私の読書日記 2013年12月
16.17.螺鈿迷宮 上下 海堂尊 角川文庫
「チーム・バチスタの栄光」で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞して作家デビューした海堂尊が宝島社の田口・白鳥シリーズと並行して角川書店から出版し「桜宮サーガ」へと海堂ワールドを拡げる嚆矢となった作品にして、田口・白鳥シリーズ第6弾「ケルベロスの肖像」の前日譚となっている作品。
幼い頃に両親を交通事故で失いその賠償金を食いつぶして生活する東城大学医学部の落第生天馬大吉が、幼なじみの雑誌記者別宮葉子の策略で、桜宮の終末医療を一手に引き受けてきた碧翠院桜宮病院に潜入し、東城大学から治癒見込みのない患者を送りつけられて利用されてきた挙げ句にバチスタスキャンダルで患者が減った東城大学から再度終末医療にも侵食されて経営危機に陥り、桜宮一族が末期患者を食いつぶしながら東城大学への怨念をたぎらせる様子を見聞きしつつ、一卵性双生児の美人医師小百合・すみれに翻弄されながらすみれへの思いを募らせて行くという展開です。
天馬大吉という怠惰で受動的で優柔不断でありながら、他人への批判的意識だけは先鋭で衒学趣味的で自意識過剰な主人公が、私にはどうにも共感できず、最後まで物語に入りきれない感じが残りました。優柔不断ぶりは田口・白鳥シリーズの田口公平も同じですが、田口の場合自分の希望が比較的素直に語られ、自分の限界・ダメさ加減を意識している分読みやすい。作者は、この天馬大吉をこの作品で主人公に据え、「ケルベロスの肖像」でも重要な位置に置き、「ケルベロスの肖像」の対になる作品と思われる「輝天炎上」でも主人公に据えています。どうしてこの人物に惚れ込んでいるのだろうと、どうしても好きになれない私は、不思議に思います。
ミステリーと位置づけられる作品ですが、ミステリーとしては天馬大吉が示唆し続ける犯人像にかなり無理があり、まぁ殺人事件の動機とその縁由はさすがにわかりませんでしたが、そこ以外はふつうに読んでいけば大方は見える感じで今ひとつに思えます。
海堂ワールドの桜宮サーガを構成するパーツとして見ると引き込まれるところがありますが、この作品単体としてみると、主人公が好きになれないためというのが大きいかとも思いますが、あまり魅力を感じませんでした。
15.よだかの片想い 島本理生 集英社
左頬に大きなザのある大学院生前田アイコが、出版社に勤務する友人まりえの誘いで顔にアザがある人たちのルポの取材を受け雑誌の表紙を飾ったことからそのインタビューを元に映画が作られることになり、その打ち合わせで会った映画監督に思いを寄せるという恋愛小説。
アザへのコンプレックスから人前に出るまい多くを望むまいという自己抑制と、自分にも人並みの恋があるかもという期待に挟まれたアイコの心情の揺れ、ちょっとしたことで思いを打ち砕かれ沈みながらも現実の恋愛経験のなさから思いを寄せたら間合いを取れずに走り自分も相手も追い詰めてしまう不器用さ、それが同級生からの告白を得て落ち着きを見せ成長する様子が描かれ、それぞれに切なく、胸に響きます。このお話では顔面の大きなアザという形ですが、容姿・容貌に恵まれない多数の人たちが、多かれ少なかれ似たような気持ちを経験しているわけで、いろいろに考えさせられます。
「圧倒的に存在感があって、大きくて、強いものにひかれている自分に気付いた」「それなら、と私は前に向き直りながら、考えた。男の人はどんなものに魅了されるのだろう。自分よりも圧倒的に小さくて、頼りなくて、可愛らしいものか」(92ページ)。世間一般の「男」の感覚からたぶんずれている私には断言しかねますが、そのような感性は小さなプライドを守りたい安住感からのもので「魅了」されるものではないと思います。「そんなのつまらない」「そんなのは押しつけだ」として「だから私も、飛坂さんを圧倒的に大きくて強いものだと思いすぎてはいけないのだと考えた。私の期待や願望だけを込めすぎないように、ありのままをきちんと感じよう」(92ページ)と続ける作者に共感します。
老教授の言葉「もし無理をすれば違う自分になれるんじゃないかと思っているなら、その幻想は、捨てた方がいいかもしれません。そのほうが、君はきっと成長できる。たしかに、人は変わることもある。しかし違う人間にはなれない。それは神の領分です」(176ページ)。けだし至言というべきか、いや違うというべきか、ちょっと思いが錯綜しました。
14.実務家のための労働判例読みこなし術 高仲幸雄 労務行政
労働事件に関する判例について分野ごとに整理して解説した本。
「読みこなし術」というタイトルに合わせて冒頭に判決・判例の読み方について若干の解説があり、「判決文の中で結論(主文)を導いた『理屈』の部分を読み、その理屈と、前提となった事案(事実関係)とを対照させながら読みます」(29ページ)とした上で、判決の判断部分だけを読んで自分の主張と合致する部分(有利な部分)だけをピックアップするというのは危険で事実関係との関連に注意する必要がある(30ページ)としていることは、まさにその通りだと思います。一般の方は判例集とかネット掲載の判決の「判決要旨」とか判決文でアンダーラインがあるところだけを読んで、その要旨に書かれていることが常に当てはまると考えたり、自分に都合よく解釈することが、すごく多く、弁護士としてはこのことは特に強調しておきたいところです。
しかし、「判決の評価についていうと、判決の結論・結果自体を取り上げて『不当・不合理だから誤りである』というのでは、実務家としては検討不十分」(30ページ)としていることは、一般論としてはそのご主張よくわかりますが、ここで著者がパナソニックプラズマディスプレイ事件の最高裁判決をみて『偽装請負が不当で、派遣労働者が保護されるべきだから、黙示の労働契約を否定した最高裁は誤り(これを認めた大阪高裁が正しい)』と評価するなどと例を挙げていることを見ると違和感を持ちます。この本でも例えば神戸弘陵学園事件最高裁判決など使用者側に不利な最高裁判決に対しては問題があると否定的評価を繰り返していますし、最高裁判決だからそれを前提にせざるを得ないとしつつ批判や当てこすりを述べています。
この本では、比較的細かい論点まで判例を取り上げていて、労働事件を取り扱う弁護士が判例を勉強するときの手がかりとして使うのにはよさそうに思えます。1冊で幅広い分野を扱うことの限界で、判決の事件名と日付・掲載判例集だけで内容がまったく紹介されていなかったり、著者がそこだけ見るなという「結論だけ」の紹介のものが多いので、この本だけを読んでもわからないところが多く、気になったときにはこれを手がかりに判決文を読む、さらには判例集上の参考判例・類似判例を探してそこまで読んで初めて意味があることになるでしょうけど、そのためのインデックスとしては使えそうです。
この本単独としては、詳しく取り上げている部分は読んでいてわりとよくわかりますが、項目と判例番号が書かれているだけという部分も多く詳しさの落差が大きいために疑問を感じながら読み流すしかないところが多々あり、特に一般の方が読み通すには辛いか著者がそうあってはならないと言っているような誤解(早のみこみ)をする可能性が高いように思えます。
著者の意見は明らかに使用者側の立場で、取り上げる判例も、それなりには配慮されているとは思いますが、例えば期限付きの派遣労働者の期間中の派遣切りのケースで残期間の賃金が休業手当(6割)でいいか全額かという論点で、休業手当分だけでいいという三都企画建設事件大阪地裁判決だけを取り上げて反対の判例を一切取り上げずその結果反対の判例はないかのように読み取れる(292〜293、301〜303ページ)のは、かなり偏った姿勢だと思います(私の認識では、このパターンで公刊された判例集に掲載されている判決で休業手当相当分だけでよいとしたのはこの三都企画建設事件だけで、他の判決はいずれも賃金全額の支払を命じていると思います)。
なお、109ページの「労働契約法13条」は労働契約法12条の誤りです。
13.四大公害病 水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害 政野淳子 中公新書
1960年代に社会問題化し1960年代後半に次々と訴訟提起されいずれも原告側の勝訴判決が出た水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害について、発生と被害者たちの状況、原因究明と原因企業の抵抗、裁判と行政救済の経緯についてまとめた本。
最初は手足のしびれ感に始まり劇症型のものではけいれんを起こしてのたうち回り死亡する水俣病(有機水銀中毒)、骨が軟化し布団の重みでも骨折が起こり息をしても針を刺すような痛みが生じ痛い痛いと呻きながら死んでいくイタイイタイ病(カドミウム中毒)など、改めて公害被害の悲惨さを噛みしめました。
そういう被害者が多数出ているのに、こっそりと排水口を移設して被害地域を大幅に拡大し(20〜21ページ)、漁民と約束して設置した浄化装置には水銀除去機能を設計上要求せずしかも問題のアセトアルデヒド製造工程の排水をその浄化装置を通さずに排水していた(29〜30ページ)というチッソの悪辣さには読んでいて震えるほどの怒りを感じました。
原因企業の非人道性に加えて、通産省も犯罪的な役割を果たしています。厚生省公衆衛生局長が1958年7月に水俣病にはチッソ水俣工場の廃棄物が影響していると発表した後の1959年11月、通産省軽工業局は水銀を扱うアセトアルデヒドと塩化ビニールの製造工場に対して工場排水中の水銀の含有量や排水口付近の泥土中の水銀含有量などの調査報告をさせておきながら「この調査は、水俣病問題が政治問題化しつつある現状に鑑み、秘扱いにて行うこととしていますので、この旨御承知の上、社外に対しては勿論、社内における取扱についても十分注意して実施されるよう希望致します」として握りつぶし(81〜82ページ)、新潟県衛生部長が通産省に情報を求めても文書が残っていないと退けられた(85ページ)そうです。通産省が被害防止よりも企業活動の擁護に重きを置いていること、都合の悪い文書の隠蔽に熱心なことがよくわかります。
四大公害裁判が全て原告側勝訴に終わっても、その後も行政救済の認定基準の狭さと硬直した行政の姿勢により被害者の救済が進まず、現在もなお解決されない問題が残っていることは、この本でも書かれていて、公害問題・公害病被害が終わったわけではないことを再認識できますが、本の構成としては過去の被害と原因究明、裁判と救済制度の経緯が大半を占め近年のことは少ししか触れられていません。過去のことでも読んで勉強にはなりますが、現在この本を出版する意義という観点からは現状についての記述がもう少し欲しかったなぁという気がしました。
12.波紋と螺旋とフィボナッチ 近藤滋 秀潤社
動物の角や貝殻、亀の甲羅などがどのように成長して行くのか、動物の体表の模様(斑点、縞、網目)がどのように形成されるのかなどについて解説した本。
「はじめに」で自然界に潜む単純なルールを発見することの快感を語り(2ページ)、美しい法則は間違っているはずがない(54ページ)という著者の主張に沿って展開される序盤の貝殻(巻き貝、アンモナイト等)の形成が開口部の拡大率と曲げ率とひねりの3要素で決定されアンモナイトのように海面に浮いて生活する貝の場合同一の姿勢を保つために開口部の角度に応じてその要素を変化させるつまり成長の要素が遺伝子で決まっているのではなく成長後の「意思」(脳内の情報)により変化するという仮説、動物の体表の模様が活性化因子と抑制因子の2つの相互作用によって数理的に記述でき(抑制因子が優勢だと斑点、活性化因子が優勢だと網目、均衡していると縞模様)熱帯魚の体表の模様の変化はその論理にしたがっているという仮説は、とても興味深く、また楽しく読めました。
著者の専門は、チューリングの反応拡散原理により動物の形態形成(細胞が位置情報を得る仕組み)を説明するという点にあり、最初の方ではそれが2つの色素や活性化因子と抑制因子の2つの組み合わせの効果として説明され、比較的読みやすいのですが、後半に行くにつれ、その理論的説明と著者自身の研究史に話が移り、著者が親しみやすいような記述を心がけていることはわかるのですが、少しずつ難しくなっていき、また一般の興味から離れていく感じがします。私の好みとしてはちょうど半分くらい(第6章)までは、すごくおもしろい!と思って読めたのですが。
11.倫理の死角 なぜ人と企業は判断を誤るのか マックス・H・ベイザーマン、アン・E・テンブランセル NTT出版
倫理違反の行為は意図的な違反よりも人が無意識のうちに都合の悪い情報を遮断したり倫理の問題ではなく別の問題と規定するといった微妙な人間心理の作用によってなされることが多く、倫理違反が故意になされることを前提として行われている現在の倫理教育では防ぐことができないことを論じる本。
人は倫理上のジレンマに向き合う前の段階では自分は倫理上正しい選択を行うはずだと思っている(倫理的な私の自己イメージ)が、いざ意思決定の段階になると刹那的で衝動的な「したい」が合理的で冷静な「すべき」を打ち負かし、意思決定後は倫理に反することをしたという認識の不快感を緩和するために都合の悪い情報を忘却したり倫理の基準をすり替えたり他に責任転嫁して振り返ってみると自分は倫理的な行動をしたと思い込み、これらのバイアスが一体となって人は自分を実際以上に倫理的な人間だと思い込む(88〜109ページ)とか、「人は概して、まず私利私欲に基づいてどういう結果を望むかを選び、そのあとで、公正性の基準を自分に都合よく変えることにより、自分の望む結果を公正なものと位置づけ、正当化しようとする」(73ページ)とかの指摘は、なるほどと思います。
裁判を例に「被告は原告に比べて、自分の主張に有利な細かい事実関係をよく記憶している反面、原告の主張の証拠となる事実はあまり覚えていない。一方、原告はこれと正反対の傾向が見て取れる」「人は自分にとって好ましい情報を吸収し、悪い情報を無視する傾向がある。裁判や和解調停に臨む人が結果を過度に楽観視することが多いのも、これが原因だ。もちろん、裁判で勝てるのは片方だけ。裁判で争う両者ともに『勝利の確率が75%』などということは、論理的にあり得ない。しかし双方とも、自分に都合のよい情報だけを見る結果、自分が勝てるはずだと思ってしまう。こういう人たちは、勝算を判断する際の根拠としている『事実』の認識にバイアスがかかっている。自分にとって好ましい情報しか見ておらず、都合の悪い情報は視界に入っていないのだ」(73〜74ページ)というのは、弁護士として度々実感するところです。
この本の基調は、講演なり交渉、政策提言において、相手のメンツを潰さずに未来志向で変化を求める立場から、大半の倫理違反行為は行為者が無意識のうちに、主観的には誠実であろうとしているのに、行われていると論じているのだと思います。私の感覚では、この本で挙げられている倫理違反の事例や日本でも多数ある企業不祥事では、行為者が誠実であろうとしてなされたというようには思えません。この本の最後の方で取り上げられている事例のたばこ産業が肺癌と喫煙の因果関係を隠蔽するために、1人1人の肺癌患者の発症原因を特定することがほぼ不可能なことを利用して、「専門家」に金を払って科学界のコンセンサスに異を唱えさせ、わかりにくい情報や曖昧な情報を意図的に流してその問題に結論が出ていないという印象を作り、動かぬ証拠を求め…(190〜195、214〜218ページ)という姿勢を取ってきたことは、どう見ても確信犯的に反倫理(犯罪」といってもよいと思う)的な行為を行ったものだと思いますし、これを見ていると原発の危険性を隠蔽するための電力会社の手口とそっくり。
10.それもまたちいさな光 角田光代 文春文庫
デザイン事務所に勤める35歳独身の悠木仁絵と親のレストランを引き継いで調理師になった幼なじみの駒場雄大のお互いにジコチュウの恋人に振り回されてから恋に臆病になった後の思い、仁絵の友人たちで初の海外での個展が決まった田河珠子の既に追い越してしまった感のある男との恋の亀裂、編集者の長谷鹿ノ子の不倫の恋とその相手の入院、そして登場人物が様々な生活の場面で聞いているラジオ番組のパーソナリティ竜胆美帆子の夫との関係を絡ませていく恋愛小説。
主人公の仁絵の語りで、子どもの頃からのばかげたことを知り尽くしている幼なじみと結婚できるか、ときめき見つめ合った初期がない相手と「生活」をやっていけるか、さらにはそういう相手に欲情できるかということが問われています。勢いとかタイミングの問題はあるでしょうけど、好きになったらばかげたこともただ微笑ましい想い出になっていくと思いますし、安心感と欲情は矛盾しないと思いますけどね。
不倫相手の入院で改めて相手との関係、妻との関係を問い直し感情を整理していく鹿ノ子の思いもなかなかに切ない。
そういう好きな相手を思う心情をそれぞれのシチュエーションで考え味わってちょっと切なかったり暖かく思ったりするタイプの作品です。設定が20代じゃなくて30代半ばというのが、そうするともう少し上の年齢にも考えを及ぼしやすくて、おじさん読者にはありがたく思えました。
09.さよなら渓谷 吉田修一 新潮社
息子殺しの容疑を受けた立花里美を追う週刊誌記者渡辺が、逮捕された里美の隣人の尾崎俊介に関心を持ち尾アが学生時代に犯した集団レイプ事件を知りその被害者水谷夏美が就職先でレイプ事件を知られて転職し結婚後夫のDVで入院を繰り返し自殺未遂を繰り返した後失踪していることを突き止め、尾アに迫るという展開の小説。
2013年に映画化され(2013年6月22日公開)、映画の方を先に見ました。映画を見たときに、その後紆余曲折を経たとしても、レイプ事件の被害者が加害者とセックスする、被害者が加害者に欲情するという点にどうしても納得できず、また興味本位の報道のために人の過去を調査し暴き続けまったく反省の様子もない雑誌記者の様子に嫌悪感を持ちました。
この作品では、この被害者の心の傷はレイプ自体よりもその後レイプを知られそれにより態度を変える男たちによって与えられている、それもこれもレイプ事件の存在故だから加害者を憎み「私より不幸になるなさいよ!私の前で苦しんでよ!」(172ページ)というものの、レイプ事件を知られることに脅え夜に付いていった自分を許してくれる人を求めるうち加害者といることで安心するという説明がなされています。レイプそのものよりも2次被害での傷の方が大きいという考えを前提にすれば、そういう心情もありうるのかもしれませんし、作者は人間という存在の複雑さを描きたかったのかもしれません。また、2次被害が告発対象とすれば、記者側は無自覚な様子を読者にさらした方がいいのかも知れません。
しかし、もし被害者がそのような心情を持つに至るとしてもそれは周囲から深く傷つけられた故で、被害者をそこまで追い込んでしまう社会・マスコミの問題が問われるべきだと思いますが、この作品では加害者が負った十字架と加害者側のある種潔さというか献身的な姿勢が描かれ、被害者の選択にも被害者の心情の変化が示唆され、加害者と被害者の個人的な選択の問題に視線が向けられるようになっているように思えます。被害者が2次被害故に加害者と暮らせるかという点も含め、やはり違和感が残りました。
映画の方の感想は→映画「さよなら渓谷」
08.弁護士探偵物語 完全黙秘の女 法坂一広 宝島社
就職先が決まらず自宅事務所で独立開業した新人弁護士の指導役を任された、酔いどれ憎まれ口弁護士の「私」が、新人弁護士が被疑者国選弁護で担当することになった被害者は意識不明で身元不明、被疑者は名前も黙秘の女性という傷害事件の周囲を探るうちに、ある冤罪事件を巡る関係者の抗争に巻き込まれ…という展開のミステリー小説。
新人女性弁護士をいじられ役の相棒に据えた分、デビュー作「天使の分け前」よりも主人公の「私」のひねくれ・憎まれ口の度合いを弱めています。この辺は、「このミス」の選評(「天使の分け前」巻末掲載)で叩かれまくったからかも。司法試験合格者数を増やして弁護士を増やした「司法改革」への弁護士側の怨嗟を前作よりさらに強め、弁護士の経済事情の悪化により人権擁護に取り組む弁護士がいなくなると論じつつもそれでもその道を突き進む弁護士もいることを描いていて、同じ業界に身を置く者としては、気持ちはよくわかります。
現役弁護士が書いたリアリティが売りの作品のはずですが、作品の冒頭まだ始まって3ページ目で、おいおいと思ってしまいました。被疑者国選弁護人として警察署に接見(面会)に行った弁護士の発言「勾留状にはこのように書かれています。あなたは二〇一二年八月……、昨日と言った方がわかりやすいですか、午後十一時三十分頃、福岡市博多区の冷泉公園付近で、氏名不詳の男性に対して暴行を加え」(7ページ)。この設定だと、事件の翌日にもう勾留状ができていてそれを被疑者国選弁護人が手にして接見していることになります。勾留状というのは、警察は被疑者を逮捕から48時間以内に検察官送致し、検察官はその後24時間以内に勾留請求をしなければなりませんが、その勾留請求を受けた裁判官が被疑者に勾留質問をしてから出されるもので、通常の実務では逮捕後3日目に作成されます。それを弁護人が入手するのはさらにその翌日以降になると思います。少なくとも、私が刑事事件の実務に携わっていたとき(2007年まで)はそうでした。法律の規定は○○時間「以内」ですからそれより早くやってかまわないのですが、近年の福岡ではそんなに迅速な勾留状発布がなされているのでしょうか。それに近年の福岡では勾留状の記載で西暦を使う勇気ある裁判官がいるのでしょうか。
この作品では終盤にそれなりにリアリティのある法廷シーンがあり(リアリティの程度については「私」の尋問の評価次第)楽しめるだけに、こういうところはそつなく押さえておいて欲しかったなぁと思いました。
デビュー作でも指摘した作者のサブカル経験年齢ですが、この作品でも矢吹丈の減量失敗をリカバーするための下剤エピソードが(209ページ)かなり無理筋で突っ込まれています。受け狙いというよりも単に作者の趣味なんじゃないかという気がします(それならいっそのこと、いつも出てくる主人公が袋だたきにされるシーンで、「気のせいか、傍で手を叩いて『金、チョムチョムだ』と指示する男の声が聞こえた」とか挿入すればいいのに(^^ゞ)。
07.弁護士探偵物語 天使の分け前 法坂一広 宝島社
2人の絞殺死体を前に凶器とおぼしきザイルを首に巻いて呆然としていたという絶望的な被告人の国選弁護人となった「私」が、被告人の無罪を主張し、進行協議後の裁判官室で検察官に弁護人解任の上申書の提出と弁護人から虚偽の認否を求められたという被告人の供述調書を求めた裁判長の指示とその直後の被告人との接見を録音し、検察官の作成した弁護人から接見で嘘を言うよう求められ断ると怒鳴られたという虚偽の被告人調書を知人の新聞記者に送りつけて暴露し、その結果裁判所と検察庁、拘置所長から懲戒請求されたが弁解を拒否して業務停止1年の懲戒処分を受け、探偵見習をしているうちに新たな事件に巻き込まれ、事務所に戻りその床に無罪となったものの精神病院に強制入院させられていたはずの元被告人が絞殺死体となって転がっていたのを見た途端に殴られて気を失い気がついたら凶器とおぼしきザイルを首に巻いていたところを逮捕され…という展開のミステリー小説。
現役弁護士(経験10年あまり)による裁判官・検察官の官僚的体質と警察官の遵法意識の低さへの怒りが表されていて、法律実務業界の描写にもリアリティがあり、弁護士としてはそうそうと思う部分が多々あります。加えて、私としては司法修習時に実務修習を行った福岡市と福岡地裁・福岡県弁護士会が舞台ということで懐かしい思いで読めました。
リーガル・ミステリーとして捉えると、法廷部分での勝負ではなく、弁護士が主人公で事件に巻き込まれるという意味でのリーガル・ミステリーにとどまり、この作品では必ずしも主人公が弁護士でなくても成り立ちうるように思えます。
主人公(名前は出て来ず、最後まで「私」)の強がり・減らず口・憎まれ口が続き、良かれ悪しかれそれがこの作品の基調を決めています。私自身、特に若い頃は妥協やなれ合いを嫌うたちでしたので、この主人公の姿勢はわかる気がしますが、この作品を読んでいると、そういう態度がいかに周囲の反感を買い近しい人々さえ呆れさせるかを実感させられ、改めて身を慎まねばとも考えさせられました。
なお、作者は私より干支でひとまわりほど年下の1973年生まれのはずですが、頭が白いことを形容するのに「矢吹丈との試合を終えたホセ・メンドーサみたいだ」(293ページ)とか大きな靴を形容するのにジャイアント馬場のシューズ(220ページ)とか、経験が共通するのか高めの年齢の読者層を想定しているのか…
06.ケルベロスの肖像 海堂尊 宝島社
東城大学Aiセンター長となった東城大学不定愁訴外来の田口が、高階病院長から「八の月、東城大とケルベロスの塔を破壊する」という脅迫状の調査を指示され、新たに開設されるAiセンターのこけら落としに向けて関係者の対立と思惑に翻弄されながら奮闘するという設定の小説。
「チーム・バチスタの栄光」に始まる著者のメディカル・エンターテインメント田口・白鳥シリーズ第6弾にして最終巻となる小説だそうです。2014年3月には映画化されるとか。私自身は、実は海堂尊作品をまったく読まないままこの作品を最初に読み、ほとんど説明なく1か月前の「アリアドネ・インシデント」(田口・白鳥シリーズ第5弾「アリアドネの弾丸」)とか2年前の碧翠院桜宮病院の火災と桜宮一族の焼死(「螺鈿迷宮」)などが当然の前提として語られることに戸惑いました。ほかの海堂作品を読み海堂ワールドに浸っていることが読者に要求されている作品です。それで、「チーム・バチスタの栄光」から読み進んでみましたが、そうすると、田口・白鳥シリーズが、第3弾「ジェネラル・ルージュの凱旋」までの医療現場を舞台とするメディカル・エンターテインメントと、著者の年来の主張のAi(オートプシーイメージング:死亡時画像診断)の拡大に対して厚労省は引き延ばしを図り警察は妨害し抵抗を続けているということをアピールする第4弾「イノセント・ゲリラの祝祭」以降の作品群に別れ、この作品は後者の警察の陰謀をベースにして解剖医でもあった桜宮巌雄とその一族の怨念を交錯させた最終作と位置づけられること、それとともに、田口・白鳥シリーズの枠を超えて、「螺鈿迷宮」「ケルベロスの肖像」「輝天炎上」と続く3部作の途中の作品でもあるということがわかります。
病院関係者や警察・役人らの派閥対立やいがみ合い・当てこすりの描写が実にリアルな感じがして読み応えがあります。
そして読者の興味を惹き続ける文章力、テンポのいい展開は作者の筆力を感じます。
しかし、主要人物以外の人物造形、この作品で言えば例えば桧山シオンや彦根新吾などに深みが感じられず、ミステリーとしては捻ろうという意欲さえ感じられません。脅迫状があるのに田口の警戒心はほとんどなく、ふつうに読めば「犯人」がここで工作するだろうというのも、またさらには犯人像も予測できてしまいます。
Aiの拡大実施により検視・解剖の未熟・限界により真の死因が見過ごされる(闇に葬られる)のを防ごうという作者の年来の主張が随所で語られ、というかこの作品のテーマとなっていて、社会派的問題提起小説として読むのならば、その目的は達せられているとは思います。しかし、ミステリー作品として読むのには、登場人物の行動に納得感がなかったり人物像が中途半端だったりする上に、肝心のミステリー・謎解き部分が練られていない印象が強く、欲求不満が残ります。前作の「アリアドネの弾丸」がミステリーとしての色彩が強くその点で読み応えがあっただけに、落差の大きさに戸惑います。他方、解決されない謎がいくつか残りフラストレーションが溜まります。そしてその謎解きが、田口・白鳥シリーズでない出版社も違う「輝天炎上」に委ねられていて、それを知った時は、そんなのありかと力が抜けました。海堂ワールドの無条件信奉者なら、楽しみが増えたと思うのかもしれませんが。
「専門職が尊敬されるのは、専門知識を有しているということに力の源泉があったのだが、そうした知識がネットで労せずに獲得できる時代になってしまった。だが検索で得る知識は実体験の裏打ちがないため、あまり有効に機能せず、結局は経験がものを言う専門職の必要性は損なわれていない。だが、素人にはそのあたりの阿吽の呼吸がわからないのだ。つまり“生兵法は怪我の元”という格言を地で行く医療素人が増えているわけだ。」「そうした検索知識の中には、あまりに先鋭的すぎて、臨床現場ではまだとても使いこなせないようなものも混じっている。そんな専門家の説明を無視し、検索知識に固執し、声高に治療方針に異議を唱え、自分の主張を押し通そうとする患者がいる。」(73ページ)。お医者さんも苦労してるんですね。法律家業界でも同じような環境にあるように思えますが。
(2013.12.9記、2014.2.14更新)
05.人間関係を支える心理学 心の理解と援助 上野徳美・岡本祐子・相川充編著 北大路書房
人間関係の理解と構築、問題解決を志向した「臨床社会心理学」の入門書(まえがき)と自己規定して、心理学的な観点から見た人間関係の基本と人間関係への不適応及びそれに対する臨床対応や援助などを説明した本。
私としては、対人援助職(教師、医師、看護師、カウンセラー、ソーシャルワーカーなど)のバーンアウト(燃え尽き)(77〜82ページ)の話は強い興味を持ちました。サービスの守備範囲が広くクライエントの要求にはきりがないという気持ちを持ちやすくサービスの提供はこれで十分という基準があるわけでもない…う〜ん、身につまされるというか共感するというか。また、相談場面での心がけなどについて書かれた第6章も参考になります。かつて日弁連法律相談センターで心理・臨床の人々とともに面接技法研究会というのをやっていたときにも実感しましたが、心理臨床と法律相談では目的やテクニックは相当程度異なるのですが、同時に人間と相対して相談を受ける/行うという点では共通のもので、自分の対応の懐を拡げるためにも頭には置いておきたいところです。人間関係の不適応(引きこもりとかいじめ、虐待)についての第5章は興味深く読めましたし、精神科クリニックに勤めながらスクールカウンセラーとして派遣された「ある若手の心理臨床家」がクリニックモデルでは学校現場のニーズに応えられず戸惑ったという話(189〜190ページ)は個人開業している弁護士(私のような)が組織に雇われたら同じようなものだろうなと考え込みました。
心理学系の本に(社会学系の本にも)ありがちですが、日常生活用語と異なる業界用語で内容的にはある種ごくふつうの当たり前と思えるようなことを書き、しかもその論の根拠として多くの場合、研究者の名前を挙げて○○はこう言っているというだけだったりするのが、読んでいてだからどうしたと思いますし、眠気を呼びました。例えば「子ども時代に虐待を受けた経験のある親が自分自身の子どもに対して虐待を繰り返すリスクが高いという現象を虐待の世代間伝達(transgenerationel transmission)という。」(116ページ)って、今どき「虐待の連鎖」で一般人に通じると思いますが、あえて堅苦しく言いたいのかなって思います。そして論の根拠として「○○はこう言っている」と引用しているのが執筆者自身の論文だったりすることがありますが、ほとんどの場合その引用されている論文が執筆者自身の論文であることは本文を読んでもわかりません。1人で書いている本なら著者が明示されていますからいちいち言わなくてもわかりますが、この本は執筆者が細かく分かれていて各章・各節ごとには執筆者の記載がなく執筆者名は末尾の一覧に書かれているだけなので、気にかけて執筆者と引用文献を対照しないとそれがわかりません。私は、そういうの執筆姿勢としてアンフェアだと思いますし、少なくとも一般読者に親切な本ではないと思います。
04.右?左?のふしぎ ヘンリ・ブルンナー 丸善出版
鏡に映した形(鏡像)が回転させても原像と重ならない関係にあることを手のひら対称性として、平面ではFとその鏡文字など、貝殻やツルの右巻きと左巻き、正四面体構造:実質的には炭素原子の4本の腕にそれぞれ別の分子が結合したアミノ酸の左旋性と右旋性などを取り上げて、構造としては対等にありうる右と左について自然界ではそれが一方に偏るケースが多いことについて注意を喚起し解説する本。
サリドマイドの右旋性の分子は睡眠・鎮静効果があり重篤な副作用はないのに左旋性(鏡像)の分子は軟骨を作る酵素の働きを妨げ発達障害を起こす(98〜107ページ)というように、薬品・食品などで、同一の化学組成なのに手のひら対称性がある2つのタイプ(左旋性と右旋性)で片方は好ましい効果があり、他方は害があるか少なくとも好ましい効果がないことが多々あり、自然界ではアミノ酸は左旋性、炭水化物は右旋性のものだけが生物体に使用されるが工業的に製造すると特に制御しなければ左旋性のものと右旋性のものは同じ割合でできてしまい、一方のみを製造する技術が必要になるということが、著者の専門分野で、最終的にはそこに行きたいのですが、著者の趣味的なものも含めて右巻き・左巻き、鏡像の話が親しみやすい例を多数挙げて説明されています。それでも最後の左旋性と右旋性のあたりは少し難しい感じが残りますが、いきなりアミノ酸の分子構造の図を出されるよりは、鏡像問題に入り込みやすくなっています。
らせんの右巻きと左巻きの定義が、見る人(視点はらせんのどちらかの先に置くのがわかりやすい)から遠ざかる方にらせん上の点を動かしたときに時計回りに動くのが右巻きとされ(15ページ)、そうすると読んでいて時々混乱しつつも落ち着いて考えれば右巻きと左巻きが決まることがわかります。エスカルゴの殻は右巻きが圧倒的多数で左巻きは2万分の1だそうです(28〜29ページ)。なお、さいころでは1、2、3はその3面が見えるときは左回り(反時計回り)に1、2、3と並ぶそうです(143〜144ページ)。
豊富な写真入りでトリビアを仕入れる本と思って読むのがたぶん正解の本です。
03.インダス文明の謎 古代文明神話を見直す 長田俊樹 京都大学学術出版会
2007年から5年間インダス文明に関するプロジェクトでインダス文明遺跡に日本隊として初めて発掘に携わりインダス文明遺跡地域での環境調査を行った著者が、これまでに訪れたインダス文明の遺跡を紹介して、インダス文明について持たれている先入観に対して疑問を提起し、特にインダス文明が「大河文明」といえるかについて検討した本。
著者の主張は、インダス文明をインダス川に依存した大河文明と考えたのは、初期に発掘調査されたモヘンジョダロ遺跡とハラッパー遺跡を中心に、しかもインダス文明が世に知られたのが1924年以降と遅かったために既に調査が進んでいたメソポタミア文明になぞらえ同様に解釈されてきたためで、現代ではインダス文明期の遺跡は2000以上にのぼりモヘンジョダロ、ハラッパーにガンウェリワーラー、ラーキーガリー、ドーラーヴィーラーを加えた5大都市と評価するのが通常で、大河のないチョリスターン砂漠や海沿いに多数の遺跡があって、砂漠の遺跡では大河からの灌漑による農業よりも遊牧民による交易が都市を支え、海沿いの遺跡では海上交通に支えられて栄えたと評価すべきであって、むしろインダス川流域で灌漑農業で栄えたモヘンジョダロやハラッパーが例外的存在ではないかということにあります。インダス文明の遺跡に特徴的な石や焼成レンガを駆使した貯水池や水道(水路)は、大河の近くで水が豊富だったというよりは雨期に得られる貴重な水を乾期に供えて蓄えるためと解すべきで、砂漠地域の枯れ川ガッガル=ハークラー川がインダス文明期にはサラスヴァティー川と呼ばれる大河であったという主張は誤りであること(ガッガル川が氾濫を繰り返す大河であれば浸食されて存続できないはずの砂丘の上に遺跡があり、かつその砂丘の成立年代がインダス文明期以前など:162〜167ページ)や、インダス文明遺跡では記念碑的建造物が見られず武器や武器により殺傷されたとみられる人骨の出土も(ほとんど)なく戦争と中央集権を示す証拠に乏しいことも指摘されています。
他方、著者の専門が考古学ではなく、インドの少数言語が専門のため、遺跡と出土物についての分析は基本的に他の専門家の報告書に頼っています。そういうこともあって著者は、インドとパキスタンの対立のためにパキスタン国内のインダス文明遺跡をインド人研究者が自由に見学することさえ許されず、インド国内ではインド考古局が独占して外国隊の発掘を許さずインド人考古学者は発掘に追われて定年退職後発掘ができなくなって初めて報告書の作成に取りかかるために報告書が出るのが極めて遅い上報告書が出るまで出土品を自由に見ることができず出土品は整理が行き届かないまま倉庫に眠っている、パキスタンでも英領時代にウィーラーが発掘したハラッパー遺跡の出土品が大量に倉庫に保管されているが蛇の巣窟になっていて到底近寄れない(38〜42ページ)などの発掘調査が進まない状況を嘆いています。
他方、ファルマーナー遺跡で見つかった人骨の歯についている歯石を分析するとターメリックやジンジャーが検出され、インダス文明期に人々がカレーを食べていたことが判明した(140ページ)などの新しい研究成果も紹介されています。
「はじめに」で、これまでのインダス文明像がガラガラと崩れてとか、新しいインダス文明像を打ち立てると書いていることに象徴されるように、力みすぎの感があります。学者さんの研究ですからそれぐらいの気概があるのはいいんですが、この本の最初の方でインダス文明の年代について最新の教科書でも紀元前2300年頃〜紀元前1800年頃としているのを「そんな古い知識が改訂もされず、教科書にも、事典にも堂々と掲載されている。それがまさにインダス文明研究の日本における実態なのである。」(8ページ)と書かれていて、著者の見解はというと「紀元前2600年〜紀元前1900年とするのが一番妥当であろう」(14ページ)とされています。日本でいえば縄文時代後期とか晩期に当たり、それが300年とか100年ずれたとして、その分野の専門家には大きな違いかもしれませんが、一般人からすれば声高に言うほどの問題かと思ってしまいます(江戸時代が100年ずれたらビックリしますけど)。
著者自身の専門の話があまりなく、遺跡紹介が大部分を占め、著者の力みがやや空回り気味に感じますが、あまり紹介されることがないインダス文明の新しい情報が多数あり、高校時代にインドに強い興味を感じていた私には楽しく読めました。
02.家電が一番わかる 涌井良幸、涌井貞美 技術評論社
家庭用電化製品の基本的なしくみについて説明した本。
60種類の製品について1項目あたり見開き2ページ〜6ページでイラストと写真入りで解説されていて、説明されているところはそれなりにわかりいいです。
説明対象の家電の選択は、やはり好みの問題があるように思います。キッチン家電にワインセラーや家庭用精米機があって、ホットプレートやフード・プロセッサー、ミキサー、パン焼き器(ホームベーカリーっていうんだ。今は)などがないのに疑問を感じるのは私が今の時代に遅れてるせい?
一番長い6ページを使って説明しているのは、コンパクトデジタルカメラと、もう1つは何と蛍光灯。確かに、点灯管の役割と蛍光灯が点灯するまでの流れってわかりにくい(90ページ参照)。
私にとっては、意外に知らなかったと思ったのは、(CDではない)レコードの話。レコードの溝は深さ方向じゃなくて左右(幅)方向に音のデータが刻まれていて、溝の左右(内側・外側)で刻みを変えてステレオになっていたんですね(195〜196ページ)。子どもの頃、溝に音が刻まれているといわれて溝を見つめても溝の深さは同じに見えるし釈然としなかった記憶があるのですが。
1つあたりの説明が短いので当然深くはなく、また説明のポイントも1、2点に絞られて自分が知りたい点とずれることもままありますが、雑学的な興味でパラパラとめくるにはいい本かなと思います。
01.オーロラ 宇宙の渚をさぐる 上出洋介 角川選書
オーロラを材料として、著者が長年にわたり研究対象としてきた地球の上空の太陽風と地球の磁場が交錯する電離圏(これを著者は「宇宙の渚」「ジオスペース」と呼んでいます)での電流や電場などを計算し予測する方法などの研究の過程と成果を説明する本。
プロフィールで「オーロラ研究の世界的権威」と書いている著者の研究史は現代のオーロラ研究の歴史とほぼオーバーラップするのだとは思いますが、ほぼ著者の研究を中心に語る第2部(第3章〜第5章)は、一般読者にはかなりきついと思います。数式の羅列こそありませんが、例えば「方程式は電位についての楕円型2階偏微分方程式であり、電位が解けると電場がすぐ出せます」(105ページ)とか「地上で観測された磁場変化ベクトル分布を球関数展開し、いわゆる電流関数を求めます」(130ページ)とかさらりと言われても、門外漢はついて行けません。
巻頭の美しいオーロラの写真に惹かれ、第1部のわりと噛み砕いた解説を見て、これなら簡単に読めそうと思って読み始めると、第3章後半で挫折します。内容も一気に難しくなりますし、オーロラはそっちのけで電離圏の電流という一般読者にはあまり関心を持てない話題に終始しますから。
オーロラは太陽風と呼ばれる太陽から放出されたプラズマ(荷電粒子)が地球の磁気圏に捉えられ地球の大気と衝突することによって発光する現象と説明されています(18ページ)。そうするとなぜオーロラは太陽側の昼ではなく反対側の夜に発生するのかという疑問が生じますが、それには「地球の昼側の磁場は太陽風の圧力で圧縮されており、夜側では磁力線が長く伸ばされて尻尾のような形をしています。その磁気圏の尾の中央部には磁場が弱い部分(プラズマシート)があり、その領域でプラズマが溜まりやすくなっているのです」(55ページ)と回答されていますが、太陽からくるオーロラの粒子はどこでどう曲がって地球の夜側に到達するのかなどはまだわかっていないそうです(23ページ)。
知的好奇心に訴えるところはありますが、難しいことが多く書かれているわりに基本的なところがまだよくわかっていないとされているので、ちょっと初心者には好奇心を持続させるのがしんどいかなぁと思いました。
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