私の読書日記 2014年3月
12.君の働き方に未来はあるか?労働法の限界と、これからの雇用社会 大内伸哉 光文社新書
労働法によって非正規労働者の保護を強めて正社員に近づけることは今後期待できずまた望ましくないという著者の主張に基づき、若者に対して、独立した自営業者に近いプロの労働者になること、そのためには経営者が望むようなスキル・専門性を身につけることを薦める本。
現在の日本社会の状況から見て、労働者の保護の向上が期待できない中、学生が処世術として自立した働き手となれるよう訓示を垂れるという姿勢で見れば、大学生を教える側として現実的な選択と見ることはできます。
しかし、著者は労働法学者であり、この本では労働法の現状とあり方についても論じていることを考えると、この議論は極めて無責任であり、また悪辣なものです。
著者は、正社員は労働法で保護されすぎているとして、政府は解雇制限ルールを見直すべきだとか(70ページ)、ホワイトカラー・エグゼンプション(ホワイトカラー=事務系労働者の残業代をゼロにする制度)を導入すべきだとか(211ページ)、もっぱら経営者団体・自民党とりわけ安倍政権が求める労働規制の緩和と称する労働者保護削減政策に積極的な賛意を示しています。この本では、ところどころ経営者側のやり方を非難するかのように見える記述もありますが例えばブラック企業についても「個人と企業の相性という面もある」(90ページ)などとあいまいにしブラック企業名の公表などには反対しています(89ページ)。この本では企業のわがままに対する規制をすべきという提案は全くなく、規制に対して企業はこういう対応をするから労働者にとってかえってよくないとか企業の対応に応じて労働者側が企業ニーズを先取りしてこう変わるべきという類のことばかり述べています。企業には自由を、労働者はその企業のニーズに応えよと言っているように私には聞こえます。最も悪辣なのは、解雇制限ルールの見直しなどの議論で、非正規労働者に敵は経営者ではなく能力のない正社員だと労働者の分断を図ることを言い、まるで無能な正社員が解雇されればその代わりに非正規労働者が正社員化されるような現実にはあり得ない幻想を振りまいて解雇制限ルールの見直しを正当化しようとしていることです(64〜68ページ等)。著者が繰り返し言う「プロの労働者」についても、イタリアの例を挙げイタリアではそれが強力な産業別労働組合の交渉力に基礎づけられているにもかかわらず、それが全くない日本でそれを言ったら、制度としては、結局は支えがない労働者が悲惨な目に遭うだけとわかっているくせにそこを度外視して言い続けているのです。
著者自身が、企業ニーズを先取りした経営者団体と自民党安倍政権に好まれる「専門性」を発揮して、経営者・政府に必要な(審議会で引っ張りだこになるような)「プロの学者」だとアピールし率先垂範しているということかもしれません。学者って真理を探究するためにこそ独立した地位を求め与えられ確立しているんじゃないかと思う私は、きっと古いんでしょうね。
11.日本サッカー向上委員会 野口幸司、杉山茂樹 洋泉社新書
元Jリーガーとフリーライターの2人が、サッカー日本代表とJリーグの現状、監督・選手・協会、メディア、ファンないし日本のサッカー文化などについて論じた本。
ワールドカップの遙か前からワールドカップ予選はおろか親善試合でまでレギュラーメンバーを固定し新しい選手を試しも召集もせず、本田なしには考えられないチーム作りをし、交代もワンパターンのザック・ジャパンが、どうやってワールドカップを戦っていくのか、最初からベスト16が目標でいいのか(ベスト8に入るためにはD組の1位か2位つまりイタリアかウルグアイかイングランドに勝たなければならないわけだが)、相手チームが確実に本田をマークして潰すことに集中する中で新たな選手のオプションなしでグループリーグを勝ち抜けるのか、そういう状況にあってもメディアがまったくザッケローニを批判しないのはどういうことかなど、わかりやすい話が展開されます。
メディアについては、日本では無料の地上波ではサッカー中継はほとんど見られず、アジアの他の国ではヨーロッパチャンピオンズリーグなどヨーロッパのサッカーがごく普通に地上波で見られることとの対比がなされ、日本の観客にサッカー文化が根付かないこと、テレビのスポーツ番組では短い時間に勝った負けたとゴールシーンしか写さないから、いつまでたっても美しいプレイや本当の意味でチームと勝利に貢献するようなプレイが注目・評価されないというような話がわかりやすいところです。
選手の年俸が野球の方が圧倒的に高い事実を前に、身体能力のある選手が野球に流れるという指摘もあり、Jリーグ発足直後はサッカーに子どもたちが流れたのにいつの間にかまた逆転しているんだと改めて認識しました。合格者を無思慮に増やすとともにそれ以上に過大な定員数のロースクールを乱立されたために業界としての魅力を失い有望な若者がたぶんもうあまり来なくなる弁護士業界にいる者としては、同じ悲哀を感じています (-_-;)
10.ベアテ・シロタと日本国憲法 父と娘の物語 ナスリーン・アジミ、ミッシェル・ワッセルマン 岩波ブックレット
日本国憲法第24条(両性の平等)と第23条(学問の自由)の起案を担当したベアテ・シロタの出自とその後の人生を紹介するブックレット。
ウクライナ系のユダヤ人で父親が著名なピアニストだったがナチスの迫害を逃れて日本に住みつき東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の教授を務めそのために幼少時代を日本で過ごして日本語を覚え日本の実情を知っていた女性がアメリカで外国放送諜報局の日本語番組放送を担当し、終戦後弱冠22歳にしてGHQのスタッフとして乗り込んできたという経緯は、アメリカの奥深さというべきでしょうか、人材の薄さとみるべきでしょうか。
日本国憲法を起案するために東京で焼け残った図書館を回って各国の憲法を探し集めた(32ページ)というエピソードは、ベアテだけでなく他のスタッフも含め、諸外国の憲法(アメリカ憲法や独立宣言さえ)も知らない要するに法律家でない素人に作業させたことをよく示しています。そういうメンバーで9日間で仕上げたというのですから。一方でそれはGHQが何も準備していなかったことを物語っていて、日本側に起案させるつもりだったのにあまりにもひどいもの(明治憲法と同じもの)しか出してこないので急遽アメリカ側で起案することにした経緯の信憑性を示してもいるのですが。
このブックレットの狙いはベアテが父に連れられて日本で過ごした日々や戦後アメリカで日本とアジアの舞台芸術を紹介する活動を続けたことを紹介して、ベアテの日本への理解とつながりを印象づけることにあるのですが、内容的にも憲法に取り組んだ9日間に目が行きますし、また憲法第24条の評価はベアテ自身よりも24条の内容とそれが日本の女性の地位向上や日本社会の民主化に果たした役割、当時からの日本国民の受け止め方の方を重視して行うべきでしょう。
このブックレットは、2012年3月に行われたベアテへのインタビュー、2012年10月8日付のベアテの序文が掲載されていることからして、本来的には2012年中には出版されて然るべきものと思われます。2012年12月30日にベアテが亡くなり、2013年3月30日に東京で行われた偲ぶ会でのスピーチも収録されています。それでも発行が2014年1月まで延びるのは理解できません。
09.性と法律 変わったこと、変えたいこと 角田由紀子 岩波新書
結婚・離婚・親権、DV、労働、性暴力、セクシュアル・ハラスメント、売買春の6つの領域で、法律と裁判の運用について、性差別の観点から過去と現状を概観し論評する本。
著者の主張と思い・熱意は一貫していると思うのですが、書きぶりには微妙な落差を感じます。Tの「結婚、離婚と子ども」、Vの「女性が働くとき」は、弁護士の目にはかなり手堅くというか、法律を学び裁判の実務を行っている者からは正面切って反対する者はないだろうという感じの記述になっています。家を出て離婚調停とともに生活費の請求(法律用語では「婚姻費用分担」)の調停を起こした妻に「なぜ勝手に出て行った女房に生活費をやらなければならないんだ!」と怒鳴りまくる夫を「それはですね。あなたが家長だからですよ」と説得した男性調停委員の話(18〜19ページ)にも、自分の信条に反する主張でもその事件の解決に有効ならばそれに乗る弁護士の鵺的・場当たり的な性格/よくいえばしたたかさが表れていて、いかにも実務家的な記述になっています。
しかし、Wの「性暴力」で強姦罪の保護法益が(女性の)性的自由であることから暴行・脅迫を伴う性交をすべて犯罪とすべきという主張には、私は、弁護士として違和感を持ちます。著者は「強姦罪の本質は同意していないにもかかわらず性交を強要することにあるのだから、暴行・脅迫は同意していないことの印である。その同意していないという程度がなぜ、議論になるのだろうか。この考え方では、暴行・脅迫の下で性行為がされたが(だから、検察官は起訴した)、その程度が求められている程度(高度なものであろう)に達していないので強姦罪にはならないということが起きる。この場合、法益の侵害はないとするのであるから、被害者の性的自由の侵害はないことになる。」(152ページ)と論じています。刑罰は違法性が高い場合に科せられるべきもので、適法でないあるいは違法と評価される場合のすべてが犯罪として処罰すべき程度の違法性を有しているわけではありません。それは強姦罪の場合だけでなく、さまざまな犯罪について考慮されるべきことです。しかも、強姦罪の場合法定刑の下限があり犯罪とされれば3年以上の懲役(情状酌量で半分にまで下げられますが)となることを考えれば、暴行・脅迫について被害者の反抗を抑圧する程度という制限をかける通説・判例の立場にそれほどの問題があるとは思えません。そう解したからといって「法益侵害はない」「被害者の性的自由の侵害はない」ということではなくて、刑罰を科する程度までの違法性がないというだけです。強姦罪に当たらないとしても暴行・脅迫を伴う性交は不法行為として民事上は違法と評価されるでしょう。「違法」であればすなわち処罰すべきという一般人の感覚・信念/思い込みは、弁護士に対してよく素朴にぶつけられますが、ここで展開されているのはそれを煽るレトリックだと思います。著者自身、あとがきで「弁護士は現行法の枠の中で仕事をするしかないが、わたしの前に現れた何人かは、わたしが『現行法ではそれは無理』と説明してもなかなかあきらめてくれなかった。そこで、わたしは『何とかしなければ』とない知恵を絞ることになり、そのうちに、『それは無理』といわせる法律のほうに問題があると考えるようになった。」(255ページ)と書いています。そういう立場で書くということなら、それはそれとして理解できますけど。
著者はセクシュアル・ハラスメントについてアメリカでは性差別として禁止されているが日本では不法行為として扱われ性差別の論点が忘れられてしまったと悔やんでいます(211〜212ページ)。理念的にはわかりますが、アメリカでは性差別の禁止と位置づけられるためにバイセクシュアルの抗弁(男性相手でも同じ扱いをしたはずだから性差別ではない)などというある種ばかばかしい議論が出たりしていたわけですし、また差別と位置づけるとかえって立証が難しくなりかねず、被害救済という観点では性的人格権侵害/不法行為と位置づけた現在の判例法理の方が素直でまた使い勝手がいいように、私には思えます。
「職場でのセクシュアル・ハラスメントを裁判に訴え、地裁、高裁と裁判所では勝訴しながら、結局職場の同僚からはトラブルメーカー扱いされて孤立してしまった事例すらある」(192ページ)というのも、それ自体はその通りで裁判の提起を妨げる困った事情なのですが、それはセクシュアル・ハラスメントに限った話ではなくて、労働者が在職中に使用者(会社)を訴えるケースの多くがそういうリスクを抱えていて、その現状を何とかしたいところです。
母子家庭で「自分の収入等で経済的に問題がないと答えた人は、わずかに2.1%である。父子家庭では、21.5%が自分の経済力でやっていけると答えているのと対照的である。男女の経済力の差の正直な反映であろう」(28ページ)というのも、確かに母子家庭の経済状況が悲惨だと主張するのは正しいですが、父子家庭でも自分の経済力でやっていけるという答えが21.5%しかない、裏返せば8割近くが自分の経済力ではやっていけないというのは、父子家庭も大半は経済状況が悪いと評価するのが普通の見方じゃないでしょうか。この数字で父子家庭は恵まれているかのように書くのはやはり違和感を持ちます。
そういういくつかの違和感を持つ記述はありますが、全体としては現在の法律と裁判が女性をどのように扱っているのか、何が不足なのかということをおさらいし考えるのにはよい材料となる本だと思います。
08.コルバトントリ 山下澄人 文藝春秋
母が死に父は重症で入院中のためにおばさんの元に預けられているという設定が一応示されている「ぼく」が、入院中の父に会いに行くために電車に乗って出かけるという一応の説明の下に行動する過程で、現実の世界での存在か定かでない学生たちや過去の父・母・おばさん、近隣の住人、父か「ぼく」かぼくの子どもかを象徴する子どもと行き会ったりその想い出の世界に入り込んで行く幻想的実験的小説。
語り手は「ぼく」なのですが、冒頭から語り手以外の知覚がそのまま表現され、表現の違和感というか拙さを感じます。「ぼくはおばさんに[いてきます]と書いた紙を見せた。おばさんはそれを読んで『うん』といった。そしておばさんは小さい[っ]が抜けているなあと思った。」(7ページ)、「それはとてもきれいだった。叩かれている人の目もそれを見ていた。そしてきれいだと思っていた。」(13ページ)という具合。しかし、そういった表現や現実(と思われる事実描写)と過去の自身の想い出やさらには他の人の想い出がシームレスに行き来し入れ替わる表現が続くうちに、自分と他者、過去と現在とさらには未来の境界を踏み越えてというか溶かして、俯瞰するというか俯瞰しているのかどこから見ているのかもよくわからない視点を持たせ感じさせる実験なのだなと思えてきます。
その実験的な表現と視点に不思議な陶酔感なり興味を持てれば作者の試みは成功ということでしょう。私には、ちょっと疲労感の方が勝りましたが。
07.自分を好きになる方法 本谷有希子 講談社
ごく普通に思えるのだけれど少し意地っ張りなリンデが、16歳でクラスメイトとのボウリング、28歳で恋人との海外旅行、34歳で夫とかつての旅行先を再訪、47歳で友人とのクリスマスパーティの際の新入りのバツイチ男と、3歳の保育所での昼寝時間、63歳で繰り返し不在連絡票を置いていく配達人と、それぞれの場面で微妙なすれ違いを生じていくエピソードを重ねた短編連作ふうの小説。
ここで素直に行ってれば、ここで矛を収めておけば、ここで妥協していれば、丸く収まるんだけどなぁと思いつつ、まぁこういうもんだよね、人生はと思ってしまう、切なさを味わう作品だと思います。
3歳のリンデは、それでも救われる感じでほのぼの感がありますが、そこから一人暮らしの63歳へと直結させることで侘びしさを強めています。まぁしかたないかというか、それも人生って印象でもありますが。
06.愛ふたたび 渡辺淳一 幻冬舎
妻と死別しその後52歳人妻と29歳元部下(看護師)の2人の愛人をもつ整形外科医「気楽堂」73歳が、バイアグラを服用してもインポテンツとなったことをきっかけに、性交(挿入)をあきらめて指での愛撫で女性を悦ばせることで愛人との関係を継続しさらには新たに45歳独身弁護士の愛人を作るという展開の小説。
形式は小説ですが、実質的には高年男性のセックスはかくあるべしという論説文。
「セックスというのは、本来、生殖のためにおこなうべきものである。単に、いっときの遊びのためにおこなうものではない。」(235ページ)、「これからの男女は、ただやみくもにセックスを求めるべきではない。それより、男はまず言葉や愛撫で、女性を悦ばせるべきである。セックスなどは、初めからないものと思い、言葉と躰で女性を満たしてやる。」(236〜237ページ)、「夫と妻と、2人のセックスでも男はとくに挿入しない。」「未婚の男女のあいだで、デートの度にセックスまで求めるのはゆきすぎではないか。」(237ページ)というのが作者の結論となっています。
しかし、男の側から見ると、この作者の言いぐさは、自分ができなくなったら途端にセックスなど余計なものと、それまで考えたこともなかったことを突然言い出し、自分ができないことは他の男にもやらせないと言わんばかりに説教をたれているように見えます。「気楽堂」の人柄を見ると、同級生の集まりで親しい友人たちが全員不能であることを聞いて安堵し自分だけは愛人が(2人も)いることで優越感を持ち「もしあそこに一人くらい『俺はまだまだできる』などというのがいたら、しらけてしまったかもしれない」(203ページ)などというお山の大将でなければ気がすまない人物なわけで、そういう人物が、自分が性交可能だった頃にはやりたい放題してきたことを、自分ができなくなった途端に自分の過去は棚に上げてそういうことは間違っているなどと言い出すのですからまともに聞く気になれません。
そしてこの人物、主観的には女性のためになどと言っているのですが、この人物のいうことはあくまでも男が主導し女性をコントロールして悦びに導くというものです。自分の快感に向けて突き進んでいたのが、自分が相手の女性をコントロールして果てさせることで自己満足することに変わっただけ、女性を征服して自己満足するという点では変わりがないように思えます。「気楽堂」は、女性を悦ばせると言いつつ、その方法はあくまでも自分で考え、相手に相談する姿勢はありません。73歳にして「秘所への接吻は、まだ他の女性には、誰にもしていなかった」(226ページ)といいます。73歳で新たな開拓があるのはよしとすべきかもしれませんが、それまではそんな気にはなれなかったそうです。私には、どうにも、マッチョで独りよがりな自己満足男に見えるのですが、ちがうでしょうか。
45歳女性弁護士が憧れの女性とされているのは、同業者としては喜ぶべきことかもしれません。しかし、73歳医師との関係で、この女性弁護士はあくまでもされるがままにすべてを受け入れる存在として描かれ、単に知的な女性に対する征服感を満足させるだけの材料に終わっている感じがします。
05.教養としての冤罪論 森炎 岩波書店
有罪判決が上級審で無罪となり確定した事件や再審無罪となった事件、日弁連が再審支援を決定した事件その他冤罪が疑われる事件を素材として、類型ごとに証拠と立証の困難さ、冤罪リスクを論じる本。
例えば、第一発見者は科学的証拠の面からは犯人と区別が付かない。指紋があってもDNA鑑定で一致しても犯行時間に近接して犯行現場にいたのだから当然であるし、さらには血痕が付着していても被害者が倒れているのを見て揺り動かしたと言えばそれまで。多くの場合は第一発見者の嫌疑が晴れて起訴されないが、第一発見者が疑われ自白して起訴されたら冤罪を晴らすことは難しい(32〜56ページ)。被害者の家族も同様で、家族であるから現場にいたのは当たり前のことなのに、それが犯罪視されてしまう。内部犯行説は迷宮入りしかけた事件を一気に解決できるので、捜査機関にとっては魅力的である。外部犯行の可能性を十分につぶせているか、内部犯行説に至る経緯をよく検討する必要がある(58〜67ページ)…というように。
この本は、虚偽自白を見抜くことができるという考えは傲慢であり、虚偽自白を見抜くことはできない、過去に行われた犯罪事実の真実を発見することはできないことを前提に、事件の類型的な「冤罪性リスク」を認識し、秘密の暴露のない自白は有罪方向の証拠として用いない(あっさり捨てる)、共犯自白はその不純動機(証人の汚染)を評価する、第三者証人は汚染されていない既知証人の証言以外は有力とはいえない(目撃対象が未知の人物の場合見間違いのリスクは非常に大きい:208〜209ページ)ということに注意しつつ事件の証明論的構造を見て犯罪の証明の成否がどのような点(どの程度確実・不確実な事実)にかかっているかを検討して判断すべきことを論じています。それぞれの事件の証拠について具体例を挙げて述べていて、弁護士にとっては非常に興味深くおもしろくまた説得力があります。
度々哲学的な概念や議論が持ち込まれ、不必要に小難しく感じさせ、また衒学趣味的な嫌みさを感じさせるのが、玉に瑕に思えます。また、具体的な事件での具体的な証拠を取り上げてその評価や冤罪性リスクの程度を論じていますので、著者はこの事件が冤罪でないと言いたいわけではないと断ってはいますが、書かれている事件の関係者には異論があろうかとも思えます。しかし、いくつかの難点はあるとしても、刑事裁判と証拠・証明について考える材料としてとてもよい本だと私は思います。
04.AV黄金時代 5000人抱いた伝説的男優の告白 太賀麻郎 文庫ぎんが堂
1980年代にアダルトビデオの男優として活躍し、執筆時は2人の娘を育てるシングルファーザーにして結核で入院中という著者が、当時の生活やアダルト女優やビデオ業界の実情を振り返って語るというスタイルの本。
私生活でもモテまくりのイケメンで、父親はアパレルブランドの創業者という恵まれたボンボンがなぜアダルト男優なのか。一代でブランドを築き上げた父親への反発心・対抗心の強さ、親父を見返してやりたい/親父に認められたいという思いの強さが随所に現れ、驚かされます。
古い昔の回想なので、エピソードのつながりが悪いところがあり、読んでいてあれはどうなったのか、これはどうなったのかと今ひとつすっきりしないところが残ります。
アダルトビデオのエピソードでは、代々木忠監督のシリーズで、実生活での恋人とのセックスを、恋人と別の男とのセックスと並行させた作品の回想が読ませます。その2作目、AV女優と素人の恋人に著者と別のAV女優が絡む作品で「美川景子は決してさほど魅力的な女ではない。彼女には悪いがハッキリ言って、初めて抱いた時には『なんて大味な女なんだ』と思ったほどだ。それに、彼氏のことを不甲斐ない、覇気がないと思っているようだが、その責任の半分はやはり彼女にある。」「しかし、そこが女の不思議さ、セックスの持つ謎だ。美川景子は撮影が進むにつれどんどん良い女になった。いや、もっと正直に言えばたまらなくスケベでイヤらしい女になっていった。男が、その貪欲さや身勝手さ、自分本位の根性に呆れ怒り腹を立てながらも、どうしようもなく欲情してしまう、否が応でもチンポがギンギンに勃ってしまう、そんな女だ。それはセックスというものの持つ永遠の謎であり、人間の持つ残酷さだ。」「腹黒い女でもイイ女はいる。心が清らかでもセックスの良くない女もいて、殺してやりたいほど憎くても抱きたくてたまらない女に出会う運命もある。」(387ページ、391ページ)と述べています。う〜ん、そこまで言うってどういう女だろう。会ってみたい、いや会わない方がいいか…ちょっと考えさせられる。
03.惑溺 危険な獣 きたみまゆ ベリーズ文庫
交際3か月の高校教師加藤聡史からプロポーズされていたがときめきを感じず一度でいいから全てを忘れてのめり込むような恋愛をしてみたいと思い惑う23歳OLの松田由佳が、親友の博美の行きつけのバーのバーテンにして高校3年生の冷ややかな視線のイケメン男リョウに惹かれていくという官能系恋愛小説。
自分の担任の恋人を興味本位にくどき簡単にモノになったことに拍子抜けしながらも担任への優越感に浸りながら繰り返し自室に誘い込み続ける、イケメンなら何をやってもいいのかと思わせる俺様男のリョウを、両親から愛を受けずに育ったかわいそうな子と位置づける(「もう縁を切ったから私には関係ない。今まで息子のせいでさんざん苦労させられたんだから、勝手に生きればいい」(194ページ)って母親が言ったということですけど、母親にそこまで言わせるからにはこの男にもかなりの問題があったことも事実だと思うのですが)ことで正当化して描いています。自分の婚約者と教え子が爛れた性生活を続けていることを知ってもそれを許してやり直そうという聡史を尻目に、また親友の博美がリョウに惚れているのを知りながら、それでもなおリョウの部屋に何度も通い肉体関係を持ち続ける由佳も、本当にどうしようもない女。こういうジコチュウのイケメン俺様男と、私っていけない女とか思いながら狂う自己陶酔女の恋愛小説は、私には読んでて不愉快で、勝手にやってろと思ってしまいます。
02.ワールドカップがもっと楽しめるサッカー中継の舞台裏 村社淳 角川SSC新書
フジテレビでサッカー放送を担当していた元ディレクター・プロデューサーが、サッカーのテレビ中継の苦労話や放映権料の高騰などのFIFAビジネスへの苦言や、番組制作の思い出話、監督や選手の印象等を語った本。
最初の方はテレビ中継のシステムや技術的な話が多く、ある意味で「中継の舞台裏」というタイトルがこういう意味なのねと思わせられました。かつては海外中継の伝送システムの問題で音声の方が映像よりも早く伝送され調整がうまく行かないとアナウンサーがプレイを予言してしまう放送があった(50〜51ページ)などはそういう点でも楽しく読めるエピソードと言えるでしょう。ジョホールバルの歓喜の際、試合後のインタビュー待ちの選手に飲料メーカー関連会社のスタッフが次々と自社の商品名入りの紙コップを渡してあわよくばその紙コップを持ったままインタビューを受けさせようとするのを著者がその紙コップを何気なく選手から取り上げる(98ページ)という攻防の話も。また、視聴者はどんなに観たいゲームであってもアナウンサーと解説者は選べないのだ(55ページ)というのも思い切り頷きたくなります。
もっとも、テレビ中継の技術的側面をきちんと書いているとは言えず、例えば、著者がゲームソフトメーカーのサッカーゲーム担当者から取材を受けた時に「サッカー中継の作り方を説明したのだ。それは、キックオフの際の画作りであったり、ゲーム展開追いのカメラの画のサイズであったり、ゴールの後のリアクション映像、フリーキック、ペナルティキックのカット割り、試合終了のときの勝者敗者の画作りなどである」(202〜203ページ)というのですが、この本ではそういう意味での技術的なことは書かれていません。さんまの番組の工夫よりもそういう映像技術のことをきちんと書いてくれた方がよほど読みでがあったと思います。
読み始めてしばらくすると、基本的に古い話が多く、また同じエピソードが繰り返し出てくるのでどこかの連載の焼き直しと気づきますが、あとがきで「02年W杯終了の翌年から『ワールドサッカーグラフィック』誌に足掛け2年半にわたって連載した『テレビ裏のフットボール』を加筆訂正したものである。さらに、UEFAオフィシャルマガジン『チャンピオンズ日本版』に連載した『FootballthroughTV』も併せて、再録加筆している」(206ページ)とされています。奥付前のラストページではそんなことは書いてなくて、「本書に記載されている情報は2013年12月18日当時のものです」なんてまるで最新情報満載の本のように書かれています。それでありながら実際は何年も前の連載記事をワールドカップイヤーに出版して1粒で2度おいしいお手軽な金儲けをやろうとしてたのね、読む前に気がつかなかったのが悔しいと、最後に思わせてくれます。
01.科学者が人間であること 中村桂子 岩波新書
東日本大震災の経験から、人間が生き物であり自然の中にあるということを基本として科学者としてのあり方を変えていこうと論ずる本。
これまでの科学者のありようを、著者は「震災の直後に多くの人の怒りを買ったのは、科学技術者が思わず漏らした『想定外』という言葉でした」「さまざまな危険を思い描いている時には、自然がすべて解明されているわけではないことはよくわかっているのに、特定の数字をきめて計算しているうちに、人間がすべてを設定できるという気分になり、その数字の中で考えるようになってしまうのです。その結果、自分は普通に振る舞っているつもりなのに傲慢になるわけです。それが多くの人を怒らせたのです。」(3〜4ページ)と評価しています。
これをどのように変えていくのかについて、著者は、従来の科学の方法論を「密画的」で客観的な「機械論的世界観」と評価し、これに「略画的」で主観的な「生命論的世界観」を対置しつつ、従来の方法論を捨てるのではなく、略画的な世界の存在を常に意識して「重ね描き」をする、科学ですべてを説明しようとするのではなく自分の日常と科学でわかったこととを重ね描きとして生きることの面白さを実感できればよいのだと思うことが重要だとしています。自然の中にあるという感覚についても、天然無垢の自然ではなく例えば桜(ソメイヨシノ)のように徹底的に手を入れられた人工物を自然の中に持ち込む日本文化の特徴を賞賛しています。著者の主張は、科学を否定するのではなく、日常感覚へのフィードバックや自然への畏敬を忘れずにいようというようなところと理解すべきでしょうか。
著者は、著者の提唱する「重ね描き」の先達として宮沢賢治と南方熊楠を挙げています。かつて高木仁三郎さんが「グスコーブドリの伝記」のブドリを市民科学者の手本として挙げたのに、私は、飛行機から肥料を撒布したり火山を爆破して気候を変えようなどというブドリはむしろ原発推進側のメンタリティを持っているのではないかと疑問を持っていました。この本で著者は「自然はやさしくないし、人間がコントロールできるものでもないことを賢治は承知していたと思います。ですから肥料をまいた時には、おかしなことをするからオリザが倒れてしまったではないかと農民が抗議したという話があるのです」「最後の噴火のコントロールもそのためには犠牲になる人がいるわけで、自然の怖さを示しています」(172ページ)と説明しています。そういう読み方もできるのですね。それはブドリについてではなく賢治についてですが。
あとがきで「あの大きな災害から二年半を経過した今、科学者が変わったようには見えません。震災直後は、原発事故のこともあり、科学者・技術者の中にある種の緊張が生まれ、変わろうという意識が見られたのですが、今や元通り、いや以前より先鋭化し、日常や思想などどこ吹く風という雰囲気になっています」(242ページ)とされているのが、著者の、そして多くの人にとっての実感でしょう。悲しいことですが。
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