私の読書日記 2013年6月
22.麻酔はなぜ効くのか? 〈痛みの哲学〉臨床ノオト 外須美夫 春秋社
手術の際の麻酔の重要性と怖さ、麻酔科医の職務などについて、著者の経験を元に説明し論じた本。
麻酔科医は、手術の際に患者に麻酔を施し、麻酔の結果生命維持にまったく無防備となっている患者の状態を監視し特に呼吸と血液循環を維持しつつ、外科医の手術を見守るという役割で、その立場からの経験で書かれた前半が、大変興味深く読めました。
2004年には世界中で約2億3000万人が手術を受け、外科手術全体の3〜17%で合併症が発生し、手術の合併症で動けなくなる患者数は世界中で700万人にもなり、手術で亡くなる患者数は100万人にも上る(47〜48ページ)。手術自体の危険性も相当程度ある訳です。以前は手術室に入る前に麻酔をしていたが、患者の取り違え事件を契機に手術室に入ってから麻酔をかけるようになった(46〜47ページ)。1960年代は数%、1970年代も10%以下だった帝王切開が最近は15%を超えるようになった。その原因は母子の安全をより重視するようになったことにあるが医療事故・訴訟を恐れて増加しているという一面もある(87〜88ページ)。最近はナビゲーションシステムを利用して手術が行われるようになっている。手術中にどの場所にメスを入れてどの方向に切り進んでいけばよいかをコンピュータ処理した大がかりな装置が教えてくれる。レーザー光線が道筋を教えてくれるのでそれに従って進めばよい。外科手術の確実性と安全性の向上に技術革新が果たしている役割は計り知れない。それにしても、最近は、徹夜が続こうが、泥まみれになろうが、自分が患者さんを救うのだ、自分が責任を持って患者さんの命を預かっているのだというような責任感や執念があまりに希薄になっているようにも思われる(99〜100ページ)。内視鏡手術は切開が少なく出血も少なくて患者の負担が小さく画面を拡大することで細かい手技ができる、画像で情報を共有できるので参加者の知恵を集めやすい、録画により客観的な評価や患者への説明の透明性も確保できるなどいいことづくめに見えるが、腹部の鏡視下手術では腹腔内にガスを注入しておなかを膨らませて手術を行う必要があり、ガスの引火や静脈内への誤注入によるガス塞栓、胸腔内への流入による気胸、徐脈や血圧低下などのリスクはあり、またガス注入のために全身麻酔をかけるので麻酔そのものによるリスクはあり、麻酔科医はカメラの撮影範囲外で何が起こっているかへの注意を怠ってはならない(104〜107ページ)などの指摘は頭に入れておきたいところです。
巨大頸部リンパ管腫で呼吸困難な患者の手術を吸入麻酔後気管挿管する計画で実施したところ咽頭部が腫瘍に押されて変形していて気管の入り口が確認できず気管挿管に失敗し気道確保もできず患者が亡くなって、落ち込み、麻酔科医の道を続けるべきか迷った経験を述べる部分(65〜68ページ)は、命を扱う仕事の辛さと重圧を実感させます。帝王切開で採りあげた赤ん坊が呼吸せず気管挿入にも失敗した後に呼ばれた件で、すでに呼吸停止が長いことから気管切開しても脳の後遺症は避けられないのではないかと迷った末に気管切開して蘇生した結果、後遺症もなく育ち、20年後に再会した話(68〜72ページ)も、この仕事の重さを感じさせます。
後半は次第に哲学的な話になって行き、好みの分かれるところかもしれません。痛みを取ることを重視しすぎて安易に麻薬を処方する傾向に苦言を呈し、ある程度の範囲で痛みと共存することの意義を述べるあたりは、私は共感しました。
21.誰も知らない「無添加」のカラクリ 西島基弘 青春新書
食品添加物について、巷間流布されている誤解をただすことを目的として説明した本。
著者は長らく東京都立衛生研究所に勤務し、日本食品衛生学会会長、厚生労働省薬事・食品衛生審議会添加物部会委員などを歴任し、基本的に行政の立場から、食品添加物の許可は慎重になされており、「安全性の確認はこれ以上ないほど厳密に行われています」(149ページ)、1日あたり摂取量は人間が毎日一生食べ続けても健康への悪影響がないと認められる量(152ページ)で、実際に食品メーカーが使用する食品添加物は許可量よりも少ない量しか使われていないことが多い(153ページ)、検査機関が抜き取り検査を常時行っており検査件数は東京都だけでも年間5万件近くに上るが過去基準値オーバーで回収・廃棄された国内製品の例はほとんどありません(153〜154ページ)などと、食品添加物と市販されている食品の安全性を強調しています。
しかし、検査で違反がほとんどないといっているのに、東京都内で食肉へのニコチン酸添加(鮮度のごまかしのため)による中毒が発生したので食品衛生検査員が調査したら30軒の食肉店からニコチン酸を使用した肉が発見されたという話が紹介されています(164〜166ページ)。これはまさに実際には違反例があるのに被害が出るまで検査では発見されなかったということを意味しています。
そして、著者は、天然の食品由来の化学物質でも化学的合成品でも体に入ればまったく同じ(26ページ)、「添加物の亜硝酸も、自然の作物の亜硝酸も体に入ればまったく同じだということがはっきりわかっています」(120ページ)と断言し、遺伝子組み換えも品種改良も同じだ(88〜91ページ)としています。その化学物質だけを取ってみればそうかもしれませんが、天然の食品にはさまざまな物質が組み合わされて含まれ微量元素も含めてその組み合わせでの摂取が長年続けられて、その過程で安全性が試されてきています。工業的に合成した化学物質は、製造工程で食品由来とは異なる不純物を伴うこともあり逆に不純物・微量元素なく純粋に製造されたりします。その人体への影響は天然の食品としての組み合わせで摂取したときと必ず同じとは限らないと、私は思います。品種改良も、10年20年とかけてなされる過程で生物としての安定性や安全性が確認されていくわけで、ごく短時間の操作で特定の遺伝子のみをいじる遺伝子組み換えよりも安全性についての信頼度が高いと考えることを誤りだという気には、私はなれません。
また、食品添加物の相乗作用について「何種類もの食品添加物を同時に摂取した場合、その毒性が『足し算』で増えることはあっても、『掛け算』で増えていくということはありません」(145ページ)としています。しかし、食品添加物を複数同時摂取した場合の健康影響についての実験は行われていないと思いますし、少なくともすべての組み合わせの実験が行われているとは到底考えられません。この著者は、なぜこのように言いきれるのでしょうか。
ビタミンなどは食品添加物名(ビタミンB1はチアミン塩酸塩、ビタミンB2はリボフラビン、ビタミンEはトコフェロールなど)で記載すると敬遠されるのに、同じ物質がサプリメントや健康食品としてありがたられる(22〜24ページ)とか、微生物は水が好きなので濡らすと繁殖するため洗ってない手より雑に洗った手の方が微生物数が多い(79ページ)という指摘には、なるほどと思いましたけど。
20.死刑囚弁護人 デイヴィッド・ダウ 河出書房新社
アメリカでも突出して死刑執行が多いテキサス州で死刑囚の弁護をする非営利事務所で100人以上の死刑囚を弁護してきた元弁護士が、死刑囚弁護の現実を語るノンフィクション。
作品としては、最初の方は、いくつかの死刑囚のケースをつぎはぎしつつ、仕事上の都合で息子との約束を果たせず妻に批判され、他方で同業者だった妻の理解と抱擁に慰められる家庭生活を描いて、著者の日常スタイルを固めた上で、後半は無実を主張する死刑囚ヘンリー・クエーカーのケースに収斂していきます。前半は少し散漫な感じがしますが、後半はリーガル・サスペンス小説さながらの展開で一気読みしたくなります。
1審で死刑が宣告された死刑囚の弁護という、頑張れば頑張るほど世間とマスコミに嫌われるとともに、自分の弁護活動に人の命が直接にかかっているというプレッシャーがかかるとてつもなくストレスを受ける業務を、長年にわたり多くは複数件を同時並行でこなしてきた著者の職人魂にまず脱帽です。
負けるのが当たり前の死刑囚弁護で、大半が無駄な手続と書類作成を執念深く繰り返し、ギリギリまでまだ何かできることがあるか、忘れていることはないかと自らに問い返し続ける徒労感・絶望感と胃が痛くなるような焦燥感の描写は、同業者として身につまされます。業務の都合で家族との約束をすっぽかし恨まれる下りは多くの弁護士が身に覚えのあるところと思えますが、それでも理解を示し深い愛情を注いでくれる元弁護士の妻に慰められるシーンが多々あるのは多くの弁護士には夢のような…死刑囚とかの事件関係者については守秘義務の関係で設定を変え事実関係も複数を組み合わせるなどしているでしょうけど、家族については実名のようです(謝辞と同じですし)から、現実にはあったであろう修羅場が相当に省略されているだろうと想像しますけど。
ノンフィクションとして気になるのは、著者が、弁護する死刑囚の死刑執行停止を担当する女性裁判官から誘惑されるシーン。ホテルのバーに呼び出され、部屋の鍵まで示され、「来て」と彼女は囁いた。幸か不幸か、私にはそういう経験はとんとないが、もしこういう局面に立たされたらどうするだろう。このシーンの中で著者も「私は、自分自身のために命乞いをすることはないと思う。しかし、生き延びるべき人間のためにだったら懇願するだろう」と引き合いに出しているように(240ページ)、弁護士は、依頼者の運命を人質にされると、とても弱い。その申立が退けられれば依頼者の死刑が執行されるという申立を担当する裁判官の不興を買うようなことができるだろうか。
司法制度と司法文化に違いはありますが、弁護士としては、共感し身につまされ考えさせられるところの多い1冊でした。
19.日本文化の論点 宇野常寛 ちくま新書
インターネットやサブカルチャーが持つ「日本的想像力」、著者のいう「夜の世界」の文化が、旧来の昼の世界の文化を凌駕していくという方向性を志向しつつ文化批評を行おうとする本。
日本は、ソフトではなく、作品を楽しむ消費環境・舞台装置(マンガ・アニメとの関係でコミケ、ボカロ・初音ミクとの関係でニコ動など)をまるごと輸出することで勝負すべきだという指摘(31〜37ページ)は、なるほどと思いました。
しかし、この本の中心的議論は、AKB48が現代の日本文化の最大の論点(113ページ)であり、巨大な文化運動(123ページ)であるという点にあり、この著者の設定する枠組(前田敦子なき後のAKB48の未来こそが「人類史的な問題」である:28ページ)にどれだけ違和感を待つ/持たないかでこの本の評価はほぼ決まると思います。著者の「推しメン」という横山由依(160ページ)って誰?としか反応できない私の評価はいうまでもないでしょう。
「アイドルをはじめとするこの種の性的な魅力に訴える文化現象をジェンダー論的な視点から擁護することは難しい。そこには多かれ少なかれ、性暴力的な要素が確実に存在してしまうことになる」(143〜144ページ)といいながら、「ポップカルチャーにおける性の商品化については『自分はその暴力性に自覚的である』という自意識をいくら訴えても、そうした行為はむしろ自己反省のポーズを取ることで批判を回避する防衛としか機能しない。それよりも、むしろ多様な消費のかたちを肯定し、推進することで、多様なセクシュアリティの表現を獲得する戦略を僕は考えたい」(144〜145ページ)というのはどういうことでしょう。自己反省のポーズを批判して反省さえせずに開き直ることが問題の解決となるのでしょうか。暗い問題点を隠蔽し「多様な」という言葉でポジティブなイメージを作りたがる人々の手口は、例えば労働者派遣業法を作り派遣対象業務を拡大する過程で女性が「多様な」働き方を選択できるという宣伝文句を並べ立てたやり方(その結果は正社員のリストラと非正規労働の拡大、格差社会の確立と拡大だったことが今では明らかだと思います)を思い起こします。著者がそういう方向性を志向しているとは思いませんが。
18.二重生活 小池真理子 角川書店
父親の仕送りで生活する25歳の大学院生白石珠が、一方で向かいに住む45歳の大手出版社児童書籍編集部長石坂史郎を執念深く尾行してその不倫を覗き続け、他方で53歳の女優の運転手のアルバイトをする27歳の同棲相手卓也の女優との浮気を疑い妄想する様子を描いた小説。
主人公は、石坂を尾行するに当たって「文学的・哲学的尾行」であるなどと言って正当化し、自分は別居中だったとはいえ妻子ある男とそれをわかって不倫の関係を持ちその男がスキルス性癌で死んだことで茫然自失して大学を留年し就活をする気力もないことから大学院に行きその学費・生活費をすべて父親に依存しつつ母親が死んだ後に水商売上がりの女性と暮らす父親(少なくとも不倫ではない)を軽蔑し批判し、自分はゼミの教授及び石坂にモーションをかけたが相手にされなかったために浮気・不倫に至る行動は踏みとどまったというレベルなのに何の根拠もなく同棲相手の卓也には母親世代の女優との浮気の疑いをかけて妄想しなじるという、自分に甘く他人に厳しいダブルスタンダードの価値観を、それと意識せずに持ち続けるとても身勝手な人物です。読んでいると、ここまで自分を客観視できないものかと呆れます。でも、読んでいるうちに、人間多かれ少なかれこういう身勝手さを持ち、自分が見えていないところはあるかなと思えてきて、そういうところに思いをいたすべき作品なのかなと、終盤には思いました。
17.ガチ! 少女と椿とベアナックル 伯方雪日 原書房
「前座の鬼」と呼ばれたうだつの上がらない実直なプロレスラー宝来弾の娘でブラジリアン柔術のジムに通う高校生宝来尽子と、宝来弾に心酔する若手プロレスラー吉野が、宝来弾が唐突にチャンピオンに本気で挑みあっさり倒されて控え室で心不全で死亡した事件に不審を持ち、尽子の同級生も被害者となった少女連続殺人事件の謎を追ううちに両者がつながるというファイティング・ミステリー小説。
スポーツ根性ものにありがちな荒唐無稽な精神論的なファイトと青春小説らしいあっけらかんとしたつくりが、陰惨になりかねない設定を軽く読ませていて、読み味は悪くないとは思います。しかし、ミステリの構造というか、組織の思惑とか犯行の動機とかの部分が、一方で大仰な印象を与えるとともに、それにしてはどこかせこいというかちゃちな印象もありちぐはぐ感があります。組織の全貌や尽子の同級生の事件もきちんと明らかになった形ではなく、ミステリーとしてやや欲求不満が残る感じがしました。
章題が、チャレンジマッチ、オープニングセレモニー、第1試合、第2試合…というふうに続いていくのですが、そこにプロレスの試合が描かれているとは限らず、そのあたりにも違和感を持ちました。
16.ふる 西加奈子 河出書房新社
大阪生まれで今は東京でアダルト動画配信会社のWebデザイナーアシスタントの池井戸花しす28歳の2011年12月下旬の日々と過去を行き来させながら家族・知人との関係と連帯感を描いた小説。
花しすとまわりの人々にまといつく白いものが、花しすには子どもの頃から見え、それを猫たちも気づいているという設定が、冒頭から示されています。これが何でどこに結びついて行くのだろうということが、ずっと気になるのですが、なかなかそれがわかるような書き方がなされず、ちょっとイライラします。終盤にそれが示されはしますが、花しすの祖母、母、朝比奈、さなえら女性への、女性の体と生理への連帯感として説明され、そうすると花しすにだけ見えるとか猫にも見えるという設定とどう符合するのか、理解できませんでした。
もう一つの、この小説で不思議な設定となっている、花しすの人生のどの場面でも「新田人生」という男性が絡んできて、しかもそれが同一人物ではあり得ないという点。これも、読み終わってみてなんだったのかわからない。
花しすのある種のコンプレックス、人間関係の間合いの取り方・避け方、祖母や母との関係や寄せる思いから女性たちへの連帯感へとつなげるテーマと展開を見ると、奇をてらわずストレートにそれを書いてもよかったと思いますし、むしろ白いものと新田人生を落とした方がすっきりとテーマに迫れたのではないかと思いました。
それにしても花しすの仕事、テーマとの関係では必要で適切な設定とは思いますが、そしてインターネットの現状を見れば別に何とも思わなくなるかもしれませんが、日本でそれやってて大丈夫か?と、弁護士としては気になります。
15.花酔ひ 村山由佳 文藝春秋
老舗の呉服屋の一人娘で新たにアンティーク着物の店を始めた麻子と麻子の元同僚のブライダル企画会社のサラリーマンの夫誠司、父が創業した葬儀社チェーンの一人娘で幼い頃伯父に強いられた倒錯的な性行為のトラウマと性癖に囚われる千桜と逆玉となったやり手の営業部長の夫正隆の4人が、千桜の伯母が残した古い着物を麻子が買い付けに京都を訪れたことから知り合うようになり、麻子と正隆、千桜と誠司が肉体関係を持ち互いに入れ込んでいく様子を描いた恋愛・官能小説。
互いにちょっとしたことで不満を持ちすきま風が吹きつつ、淡泊な性生活を続ける2組の夫婦が、お互いに他方の夫婦を仲がいい夫婦とうらやみながら他方にこれもまたちょっとしたポイントで惹かれのめり込んでいく様子が、いかにもありそうで考えさせられます。不満に思っていることはそれほどのことでもなく、だから夫婦として続いているけれども、それでも心は離れてしまっている。惹かれる相手の魅力もたいしたことではなく(現にその伴侶には魅力なしと見切られている)、おそらくはつきあって何か月かすればあらが目立ってくることも予想されるのに、思いを遂げる前には不倫に踏み出すほど魅力的に見える。性生活上の好みや希望を夫婦であるが故に伝えられない/聞けないで、不倫の相手にはそれができる故に魅力的に見え最高のパートナーとさえ思える。冷静に振り返れば、今の伴侶がやはりよいと見える場合でも、思い込んでいるときはそうはとても見えない。それが男と女、それが人生、だからこそ味わいがあるんじゃないですかと作者にいわれているような気がします。
ありがちに見えながら深い問いかけをされているような気がして、官能小説(と分類してしまうほどには濡れ場が多いわけでもないですが。表紙は持ち歩くには恥ずかしいですけど)の割には、いろいろ考え込み、また感じ入ってしまいました。
「きれいだ…などとロマンス映画のようなセリフは御世辞にも言えない。千桜に限らず、女の秘所とはどれも凶暴でグロテスクなものだ」(217ページ)という感性はやはり女性の作家ならではかなと思います。千桜の幼い頃の性的虐待への受け止め方には、どうかなという思い(本当に被害を受けた人の傷はそういうものではないんじゃないか)と切なさを感じ、戸惑いました。この作品のように千桜と正隆が最後にはわかりあえるとすれば、ちょっと胸が温かくなりますが。
14.傾国子女 島田雅彦 文藝春秋
父親が失踪して母親とともに父親の友人の医師に預けられた絶世の美女白草千春が、医師に言い寄られ、街頭で演奏するドラマーや早朝の歌舞伎町で出会ったヤクザに思いを寄せながら、京都の政財界の黒幕に気に入られて世継ぎを産むことになり…といった具合に次々に男に言い寄られ愛人になっては別れ娼婦となっていく半生を描いた小説。
作中で白草千春の半生を「好色一代女トゥデイ」と呼んでいるように、独自のテーマ設定が感じられず絶世の美女で男に翻弄された女の半生を描くことが自己目的化しているような印象でした。設定・展開ともに荒唐無稽で、といって白草千春のキャラがぶっ飛んでたり切れてたりもせず、千春の友人の甲田由里のキャラが少し跳んでいるのが慰めですが、コメディとしておもしろいという感じもしません。
男・人生に翻弄される白草千春の対応が、今ひとつ女としてのリアリティも感じにくい。読んでいて最初に違和感を感じたのが、「我が家の家系は逼迫していて、母のパートで何とかやりくりしていました。豊かではなかったけれど、親子三人暮らしてゆくには充分な収入があるはずでした。それでも家計のやりくりに苦労していたのは、母が浪費家だったからです」(18ページ)という下り。その後母が贅沢品を買っていた等のエピソードは何一つ出て来ません。母親のパートで一体どれだけの収入があるというのか。倹約してもやりくりは苦しいでしょ。この作家には中年女性のパート収入がいくらかわかってないのか。それにそういう家庭で娘がふつうに考えるのは、家計が苦しいのは父親がろくに稼がないからの方でしょう。これは娘の視点じゃなくて中年親父の愚痴と願望でしょう。既にこのあたりで主人公の性格設定なり状況の受け止め方にリアリティがないというか大きなズレを感じました。率直に言うと、このあたりでもう投げ出したくなったのですが、著名作者で私としてはこの作者の小説を初めて読み始めたという事情もあり、読み続けました。文体とか内容には特段の難点はないのですが、リアリティも主人公への共感も感じられず、コミカルなという意味でのおもしろさも考えさせられることもほとんどない400ページ近い作品を延々と読み続けるのは、私には苦痛でした。
13.崩れる日 なにおもう 病葉流れてV 白川道 小学館
博打と女に明け暮れる男の青春時代を描いた無頼小説。
Vにあたるこの本では、博打と女に明け暮れる学生時代を送った主人公が社会人となり、関西で電機メーカーに勤めたが関西でもさっそく雀荘のオーナーの妻と関係を持ち高レートの賭け麻雀に浸り、勤務先を3か月と持たずにやめ、借金の形に悪徳先物取引業者に勤めることになるという展開で進みます。このVで完結しましたが、後に「新・病葉流れて」と題して続編が書かれたことは
11.12. (↓) で紹介した通り。
「新・病葉流れて」を読んだ時に、チェックしてみたら、この読書日記を始める前の2005年に「病葉流れて」「朽ちた花びら 病葉流れてU」を読んでいて、この「病葉流れてV」は読んでいなかったことに気づき、ついでに読んでみることにしました(これが連載されていた頃、どういう事情だったかは忘れましたが事務所に「週刊ポスト」が毎号置かれていたので、大部分は読んだ覚えもありましたけど)。
前半は麻雀、後半は先物取引の話が中心で、麻雀小説ファンには後半はちょっと物足りないかなと思えます。しかし、先物取引業者の手口については、一般向けとしては非常にわかりやすく説明されていて、感心しました。消費者側の弁護士としてはこういう小説の読者が増えると先物取引等の勧誘に引っかかる人が減っていいなと思います。
11.12.身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ −新・病葉流れて 白川道 幻冬舎
博打と女に明け暮れた学生時代を送り、関西で就職したものの高いレートでの麻雀賭博の借金の形に先物取引業者で働き、前作「病葉流れて」で社長を裏切って刺された梨田雅之が、入院中に知り合った老人砂押に気に入られて東京に戻って砂押の推薦で広告会社に勤務しつつやはり博打と女に明け暮れる無頼小説。
週刊ポスト連載の「病葉流れて」の完結から数年後に「夕刊フジ」に媒体を替えて何食わぬ顔で「病葉流れて」のラストシーンに続けて書き始められています。一般社会の枠にはまらない主人公の博打と女に明け暮れる様子を描いていることは同じですが、前作が暗くやさぐれた情念と裏社会の危なさと猥雑なエネルギーに満ちていたのに比べ、この作品は少し大人びて明るさが見え下手をするとちょい悪恋愛ものとも読めないではないトーンになっています。自伝的ギャンブル小説とされていますが、60代後半になった作者が振り返って懐かしめる/書ける危なさのレベルが変化したということでしょうか。タイトルも2冊で「身を捨ててこそ」と「浮かぶ瀬もあれ」で完結していると思えますし、夕刊フジでの連載も半年以上たっても続きの連載はされていないようですから完結したのでしょうけど、ラストまで読んでも今ひとつ区切りがついた感じがしません。そこからすると前作の評判がいいので続編を書いてみたけど、少し持て余したのかなという気もします。
梨田の勤務先、鉄道会社が親会社で1970年に本社を渋谷から赤坂に移転した業界3位(当時)の広告代理店「Tエージェンシー」という設定では、いくら「本作はフィクションです」と断わられてもねぇ。当時の社内の力関係やリベート、裏金作りの話につい引き込まれます。
前作で売りだった麻雀の場面が減っている上に、「場替えは半荘4回終了毎」(浮かぶ瀬もあれ68ページ)、1回戦は南が桜子、西が私(同70ページ)で、2回戦1局目親が桜子で「対面の私」(同77ページ)ってどういうことでしょう。場替えしてないのに上家が対面に変わるわけないでしょ。さらにとどめを刺すように坂本の上がりで奇手「六対子」まで登場(同243ページ)。「六対子」の牌活字は単純な校正ミスでしょうけど、位置関係に神経を使う高レートの賭け麻雀のシーンでこのミスは麻雀ものとしてはしらけます。
超美人の女子大生水穂との初めてのHの際、「初めての経験だった。これまでの女性経験で、口に含まれたまま果てたことなどなかった」(身を捨ててこそ418ページ)と書かれているんですが、その1月ほど前新宿のクラブのママ姫子との逢瀬で「姫子の唇の奥に、波の飛沫を放つように射精していた」(同93ページ)とあるのはどう考えればいいでしょう。
10.非正規公務員という問題 上林陽治 岩波ブックレット
クラス担任や部活の顧問をしているベテランの「臨時教員」、DV被害者の保護などに従事する常勤的な「非常勤」の婦人相談員、生活保護受給者の訪問調査等に従事する非正規ケースワーカーなど、行政の本来業務部分を事実上支えている非正規公務員の実情等を紹介する本。
歳出削減が叫ばれ、正規職員の新規採用等を減らして人件費を削減し、その業務を非正規職員で代替すれば、非正規職員の賃金は「物件費」に分類されるために人件費が大幅に圧縮されるという構造(正社員をリストラして派遣に切り替えると人件費が外注費にすり替わって消費税がかからないというのと似ていますね)もあり、非正規公務員が増加していると指摘されています(30〜41ページ)。その指摘ももっともには思えますが、非正規公務員はずっと昔からあったもので、近年の傾向だけじゃなくて、行政は民間同様かそれ以上に安く使い捨てにできる労働力を好きなように利用してきたということだと思います。
その点、裁判所は昔から行政に対しては甘いというか遠慮していて、有期雇用の更新が繰り返されて民間であれば確実に雇用継続の合理的期待があるとして雇い止めが認められないような事案でも、期限付きの非正規公務員の場合はどれだけ更新を繰り返しても雇用継続の合理的期待は生じないという判断を繰り返しています(例外は私と大学で同じクラスだった山口均裁判官が判決を書いた国立情報学研究所事件の1審判決だけ)。裁判所のこういう姿勢が、行政の傲慢で小ずるいやり方を助長しているように思えます。著者は、損害賠償を認めた(雇い止めの無効は認めない)判決を「裁判所が示す可能な限りの救済策」とか「司法のメッセージ」とか評価していますが(48〜49ページ)。
ハローワークの職員の3分の2が非常勤の相談員で、2012年度末には約1割の2200人あまりが雇い止めにされ、カウンターの反対側の求職者に転じた(43ページ)というエピソードは、笑えないですね。
09.記憶をコントロールする 分子脳科学の挑戦 井ノ口馨 岩波科学ライブラリー
人間の記憶の仕組みについて、分子レベルでの研究から解説した本。
著者の説明によれば、脳科学は現在なお究極のフロンティア、これからガリレオやニュートンが現れようとしている状態(13〜15ページ)で、急速にいろいろなことがわかりつつあるがブレイクスルーはこれから、わからないことがあまりに多いとのことです。半年かせいぜい2年以内の記憶は思い出すのに脳の「海馬」が必要(海馬依存的)なのに対して、それ以上前の記憶は思い出すのに海馬は必要でない(海馬比依存的)。記憶の貯蔵場所は、まだはっきりしないが、最近の記憶は海馬に蓄えられ、古い記憶は種類ごとに大脳皮質に移されるらしい(22〜25ページ)。海馬に蓄えられた記憶が大脳皮質に移されるのには海馬での神経の新生が関係しているらしい(54〜57ページ)。といった具合に、脳科学での最近の実験・検証の成果が語られています。
記憶は脳内のニューロン(神経細胞)の集団の組み合わせ(シナプス結合)として符号化されて蓄積されるという有名な仮説(セルアセンブリ仮説)は1949年に提唱されながら長らく実証されなかったが最近になって実証されたということが少し詳しく情熱的に説明されています(29〜41ページ)。一般書では、実験について引用するとき、実験条件や実験結果と論証のロジックがあまりきちんと説明されていないことが多く、そのときは本当に実証されたのかなぁなんて思いが残るのですが、詳しく書かれるとまた、例えば特定の記憶に関わるニューロンを光刺激することでその記憶(恐怖)を再現できた(マウスがすくみ反応をした)から実証されたという実験の説明(38〜41ページ)を読んでいると、その光刺激のためにマウスの海馬にグラスファイバーを入れてレーザー発光させることそのものでマウスがすくむってことはないんでしょうねとか、茶々を入れたくなってしまいます。
大人の脳では神経は分裂しない(ニューロンは新生しない:増えない)というのは、わりと世間一般で常識的な知識とされていますが、これは19世紀後半から20世紀初めにかけて活躍したカハールという偉大な学者がそう断言したので誰もそれを疑わなかった(今では「カハールのドグマ」と呼ばれているとか)が、それは誤りで、1998年には人間の大人の脳でもニューロンが分裂して増えていることが確認されているそうです(51〜54ページ)。
PTSDの重篤化はトラウマ記憶と他の体験が結びつけられることで生じやすいと考えられるので、トラウマ記憶を海馬から早く大脳皮質に移してしまうことで他の記憶との結合が回避されやすいと考えた著者らが、神経新生を促進するためにトラウマ体験のある患者にDHAとEPAを3か月間服用してもらったところ、PTSDの発症率が有意に減少したと報告しています(64〜67ページ)。著者自身、実験上の限界からまだ効果があると断定できないと述べていますが、興味深い話です。
アイディアが閃くのはリラックスしているときで、アメリカ人は研究者だけでなく官僚もそれを心得ているのでアメリカの研究関連のミーティングはリゾート地で開催されることが多い、しかし最近の日本では無駄遣いはまかりならん、温泉などもってのほかという風潮が強い、「こんなことをやっていたら閃きなど出ない、日本のサイエンスはつぶれるぞ」と憤慨する著者(60〜64ページ)には、その他のことも含めてですが、是非頑張って欲しいなと思います。
08.たたかうソムリエ 世界最優秀ソムリエコンクール 角野史比古 中央公論新社
2010年4月にチリで行われた第13回世界最優秀ソムリエコンクールの様子を取材して紹介した本。
著者はNHKのディレクターで、2010年に放映した番組の取材に追加取材して出版したもの。
世界最優秀ソムリエコンクールは3年毎に開催され、参加するソムリエは英語、フランス語、開催地国の言葉の3つの言語からエントリーする言語を選択するのだが、その際母語は選択できないルールになっているそうです(19ページ、39ページ)。参加者間の公平のためということですが、こういう配慮がされている世界大会というのは珍しいんじゃないでしょうか。フランス代表のソムリエが、英語もしゃべれるが、「フランス語は語彙が豊富だから、香りや味の細かなニュアンスが表現できる。それに比べて英語はとても制限がある。ワインについての自分の考えが、うまく伝えられないんだ」と文句を言っています(39ページ)。イギリス人は食べ物に無頓着だからって言ってるようなものですね。実際そうでしょうし。
ソムリエコンクールというと、ブラインドテイスティング(ワインを試飲して産地、ブドウの品種、生産年を当てる)で決まるのかと思っていたら、筆記試験やサービス試験(審査員が客になってソムリエが客の希望に応じてワインを開栓しグラスに注ぐなどして出す)にも相当な比重があるのですね。ブラインドテイスティングも、準決勝、決勝での各ソムリエの出した答えと正解が書かれていますが、世界の一流ソムリエが競う最高レベルの場でも、ほとんど当たらないものだなと、ちょっと安心するようなそれでいいんだろうかと思うようなアンビバレントな感想を持ちました。
コンクールの様子は、TVスタッフらしく、ドラマティックに描かれ、日本代表ソムリエの闘いや、決勝の様子など、緊迫感のある読み物としても楽しめます。
2013年3月に東京で開催された第14回コンクールにあわせてその直前に発売されたのですが、そうはいっても3年前の話を読まされるのは、きょっと気の抜けた感じがします。
07.月と雷 角田光代 中央公論新社
働くこともなく家事能力もほとんどなく情けをかけてくれる男のところに居つきながらしばらくするとまたぷいと出て行き新しい男に拾われていく直子、子ども時代はその直子とともに男のうちを転々とし今は都内でフリーター状態で女にもてるので女性関係は次々とあるもののきちんとした関係を作れないまま34歳になった智、かつて直子が居ついた男の娘で1年くらい直子・智と同居して子ども時代の智と裸ではしゃぎ回った想い出を懐かしく思うがあの2人がいなければふつうの人生を歩めたのではないかと思うパートタイマー未婚の泰子の3人の再会を描いた小説。
計画性がなく倦怠感と惰性でとりあえずの選択を続け、それでもまぁなんとかなるか、という思いを、例えば沖縄人が「なんくるないさ」と明るい感じでいうのとは違って、特に泰子の視点からは後悔と苛立ちを持ちながら消極的支持で、やっとこ諦めよりは少しは前向きかなくらいの評価に持ち込んでいくという流れです。登場人物のだらしなさというかいい加減さを、少し苛立ちながら見ていたのが、こういうのもまぁいいかと思えたら、たぶん作者の術中にはまったということなのだと思います。
「中央公論」2010年7月号までの連載が2年もたってから単行本になったのはなぜ?
06.なぜタクシーは動かなくてもメーターが上がるのか 竹内健蔵 NTT出版
タイトルのような交通と料金をめぐる疑問について交通経済学の立場から解説する本。
タイトルの疑問について、著者は、タクシーは利用客を自ら選別できず利用客の指示する通りの道を走行しなければならないことを理由に、その客を乗せなければタクシーが稼げたはずの利益に当たる費用(機会費用)を客に負担させるという考えで合理的に説明できるとしています(62〜65ページ)。しかし、渋滞を客が知っているわけでもなくましてや渋滞が客のせいでもなく、客は行き先を指定するだけで経路はタクシー運転手が選択することもままあることを考えると、私はあまり釈然としません。著者が続けて鉄道の場合は客は早く着くことを予定してその時間を買う意味で特急料金を支払っているから延着の場合払い戻すと説明しているのを見ると、タクシーの乗客もタクシーなら他の交通機関より速く目的地に着けると思うからこそタクシーに乗る場合が多いと思われ、ますます納得できませんでした。
混雑について、著者は電車についても道路についても混雑は基本的に利用者側に原因がある、事業者に文句を言うなという姿勢を示し(31〜32ページ、144〜153ページ)、「電車混み合いまして、まことに申し訳ございません」などという低姿勢は駅員への暴力の温床になっているのかもしれない(30ページ)などと謝る必要などないという立場を取っています。朝夕のラッシュ時に関してはそういえると思いますが、ラッシュ時以外では鉄道会社の利益を最大化するために運行間隔を開けてそのためにラッシュ時以外でも満員電車ということもままあり、電車の遅れや運転間隔調整などのために超満員となることも珍しくありません。満員電車の混雑に鉄道会社の責任が全然ないとは私には思えませんが。
上の例も含め、事業者や役所が現在行っていることについて、一般人の目からは不合理・理不尽に思えることを合理性があるんだとあれこれ理屈をつけて擁護していると感じられるところが多いように思えました。エピローグで著者は「現実の政策を扱うために、交通経済学者は審議会や各種の行政機関の会議などに駆り出されることが多く、そうした会議に出ているということだけで、『御用学者』などというあらぬ謗りを受け、濡れ衣を着せられなくてはならない」と嘆いています(237ページ)が、濡れ衣というべきかどうか。
弁護士の立場からは、飲酒運転の厳罰化はひき逃げを増やす恐れがある(98〜100ページ)という指摘は、なるほどと思います。交通事故の損害賠償に関して論じているところ(84〜88ページ)で、著者は、日本の交通事故での損害賠償が「逸失利益」(事故による死傷のために得られなくなった収入)だけで慰謝料がないと誤解しているようで、困ったものだなと思いました。
05.ワクチン新時代 杉本正信、橋爪壮 岩波科学ライブラリー
感染症とワクチン開発の現状について説明する本。
ワクチン開発の歴史と現状、それに絡めて感染症の説明をするという体裁の本ですが、後半は、WHOが1980年に根絶宣言を出した天然痘の歴史とワクチン開発、生物兵器としての使用の可能性とその対策が中心になります。
生物兵器の開発に手をつけたのは関東軍731部隊であり、欧米でバイオテロ対策への取組が始まったきっかけもオウム真理教によるバイオテロ(ボツリヌス毒素と炭疽菌)と、いずれも日本人の手になるものでわが国はバイオテロの先進国などということが紹介されています(64〜65ページ)。しかし、著者らが開発研究に携わっていた天然痘ワクチン(LC16m8ワクチン)が1975年に製造認可にこぎ着けたのに、日本では1956年以降天然痘患者の発生はなく、1976年には予防接種が廃止されてしまい、せっかく開発した安全性の高い新ワクチンは実用化されなかった、それが天然痘の感染率及び致死率の高さ、人以外には感染しないという特性、根絶されたためワクチン等の備えが手薄という理由から生物兵器として極めて有望と考えられ、バイオテロへの備えとして著者らの関与した天然痘ワクチンに注目が集まっている、アメリカ政府から共同開発の申し入れがあったということをいいたくて書かれた本だなぁというのが、読み終わっての一番の感想です。
04.臨機応変!! 電話のマナー 完璧マニュアル 関根健夫 大和出版
会社で新入社員等が電話を受けたり掛けたりするときのことを想定して電話のマナーについて解説した本。
基本的に、顧客・取引先あるいはクレーマーからの電話を、担当者や上司に取り次いだり、名宛て人が留守の時の対応を想定していて、丁寧な対応をする、好印象を与える、ミスがないように確認・復唱する等を繰り返し説いています。会話マニュアル的な部分は、通常のビジネストークですが、顔が見えないことで言葉遣いと声に注意すべきとされます。
書かれていること自体は、もっともではありますが、業者相手に電話で話していると、今どきはこういうマニュアルに沿った言い回しがふつうになっていて、ここに書かれているようにしたから好印象とかいうことでもないように思えます。まぁ、悪い例で書かれているような対応をされるよりは、もちろんいいですけど。
03.一瞬で人生が変わる! アウトプット速読法 小田全宏 ソフトバンククリエイティブ
ただ本を速く大量に読むだけでは意味がない、アウトプット、特に人に(5分間)話すことを意識して読むことで使える知識になるという、読書法というか読書の姿勢と勉強法の本です。
「1冊の本の中で、読み手が本当に必要な情報というのは、極論すれば1行です。」(120ページ)って、これはどうでしょう。書き手が本当に書きたいことは煎じ詰めると1行というのはよくいうというか、特にビジネス書なんてそうだと思うんですが、読み手の方は、ケース・バイ・ケースじゃないかなぁ。著者は、経験上本の8割は無駄で読むべきところは2割くらい(122ページ)として、必要なところだけを読むことをポイントにしています。
最初にその本から得るべき情報を決めて読む、端的に自分にとって必要な本を読むというパターン。この場合は、私も仕事の必要性からよくやります(例えば裁判所に提出する書類を書くときに必要な情報だけをそれが書いてありそうな本から引っ張り出して確認するとか)が、それは「読書」じゃなくて「勉強」「調査」「裏取り」だろうと思います。この本では、もう1パターン、必要性に応じてではなく本を読むパターンで、タイトル、目次、はじめに、あとがき、著者プロフィール、帯をよく読んでその本の中心点を捕まえ、その後、中心点が書いてあるところを探し(最初には読まないためにあえて最後から逆に見開き2秒で眺めてチェックするそうです)中心点が書いてあるところだけを読むというのが著者の方法論となっています。
「『本を1冊読み終えないと、本を読んだことにはならないのではないか』と思い込んでいる人がいます。でも、そんなことはありません。『自分にとって必要な情報』を取ることができれば(そして、その情報を活用することができれば)、たとえ数ページしか読んでいなくても、『本を読んだことになる』のです」(126〜127ページ)。このあたり、価値観が別れるところで、私には、この本の主張は、読書術・読書法じゃなくて勉強法だと思います。情報収集のための本の活用法として、正しい側面を持っていると思いますが、この読み方で月何冊とか年間何冊という議論をするのはどうかなぁと思います。
業務上の必要性から、今必要な情報をいかに速く効率的に探し出すかという本の使い方と、娯楽として(教養としても含む)の読書は、やはり、読み方が違うと思うのですが、それをくっつけようと(一貫させようと)しているところにやや無理を感じました。
02.封鎖 仙川環 徳間書店
神戸近郊の山間の人口60名弱の集落で鳥インフルエンザ患者が連続発生し、感染症対策の権威の助言により行政は極秘裏に集落の交通と通信を遮断して封鎖するという設定のパンデミックパニック小説。
封鎖を推進する感染症対策研究者と行政、封鎖された集落内のお上意識の強い追随派・穏健派・強硬反対派の対立を描きながら、新型インフルエンザ発生の危機を前に大規模感染を防ぐために小規模集落を見捨てることの是非と見捨てられる側に置かれた人々の心情とそのような条件下に置かれた人々に表れる人間性を描いています。著者自身が、封鎖の是非について最終判断ができない迷いをそのままに作品化しているように感じられます。登場人物の誰に共感するかはさまざまでしょうけど、私には鈴野努がグッときました。
封鎖の是非について、封鎖自体は対策としてありうるしむしろ有効だという主張を少なくとも内包している医療関係者たち、極秘裏の封鎖の情報を得ながら無視・軽視する新聞記者たちの姿は、この作品が、大学院の医学系研究科修士課程修了、新聞記者の経歴を持つ作者によって書かれていることを考えると、重みを持って心に訴えかけてきます。
50代の私にはカミュの「ペスト」を意識させる設定ですが、鳥インフルエンザやSARSをめぐるパニックを経験し、パンデミック小説が多数書かれている現在では、封鎖に何か他のテーマを読み取ることもなくごく単純に近い将来現実にありそうな話として読んでおくべきでしょう。
01.「尖閣問題」とは何か 豊下楢彦 岩波現代文庫
尖閣諸島を含む領土問題についての歴史的経緯を指摘し著者の考える解決策を説明する本。
尖閣諸島問題を論ずる前に「ことが領土問題となると、いかに人が住めないような岩礁であっても、伝統的な主権国家の『排他性』のイメージが鮮明に浮かび上がり、『獲るか獲られるか』という『ゼロサム』的な感情によって両国の世論は一気に沸騰することになる。そこでは、『弱腰だ、強腰だ』とか、『なめるな、なめられるな』といった『子供の喧嘩』のような言辞が、政界や大手メディアにおいても、恥ずかしげもなく『日常の言語』に化してしまう。したがって領土問題は、国内矛盾を外部に転嫁しようとする国家権力にとってはもちろん、『扇動型政治家』にとっても格好のターゲットとなる」(3ページ)という指摘が、まったくその通りと思えます。この本は、石原都知事の尖閣諸島購入発言とその後の騒動への危機感から執筆されていて、石原都知事への評価はやや感情的な感じはしますが、中国を挑発して日中対立を煽り軍事衝突の危機を現実化して米軍による解決をもくろんだ石原都知事の行動が、米中関係を重視するアメリカの中立姿勢を変えられず、むしろ中国が石原都知事らの挑発を逆手にとって尖閣諸島問題を国際問題化する方策に打って出てある程度それに成功してしまったという指摘(6〜17ページ)は、なるほどと思います。領土問題で外国を挑発して領土問題を深刻化させ結局は日本に不利な状況を生じさせ、しかも戦前戦中の歴史認識などの問題でアジア諸国に対する挑発を繰り返して周辺諸国民の感情を逆なでして領土問題で日本に味方する国を減らし領土問題をこじらせて、それで自分の人気を集めようとする右翼政治家は、純粋に領土問題に限定して考えても日本の国益に反して自己の利益を追求しているわけで、言葉の本来の意味で「売国奴」だと思えます。
現在日本が北方領土、竹島、尖閣諸島と3つの領土問題を抱えていることについて、著者は、アメリカの戦略に注目する必要を説いています。北方領土については、当時日本政府もサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島には国後島、択捉島も含まれると考えていて、1956年7月、日ソ交渉の過程で重光外相は歯舞・色丹両島の返還で平和条約を締結することを決意していたのに、8月19日のダレス国務長官との会談で日本が2島返還で手を打つならアメリカは永遠に沖縄にとどまるといわれて日本政府は4島返還を国是としてかかげるようになった、アメリカの目的は冷戦を背景に日本とソ連の間に火種を残し米軍の駐留を正当化することにあったと指摘されています(97〜109ページ)。尖閣諸島は、アメリカの占領下で沖縄と一体に区分され、占領中から久場島と大正島が米海軍の射爆撃場とされ現実には30年以上もまったく使用されていないのに返還されておらず日本人は米軍の許可がなければ立ち入れない状態で、アメリカは尖閣諸島が沖縄に属することは十分に認識しているにもかかわらず、中国が尖閣諸島領有をいいだした1971年以降「中立の立場」を取っており、それは日中間に火種を残すことで米軍の駐留を正当化する目的であったと指摘されています(64ページ)。なお、久場島、大正島の米軍の射爆撃場使用に関する海上保安庁の文書や政府の答弁書では久場島が「黄尾嶼射爆撃場」、大正島が「赤尾嶼射爆撃場」と中国名で書かれている(80ページ、86〜87ページ)というのも驚きというか、日本政府は本気で領有を主張したいんだろうかと疑ってしまいます。
著者は、歴史的経緯から、北方領土も竹島も尖閣諸島も日本の領土であるということを前提としつつ、同時に3つの領土問題を抱えることの外交上の不利と、戦後処理をアジア諸国の国民感情レベルでなお解決できていないという状況、また竹島についてはアメリカの地名委員会が韓国領と判断していて(134ページ)アメリカの協力を得がたいことを考慮して、中国の脅威への対抗を優先して、竹島は漁業権を確保した上で譲渡ないし放棄、北方領土は2島返還で解決して周辺諸国との関係を改善して外交的に中国包囲網を作るべきと提案しています。どの程度の現実性があるかはわかりませんが、対立を煽るだけの感情論から離れたところで議論する一つの考えとして評価しておきたいと思います。
**_****_**