは、潔さではなく、新たな別の隠蔽ではないかと。まぁ、そこは「記者会見場でのやりとりから」は明らかにされていませんからこの本の範囲外ですが。
 第2章では「SPEEDI」の放射性物質拡散予測等のデータを公表せずに住民の被ばくを増やしながらその責任の所在を曖昧にし続ける政府の姿勢を、第3章では現実には以前から各所から設計の基準としている津波よりも高い津波が来る可能性を指摘され自身でもその解析をしていた東京電力が「想定外の津波」と言い続けた姿勢を追及しています。
 また、東京電力が賠償指針を検討する原子力損害賠償紛争審査会に対して要望書を提出した問題が報じられた際に記者会見でその要望書の公表を求められて、そのような約束がないのに「先方との関係があるため公表できない」と意図的な虚偽説明をした事実も書かれています(149〜150ページ)。調査すればすぐ露見するような嘘をつくはずがないから意図的な嘘と考えることはできないとかいう報告書を出した「第三者委員会」もあったようですが、東京電力は調査すればすぐ露見するような嘘を平気でつくんですよね。もう少し東京電力というところがどういうところか調査してから報告書を出して欲しいものです。まぁ、私も、この本が出てすぐに読んでいれば、広報部長でさえ記者会見で平然と意図的な嘘をつくのなら企画部部長も嘘つきだろうと考えることができて、騙されずにすんだかと思えますから、東京電力の嘘つき度についての調査不足に関しては他人のことはいえませんが。
 そういった点も含め、東京電力や政府、そしてまたマスコミが福島原発事故をめぐる情報についてどのような姿勢をとってきたのか、これらをどの程度信用できるのかなどについて示唆に富む一冊でした。

08.原発と裁判官 磯村健太郎、山口栄二 朝日新聞出版
 朝日新聞記者が、これまでに原発訴訟に関与した裁判官に対して行ったインタビューなどをとりまとめた本。
 住民側が勝訴した2判決を書いた裁判官のインタビューでは、審理の過程でのできごとについて、次のようなことが語られています。「原発のような危険な施設を扱っている電力会社としては、多くの地震学者が集まって調査した結果、M7.6の地震がありうると言うのであれば『念のためそれを前提とした耐震設計をしましょう』という謙虚な姿勢になって当然だと思うんです。ところが、政府の地震調査委員会の分析の方が間違っている、自分たちが正しい、と主張する。甘い想定で『安全だ、安全だ』と声高に言っても裁判官はそれに乗るわけにはいきません。そのこと自体が、電力会社の姿勢としていかがなものかと思いました」(102ページ:志賀原発2号機訴訟1審裁判長)、「申請者がさまざまな場面で計算した多数の解析について原子力安全委員会が『これをもっと厳しい条件下で計算し直したらどうなるのか』と要求したことがあるのかどうかを、証人である原子力安全専門審査会委員に聞いています。すると『そういうことを指示したことは一度もない』というのですから、驚きました。国は、『極めて厳しい条件でやってますから、それ以上の厳しい条件を設定して、計算させる必要はなかった』という。だけど、設計時に動燃がおこなったナトリウム漏れ事故の解析は甘く、不十分なものであったのですから、こんな審査のあり方で大丈夫かという不安を持ちました。このあたりが原子力安全委員会に不信感を持つ一因となりました」(141〜142ページ:もんじゅ訴訟2審裁判長)。このあたりの電力会社と国の傲慢さ、杜撰さが裁判所の心証に強く影響したのですね。裁判官の受け止め方として、ごく普通の素直なものと思えます。この2つの判決は、裁判官が、通常の民事事件で裁判官が持つ素直な心証を維持できたから実現したものだということがわかります。ほかの原発訴訟でも、同じようなことはあるのですが、そこでは担当した裁判官が同じようには考えてくれなかったか、そのような考えがどこかにしまい込まれたかしたのでしょう。
 住民敗訴の事件を担当した裁判官のインタビューでは、福島原発震災後に今だったら…と語る裁判官よりも、女川原発訴訟と志賀原発1号機訴訟の上告審を担当した元原利文元最高裁判事が「事件の詳細はよく記憶していません」(172ページ)、「2件の原発訴訟についても審議した記憶はありませんからおそらく調査官の意見通りに『上告棄却』となったケースだろうと思います」(174ページ)と述べていることに、私は衝撃を受けました。原発訴訟の上告審判決が、いわゆる持ち回り審議事件で、事実上調査官報告書だけで裁判官が議論することさえなくなされていたようなのです。最高裁が原発訴訟で国策に反した判断をすることまでは期待できないでも、せめて裁判官が議論を尽くして判断して欲しいし、またせめて裁判官がこの判決は原発訴訟なのだということを意識した上で判決をして欲しかったと思います。その程度のことでさえ、贅沢な希望だったのでしょうか。

07.希望(仮) 花村萬月 角川書店
 1978年春の入試で東大を受験する山下幸司が受験前にさまよい歩いた山谷で知り合った手配師からもらった名刺を試験中にポケットから出してカンニングを疑われて失格し、うちに帰れず山谷を放浪するが仕事にもあぶれ、名刺を頼りに連絡して福井県の原発に作業員として送り込まれ、その後沖縄の山奥での道路工事の作業をする中で、底辺の労働になじんで行く様子を描いた小説。
 冒頭の1978年春の大学受験という設定に、その当事者であった私(受験した大学は違いますけど)はまず引き込まれ、次いで、しかし私とは年齢が明らかに違う作者がどうしてその年に設定したのかという疑問を持ちました。単行本の小説につけられた仰々しいあとがきに、「この作品では『原発ジプシー』というすばらしいテキストを借りて底の底から日本を描き」とある(350ページ)ように、前半の原発でのエピソードと描写は『原発ジプシー』からほぼそのまま持ってきています(以下『原発ジプシー』のページ数は現代書館の単行本旧版:「増補改訂版」でないもので示します。手元にある本がそれなもので(^^ゞ・・・増補改訂版や文庫本ではページ数が違うかと思います)。ホールボディカウンターでの測定のエピソード(100〜101ページ)は『原発ジプシー』23〜26ページ、熱交換器での作業(105〜109ページ)は『原発ジプシー』30〜36ページと46ページ、放射線管理教育(110ページ)は『原発ジプシー』43ページ、食堂の差別のエピソード(120ページ)は『原発ジプシー』74ページ、ピンハネの話(122ページ)は『原発ジプシー』84〜85ページ、管理区域入域のエピソード(123〜124ページ)は『原発ジプシー』76〜80ページ、プール内作業の説明(124ページ)は『原発ジプシー』67ページ、洗濯と赤ランプのエピソード(125〜127ページ)は『原発ジプシー』114〜116ページ、使用済み燃料ピット除去工事付属品除染・片付け作業とその際に水漏れの拭き取り作業もさせられたというエピソード(128〜130ページ)は『原発ジプシー』101〜105ページに、それぞれディテールまでほぼそのままのエピソードが書かれています。『原発ジプシー』の、この作品が「借りた」美浜原発でのエピソードはすべて1978年のエピソードで、原発での労働も時期によって条件が異なってくるため、この作品の時代設定は1978年になったのだと納得できました。いかに小説であり、あとがきで断っているとはいえ、ここまでディテールまでそのままということには、ちょっとあきれました。
 この作品で作者は、「原発ジプシー」のエピソードをほぼそのまま書き並べて原発労働の過酷さを描きながら、他方で「原発反対を訴える人は、とりあえず自動車の運転をやめてほしい」(104ページ)、「正直なところ、反原発運動に対しても、僕は微妙な違和感を覚えてしまうのだ」(156ページ)などと主人公に語らせ、あとがきでは「同時に私は反原発運動とやらに邁進する人たち、とりわけ市民を自称する人たちにも言い様のない薄気味悪さを覚えさせられた」「ともあれ私の仕事は、正論を吐いて悦に入ることではない」(350ページ)と述べています。よほど反原発運動が嫌いらしく、あるいは自分が反・脱原発側と見られることを避けたいらしい。しかし、それなら、自分は1970年代から「原発ジプシー」に感銘を受け、原発を荒廃の象徴と考えてきたとあとがきで強調している作者が、30年以上もそのことを書かずに今になってこういう作品を書くのはなぜかと思います。リアリティがあり問題提起を感じる部分は『原発ジプシー』を「借りた」部分ばかりというきらいはありますが、それでも『原発ジプシー』を知らない人に感じさせるところはあるだろうと思われます(この機会に『原発ジプシー』を読んでもらえればもっと本物の感銘を受けられるでしょうけど)。せめてこういう言い訳がましいあとがきがなければと思いました。

06.学問の技法 橋本努 ちくま新書
 読書の仕方や勉強の仕方など大学で学ぶコツについて解説した本。
 学問は勉強とは根本的に異なり、答えの確定していない新しい問いを発すること、自分で問いを立てその問いに対して創造的な応答を挑むところに醍醐味がある(17〜19ページ)と述べ、「哲学を志す人たちは、どこか不良で、言葉に凄みがある。・・・学問というものが『勉強の否定の上に成り立つ』ことを示してくれるのは、かっこいい不良少年タイプの哲学者たちではないだろうか。彼らの生き方から学ぶことは多い」(31ページ)などという、独創的な学問ワールドへの誘いかと思える導入部は、なかなか魅力的です。
 しかし、この本の本質は学習のテクニックで、tips/小技集として読むべきものです。志を語る部分はありますが、それも後半では大学の先生に認められる手堅さへと傾斜していき、しぼんでいく印象があります。そのあたりは、導入部でも「大学で学ばなかった人は、企業でも使えない」(26ページ)なんて太字で就職志向の学生に脅しと媚びを示しているあたりにも垣間見えますけど。
 全体を通じて共通するように見えるスタイルは、型から入ることのようです。読書法でも「大学のキャンパスでは、読書に適した場所を、ぜひとも見つけたい。木陰に座って、かっこよく本を読む。あるいは、長椅子に腰掛けて、夕暮れ時に孤独に読書する・・・読書する自分の姿に酔うことができる人は、読書力と読書量を伸ばしていく」(106ページ)という下りは、ちょっと目からウロコ感があり、感心しました。もっとも、そういった後でまた「環境や気分に囚われないようにする」「いつでもどこでも読書できるだけの野生を身につけたい」(115ページ)なんていわれると、場当たり的というかつぎはぎ感がありますけど。
 それにしても、大学生を読者に想定したこの本の、最初の言葉が「あしたのために(その1)」です。一般的な言い回しとしてじゃありません。著者自身、私は丹下段平の役割を引き受けたい(13ページ)、パンチのある感情がどのようなものであるかを知るためにはたとえばマンガ「あしたのジョー」を読まなければならない(212ページ)とまでいっています。たまたま読んだ本が2冊続けて1960年代生まれの40代男が若者相手に書いた本で「あしたのジョー」を引用してるのは、どういうことなんでしょう。若者の間で「あしたのジョー」がブームなのか、1960年代生まれの男には「あしたのジョー」が人生のバイブルなのか・・・

05.魔法使いは完全犯罪の夢を見るか? 東川篤哉 文藝春秋
 39歳独身の美貌の上司に蹴られたいと妄想するどM変態若手刑事が、殺人事件の度になぜか遭遇する襟元と袖口に純白のレースのついたレトロな濃紺のワンピースを着た三つ編みの美少女魔女といがみ合いながら魔法の力と若干の推理で事件の謎を解く、ミステリー小説。
 犯人は最初から明らかにされ、犯人の工作を主人公と魔法少女がどうやって暴くかということと、魔法少女と主人公の絡みを読ませるタイプの小説です。
 主人公のキャラ設定、魔法少女の(ロリータっぽい)設定を見ても、ターゲットは若年のオタクだと思われるライトノベルなんですが・・・「マリィは右手の人差し指を高々と掲げ、ワンラウンド、いや一分だ!と力石徹の名台詞を口にするかと思いきや」(49ページ)とか、「ワゴン車はまるで星飛雄馬投じるところの大リーグボール三号が相手のバットを間一髪避けるがごとく、特殊な軌道を描いて蛇行した」(89ページ)とか、作者の年齢はさておき、どういう読者層を想定して書かれてるんだこれはと思ってしまいます。60年代少年漫画で育った中年おじさんがこれを読むかって、まぁ私は読んでるわけですが、決してそれは多数派ではあり得ないだろうに。

04.過労死のない社会を 森岡孝二編 岩波ブックレット
 過労死防止法の制定を求めるグループがシンポジウムでの発言等をまとめて過労死について問題提起する本。
 休まず働くことを美徳とする日本社会で作られた道徳観への疑問や、一方で非正規雇用の増加や「サービス残業」により労働時間が統計上は減少していながら現実にはリストラや就職難を背景に正社員は過酷な長時間労働を強いられ職場の精神的ストレスも強くなって過労自殺が増えているという状況が解説され、労働時間規制があっても36協定(労働基準法36条により労使間で協定をすると法定労働時間を超えて労働させられる制度)により骨抜きにされたり不払残業がまかり通るなどの労働関係法規の違反への制裁が実効的になされない現状への問題提起から過労死防止法の制定を求めるアピールにつながっています。
 「日本海庄や」の従業員の過労死や「和民」の従業員の過労自殺の事例とそれに対する使用者の冷酷さが紹介され(24〜28ページ)、遺族の悔しさに涙しますし、こういった企業への対処は考えさせられます(個人的には、利用は避けています。もっともほかの居酒屋も似たり寄ったりかもしれないとは思いますけど)。

03.公務員の窓口・電話応対ハンドブック 関根健夫、鈴鹿絹代 学陽書房
 公務員が窓口で訪問者への応対をするときや電話で応対するときの対処法について説明した本。
 窓口では応対を始める前から見られている(休憩時間も気を抜くな、職員間の会話にも気をつけろ)、表情や話し方・声の大きさ・トーンや態度(肘をつくな、足を組むな)・身だしなみ等の第一印象の重要性、1人1人が役所の顔だという意識など、客の目線を使用者側から意識したアドヴァイスが最初に置かれ、重要視されています。それ自体は、客への影響という観点からは正しい指摘ですが、労働者に対する労働と管理の強化でもありますし、顧客の苦情をうわべの印象と労働者の奉仕で緩和しろという使用者側の要請でもあります。
 顧客の苦情自体については、「公平・誠実な対応」とはいうものの要するに基本的に役所が決めたことは断固として押し通すということで、妥協はせず、丁寧に説明して諦めさせろということになっています。窓口としては、誤解を与えない(むしろ言質を与えないでしょうね)ということに努め、あとは客が気を悪くしないようにという点を言い方や態度について事細かに指示しているというように、私には読めました。
 言い方や態度で無用の反感を買ったり顧客の不快感を増すことはあります(現にそういう態度の人は少なからず見受けます)から、それをなくすということは、役所にとっても企業にとっても、そして顧客の側にとっても、有益なこととは思いますが、そこが重視されることは、慇懃無礼な役人の作法を完成させるだけという気もします。

02.スマートフォン仕事革命 永田一八、飯塚直 マイナビ新書
 スマートフォン未体験の人を対象にスマートフォンのメリットを説明して切替を薦める本。
 ビジネス書の通例ですが、基本的にはわかりやすく書かれていますけど、読まなくてもわかる話を延々とくどく繰り返し、肝心なところ、読んでいて知りたいと思うところはあまり詳しくない印象です。スマートフォンの登場する前の経緯は何度も繰り返してさまざまなたとえ話も入りわかりやすく説明されていますが、それはもともとこの本で読まなくたって大方わかる話です。それも知らない人向けに書かれているのだとして、肝心のスマートフォンで何ができるか、使い勝手はどうかというあたりは、抽象的な説明が多く具体的な話とか自分の体験談の類が見られず、読んでいてスマートフォンに切り替えたときのメリットが具体的にイメージしにくく思えました。
 親切に書こうとする意思は見えるのですが、それぞれの項目で、あと少し具体的に説明してもらえれば、あと一歩踏み込んで書いてもらえればという思いが募り、私には、この本を読むことでスマートフォンを使おうという気持ちは生じませんでした。

01.欧州のエネルギーシフト 脇阪紀行 岩波新書
 EU諸国の原発とエネルギー政策についての過去と現在の決定・方向性とそれにまつわる諸事情をレポートした本。
 国民の賛否では原発反対の方が多いのに水力・風力資源に乏しくロシアへのエネルギー依存からの脱却を優先して原発を推進するフィンランド、1980年の国民投票で原発の段階的廃棄を決めながら不況と政権交代で脱原発が形骸化しているスウェーデン、技術系エリートと中央集権に支えられた原発推進一辺倒から福島原発事故後意見の対立が表面化し原発依存度の抑制の議論が出て来たフランス、サッチャー政権下の民営化で大手電力会社は外資系になり政府は地球温暖化対策で原発推進を志向しながら市場原理の結果四半世紀原発の新設がなく他方で明確な脱原発を宣言するスコットランド自治政府を抱えるイギリスといった、現在脱原発をいわない国々の事情が最初に紹介されています。次いで、社民党・緑の党連立政権下での脱原発政策を転換しようとしていた中道保守政権が福島原発事故を見て2022年までの全原発閉鎖を閣議決定するに至ったドイツ、国民投票で脱原発を(再び)決めたイタリア、国民投票をせず2034年までの全原発閉鎖を閣議決定したスイスの、福島原発事故後に脱原発を決定した各国の事情が紹介されています。
 脱原発に舵を切らない国でも、スウェーデンでもイギリスでも政府は原発に資金援助をしないことを決めています。またどの国でも温暖化ガスの削減に厳しい目標を立てていますし、風力発電、太陽光発電などの再生エネルギー促進を政策として掲げ推進している様子がうかがえます。地球温暖化対策を原発延命の免罪符程度にしか考えず風力発電などの再生可能エネルギー促進を真剣に行わずいまだに原発に多額の財政援助を続けながら、脱原発は現実的ではないといいたがる政権は、世界的には今や特異な存在に思えます。
 原発の運転停止を免れるために点検記録を捏造したり偽造ビデオを検査官に見せた「ひび割れ隠し問題」のときにも思いましたが、送電線の独占と地域独占がなければ当然潰れて然るべきとんでもない電力会社が、今もなお、一地方の社会さえも潰すような国民に大きな犠牲を強いる大事故を起こしながらウソと傲慢な姿勢で原発存続を平然と言い続けるようなことが、日本ではなぜできるのか、改めて考える必要があると再認識しました。

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