私の読書日記 2014年1月
13.14.ナイチンゲールの沈黙 上下 海堂尊 宝島社文庫
「チーム・バチスタの栄光」に続く田口・白鳥シリーズ第2作。バチスタ・スキャンダルから9か月後の東城大学医学部付属病院で、救命救急センターからたまたまベッドが空いていた神経内科に回され田口が担当することになった肝硬変の伝説の歌姫と眼球摘出手術が待ち受ける小児科病棟の患者の少年を担当する病院一の歌唱力を持つ看護師が絡み合ううちに少年の父親が殺され…という展開です。
前作に続き、序盤から中盤への展開の巧さ、飽きさせずに読ませる筆力には驚きます。病院の人間関係の妙や医療現場の描写のリアリティは本職の医師だからある種お手の物でしょうけど、キャラ設定や構想力も含めて、とても2作目の新人とは思えません。
他方、ミステリーの仕掛けと謎解きは凡庸で、読みながら他の答えが探しにくくこの状況でどうやってどんでん返しを作るんだという興味で読んでいたらどんでん返しがなく終わったという感じです。「チーム・バチスタの栄光」では手術室という通常人にはなじみがない領域でのミステリーだったためにミステリー部分の工夫のなさが目に付かなかったのですが、本作ではごく普通の殺人事件の設定なのでそれがあからさまに見えてしまいます。あえて「ミステリー」と分類せずに、病院と変人キャラの人間関係と展開の妙で読ませる新たなタイプのエンターテインメントと位置づけて読む方がよさそうな気がします。
本作では、アル中の歌姫と看護師の歌に特殊な力を持たせ、警視正がデジタル・ムービー・アナリシス(電脳紙芝居)なるコンピュータなら何でもできるような幻想のソフトが登場し、ファンタジーとSFの趣向となっていて、だいぶ足が地から離れたというか妄想っぽくなっています。私には誇大妄想的な最後を迎える「ケルベロスの肖像」で終わる田口・白鳥シリーズのその後の展開を示唆しているように思えました。
作品冒頭の2ページの序章、一応は謎解きに絡みはするのですがかなり間接的にで、これだけ思わせぶりに拡げた場面の使い方としては期待外れ感があります。
12.人はなぜ集団になると怠けるのか 「社会的手抜き」の心理学 釘原直樹 中公新書
個人が単独で作業を行った場合に比べて集団で作業を行う場合の方が1人あたりの努力の量が低下するという「社会的手抜き」について、心理学の実験等を引用しながら検討する本。
多重チェックでチェックする人数を増やすとかえって全体のミス発見率が低下する(110〜111ページ)とか、集団でブレーン・ストーミングを行うより個別にアイディア出しを行った方がアイディア総数だけでなく独創的なアイディア数も多い(80〜81ページ)等、興味深いことがらがそれなりに書かれています。しかし、その論拠となる実験が引用はされているのですが実験条件等がきちんと紹介されておらず、実験のサンプル数が書かれているものはほとんどがせいぜい数十人レベルのもので、その実験1つでそんなことまで言っていいのかと思うことがしばしばありました。
日本シリーズの優勝確率について、勝率が55%のチームが「4連勝する確率は0.554=9.15%、4勝1敗の確率は4通りのケースがあるので4×0.555=20.13%、4勝2敗は10通りであるので10×0.556=27.68%、4勝3敗は20通りで20×0.557=30.45%となる。これを合計すれば87%ほどになる」(178ページ)としています。いや、違うでしょ。勝率55%のチームが4勝1敗の確率を議論する時どうして0.555がベースになるのか全然わからない。1敗の方は負ける確率45%なのだから、0.554×0.45をベースにすべきでしょう。著者は「実力差が14%(強いチームの勝利確率が57%)あれば確率論的には弱いチームが優勝する確率はなくなる」(179ページ)としています。著者のやり方(強い方のチームの勝利確率を試合数乗する)で勝率57%のチームの優勝確率を計算すると108%になります。ついでに著者のやり方で勝率60%のチームの優勝確率を計算すると146.7%になってしまいます。確率を計算する時、100%に限りなく近づいていくというならわかりますが、100%を超える計算結果が出たら、それは計算のやり方が間違っていると考えるのが普通でしょう。こういう数学センスを見せつけられると、この本で取り上げている実験結果や統計の処理・評価の信頼性にも疑問を感じてしまいます。さて、この著者の計算結果は何人がチェックしたのでしょう。
10.11.チーム・バチスタの栄光 上下 海堂尊 宝島社文庫
2005年の第4回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作のメディカルミステリー。
首都圏の端の桜宮市にある東城大学医学部付属病院で、平均成功率6割といわれる拡張型心筋症に対する左心室縮小形成術(通称バチスタ手術)で26例連続して成功していた桐生医師のチーム(チーム・バチスタ)で3例立て続けに術死が生じ、不定愁訴外来の万年講師田口公平が高階病院長から調査を命じられチームの聞き取りを行った後手術に立ち会うが、桐生の手技は完璧なのに田口の目の前でまた術死が生じ、原因解明は無理と泣きついた田口に高階病院長は厚労省のはぐれ者白鳥をあてがうが…という展開です。
大学病院での力関係・人間関係、医療現場の繁忙と緊張と諦念の描写が、とても迫力があります。トリックスターの「厚労省の火喰い鳥」白鳥が、厚労省で残業を拒否して机を奪われ最上階の食堂の5番テーブルに居つき「大臣官房付」の辞令を渡され仕事はないから勝手に探せといわれているというあり得ない経歴で、人の神経を逆なでする無神経な俺様キャラで、読んでいていらつきますが、小説としてみる限りおもしろいところではあります。
ミステリーとしても、医療技術・医療現場の状況の下での謎なので、読者が容易に推測できないという点が大きいかとは思いますが、終盤まで謎を楽しめ、読み甲斐があります。ただ、ありがちではありますが、犯人の動機・犯人像はあまり説得力がない感じがします。
09.ヘイト・スピーチとはなにか 師岡康子 岩波新書
近時の新大久保等での排外主義デモに代表されるマイノリティに対する差別・侮辱・排除の言葉による攻撃などの「ヘイト・スピーチ」について、日本の現状と諸外国の法規制を検討し、日本でも法規制を行うべきことを主張する本。
「ヘイト・スピーチとは何か」というタイトルから最初に期待されるヘイト・スピーチの定義は、実はこの本を読んでもハッキリとはしません。この本の中心的な論点は、そして弁護士の視点からかもしれませんがこの本の読みどころは、諸外国の法規制を検討する第3章とそれと日本の現状と議論を対照する第4章にあるのですが、そこまで読んで改めて著者が第1章と第2章で語りたかったこと、そしてこのタイトルが意味するところが、ヘイト・スピーチによりマイノリティ側が受ける被害、そこに焦点を当てて捉えるべき「ヘイト・スピーチの本質」であることがわかります。著者の主張は、国際標準を形式的な説得材料とするとともに、実質的あるいは心情的にはマイノリティに対する差別・迫害がヘイトスピーチの本質でありその攻撃とマイノリティの被害が不可分一体であることをより有力な根拠としているように、私には思えます。
表現の自由の規制と権力によるその濫用への危惧を感じる者(そこには良心的なリベラリストが多く含まれる)に対し、何よりもヘイト・スピーチによって攻撃を受けるマイノリティの被害・ダメージの深刻さを直視するよう迫る論の運びには心を揺さぶられます。この論理は、ヘイト・スピーチの本質がマイノリティに対する攻撃であり、規制により守る/防ぐべきものはマイノリティの被害であるから、規制対象はマイノリティに対する攻撃のみにすべき(マイノリティのマジョリティに対する言論や民衆の権力に対する言論は対象にすべきでない)という片面的な規制を求めるという方向を志向することになると私には思えます。著者も「規制の対象をマイノリティに対する差別的表現に限定することは、最も重要なことであろう」と述べています(209ページ)。その方向性は、私にはむしろそうあるならば望ましいと思えますが、この国でそのような制度が官僚や政治家、裁判所に容認されるのか、立法される時には違った形(官僚の手にかかれば似ても似つかないもの)になってしまうのではないかという危惧を持たざるを得ません。著者自身が、「明文でマイノリティに対する表現に限定している例は多くない」として実例としては中国刑法第250条を挙げるのみである(209ページ)ことも、そのあるべき方向の法規制の実現の難しさを物語っているように思えます。
法規制を巡る難しさと迷いを感じながら、第1章の2の京都朝鮮学校襲撃事件の紹介と第2章の2のマイノリティの被害を読み返して思いを新たにするというあたりが標準的な読み方かも。
08.美都で恋めぐり 北夏輝 講談社
地元の公立大学に落ちて関西の私立大学に行くことになった大学1年生安藤友恵が、母の従弟でいつも黒装束のスキンヘッドの書道家「黒衣」こと黒川と、黒川の弟子で友恵と大学同期生のなぜか茶髪の女性用カツラ着用の「サカイ」こと森口守、黒川の弟子で黒川に夢中の高校生「ゆりりん」、黒川の学生時代の指導教員だった大学教授「殿下」、殿下の現役ゼミ生で友恵のバイト先の先輩の恋人だった「姫」こと姫宮まろんらと関西の街や祭りを歩き自宅でパーティーをしながら眉目秀麗な「サカイ」に惹かれて行くラブ・コメディ。
前作「恋都の狐さん」同様、少し変人キャラを並べつつ、観光行事案内的な興味と軽いタッチのラブコメのテーストで読ませる作品だと思います。ふつうの女子大生とイケメンの同級生というパターンは、少女マンガの定番という感じ。「サカイ」が女性用カツラを付け続ける理由が、軽いミステリーとなっていますが、まぁそこはあまり期待せずに読んだ方がいいような…
07.原子力ドンキホーテ 藤原節男 ぜんにち出版
三菱原子力工業(のち三菱重工と合併)、原研を経て原子力安全基盤機構(JNES)の検査員となっていた著者が、2009年3月に泊原発3号機の使用前検査の際の減速材温度係数測定検査で最初の検査時の減速材温度係数が正の値であったことを記載した検査記録について、上司から削除を命じられたがこれを拒否し、JNES側が設けた検討タスクグループが最終的には削除不要の結論を出したがそれでは納得できず、上司の削除命令が不適合業務であることを確認すべく組織内で上長に通報し、その後検査の現場から検査のとりまとめ部門へと異動になりボーナス査定でD査定を受け、定年再雇用を拒否された経緯を紹介し、原子力ムラの実情を明らかにするとともに批判する本。
減速材温度係数は、それが正であることが、原子炉出力の上昇がさらなる原子炉出力の上昇につながりチェルノブイリ原発事故のような暴走事故の要因となるとされて、それが負であることの確認が要求されているもので、検査で正の値が検出されたことは、重要な意味を持ち、それが是正されたとしてもその後の設計や運転管理に考慮され反映されるべきものと考えられます。そのような事実を隠蔽することは、原子力ムラの体質としてありがちなのでしょうけれども、由々しき事態です。
この本では、この泊原発3号機での減速材温度係数測定検査の記録隠蔽工作の他にも、敦賀原発2号機での再生熱交換器亀裂発生・冷却材漏れの真の原因の隠蔽工作も紹介されており、原子力ムラの隠蔽体質がよくわかります。
また、著者が、正義感と同時に揺れ迷う様子も示しつつ、最終的には信念により公益通報に進むあたりが読みどころとなっています。
著者は、原子力技術は必要だが現在の原子力ムラでは安全が確保できないから脱原発という立場です。加圧水型原発の蒸気発生器で伝熱管(細管)のひび割れが多発してひび割れた伝熱管にプラグで栓をして運転していたがその栓がかなり多くなった時に冷却材設計流量を確保できることを計算で示して運転再開の許可を受けたことを「私のヒット業績」としたり(102〜103ページ)、2002年に東京電力でひび割れ隠し問題の発覚で生粋の原子力技術者が責任を取らされて素人が指揮を執ることになったと批判している(119〜120ページ)あたりには原子力推進側の思考パターンが見えます。その立ち位置を確認しつつ読んだ方がいいでしょう。
労働側の弁護士としては、著者が定年を控え再雇用前にD評価を受けても弁護士に相談しないで行動している様子をみると、このあたりで弁護士に相談しておいた方がいいと思うのですが、一般にはそういう発想は出て来ないというか弁護士の存在感がないのでしょうね。著者が再雇用を拒否されてまず労働審判を申し立てたということについては、労働側の弁護士としては違和感を持ちます。具体的な事情と本人のニーズを確認しないとわかりませんが、一般的には労働審判の事案じゃないだろうと思います。著者が「たとえ弁護のしようのない人物であったとしても、あれこれと理由を付けて裁判を有利に進め、検察の追及が弱ければ、犯罪人でも無罪にすることができる」のが弁護士の使命だとして、欠陥技術を正当化しようとする技術者を「技術弁護士」と呼んでいる(117ページ)ことにも、弁護士というのは社会で充分には認知されておらずまた自分が相談依頼することは想定されていない(どこか遠くで悪人を擁護していると思われている)ことが読み取れます。弁護士としては、いろいろな部分で、ちょっと悲しいです。
06.防犯カメラと刑事手続 星周一郎 弘文堂
街頭防犯カメラの設置と撮影データの管理・利用についての法的根拠等を論じた本。
警察による街頭防犯カメラの設置とその撮影データの捜査・裁判への利用の法的評価を最初から公平に論じるのではなく、それを正当化する法律構成を考えるというスタンスの本だと、私は思います。
街頭防犯カメラの設置によって犯罪抑止効果があるかについて、この本が紹介している実証研究を見ると、効果があったとする研究もあるが、効果が全くないとか望ましくない効果が出ているとする研究も少なからずあり、公平に見れば防犯カメラ設置の犯罪抑止効果はハッキリしないと評価すべきように私には思えます。この本では、この部分での小活では「少なくとも、犯罪抑止効果(防犯効果)に関しては『それがあるかないか』の二項対立で論じられる簡単なものでは決してない」(40ページ)と論点をずらす形で、捜査への利用の利点などにつなげています。
この本では防犯カメラの設置についての世論調査を示して、「街頭防犯カメラに関しては、イギリスおよびアメリカにおいても肯定的な評価が優勢であり、また、わが国でも、かなり際立った支持を集めている」としています(54〜58ページ)が、アンケートの実施主体が防犯カメラ推進団体であったりする上に、そもそももしこの本で紹介された実証研究の結果のように犯罪抑止効果がハッキリしないとかほとんどないという実証研究が相当数ある(実質的なメリットは犯罪捜査に使えることくらい)と市民が知ったらそれでも防犯カメラの設置がそれほどの支持を受けられるでしょうか。市民の支持は防犯カメラに犯罪抑止力があるという幻想に基づくものではないでしょうか。法学者がこの本を書いているのにそういう点にまったく注意を払わないというあたりで、私はこの著者の姿勢のバイアスが気になりました。
防犯カメラを巡る法規制と裁判例での評価について、この本では防犯カメラが世界一普及しているイギリスと、アメリカでの議論だけを紹介しています。イギリスで防犯カメラのデータ利用を正当化した判決がヨーロッパ人権裁判所で覆されたケースも紹介されているのに、その後それについてのイギリス政府の評価を紹介するだけで、EU法やEUでの評価には触れられていません。イギリスの裁判所が適法と判断したものをヨーロッパ人権裁判所が違法だと判断しているのですから、EUではイギリスとは違う法規制、違う法的評価がなされていることが予想できます。しかしこの本ではイギリスとアメリカ以外の外国法には触れようとしません。この点も、著者の姿勢に疑問を感じさせるところです。ただし、このイギリスとアメリカの裁判例紹介は、比較的多くのケースが紹介されていて、仕事がら興味深く読めました(この部分が私にとっては一番眠くなかった。法律業界以外の人には逆かもしれませんが)。
ただし、イギリスの法規制の紹介の中で、イギリスのデータ保護法では防犯カメラ映像のデータ主体のアクセス権、つまり画像を記録された個人は自らその画像を見てそのコピーの提供を求めることができることが定められているとされ(105ページ)、このことは大変重要なことと私には思えたのですが、この本では日本での法規制を考える段になるとなぜかイギリス法のこの部分はまったく触れられません。こういうあたりも著者の姿勢を疑わせるところです。
日本での判例を検討する部分でも、写真撮影について最高裁判決を始め裁判所が現行犯かそれに準ずる状態での写真撮影を容認したというものが多いのに、警察による防犯カメラ設置については「行政警察活動」として(つまり犯罪防止目的で)より緩やかな要件でできると論じて、大阪地裁の1判決を偏重してそれに依拠する姿勢を見せています。この本で紹介された実証研究では街頭防犯カメラの犯罪抑止効果がハッキリしないのに、警察が街頭防犯カメラを設置することはそれを理由に容認しろということ自体、著者の姿勢の誠実性に疑問を感じます。そして結局はその防犯カメラで撮影した映像を捜査や裁判で利用するし、そのことが最初から予定されているというか、本当はそれが最初から目的と思われるのに、設置段階ではまるでそのことを無視して容認できるとするのは羊頭狗肉だと、私は思います。
05.iPS細胞はいつ患者に届くのか 戌ア朝子 岩波科学ライブラリー
iPS細胞を始めとする幹細胞(さまざまな細胞を作る元になる細胞で、長期にわたって自らを複製・再生する能力と自分とは異なる性質や機能を持つ細胞を作り出す能力を持つ細胞)による再生医療の現状と展望を説明する本。
幹細胞には、あらゆる細胞を作り出せる万能細胞であるES細胞(受精卵が6〜7回分裂した初期胚から培養)とiPS細胞(分化した細胞に特定の遺伝子を導入して作製・培養)、一定の範囲で多様な細胞に分化する能力を持った体性幹細胞があるが、ES細胞は受精卵・胎児の取扱で倫理的なハードルがあり、iPS細胞は体細胞から作製するので倫理的なハードルはクリアできるが治療への利用上魅力的な万能性と著しい増殖能力が同時に腫瘍(癌)化のリスクをも意味しそのリスクの払拭になおハードルがあることから、この本では実際には体性幹細胞の治療への利用とそのために幹細胞をシート化したりさらには臓器のパーツへと形成する技術、移植・注入の技術開発の様子に紙幅を取って説明しています。そういう説明を読んでいると、幹細胞の能力の問題だけではなく、幹細胞から分化した細胞をどのようにして患部に送り定着させるかという面での技術開発が、治療・臨床への利用という観点からはとても重要だということがわかります。
日本では、自由診療(保険外診療)であれば医師が自分の裁量でiPS細胞を利用した治療を提供することができるということですが、一方で品質や有効性、安全性について国の評価を経たものではなく「野放し」状態であり、他方で治療用にiPS細胞を作製するには膨大な手間と費用がかかり1人の治療に数百万円とか数千万円かかることが紹介されています(111〜114ページ)。
そういった安全面とコスト面でのハードルを乗り越えてiPS細胞が再生治療に利用される日を待っている人たち(体性幹細胞による治療では不十分だったり治療できない人たち)が多数いることと、研究と技術の開発に強い熱意を持つ人たちの物語が紹介され、少し熱い気持ちになる本でした。
04.世界基準で夢をかなえる私の勉強法 北川智子 幻冬舎
高校時代に短期語学留学のためにカナダでホームステイしたのをきっかけにカナダでの生活で英語を身につけてブリティッシュ・コロンビア大学に入学し、数学専攻から日本史研究に切り替えてブリティッシュ・コロンビア大学で修士、プリンストン大学で博士をとり、ハーバード大学で授業を行い、現在はケンブリッジで研究生活を送る著者が、自分の行ってきた勉強法を紹介する本。
冒頭、英語力が低い状態で大学入学に必要なTOEFLの基準を満たすことが無理と判断したので、無理なものに挑戦してうちひしがれるのを避けるためにTOEFLの問題を解くことをやめ、3歳の子どもの子守をしながら子供用アニメを見たり絵本を読み聞かせたり家族との会話を通じて会話力を自然に身につけてTOEFLの基準点を突破し大学に入学できたというエピソードを紹介して、とても無理なことはすっぱりあきらめ、急がば回れで焦らずゆったり勉強することを勧めています。一理あると思いますが、対象が語学の習得で、大学に入試がない(TOEFLの他は志望理由のエッセイだけ)という条件だからそれで行けたということは押さえておく必要があるでしょう。
ノートはほとんどとらず(とってもA4一枚まで)教授の話の重要点(おもしろい点)を仕分けして記憶を反芻することで頭に入れていくというのは、私もノート・メモはあまりとらない方なのでよくわかる気がします。
「なんの勉強でも、どんな仕事でも、きっとそうである。目の前には無限の可能性が広がっていて、それに気づいた一瞬、大きな竜巻に呑み込まれそうになる。そうやって無限の可能性を感じながら空を眺める時こそ、可能性の果てしなさに翻弄されないよう、逆に、自分の手のひらに収まる範囲の話を考える。」(100〜101ページ)というのは至言であると思います。ついそこを踏み越えて無理をしたり無理なことを抱え込んだりしてしまいがちではありますが。
できないことについて、自分の能力を責めたり悩んだりするより、いいあきらめ方をする方がずっと大事、できないことをどのように受け入れるか、自分にできる他のことでどうかバーするかが大切だという指摘(108〜109ページ)も、なるほどと思います。失敗については、内発性のミスで人に迷惑をかけた時はすぐに謝るべきだが、反省してもそれが記憶に残り次に同じ場面に遭遇した時足がすくむことになりかねないし時間の無駄、反省はそこそこにして原因を割り出して冷静に現状を見極め、それが世界に影響するか→まったく影響しないので忘れる(176〜182ページ)といわれると、いわんとすることはわかるけどそこまではねぇと思いますけど。
03.大人でもはじめていいんだ! フィギュアスケートはじめました。 佐倉美穂 誠文堂新光社
運動音痴を自認する「完全室内型フリーライター」の著者が、運動不足解消・ダイエット目的で各種教室を検索しているうちに大人向けのフィギュアスケート教室週1回月5400円也というのを発見し、子どもの頃から憧れていた観るものと思っていたフィギュアスケートを自分でやってもいいんだと「ヘレン・ケラーが『ウォーター!』と叫んだときのような衝撃」(16ページ)を受け、30代後半でフィギュアスケートを始めたという体験型レポート。
大人になってからフィギュアスケートを趣味でやっている人が多数いることやフィギュアスケートの基本的なテクニックとその難しさなどがわかり、ちょっとお得な気分になれます。
他方、このタイトルや序盤の書き方から著者が意図しているであろう、この本を読んで自分もやってみようという気持ちになるには相当ハードルが高い感じがします。序盤では運動音痴を強調している著者が、実は子どもの頃最初にスケートリンクに降りたときからすんなりと滑れて転ぶことも少なく手すりにつかまっていることなく自己流でバックスケーティングや前向きのクロススケーティングができていた(52〜55ページ)といわれて、大人になって教室に通い始めてからも難しい、できないと嘆きながらも競技会の採点対象になるような技に挑戦し初級とはいえ「選手」のテストに受かってしまうという流れでは、未経験の読者からは、元々素質がある人の特別なケースで、やっぱり自分にはとても無理という読後感になるのがふつうでしょう。
本文ではなくコラム欄ですが、「後悔のないよう、始めるのに遅いも早いもない、これからの人生で今が一番若いんだ」(144ページ)という言葉は、気に入りました。
02.マタニティ・グレイ 石田衣良 角川書店
フリーランスのカメラマンの夫一斗と結婚4年になる32歳の雑誌編集者二宮千花子(戸籍姓高部)が妊娠して産む決意をし、産休育休の前例もない勤務先と交渉し、切迫流産での入院中に仕事のいいとこ取りをもくろむ後輩編集者との確執や総務部への異動を勧める上司への説得を経て、編集者としての仕事を続けようとするという展開の小説。
妊娠から助産院での自然分娩までのありがちなことが一通り出て来て、若い人にはたぶん参考になり、経験者には懐かしい思いがするかと思います。
妊娠中の性欲やセックスの話が度々登場します。「妊娠初期のセックスについては、日本だとひと言『控えましょう』でおしまい。外国のは『とくに過激なことをしなければ、通常どおり行ってかまいません』って書いてあるもんな」「愛する者同士でする場合でも、日本ではセックスってなにかいけないことなんだよね。家族だったり、子どもだったり、社会も大切だけど、夫婦とか恋人同士のつながりは、軽く見られてる。妊娠本もね、日本ではなによりも赤ちゃん中心で書いてあるでしょう。でも、外国のは夫婦が中心なんだ」(81〜82ページ)、「妊娠出産本を読むと、妊婦の欲望はさまざまなようだ。まったく性欲がなくなる人もいれば、逆に高まってしかたないという人もいる。中には妊娠中に初めてオーガズムを得る女性もいるらしい」(175ページ)とか。「二十代の終わりのころから、なぜかセックス自体がすごくよくなっていた。よく男女の肉体的な相性について人は口にするけれど、それよりももっと大切なことがあるのではないかと、自分の経験から考えるようになった。好きな人とたくさんする、それも長い年月をかけて、すこしずつおたがいの身体について理解していく。出会い頭の相性などより、そちらの方がずっと重要なのではないだろうか。相性は愛情と努力で改善するのだ」(192〜193ページ)というのは、読んでいて温かな気持ちになります。素直に夫婦が愛情を温める小説って意外にないからかなとも思いますが。
01.輝天炎上 海堂尊 角川書店
宝島社のサイトで「『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した、ベストセラー『チーム・バチスタの栄光』から続く、田口&白鳥シリーズ最終巻!大人気メディカル・エンターテインメント、いよいよ完結です!」と、シリーズ最終巻と宣言された「ケルベロスの肖像」を、落第医学生天馬大吉、桜宮一族・桜宮市警陰謀グループの側から解説する、いわば「ケルベロスの肖像」の謎解き編。
「ケルベロスの肖像」を読んで残されていた謎が解かれますが、ミステリー小説が多数の謎というか腑に落ちないところを残して終了し、その謎を別の出版社から発売する別のシリーズで解説するというやり方は反則じゃないかと思います。その本の中で解説しきってこそミステリーじゃないでしょうか。シリーズも出版社も関係ない、海堂ワールド・桜宮サーガ全体で見るべきということかもしれませんが、私はちょっとついていけないなぁと思います。
「ケルベロスの肖像」と同じ話ですから、同じような感想を持ちますが、全体の構図というか犯行の骨格部分が大がかり・大仰に過ぎ、そこまで手を掛け巨額の金を動かしてやるかなぁという思いを強く持ち、荒唐無稽さを感じてしまいます。「螺鈿迷宮」の続編ともなりますので、大部分の場面で怠惰で受動的で優柔不断でありながら、他人への批判的意識だけは先鋭で衒学趣味的で自意識過剰な医学生天馬大吉が主人公・語り手となっていて、この語り手への違和感から私は物語に入りにくく思いました。
「ケルベロスの肖像」とまったく同じ場面が天馬大吉、桜宮小百合側から再現され、主として「ケルベロスの肖像」で不思議に思い腑に落ちなかった点の解明の興味で読み続けましたが、前半は同じ場面の会話はほぼ同じに再現されているのに、後半になると同じ場面なのに会話が少し変わったりして(例えば「ケルベロスの肖像」34ページでは「つまり燃えさかる炎の中でI先生は、桜宮の次期当主としてS2さんを指名したんですね」という姫宮の意向により登場人物をイニシャルで話すと明示された会話なのに、「輝天炎上」247ページではそれを盗聴している側に聞こえる会話が「つまり巌雄先生は、桜宮の次期当主としてすみれさんを選んだんですね」とイニシャルトークではなくなった上で言葉が変わっているなど)雑な印象を受けました。栞を2本付けている角川書店のサービスは、同じ場面を振り返って読めるようにという配慮でしょうか。でもそうだとすると、この本の中での同じ場面でさえ会話が少し変わってたりする(例えば242〜243ページの茉莉亜の言葉「あら……お久しぶりね」「あなたの行く手を阻むのは、すみれちゃんよ。気をつけてね」が、それを盗聴している284ページでは「誰かと思ったら……お久しぶりね」「あなたの行く手を阻むのは、すみれちゃんよ。気をつけなさい」と、微妙に変わるなど)のが目に付いてしまうのですが。
「ケルベロスの肖像」の感想で桜宮市警の警官たちの挙動を理解できないと書きましたが、海堂ワールドでは市警はAi導入に反対する陰謀グループという位置づけなのですから、そういうことを疑問に思うこと自体が、私が海堂ワールドを理解していない証拠なのだと、よく理解できました。この作品では「ミスをごまかしたい下司な医療者と医療事故裁判でも受けたい弁護士、メディアに巣食うパラサイト評論家たちがよってたかって同調し、Aiセンターというシンボルタワーを打ち倒そうとする。これが現在の構図よ」(319ページ)と、弁護士も作者の年来の主張のAi(死亡時画像診断)導入への敵と位置づけられています。私は医療過誤事件はやってませんけど、作者の悲壮な立て籠もり感が強くなりすぎているような気がします。
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