私の読書日記 2016年4月
27.会議を制する心理学 岡本浩一 中公新書ラクレ
社会心理学者という資格の関係で各種の政府系の委員会等で座長・副座長を務めてきたという(19ページ)「会議巧者」とみなされることが多い(3ページ)著者が、「適切な意思決定のための会議」についての方法論を語る本。
著者が悪い例として想定しているのが、会議開催前に少数の幹部により方向性が決まっており、それを事前にメーバーの一部に根回しをして会議では現実にはメンバーに発言させず議長が異議はありますかという聞き方で採決をせずに全会一致と見なして決定していくものです。著者が、多く参加した政府系の委員会も官僚の事務方がそういうことをやって運営しているものです(そのあたりは著者も20ページでわずかながら触れていますが)。それらの会議で、著者は、根回し、同調圧力に負けずに闘ってくれたのか、それよりも座長になった著者が根回しをしたりメンバーへの圧力をかけなかったのかの方が気になりますが。もっとも、この本で書いていない、役所の諮問機関(委員会)や「第三者委員会」ではそもそもメンバーの選定段階で反対者や異論を言いそうな人物が排除されており議論をするまでもないのではないかという問題がさらに大きいかも知れませんが。
会議の主宰者側になった時の注意として、多様な意見が出る雰囲気作りが何よりも重要、「重大な議案の場合、参加しているメンバーは全員一つ以上は必ず反対意見を述べることをルールにするのも効果的」「もし組織の今後を左右するほどの重大な提案であったなら、必ず議案に反対している人を参加させる、という方法もあります」(176〜177ページ)ということが書かれています。立派な意見ですが、それが著者が参加してきた原子力安全委員会の専門部会や各種の「第三者委員会」で実施されたのか、大いに疑問を持ちます。
心理学関係の部分では、単独では間違わない判断が周囲への同調で流されるとか、多数者の判断の方が単独の判断よりもリスキーな方針を選択する、ブレーンストーミングでも他人がいると他人の目を気にしてアイディアを簡単に(安易に)出せないとか他人が出してくれるだろうという手抜き思考から1人でアイディアを出すよりもアイディアが出なくなる(88〜102ページ)などの指摘があります。これらは、よく聞く話ですが、そう言ってしまうと会議による意思決定など無意味というかやめた方がいいということになりかねません。著者はさらに、全体での多数派がセクションに分けて少数で議論させて結果を積み上げると逆転する場合がある(少数のセクションの中での少数となった全体での多数派が意見を変えるため)とし(103〜106ページ)、議論では共通して持っている情報ばかりが繰り返し議論されて強調されメンバーの一部だけが持っている情報は他のメンバーに共有されない(106〜110ページ)ということを心理学の実験結果を通じて紹介しています。情報交換と議論を通じてより深い正しい見識を達して結論を出すということが民主主義の理念であるのに、この書きぶりでは、それを実現する方向ではなく、議論をしない多数決がよいかのようなニュアンスを感じてしまいます。
全体として、「適切な意思決定のための会議」の方法論を論じているという建前ですが、実質的には、会議の改革よりは現状の会議の中でそれぞれの参加者(座長・議長側を含む)が自分の意向をより反映させるためには何を考えるべきか、あるいは会議で無難に振る舞うための処世術を論じているように見えます。
26.労働法実務解説4 人事 井上幸夫 旬報社
日本労働弁護団の中心メンバーによる労働法・労働事件の実務解説書シリーズの人事関係の部分。
2008年に刊行された「問題解決労働法」シリーズの改訂版です。
配置転換、出向・転籍、昇進昇格(差別)、降格、教育訓練(労働者の権利と受忍義務)、休業・休職、懲戒を扱っています。「人事」というタイトルからは配転、出向・転籍、降格を予想しましたが、全体の項目立てで他に入りにくいものが集められたということがあるのでしょう。しかし、昇進昇格差別と教育訓練の差別(労働者の権利)、休業(産休・育休)による不利益取扱は性差別(このシリーズでは第6巻の「女性労働・パート労働・派遣労働」)で扱うのが通例ですし、休職の中心となる傷病休職は労災、パワハラと重なり、懲戒の記述も現実には懲戒解雇が中心となって、解雇関係の記述と重なっています。性差別指針(労働者に対する性別を理由とする差別の禁止等に関する規定に定める事項に関し、事業主が適切に対処するための指針:2006年厚労省指針614号)の文言を長々と引用する部分が多く(このパートを書くと誰が書いてもそうなってしまうのですが。しかし読んでると退屈)他のパート(巻)でも書かれていることを考えれば、そういうところをカットして、この巻の特徴といえる判例紹介をさらに増やしてもらえれば、と思いました。
まえがきで2ページで3回も、本書では多数の裁判例を紹介していると謳っているように、このシリーズの他の巻と比較しても多数の裁判例が紹介されています。降格関係は、これまでに読んだどの本でも、今ひとつその分類説明がスッキリしません(これは私が編集責任者の第二東京弁護士会労働問題検討委員会編の労働事件ハンドブックでもそうです。あれこれ考えてみましたがなかなかうまく整理できません)。この本もそれを解決できているとはいえませんが、類型分けと対応する裁判例の紹介が比較的思考の整理によさそうに思えました。配転と降格及びそれに伴う賃金切り下げについては、労働事件を扱っている弁護士ユーザーにも買いかなと思います。
このシリーズについて、誤植が非常に多いと文句を付けてきましたが、この巻では目につきませんでした。208ページ、209ページで紹介している始末書不提出を理由としたさらなる懲戒についての「豊橋土木事件」は、「豊橋木工事件」の誤りですが。
25.冤罪を生む構造 アメリカ雪冤事件の実証的研究 ブランドン・L・ギャレット 日本評論社
アメリカで殺人、強姦等の事件で有罪が確定した後に1980年代後半以降DNA鑑定によって無実と判明した250人の刑事事件記録を検討分析した本。
「犯人でなければ知り得ない」事実を自白していた被告人たち、目撃証人(被害者等)に犯人だと指摘された被告人たち、「専門家」の鑑定意見で犯人である可能性が高い(ほぼ間違いない)と指摘された被告人たち、同房者等から犯行を打ち明けられたという「証言」をされた被告人たちが、それも相当多数の被告人たちが、客観的科学的証拠により実は無実だったと証明されているわけです。客観的には犯人でないことが証明された被告人がなぜ「犯人でなければ知り得ない」事実を自白できたのでしょう。著者は確実な証拠はないとして断定を避けていますが、「犯人でなければ知り得ない」事実ではなく、犯人と警察だけが知っていた事実だったということと考えざるを得ないでしょう。客観的には犯人でないことが証明された被告人に対して、目撃証人が確信を持って、間違いない、忘れもしないなどと証言していたり、さらに驚くべきことには、著者の分析対象となった目撃証人によって同定されていた無実の被告人のうち36%が複数の目撃者に犯人と指摘されていたというのです。私たちは、目撃証言があり、しかもその目撃証人が確信を持って間違いないと証言したら、やはりそれは信用性が高い、むしろ決定的な証拠と評価してしまいがちです。推理小説やドラマ・映画ならそれだけで決まりというニュアンスです。ましてや複数の目撃証人が一致してこの人が犯人だと証言したら、もう動かしがたい事実のように思えます。それが、信用できないとしたら、いったい何を信用したらいいのかとさえ思ってしまいます。そういった事案を分析する中で著者は、目撃証人が、最初の識別では自信がなかったのに公判段階では確信を持って被告人を指さしているケースが相当数あることを指摘しています。ここでも捜査官の態度や被告人が起訴されたという事実による暗示・思い込みが影響していることが考えられます。過去の精度の悪い鑑定や歯形鑑定、毛髪(の形状による)鑑定など科学的に犯人を絞り込めない鑑定をあたかも客観的で有効であるかのように証言する「専門家」たちに裁判官も陪審員も騙されてきたということや、検察官から刑罰を軽くしてもらうために他人を陥れる虚偽の証言をする(繰り返す)同房者証人たちとそれを利用する検察官などの恥知らずな人々が刑事司法を貶め冤罪被害者を多数生み出してきたことが、繰り返し、指摘されています。
DNA鑑定によって救済された人々は、多くの場合、イノセンス・プロジェクトの弁護士たちの努力でDNA鑑定にこぎ着けて無実が判明しても、すぐには釈放されず、検察官や裁判官が釈放に抵抗し、近年のDNAデータベースの拡大と検索能力の進歩によって別人のDNAデータがヒットし、要するに真犯人が判明して初めて無罪判決、釈放に至るということが少なくないということも指摘されています。DNA鑑定による有罪判決確定者の無実判明が続いたことで裁判官や検察官よりも政治が動いてDNA資料へのアクセスを定める立法が続いてそちらから制度改善が進んでいるそうです。それでも無実を主張すればDNA資料へのアクセスが認められるわけではなく、相当程度の無実の蓋然性を立証しなければならないなど、まだハードルは高いようです。もちろん、DNA資料へのアクセスが制度として全くなく現実にもほぼ認められない日本の状況とは比べものになりませんが。こういう活動をボランティアで続けてきたイノセンス・プロジェクトの弁護士たちには、ただただ頭が下がります。
著者は収拾して分析対象にした事件記録のデータをインターネットで公開しているそうです。DNA資料へのアクセスについても、刑事記録の収拾についても、その公開についても、アメリカという国でのデータの公開と適正手続、フェアネスの考え方に、日本との大きな違いを感じます。日本では、「個人情報」保護に傾きすぎのきらいがあるというか、個人情報保護や(行政・国家)秘密の名の下に市民に有用な情報を知らせまいという傾向がどんどん強くなっていると思います。
そういった様々なことを考える上でも、一般人にはなかなか馴染みにくい本ではありますが、多くの人に読んでもらいたいと思える本です。
23.24.判決破棄 リンカーン弁護士 上下 マイクル・コナリー 講談社文庫
リンカーン弁護士シリーズの第3作。
敏腕刑事弁護士マイクル・ハラーが、この作品では、地区検事長から依頼されて、州最高裁判所が有罪判決を破棄した事件で特別検察官を務めるという設定で、元妻の検察官とともに臨時に借りた事務所で執務します。リンカーンの後部座席を事務所代わりに違法すれすれで事件に勝つちょいワル弁護士という第1作の設定からは、事務所スタイルの独自性も消え、検察の正義に邁進するという、ずいぶんとかけ離れたものになっています。第1作から一貫しているのは、マイクル・ハラーの敏腕さで、ハラーが敏腕すぎるために、勝つか負けるかのハラハラさはなくて、読者の興味はハラーがどうやって勝つかにほぼ尽きてしまいます。
業界人としては、裁判官とのやりとり、法廷での尋問場面でのどこまで尋問するかをめぐる判断と駆け引きが興味深く読めますが…
ところで、この作品のテーマは、有罪判決を受けて服役していた元被告人が、ボランティアで無罪主張している事件のDNA鑑定をして冤罪を晴らす弁護士たちの活動の結果、被害者の衣服に付着していた精液が別人のものと判明して有罪判決が破棄されたという事案で、DNA鑑定で冤罪と裁判所(州最高裁)が判断しても、無実とは限らない、実は犯罪者だったという主張です。アメリカで精力的に活動する「イノセンス・プロジェクト」に対する挑戦というべきもので、このような検察官寄り・国家権力寄り・人権派弁護士嫌いの人権活動家の足を引っ張る言説を、ジャーナリスト(元ロサンジェルス・タイムズ記者)出身の作者が好んで採りあげるというところに、暗く哀しいものを感じました。
22.夏の沈黙 ルネ・ナイト 東京創元社
テレビドキュメンタリー制作者のキャサリンが、夫に秘密にしていた20年前のスペインでの休暇のときの事件について、何者かが書き綴り自費出版した本を届けられ、パニックに陥り、その作者がキャサリンの周囲にその本やキャサリンの写真を送ってキャサリンを追いつめていくという展開の小説。
子を思う親の気持ち、子の危機に憔悴し、子の死に深い喪失感と復讐心を持つ親の姿が、描かれています。私は、子の褒められたものではない言動に翻弄され、妻との距離も見失う2人の父親たちの哀れに心を揺さぶられました。
しかし、ミステリーとしては、比較的シンプルな構成で、20年前の夏のできごとが常にクローズアップされ続け、何となく落としどころは見えてきますし、またその行き先は心地よいものでもなく、読後感はあまりよくありませんでした。
ドキュメンタリー制作者という、作者自身の職業についているという設定のキャサリンが、仕事に対して真摯に取り組む描写がほとんどなく、責任感や倫理観を感じさせないのは、どんなものかなと思います。作者自身が自分の仕事への思い入れがないのかとさえ感じてしまいました。
21.スペードの3 朝井リョウ 講談社
元大劇団雪組の男役だったミュージカルスター香北つかさのファン組織「ファミリア」の幹部江崎美知代、いじめられっ子だった小学生時代と訣別しマンガイラストの才能を発揮して演劇部の美術班に入り香北つかさのファンになる秋元むつ美、舞踊学校時代からのライバルの行動に翻弄され舞台生活の黄昏を感じる香北つかさを描いた連作小説。
江崎美知代の第1話「スペードの3」と香北つかさの第3話「ダイヤのエース」は、一生懸命努力して地位を勝ち得た優等生が、身近に現れたライバルに生まれながらの能力や出自により軽々と乗り越えられ、しかもそのライバル側は悪意・敵意も見せず「天然」ぶりを発揮するという状況に、挫折感・焦燥感を持ち、ライバルに対する屈折した思いを持つ様子がテーマになっています。
特に第1話の江崎美知代は、小学生時代、まじめに勉強やピアノで努力し、学級委員になり、友だちを作れない同級生に配慮したり、精一杯努力してクラス内での地位を勝ち得たのに、ピアノが上手な美貌の転校生にあっという間に追い落とされ、しかも優等生としての努力自体まで批判され、否定的に描かれます。そして、小学校時代に頑張った優等生が、希望した化粧品会社に入社できず、配送業務をする関連会社で埋もれているというのも、現代の日本の若者/労働の実情を反映したものといえますが、哀しいところです。努力した者が報われず評価もされないという社会、努力すれば未来が切り拓かれると確信できない社会は、発展が望めず、人を幸せにはしないと思います。江崎美知代も香北つかさも、最後には、屈折した思いを持ちつつその中でなお頑張ろうと思うところが救いではありますが、そういったささやかな救い/望みしか生み出せない今の日本社会の制約/閉塞感を改めて感じてしまいました。
20.労働法実務解説1 労働契約・有期労働契約 水口洋介 旬報社
日本労働弁護団の中心メンバーによる労働法・労働事件の実務解説書シリーズの労働契約関係の部分。
2008年に刊行された「問題解決労働法」シリーズの改訂版です。
労働者性、使用者性、労働契約の成立と変更、有期労働契約など、幅広い領域を扱っていますが、通し読みにはつぎはぎ感があります。
退職金支給基準変更についての個別労働者の同意の有無(有効性)の判断に当たっては、それが労働者の自由な意思に基づいてなされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも判断されるべきとする山梨県民信用組合事件最高裁判決(2016年2月19日第二小法廷判決)などという判例集にもまだ掲載されていない裁判所Webの判例が紹介されていたり(110〜111ページ。ただし110ページ下から5行目の引用文の「老害変更」は「当該変更」の誤り)、成果賃金制度の導入にあたり年俸を能力と成果に基づいて決定するというレベルのあいまいな基準で使用者に白紙委任することは労働契約法第3条第1項の労使対等合意原則の趣旨に反し合理的とはいえないから有効とはいえない(101〜102ページ)などの私にはお題目に思えてしまう労働契約法の総論的規定を駆使した立論に著者の思考のキレが感じられ、参考になります。
他方、2008年の旧版の記述を見直さないままに放置されていると思われる記述が散見されます。労働契約法が19条までしかない(3ページ、14ページ。2012年改正で22条までになっています)とか、偽装請負の偽装請負業者の労働者と偽装注文主(実質派遣労働者と派遣先)の間に黙示の労働契約の成立(直接雇用)を認めた松下PDP事件大阪高裁判決(2008年4月25日)を紹介しつつ「最高裁判所の判断が注目される」(40ページ)(最高裁は2009年12月18日に大阪高裁判決を破棄し労働者側の逆転敗訴の判決を出し、その後この問題については、例外的な1例を除き、労働者側の敗訴が続いています)とかは、労働事件についてそこそこ知識がある読者にはビックリものです。忙しくて、書き直すと決めた部分以外の元原稿をちゃんと読まなかったんでしょうね…(T_T)
23ページ最終行から24ページ1行目と144ページ7行目の「期間の定めのある」はどちらも「期間の定めのない」の間違い、152ページの図6-3はたぶん作図がずれたり画像が潰れたりしたのだと思いますが何のことかよくわからず少なくとも矢印の位置は間違い、「(傍点筆者)」と書かれている2か所(18ページ、34〜35ページ)が2か所とも傍点がない、などが目につきますし、他にも誤植・変換ミス等はかなりあります。このシリーズは全体的に、誤植・変換ミスが多いと思います。編集者が全然校正やっていないということなんでしょうか。
19.さよなら、ニルヴァーナ 窪美澄 文藝春秋
1997年の神戸連続児童殺傷事件を題材に、新人賞に応募しながら受賞できずに実家に戻るが出所した犯人に恋愛妄想を抱きストーカー行為をして事件を題材にした小説でデビューする作家今日子、阪神大震災の中で産まれ犯人の美しい顔写真に憧れてファンサイトを作り追いかける莢、娘を殺され悲しみに暮れながら犯人のファンの莢に惹かれる被害者の母、名前を変えてひっそりと生きる犯人の様子を順繰りに綴る小説。
現実の犯罪を題材にした小説、というもの自体に、私は作家の創造力の枯渇と安易でさもしい心根を感じてしまいます。弁護士という仕事がら、私は、殺人犯にも守られるべき人権があることは当然だと思う。しかし、それと、殺人犯を殺人犯故に祭り上げ崇めたりファンサイトなど作ることとはまったく異なります。そういう感覚には吐き気がしますし、まったく理解できません。この作品は、そういった世の風潮も含めた現代の病理を描いているのかも知れません。作中で、事件を題材にした小説でデビューした作家今日子を醜く(姿形をということではなく)描いていることも自虐/戯画なのだろうとも思えます。でも、そうやって懺悔をしながら書いたとしても、この種の作品の醜さは正当化も薄まりもしないと、私は思ってしまうのです。
被害者の母に、犯人の現在への興味を持たせて周辺を彷徨わせたり、犯人のファンサイトを作る女子高生/女子大生に親愛の情をもたせたりすることで、殺人犯を崇める連中の軽薄さ・無神経さを免罪するその手法も卑怯なものと思います。実在の被害者の家族の心情を、私は知りませんが、自分たちをそのような勝手な/犯人と犯人側の者たちを利するような目的で歪めて描かれたらたまらないのではないでしょうか。そういう意味で、この種の小説を書く作家には、想像力の方も疑ってしまいます。作者の「ふがいない僕は空を見た」「晴天の迷いクジラ」での不幸な境遇に生きる人たちの物語に私は共感を覚えていただけに、残念に思います。
18.一番儲かる広告戦略! 望月聡 ごま書房新社
ホームページ制作会社代表者の著者が、自ら手がけたホームページリニューアル例を紹介するなどして、ホームページ制作会社側から見たホームページ制作のあり方を論じた本。
基本的には、自社のホームページ制作を広告するための本だと思いますので、割り引いて読むべきだと思いますが、現在では検索ユーザー(特に見込み客)は最初から細部を意識したキーワード検索をするのでビッグキーワードで検索1位になってもさほど効果がないとか、PCでもスマホでもディスプレイの解像度が次第に上がり表示される横幅が広くなってきている、レスポンシブデザイン(PCからのアクセスにはPC用表示、スマホからのアクセスにはスマホ用表示されるサイト)は中途半端になり魅力的に見えない、スマホサイトの情報量に物足りないスマホユーザーは結局PCサイトを見ているなどの説明は、なるほどと思います。私のサイトは、現在(2016年4月21日現在)ビッグキーワードの「民事裁判」で過去4週平均1.1位、「民事訴訟」で過去4週平均1.7位ですが… (^^ゞ
自営業者の愚痴というか、顧客への説得として、ホームページのリニューアルの依頼で最初から作るのと同じくらいと言うと文句を言われる、0から大変な検証をしなければならない、「かえって、なにもない状態の方が作業は楽」(40〜41ページ)というあたりは、同感です。弁護士のところにも、自分で訴訟を起こして相手の弁護士からこてんぱんにやられて、あるいは裁判官から弁護士を付けた方がいいよと言われて途中から依頼に来て、途中までやってるのだから弁護士費用はその分安くならないかなんて言う人が、たまにですが、います。へたな訴状や準備書面を出されると、0どころかマイナスです。変な書面を出して裁判官に悪い心証をもたれてしまってからでは、そこからリカバーするのは大変で、最初から弁護士に任せてくれれば勝てたはずの事件でもそのために勝てないということも十分に考えられます。そんなことをしておいて、途中までやってあるから楽だろうなんて言われたら、呆れ果てて依頼を受ける気にもなれません。弁護士の立場からは、そういう事件は、最初から自分でやる時の倍くらい弁護士費用を取りたいくらいです。
いくらアクセスが増えても、見て心に響かない内容では注文に至らない、というのは、自分でサイトを持っている側としては、まったくその通りと思いますし、心しておきたいところです。ホームページは5年前のままではないですかというコラム(145〜147ページ)もドキッとします。著者自身、既存の取引先は自分のホームページなど見ないだろうと思っており8年間リニューアルしなかったという紺屋の白袴的なことを書いています。私のサイトも、どんどん新しい記事は書いていますが、なかなか読み返しはしないので、昔書いたままで今読んだら間違いになってしまうようなことが残されているところも多々ありそうです (>_<)
17.望遠ニッポン見聞録 ヤマザキマリ 幻冬舎文庫
イタリア、シリア、ポルトガル、シカゴなどで暮らしてきた、イタリア人夫をもつ日本人漫画家が、日本の文化、日本と比較したイタリアの文化などを語ったエッセイ。
トイレ(ゴージャスなやつ)、ビール、電化製品、美容師、歯医者、テレビ番組(海外紹介もの)、CMについては、ほぼ手放しで日本の文化、製品を褒め讃えています。こういう読み物は、「海外の目」から褒められることで日本人の自尊心をくすぐり、自己満足的に読めて、私はひねくれ者なのでそういうニーズへの媚びを感じてしまいます。著者が文庫版あとがきで、「どうも日本についての思いを外側という立場から書こうとする時、それが具体的に"褒める"という形態の表記でなければ、単純な他国との比較論ですら『自己否定』と解釈してしまう傾向が日本の人にはある」(228〜229ページ)と書いているようなプレッシャーを感じてのことなんでしょう。著者は「読者の方にどのように受け取られようと」(229ぺーじ)と言ってはいますが。
私には、日本についての部分よりも、日本の男性ファッション誌に出てくるようなイタリア人男なんていない、イタリア男はイタリア女の怖さを知りそれでもそのおっかなさへの切ない欲求と諦めをもってこその渋みや色気なのだ、イタリア女性はキレる時は完璧にキレるとかの、イタリア人の紹介の方が興味深く読めました。著者がベルルスコーニを相当嫌っているというあたりも…
16.薬が減らせて、血糖値にもしばられない糖尿病最新療法2 岡本卓 角川SSC新書
日本の糖尿病治療の通例と言えるインスリン注射やSU剤服用により血糖値を低く(HbA1c 6.2%未満)コントロールする方法が、低血糖を招きかえって健康への悪影響がある(死亡率が上昇する)ことを指摘し、血糖コントロールを緩めるべきことを提唱する本。
これまでの日本での標準的な治療法、医師のやり方への批判が繰り返し書かれています。7章に分けられているのですが、章をまたいでほぼ同じことが何度も書かれている印象があり、読み物としては、頭の整理がつきにくくくどい感じがします。
インスリン注射やSU剤をやめてどうするかというと、食事や運動を勧める部分もありますが、基本的には、(著者のような)理解のある医師の診療を受け、別の新薬を駆使しながら低血糖にならないようにして治療を続けましょうと言っているように読めます。背表紙の紹介には「インスリンも薬もやめることができた患者さんの治療例を引用しながら、新薬の効果、1日15分で効果のある運動方法、おすすめの食事など、続けられる糖尿病治療を紹介した」と書かれているのですが、食事と運動について述べている第5章は25ページで、その大半が従来の食事指導への批判と運動が糖尿病によいということを述べているもので、では具体的にどうすればいいのかは、食事では魚と野菜、乾物を積極的に食べる、食べるときは野菜を先に食べてよく噛んで食べる、運動は、とにかく歩く、運動する、1日15分のウォーキングから始めようというくらい。医師の立場からは、営業的観点をおいたとしても、医師がきちんと状態を把握しない状態で素人が生兵法をするのでは不安だという思いがあるのでしょうけれども、ちょっと期待に添わない読後感です。
15.「超」集中法 成功するのは2割を制する人 野口悠紀雄 講談社現代新書
「さまざまなことに『コア』と呼びうるものがあり、努力をそこに集中すべきだ」ということを、全体の中でコアが占める比率は量的には2割程度であることが多く、他方で「コア」によって全体の成果や価値の8割程度が生み出される場合が多いという「2:8法則」を用いて論じる本。
著者は、類書では、コアはどうすれば見いだすことができるのか、コアが変化したときどのように対応したらよいのかを語っていないとして、「この問題に対して解を与えようというのが、本書の目的です」(4〜5ページ)と述べています。
では、この本では、コアをどうやって見いだすかについてどのように述べているでしょうか。書類や資料のコアはよく使うもの、新しいもので、著者推奨の資料を封筒に入れて入手したときと使ったときに一番左側(端)に置くという「超」整理法で自動的に重要な資料は左側に集中すると論じています。これは正しくまた機能的な方法論だと思いますが、「超」整理法ですでに語り尽くした話で新味はありません。書籍では、目次で全体の位置づけを把握し、特に論文は結論から読み、索引で掲載ページ数が多いもの(キーワード)を見ると述べています。索引は、漫然と作ると、重要語の引用か所がやたらと多くなりますが、引用をきちんと定義部分や重要か所に絞り引用か所が多いキーワードは別の言葉と組み合わせて別項目にした方が実務的に使いやすいと思います(近年、私が編集責任者の第二東京弁護士会労働問題検討委員会編の「労働事件ハンドブック」とその追補ではそういう努力をしています)。そういう工夫をすると、著者の言う通りにはならないと思います。それに、この本の索引を見ると(索引のある本は手抜きをしていない本だということを「是非評価していただきたい」とまでおっしゃるので:112ページ)、別格の「コア」(6か所)、「2:8の法則」(5か所)を除けば、「べき乗分布」と並んで「グーグル」が堂々第3位の4か所、「ジップの法則」「フラクタル性」「ブラック・スワン」「分類」と並んで「アマゾン」「タレブ、ナシーム・ニコラス」が5位の3か所となっています。これがこの本の「コア」なのでしょうか。
そしてこの本が主たるテーマとしていると思われる「ビジネス」でのコアの見つけ方は、ビッグデータの利用とそのパーソナルデータ利用による「レコメンデーション(お勧め)」表示という一般人は使う側には回れないものの他は、歴史書を読み教養を深める、エスセルを駆使してグラフを書く、有能な人の名人芸を見習うというのでは、類書はコアの見つけ方を書いていない、この本はそれを書くと言い切った「はじめに」での読者との約束を果たしたと言えるでしょうか。
文章を書くときに「『これ以上削ったらまったく意味がとれなくなるか?』と考えてみましょう。そうでなければ、削りましょう。」(38ページ)とまで言っています。この本がかなりの紙幅を割いている「2:8法則」の説明なり「論証」は、ある意味でどこでも聞く話ですし、もともと厳密な数字でもないと断っているのですから、冗長な説明論証は不要だと思います。頑張って削っているというよりは、むしろだらだら膨らませているように見えます。「2:8法則」自体は数行で説明して、後は実践論に入ればいいのにと思いました。
14.アンフェアな国 秦建日子 河出書房新社
刑事雪平夏見シリーズ第5作。
第3作及びそれに続く第4作から4年後、警視庁警務部監察官室から新宿警察署組織犯罪対策課暴力犯捜査1係に異動になった雪平が、新宿署管内で発生しすでに解決していたはずのひき逃げ事件について目撃者から犯人は別人だと言われて掘り起こしを始め、その背景にあった新宿警察署と暴力団の癒着、権力の陰謀に巻き込まれていくというお話。
映画「アンフェア」が警察権力の陰謀をテーマとしているのに対し、原作はそれとは関係のない個人レベルの殺人鬼の話ばかりだったのが、映画に触発されたのか、この第5作では国家レベルの陰謀を初めて背景に選んでいます。タイトルは、これまでで一番ストレートで内容にフィットしているように思えます。
雪平、安藤、林堂、平岡の関係に変化が生じ、あるいは変化の兆しが見られます。シリーズを長く書こうとする作者が、そちらでの話題でもたせようとし始めたということかなと思います。第4作までで存在感を高めていた林堂、魅力を増してきた平岡を、あまり活躍させず、普通の駒にしてしまいかねない作者のやり方には、私はあまり賛同できないのですが。
また、第5作では、次作への続きを思わせる要素が入り込んできました。これまでは1話完結だったのが、未解決部分を残すようになりました。露骨に「次号に続く」とまでは書かれていませんが、せっかく作品の流れている間は上品になってきたのに、やはり品がないなぁという読後感になってしまいます。
ちなみに第3作で雪平が撃たれたのが1月4日、第4作で雪平の上司の島津が殺害されたのはその年の3月初めの日曜日なのですが、第5作では、雪平が撃たれたのが4年前(20ページ)で、島津が殺されたのが「もう3年も前の話になった」(25ページ)って…この場面は雪平の新宿署初出勤直前ですから、設定上、雪平が撃たれたのは4年3か月ちょっと前、島津が殺されたのは4年1か月ちょっと前になるはずなんですが。
13.愛娘にさよならを 秦建日子 河出書房新社
刑事雪平夏見シリーズ第4作。
第3作で打たれ瀕死の重傷を負い左腕がマヒした雪平が配属された監察官室の上司が妻とともに惨殺され、そこから始まる連続殺人事件を、自らが救えなかったと悔やむ雪平が独自に追い、警視庁捜査1課長山路から雪平につけと命じられた安藤、犯行予告と見られる手紙を受けたテレビ局への潜入捜査を命じられた林堂と平岡が犯人に迫っていくという展開です。
犯人側の描写に工夫が見られ、なんか変だよなという思い、時期を曖昧にしたエピソードへの疑問が、最終的には無事に1点に集約されるのですが、それでもやはり、無理してる感が残ります。犯行の残虐さ、シリアスさと犯人像の非現実性がマッチしないという印象です。
終盤は遊園地が舞台となりますが、「東京ドリームランド」の「ミッティー・ラビット」って…この種の言い換えがいつも白けるのですが、ディズニーランドを想定するなら小説なんだから「東京ディズニーランド」「ミッキーマウス」でいいだろうと思いますし、避けるのなら全然別のオリジナルの架空の名称を考えればいいと思います。
タイトルは、あざとい印象です。
12.殺してもいい命 秦建日子 河出文庫
刑事雪平夏見シリーズ第3作。
第1作及びそれに続く第2作から2年後、雪平の元夫佐藤和夫が殺害され、その口に「殺人ビジネス、始めます」というチラシが差し込まれ、それから連続殺人事件が発生するという展開で、雪平が安藤、林堂、平岡を巻き込んで型破りな行動で犯人を追っていきます。
意外な結末を狙って、犯人像・犯行動機に無理をしている様子がありありで、読み終わってストンと落ちませんが、展開の妙とスリリングさは味わえると思います。
毎度、雪平に犯人を射殺させるか、雪平が殺されかけ、瀕死の重傷を負うというパターンには閉口します。この作者には、キャラ立ちさせ、作者を潤している雪平への愛はないのか、単なる消耗品なのかという疑問を感じます。
「どうしてマスコミは、連日こんな報道ばかりするのだろう。その報道が、第二、第三の類似の犯罪を生んでいるという自覚はないのだろうか。間接的に、自分たちも犯罪に手を貸しているという自覚はないのだろうか。」「何かしたくても、具体的に何をすればいいのか自分では思いつけない男は世の中にたくさんいる。そういう連中に、『方法』を教えているのが今のマスコミだ」(116ページ)…そういう面はあると思いますが、残虐な殺人事件の描写で商売しているミステリー作家に、それを言う資格があるのかと、より強く思います。
第1作、第2作についている(第4作、第5作にもついている)登場人物の一覧表が、この作品にはついていません。冒頭で、27ページまで名前を出さずに描写している雪平を、雪平と気づかせたくないためでしょうか。殺された男の名前が22ページで登場し、第1作、第2作を読んだ読者なら、それが雪平の元夫の名前だということは、登場人物の一覧表がなくてもわかると思うのですが。犯人周辺の者の紹介がしにくいからということなんでしょうか。通常の推理小説では、当たり障りのない紹介をして、問題なく登場人物の一覧表を作っているのですが。
第1作、第2作でフォントや組みを変えたり黒い背景に白抜きにしたりの仰々しいページが入れられていましたが、第3作ではそういうやり方は改め、一部のエピソードとグレーのページにしてあります。そこは、後で読み返したくなるところなので、色が違うことで探すのが楽になっていて、本として以前よりは上品になり読者サービスにもなっていると思いました。
11.アンフェアな月 秦建日子 河出文庫
刑事雪平夏見シリーズ第2作。
第1作の「推理小説」の連続殺人事件解決直後に発生した乳児誘拐事件に、錯乱した母親の事情聴取のために女性刑事が行く必要があるとして応援に投入された雪平が、特殊班の警部補林堂航、新人刑事の平岡朋子とチームを組み、第1作からコンビの安藤一之とともに4人組で型破りな捜査に取り組むという、その後のシリーズの枠組が作られます。
犯人像・犯行動機の設定にやはり無理があり、終盤で捜査担当者にはその仮説が見え意見が一致していたというのだけれど、いやぁそういうふうに普通見ないでしょと思います。
医者について、林堂の台詞「努力して努力して、とうとう医者になれた自分を、世界中に尊敬して欲しかったんだろう」「でも、現実は違う。病気を治して当たり前。患者が死ねば、自分に落ち度がなくても罵られる。」(290ページ)。う〜ん…弁護士やってても、自分は正しいんだから勝つのは当たり前、負けたら弁護士が悪いって言いたがる依頼者いますもんね。弁護士会で苦情受付担当とか法テラスで不服審査の担当やってると、そういう感じの人を山ほど見ます。そういうの見る度、こういう人の依頼は受けたくないなぁ、自分が当たらなくてよかったと思います。もちろん、そうでない依頼者も多数いるから、弁護士やっていけると思うわけですが。
第1作に比べると、文章の気負い・力みが少しほぐれて読みやすくなってきています。タイトルは、ストーリーにフィットしてきましたが、「アンフェアなのは、誰か」の栞で有名になったこのシリーズになぞらえれば、アンフェアなのは月ではなく、「ちびっ子のための理科クイズ」の問題文(225ページ)でしょう。
10.推理小説 秦建日子 河出文庫
「アンフェア」のタイトルでテレビドラマ・映画化された刑事雪平夏見シリーズの原作。
テレビドラマのシナリオライターとして活躍していた作者が小説家としてデビューした作品だそうで、タイトルのみならず、文章もかなり気負っていて、力が入りすぎて少し読むのが気恥ずかしい。そして、いかにも脚本家らしく、小説としては場面転換(カット割り)が多く、その場面転換が時々時間の前後を説明せずに曖昧に展開したりして、読みにくい。同じ文章の繰り返しも、多くて、くどい感じ。
映画を見てから(テレビドラマは見てない)読むと、映画のストーリーの警察組織の陰謀とかの権力を背景にした黒幕などとは無縁のお話で、共通点は、雪平のキャラ設定だけに思えます。独断専行、ルール無視、殺人現場で寝転び被害者が最後に見た風景を感じることにこだわる警視庁で検挙率No.1の「無駄に美人」の警部補という設定の魅力で読ませているというところでしょうか。その設定でも、検挙率No.1は、射殺した少年が恨みがましく「ずるいよ、あんた」と言ったり、人殺しの娘といじめられた小学生の娘美央が雪平に「ママは人殺しなの?」と聞いたり嫌う様を夢で見るのがいやで、不眠症になって1日20時間も働き続ける結果だとか、起きている間は浴びるように酒を飲み、汚部屋で全裸で寝るとかいうあたりは映画では採用されていないように見えますが。
その後のシリーズも含めて、犯人像・犯行動機の設定で無理をしている感があり、本格ミステリーにはなれない、ややコミカルで、しかし犯行は残虐さを強調しすぎという印象のミステリーになっています。
08.09.64 上下 横山秀夫 文春文庫
平成14年(2002年)12月、刑事部出身の警視三上義信が広報官を務めるD県警を、昭和64年(1989年)1月に発生したまま未解決の少女誘拐殺人事件(翔子ちゃん誘拐殺人事件:通称64(ろくよん))を理由に警察庁長官が視察に訪れることになり、視察をつつがなく執り行うために実名発表問題でこじれている記者クラブとの関係を修復するよう厳命を受けた三上が警務部の上司の指示に反して刑事部から事件情報を入手しようと画策する中で、長官視察をめぐる本庁と本庁とつながるキャリア・警務部の思惑と刑事部の反発、64の遺族の不信感とD県警刑事部の秘密が錯綜し、刑事部出身で今は警務部・広報官という三上が身の処し方に窮していくという展開の警察小説。
組織の論理が個人の信念や正義感を押しつぶし、その中で信念を貫きたい者、せめて面従腹背したい者がどういう道を選ぶか、といったあたりがテーマであり、読みどころとなります。主人公の三上を、刑事部出身で本庁・キャリア・警務部に魂を売りたくないという思いを持ちながら、しかし娘の高校生あゆみが家出をして音信不通になり全国捜索依頼中という弱みを握られて、キャリアの警務部長/警務課長に服従せざるを得ないという設定にして、度々煮え湯を飲まされるシーンを描いています。親にとって子どもはたいていは最大の弱点で(その点について、親の心子知らずであることも多いと思いますが)、それを人質に取られる苦悩を、誘拐事件の捜査/勃発と重ね合わせています。組織に押しつぶされる様の哀しさを三上だけでなく、信念を貫いて告発した者の行く末でも併せて描き(上巻304〜305ページ:泣けてきます)、重みを増しています。
様々な場面で様々な問題を二重三重に重ねて想起させながら展開し、いくつもの布石が生きてくる、ミステリーとしての読み応えのある作品です。三上の娘のあゆみの家出問題が、ちょっとその動機、その後の顛末とも今ひとつ感があるのが難点に思えますが。
07.辺境生物はすごい! 人生で大切なことは、すべて彼らから教わった 長沼毅 幻冬舎新書
「科学界のインディ・ジョーンズ」と呼ばれているらしい(3ページ)「辺境生物学者」を名乗る(4ページ)著者が、北極や南極や氷河、砂漠、深海などの極限的な環境で生きる辺境生物を題材にしながら、自分の人生や研究歴、処世訓等を語るエッセイ。
タイトルや最初の方の記述から、極限的な環境で食べ物やエネルギーを節約しながら生きる微生物の生態の紹介をメインにする本かと思って読み始めたのですが、著者の言いたいことを、様々な生物を引き合いに出して正当化するという本で、引き合いに出される生物も最初の方はタイトル通りの著者の研究対象の辺境生物ですが、後の方では普通の猿やネアンデルタール人とか何でもありになってきて、様子が変わってきます。
最初の方の海底火山の熱水噴出口付近の環境とそこに住む生物の話とか、ダイオウグソクムシは5年間絶食しても生きていられる(34ページ)とか、興味深い話は多数ありましたけど。
06.二重生活 小池真理子 角川書店
不倫相手の男が癌で死んだことから意欲を喪失して留年を続け、就職したくなくてモラトリアムを延ばすために父親のすねをかじって大学院在学中の25歳の白石珠が、年増女優の運転手を務める卓也と同棲中のマンションの部屋から見下ろせる住宅に住む出版社勤めの男石坂史郎を尾行し続け、石坂の不倫相手澤村しのぶとの密会を記録し、石坂と妻との修羅場を監察しながら、自らはその秘密を卓也に知られまいとしつつ、その過程で卓也も女優と関係を持っているのではないかと猜疑心を持ち妄想に苦しむという小説。
珠は、石坂を尾行することを、フランス文学のゼミで指導教授篠原弘が言及した「文学的・哲学的尾行」の概念で正当化し続けています。しかし、篠原が述べたのは、「或る人物の後をつける、ということは、その人物の人生を疑似体験する、ということと同じ意味を持ちます」(5ページ)「たとえば、街でたまたま見かけた或る人物を、何の目的も持たずに、尾行する人間がいたらどうか」(6ページ)ということで、それは尾行者が通常ならば立ち寄らない場所へ趣き通常ならば目を向けないものに目を向け通常ならば知らないことを知るという、尾行対象者の行動を通じて視野を拡大する、ということを意味し、同時に尾行の間自らの行動を尾行対象者の主導に委ねて自らを忘れ、その両者を通じて短期的観念的に彼我の人生の交換を疑似体験するというようなことだと思います。それはあくまでも、まったく見知らぬ利害関係のない対象者について、まさしく通りすがりの誰かもわからぬ相手をその相手の素性を知ることなく/知ろうともせずに、行うからこそ、哲学的行為で通俗的なストーカー行為ではないと言っているのであり、珠のように住所氏名を知る近隣の者を対象とするのは、その最初から好奇心/覗き見趣味によるものとしか考えられず、これを「文学的・哲学的尾行」などという概念で正当化しようとする/正当化できると考えること自体、神経を/思考力を疑います。
10年前に妻(珠の母)が死んだ後5歳年下の女性とともにドイツで暮らす父親を「父はいつだって、信じがたいほど自己中心的だった」(74ページ)という珠は、妻子ある男と不倫関係を続けた挙げ句その男が死ぬと勉学をする気力を失い仕事もせずにその父に学費と生活費を全面的に頼って大学院でぶらぶらとしています。同棲相手の卓也が運転手を務める女優の息子について「ただの、労働意欲に欠けたパラサイト息子」「いい年をして仕事につこうともせず、引きこもってばかりいる息子」(195ページ)などと非難しています。ふつうならその言葉は自分に返ってくるという意識を持つと思うのですが、そういう描写はまったくありません。自分は石坂に声をかけられることを期待し、後日2人で飲みに行きながらそのことを卓也には嘘までついて秘匿し、卓也と女優の関係については邪推し皮肉・嫌みを言い続けます。作者は、このジコチュウでバランスを欠いた主人公に身勝手な理屈で自分を正当化し勝手なことを言い続けさせることで、人はこんなにも自分勝手で自分のことしか考えないものだと感じさせたいのでしょうか。
篠原教授が、珠の尾行の告白を聞いて、実際に文学的・哲学的尾行をしたと評価し、「白石さんはそれを軽々とやってのけた」(282ページ)などというのは、心外な感じがしましたが、「尾行している側は、決して対象者と接触しようとしてはならず、また、尾行されている者は決して振り返ってはならないのだと。それがこの種の尾行の鉄則なのです」(287ページ)という下りは、やんわりとたしなめているのかも知れません。通常は、主人公の目線で物語を読むのですが、この作品では、珠の信じがたいほど独善的でジコチュウな感覚にとてもついていけないことと、中高年男という設定から、つい篠原教授の目線で読んでしまっていたので、篠原教授が、珠に誘われて、やはりやんわりと断る下りにホッとしました。
05.宇宙飛行士という仕事 選抜試験からミッションの全容まで 柳川孝二 中公新書
宇宙航空研究開発機構(JAXA)で宇宙開発事業団(NASDA)時代は宇宙飛行士室長、JAXA有人宇宙環境利用ミッション推進本部有人宇宙技術部部長等を務め、宇宙飛行士の選抜・管理にあたっていた著者が、国際宇宙開発での日本の宇宙技術・日本人宇宙飛行士の役割・位置取り、宇宙飛行士の選抜と訓練等について解説した本。
ソ連、アメリカがパイオニアとして進め、遥かに遅れて日本が参入した有人宇宙飛行の領域で、これまでにすでに多数の日本人宇宙飛行士が誕生して国際宇宙ステーション(ISS)の建設やそこでの滞在・実験研究ミッションに携わり、2013年11月から6か月のフライトでは若田光一がISS船長職を務めたなどと聞くと、私のような、ナショナリズムを嫌う者でも、どこか誇らしげな気持ちをかきたてられてしまいます。この本が扱う宇宙開発・宇宙飛行は、ナショナリズムの高揚という点からは、オリンピックなどのスポーツ系の祭典をも超えるテーマだと思います。しかし、国際協力の下で進められる宇宙開発を語るときに、日本は、日本人はと言い立て続けているうちは、まだ本当のパートナーたり得ていないのではないかという気がします。
日本人宇宙飛行士に関しても、JAXAが選抜していない秋山豊寛については素っ気ない記述で、「なぜ初飛行はテレビ局社員だったか」という項目を立てながら、宇宙開発事業団も日本人宇宙飛行士の実現のため準備を進めていたが1986年のチャレンジャーの事故で実施が大幅に遅れ、結果的にTBSの後塵を拝してしまった(28〜29ページ)と、NASDAが最初の日本人宇宙飛行士を出せなかった言い訳をするだけで、秋山豊寛の宇宙飛行に至る経緯は何一つ触れずにいます(212ページには、民間の「宇宙旅行者」同様に金で買ったというニュアンスの記述があります)。毛利衛以降のJAXA選抜の日本人宇宙飛行士たちだけが優れた人物で優れた仕事をしたようなその後の書きぶりを見ると、JAXA官僚の手になるものとはいえ、あまりに大人げないと思いました。
宇宙飛行士の選抜や訓練の大変さとか、スペースシャトルが退役してISSに宇宙飛行士を送り出すのはソユーズ宇宙船だけとなっているため宇宙飛行士にはロシア語の会話力が必須となっているとか、6人が常駐する国際宇宙ステーションでは年間7.5トンの水が必要となり尿も含めて全ての水分・蒸気を再利用しているがそれでも年間3トン程度の水を補給する必要がありその運搬経費が60億円(95〜96ページ:といっても水だけ運ぶわけじゃないから正しいコストかどうかわかりませんが)とか、そういう情報は好奇心をそそられます。宇宙ステーション滞在の生活の大変さについて、公式の抽象的なものだけでなく、もっと具体的な話があるとよかったと思うのですが。
04.理系社員のトリセツ 中田亨 ちくま新書
理系出身者の特徴を説明し、会社での活用方法等を論じた本。
冒頭で、文系・理系の区別は、日本の大学は視野の広い教養人を輩出するというよりは欧米列強に追いつくことを目的に設置されたために学生には専攻を一つに絞らせその分野の知識を深く習得するというスタイルを取らざるを得なかったためで、現在ではその区別の意義は薄れている(16〜19ページ)、受験のために誰でもわかりそうな問題では点数に差がつかないので単に暗記量で勝負させる問題や技巧的で意地悪な問題に偏るので高得点を取れた少数派以外はみな自信をなくし理系科目が嫌いになっていく(20〜23ページ)という解説があり、文系の人間には、なるほどと思わせてくれます。
理系専門家の技術予測はここ一番で大外れするとして、その理由を自分の専門の既存の情報が多数あり情報があるものの方を信じやすいし自分が慣れ親しんだ技術にはひいき目があるために予測が保守的になる、数学や物理のテストのように理論通りに論を進めれば正解にたどり着けると信じる傾向にあるため、保守的で我田引水の予測をしがちと説明しています(45〜54ページ)。そして、理系の技術者の知識・技術スキルは自分の専門分野の現在の技術と密接なので、技術者は会社がその分野から撤退したりまったく新しい技術が導入されると自分の技術スキル/居場所を失うため、儲からない部門であれ撤退や新技術導入に抵抗することになり、理系知識には在庫コストがあり、高いとも説明されています(54〜58ページ)。
私自身は、理系社員を使う側ではないので、後半の活用方法の部分よりも、前半の理系社員の特徴の点で興味深い点が多くありました。
03.大人の直観vs子どもの論理 辻本悟史 岩波科学ライブラリー
人間の行動の決定について、多くの場面で十分な考慮/論理的な決定によるものではなく直観により決定していること、一見不合理に見える決定が迅速な決定という生活・生存上の合理性や進化の過程での合理性を持っていると考えられること、逆に子どもはむしろ論理的な決定をしていることを、心理学・脳科学の観点から解説する本。
大人が直観により判断して行動すること、その際プロ/達人の判断は訓練の末の直観が最も適切な行動となること、子どもは直観よりも論理的思考で選択していることを、脳細胞/神経細胞のシナプス/接続が淘汰・剪定されていき残った神経回路が速度や効率が増していく、その結果、特に訓練に裏打ちされた神経回路が直観的判断へとつながっていくということで説明しています。
子どもの判断の説明で、生後6か月半の乳児に台の上の物体を横にずらせて行き台からはみ出して普通なら落下するところまでずらせても落ちないと反応する(66ページ:重力現象を理解している)、生後8か月の乳児に赤と白のピンポン球が入った箱を見せ、中から数個取りだして取りだしたピンポン球が赤が多いときにその後箱を開けて白ばかりだと反応する(68ページ:確率を理解している)という実験結果には驚かされました。
心理学や脳科学の最先端を解説するというよりは、雑談/雑学的な関心で読むのに適した本ですが、いろいろと興味深く読めました。
02.透き通った風が吹いて あさのあつこ 文藝春秋
岡山県美作市の県立林野高校(実在、作者の母校)3年生の3人、野球部ピッチャー老舗の茶屋「まなか屋」の次男坊の真中渓哉、キャッチャーの幼なじみ津中実紀、湯郷温泉の老舗旅館「みその苑」の長女深野栄美らの友情、進路についての迷いなどを描く青春小説。
作者お得意の、野球そのものではなく野球をする青年を素材にした青春小説で、舞台も作者の出身地というある意味十八番とも、ある意味お手軽とも言える作品です。
主人公の渓哉の、父の死で会社員を辞めて故郷に戻り「まなか屋」を継いで盛り立てる12歳年上の兄淳哉への敬意と本人の主観では「僅かに」しかし現実には強い嫉妬心、母からは家業を継いで兄を支えることを望まれ、客観的には将来が安定した恵まれた環境にありながら、本人はその将来に反発しつつも、といって何かやりたいことがあるわけでもなく将来へのビジョンをまったく持っていないという、未熟な戸惑いと苛立ちがテーマです。路上で出会い憧れを感じた年上の女性が実は兄の恋人と知ってそこでも兄への敗北感・嫉妬心にまみれつつ、自分の物言いが子どもっぽ過ぎるとわかりながらもずけずけと踏み込み突っかかっていく様子は、わかってるんならやめときゃいいのにと思いますし、自分を客観視できるようで、栄美との関係でもまるっきり鈍感だしというところが、まぁ未熟な青年の揺れ・うつろいを示していると言えるわけですが。
01.文科系の作文技術 許夏玲 白帝社
大学院で日本語教育・日本語研究を指導する著者が、まえがきによれば「筆者の指導経験に基づき、発表レジュメの書き方、論文の書き方を中心に、テーマ決めから研究方法、論文のまとめ方などの論文・レポート執筆に当たっての注意点を紹介・説明し、また対照研究の観点から研究への取り組み方も事例を通して説明する」(2ページ)という本。
テーマ決め、文献探し、先行研究の扱い、引用、図・表・注、まとめ、参考文献・資料、謝辞については、論文・レポート一般に適用可能な記述になっていると思います(ただし、類書と比較してその充実度には不満があります)。他方、研究手段、研究資料、対照研究、記述研究の項目は、そのほとんどが著者の専門領域の日本語研究独特の内容で、しかも論文作成の技術というよりも日本語会話をめぐる著者の研究や見解に紙幅が割かれてテーマから外れた印象です。
著者はテーマ決めの項目(7〜18ページ)で、タイトル(本題と副題)の付け方に言及し、本題が広すぎるときには副題で範囲を限定するように注意し、ドリルでは「現代の日本語と母語の対照研究」や「日本の茶道と禅宗について」などのタイトル例には、「解答」で副題を付けて限定すべきことを指摘しています。文科系一般に通じるとは思えない記述に満ち、作文技術とは言えない記述も多く、他方作文技術としては充実しているとも言いにくいこの著書に、副題なく「文科系の作文技術」というタイトルを付したことは、著者の指導内容と食い違っているように思えてなりません。
日本語研究のために論文・レポートを書こうとする読者にとっては、作文技術以外に着想の助けになることが予想できますが、それ以外の領域の研究や文書作成を志す者が、タイトルに惹かれて読んだ場合、思惑に外れた読後感を持つものと思います。
**_****_**