庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2017年3月

23.歌舞伎町セブン 誉田哲也 中公文庫
 「ジウⅢ」の歌舞伎町封鎖事件から6年後、警視庁本庁の捜査1課から新宿警察署強行犯1係長に異動となった東弘樹警部補の元で、歌舞伎町1丁目町会長の心不全による急死、歌舞伎町商店会長の失踪と不審な事件が続き、新宿区長だった父が心不全で急死したことに無念の思いを持ち続ける巡査小川幸彦、フリージャーナリストの上岡慎介らが調査を進めるうちに、歌舞伎町を浄化する殺し屋集団「歌舞伎町セブン」とその中心人物と目される「欠伸のリュウ」の存在が歌舞伎町で広く取りざたされていることを知り…という展開のアクションサスペンス小説。
 まったくの無法地帯では困るが、といって厳しい取り締まりがなされたのでは街が成り立たない歌舞伎町という存在をめぐり、グレイゾーンを保ちながら目に余る悪を始末する、アウトローのヒーローとして「歌舞伎町セブン」を設定し、針で痕跡を残さずに相手を殺す「欠伸のリュウ」が活躍するというのは、私のようなおじさん世代には「必殺仕掛人」(1972年)を思い起こさせます。悪人に殺された人・遺族の恨みを晴らすためにその悪人を殺す仕掛け人たちは、かつて庶民の人気を呼び、テレビ番組として続編が繰り返し制作されて長期シリーズとなりましたし、針で「ツボ」を刺して殺人と見せずに殺す藤枝梅安(緒方拳)の斬新さは強く印象に残っています。それだけに、この作品の基本設定は、そのパクリにしか見えません。
 しかも、悪人を、さすがにジウⅢが話を大きくし過ぎて(中途半端な大きさとも言えますが)荒唐無稽に過ぎると感じたのか、歌舞伎町をめぐる暴力団や強欲で無情の経営者たちレベルにとどめているため、必殺シリーズ的な設定への共感を持てても悪人のしょぼさでやはり中途半端感があります。
 この作品も、比較的落ち着きのあるバー「エポ」のマスター陣内陽一、東弘樹警部補、上岡慎介あたりと、この作品では一応正体が明かされないツッパリキャラのミサキなどのキャラと人間関係のしみじみ感を読むという方がよさそうに思えます。

20.21.22.ジウⅠ・Ⅱ・Ⅲ 誉田哲也 中公文庫
 警視庁特殊犯捜査2係で犯人説得を担当していた門倉美咲巡査27歳が、人質立て籠もり犯の指示で下着姿になったところを雑誌記事にされて所轄に異動されながらも、その犯人が児童誘拐事件の共犯であることがわかり捜査本部に派遣され、捜査1課の切れ者刑事東弘樹警部補と組んで捜査を進めるうち、連続誘拐事件の主犯として浮上したジウと呼ばれる美少年を追うことになり、他方、門倉の同僚だった武闘派でその戦闘能力を買われて特殊急襲部隊(SAT)に異動した伊崎基子巡査25歳は謎の勢力に次第に引き寄せられ…という展開の警察アクション小説。
 優しく涙もろく、しかし正義感が強く無鉄砲なところもある門倉美咲と、厭世的で自暴自棄で尖がった伊崎基子の対照的な性格の2人のヒロインと、切れ者で直情的で女心に鈍感な東弘樹のキャラで読ませていますが、特定の犯罪者(敵役)で3巻も引っ張っているうちに謎の美しくも怪しい敵キャラのジウも色あせ、展開が次第にち密さを失い大味で荒唐無稽になります。2巻から登場する「私」ことミヤジのストーリーでは、最初から命があまりにも簡単に奪われますし、3巻の歌舞伎町封鎖事件などは、もう戦争の趣で、人の命の重さなど無きに等しく描かれます。この作品で、いったい何人が殺されているのか、数える気にさえなれませんが、殺人・残虐行為に対する慣れ・感覚の鈍麻・諦め・無力感・無関心が、この作品の帰結というか読後感となるように思えます。
 大仰に展開して見せたものの、権力内部に根を張る「新世界秩序(NWO)」なる敵は、警察内部でも権力の中枢部とまでは言えず、表に出るジウもミヤジもどこか巨悪と呼ぶには似つかわしくなく、中途半端な、悪くするとちゃちな印象を持ちます。
 大きな展開部分での「陰謀」ないしは巨悪との闘いというテーマが読み物として現実感に欠けながら壮大とも言えないために、爽快な読後感を持てず、結局は、門倉の東に寄せる思いや伊崎の捨て鉢な生き様へのハラハラ感の方を読むべき作品だろうと思います。

19.ケモノの城 誉田哲也 双葉社
 長期監禁とその間のレイプ・暴行・拷問、被害者の親族を巻き込んだ恐喝、殺人、死体遺棄を繰り返す犯罪者と、その正体を追いきれない警察という設定で、現代社会の闇を描いたと思われる警察小説。
 読んでいて、作者の出世作の「ストロベリーナイト」もそうでしたが、犯罪/犯罪者の鬼畜の所業ともいえる残忍さ、グロテスクさを描き出す想像力というかおぞましさへのキャパシティには驚きます。その原動力が、犯罪/犯罪者への憎しみなのか、作者の趣味/嗜好なのか、心配になってしまうほど。
 グロテスクな犯罪、本当に腹立たしい憎むべき犯罪者を描き出しながら、「人間は、怖いのではないか。自分が被害者になるのはむろん怖いが、同じくらい加害者になるのも怖いことだ。自分の中にも犯罪の芽はあるかもしれない。今は大丈夫でも、でもいつ、自分も犯罪者になってしまうか分からない。だから知りたいのではないか。自分と犯罪者の何が違うのか。犯罪者になる者とならずに済む者と、その境界線はどこにあるのか。そして一番怖いのは、その境界線がないことだ。」(200ページ)と担当警察官に考えさせています。そのあたりの人間の心の闇、がテーマと考えるべきでしょうか。
 ミステリーとしては、最後にもちろん捻りを入れるんだろうな、と思いながら読むのですが、その捻りに無理があるというか捻りの根拠となる作為の動機が描かれず、エンディングも「藪の中」的な終わり方で、もやもや感が残ります。
 「武士道ジェネレーション」(2015年7月)の「東京裁判史観」/「自虐史観」批判から、この作者がいつからそのような方向に踏み出したかに興味を持ちましたが、2014年4月のこの作品では、(長期間の取調べで被疑者が疲れ果てて罪を認めるのをそういった捜査手法が冤罪を生むと主張する学者や弁護士がいると、人権派弁護士を非難している217ページあたりは、警察の協力を得ないと書けない警察小説の作者が警察寄りの視点になるのはふつうとして)「領土問題というのは、攻められる側が諦めたときに終わりがくるのだと思う。当然といえば当然だ。攻める側、領土がほしい側はいつまででもちょっかいを出し続ける。手に入るまで、しつこくしつこく。それに疲れて『もういいや』と思ってしまったら。攻められる側、領土を守る側は終わりだ。負けが確定する。」(125ページ)という記述が唐突に入るのが目につく程度です。たぶん尖閣諸島や竹島を想定して書いているのでしょうけど、この記述だと北方領土でロシアから見た日本政府を表現したものともいえて、まだニュートラルと考えることもできるレベルです。

18.裁判の非情と人情 原田國男 岩波新書
 高裁裁判官時代に20件以上逆転無罪判決をした(81ページ)元裁判官の著者が、雑誌「世界」に連載した裁判関係のコラムをまとめて出版した本。
 裁判所の青法協弾圧・原発裁判への圧力などを描いた「法服の王国」(黒木亮:これが産経新聞に連載されたことも驚きでしたが)を、「かなりのフィクションも含まれているが、最高裁判所を中心とした戦後の司法の大きな流れ(それも暗部)はほぼ正確に摑んでいると思う。」(46ページ)、誤判/冤罪の原因について「これまで、このような検討は、全国裁判官懇話会を中心に行われてきた。しかし、最高裁は、懇話会を敵視し、排除してきた。その経緯は第二章にも挙げた、黒木亮『法服の王国』(岩波現代文庫)に書かれているとおりである。」(96ページ)と紹介し、さらに無罪判決をするのには勇気がいるとしばしば言われることに関して「勇気がいるというのは、無罪判決を続出すると、出世に影響して、場合によれば、転勤させられたり、刑事事件から外されたりするのではないかということであろう。これも、残念ながら事実である。」(82ページ)と述べています。業界人には、常識の域ではありますが、東京高裁の部総括(裁判長)だった裁判官にこう明言してもらうと気持ちいい。
 「裁判官の仕事では記録を丹念に読む以外に、近道はない。この習慣は、若いうちから身につけないと後で困ることになる。どうしても、簡便で能率の良い記録の読み方を探そうとする。とくに若い判事補には、要領のよい記録の読み方をしようとする者が多い。しかし、記録は、隅から隅まで丁寧に読むべきなのである。昔、東京高裁でお仕えした四ツ谷巌判事(のちに最高裁判所判事)は、記録の一隅の数行に真実が隠されていることがあるから、記録は、一行でも疎かにできないとよく言われていた。そのとおりであることは、後に実感した。」(75ページ)は、同業者として、実感するところです。とてもしんどいけれど。
 学者とは違って実務家は締め切りを厳守しようとするという指摘(49~50ページ)、そうあるべきだしそれで当然と言いたいし私は準備書面の提出期限は(よほどの事情がない限りは)守っていますが、私の相手方の弁護士が提出期限を守って出してくるのは半分くらいというのが実感ですから、当たっていると言えるかどうか。近年、法廷を平気で遅刻する若手弁護士が目立ってきた(51ページ)というのも、よく聞く話ではありますが、遅刻して平気な弁護士は昔からいましたから、近年の若手が特にと言えるかどうかもやや疑問です。
 裁判と裁判所を扱ってはいるのですが、短く軽めのコラム集ですので、業界外の人が裁判所の雰囲気を知るのには読みやすくいい本だろうと思います。

17.地図と愉しむ東京歴史散歩 地下の秘密編 竹内正浩 中公新書
 東京の地下鉄の駅や路線の高さ(標高)と経路などをめぐる由縁、地下壕(防空壕)の工事と戦後、怨霊神(崇徳院、平将門、新田義興)の鎮魂とその後、団地の用地の由来などを解説した本。
 私には、本文が始まる前に25ページにわたって作図掲載されている地下鉄各路線の駅と路線の標高が、印象的でした。20~40m程度ではありますが、新宿とか池袋とか渋谷とか六本木とかって高台なんだ、永田町と国会議事堂もそのあたりだけ高くなってるとか、なんとなく平地に思えている東京の都心部のイメージがちょっと変わるような感じです。地下鉄が、けっこうアップダウンしているのも、乗っていてあまりそういう印象を持っていなかったので驚きました。最近開通した地下鉄では省エネの目的で駅間をすり鉢状(V字状)にしている(駅を出たところを下り坂にして加速を容易にし、駅に着くときには上り坂で減速を容易にするって)というのも初耳でした。

16.ジョイランド スティーヴン・キング 文春文庫
 1973年、当時ニューハンプシャー大学の学生だったデヴィン・ジョーンズが、アメリカ南東部のノースカロライナ州「ヘヴンズベイ」の遊園地「ジョイランド」で夏休みのアルバイトをして夏休み終了後も勤務を続けながら、幽霊屋敷「ホラーハウス」でカップル客の女性リンダ・グレイが殺害された事件とその後ホラーハウスに出るという幽霊の噂の謎に好奇心を持ち…という設定のサスペンス青春小説。
 「ミステリー」としては、幽霊屋敷での事件/アクシデントを始め重要な部分ではっきりせず、また超常現象的な描写だけで合理的な説明なく終わっている印象が強く残ります。
 むしろ、「まだ女を知らない21歳」(11ページ)の主人公が、恋人のウェンディ・キーガンに浮気されて失恋し、ジョイランドでマスコットキャラクターのハッピーハウンド(犬)のハウイーの着ぐるみを着たパフォーマンスなどをしながら傷を癒し、バイト仲間の女学生エリン・クックと知り合うがエリンはバイト仲間のトム・ケネディと恋仲になり、通勤途上のビーチで顔を合わせる筋ジストロフィーの少年マイク・ロスとともに佇んでいる美貌の母アニー・ロスは険しい態度を取り…という「礼儀正しい若者に女はものにできない」(13ページ)青春グラフィティとして読むのが正解と思える作品です。

15.武士道ジェネレーション 誉田哲也 文藝春秋
 武士道シックスティーン、武士道セブンティーン、武士道エイティーンと続いた剣道青春小説武士道シリーズの磯山香と西荻早苗の高校卒業後を描いた続編。
 大学でも剣道一筋で教職課程も単位が取れず就職できないで桐山道場に居残る磯山と、膝の負傷で剣道をリタイアしながらつてをたどって東松学園高校の事務職員となり桐山師範の遠戚の沢谷充也と結婚した早苗の掛け合いで話が進行します。
 以前から続く剣道青春ものとしての味わい、展開は維持されていますが、この作品で作者は、東京裁判批判、「自虐史観」批判を展開し、「民間人虐殺を行わなかった日本」(46ページ)とまで述べ、「アメリカは東京大空襲で少なくとも十万人、広島への原爆投下ではその年内に十四万人、長崎では七万人を死亡させている」(46ページ)と言っています。この点は、この1か所だけではなく、繰り返し執念深く登場し(42~51ページ、213~215ページ、216~224ページ、319~323ページ)、作者が確信をもって、この作品を通じてこの考えをアピールしようとしていることが読み取れます。警察もので名を挙げた作者が、犯罪の加害者/犯人を憎み加害者の検挙等による解決を志向し、犯罪者を非難しその残忍さを描くことは理解できます。しかしその作者の視界には、アジアの人々の被害は入らない/見えないのでしょうか。被害者の数は、歴史の記録としては重要でしょうけれども、被害者自身やその関係者にとっては、犠牲者が1人であってもかけがえのない命です。南京大虐殺の被害者の数が過大だと声高に言う作者は、では20万人ではなく10万人なら、あるいは5万人なら殺されてもかまわない、「虐殺ではない」というのでしょうか。日本への空襲を戦時国際法違反だと非難する作者は(私は、アメリカ軍の空襲を批判すること自体は正しいと考えていますが)、日本軍が行った重慶爆撃は「なかった」というのか、民間人が犠牲にならなかったというのか、いったい何をもって日本軍が「民間人虐殺を行わなかった」などというのか、私の目には、作者が、日本人の命は大切だが、アジアの人々(朝鮮人、中国人)の命はどうでもいいと言っているように見えます。

14.震度7の生存確率 仲西宏之、佐藤和彦 幻冬舎
 防災教育の普及活動を行う一般社団法人日本防災教育振興中央会の代表理事(阪神・淡路大震災の被災者だそうです)と理事が、大地震で震度7の激しい揺れに襲われた場合、その瞬間に何をすることで生き延びる確率を上げることができるか、そのために日頃からどのようなことを考え準備すべきかを解説した本。
 冒頭の第1章が、さまざまなシチュエーションで震度7の揺れに襲われたときに取るべき行動を3択ないし4択で答える方式になっていて、ここがこの本のハイライトです。地震の瞬間に関する12問と日常の備え3問、地震後の避難3問で構成され、地震発災の際の12問の著者が評価した生存確率合計860%に対する読者の答えの合計確率で、生存確率の評価がなされます。私の回答は、760%で、評価は上から2つ目の「サバイバー」(生存の可能性が高い人)でした。もっとも、評価対象から外されている「日常の備え」が全然だめなので、現実の生存確率が高いとは言えないでしょうし、自分が車を運転しない関係で、車に乗車中の判断が低かったです。
 私たちが子どものころに繰り返し言われた、(教室で)地震が来たら机の下に潜り込むは、震度7では机ごと飛ばされるのでかえって危険で、窓(ガラス)や机等の飛んできて危ないものから離れてしゃがみ込むべきだそうです。同様に調理中の場合、ガスの火を止めようとすることは震度7では危険(止めるのは無理)な上に今は震度5強以上の強い揺れがあるとガスの供給が自動的にストップするので無意味なのだそうです。
 そのほかに、地震の時にけがをすると生存確率が大幅に低下する(救急車が来ないので平時なら死なない程度の怪我でも死ぬ可能性が高くなる、移動能力が落ちて危険を避けられなくなる。102~105ページ)、倒壊物の下敷きになるなどして筋肉の30%を3時間挟まれると筋肉が押しつぶされることで発生したカリウムやミオグロビン(筋肉中で酸素を貯蔵するたんぱく質)が救出の際急激に体内に回り「クラッシュ症候群」を引き起こして死に至る(116~117ページ)ということも頭に入れておくべきでしょう。クラッシュ症候群というのは初めて知りましたが、せっかく生きて救出されたのに、その救出で圧迫がなくなって死亡するって、あまりにも悲しい。
 そして、大災害に直面すると多くの人は動けなくなるのだそうです。震度7の揺れがあると物理的に動けなくなりますが、それだけではなく、心理的に日常の無意識の刺激→反応/行動のシステムが働かなくなることや麻痺がおこることで動けなくなり、70~75%の人は何もできなくなり、15%以下の人が我を失って泣き叫び、落ち着いて行動ができる人は10~15%程度だとか(123~126ページ)。大きな災害が起こったときは、事前の準備(情報の収集)と麻痺から覚める/覚ますため大きな声を出すことが大事だそうな(126~127ページ)。
 災害時のしゃがみ込みは、著者が「ゴブリン・ポーズ」と呼ぶ、片膝をつき(片膝とその足の先ともう片足の裏3点で体を支える)両手の拳を頭の上側につけて脇を締める体勢で行うべきだそうです。拳を握るのは、頭部への落下物に対して拳がクラッシュ(骨折する)ことでクッションになって頭部を守るのだとか…考えるだけで怖い/痛いけど。
 首都直下地震とその後の状況をシミュレーションした第4章も悲しくおぞましい記述が続きますが、そういったことも含めて、いろいろと直視すべきことがあると考えさせられました。

13.地方自治講義 今井照 ちくま新書
 元大田区役所勤務、現在福島大学教授(自治体政策)の著者が行った「自治体の考え方」と題する連続講義をもとに地方自治の歴史や考え方などを解説した本。
 日本の国土政策が「国土の均衡ある発展」などと称して一貫して(少なくとも主観的には)拡散政策だったが、地域に根ざした産業を育成するのではなく大規模製造業や情報通信産業のような大都市を中心とする産業のブランチを全国にばらまこうとしたもので、失敗したところが少なくなく、成功した場合も中央との結びつきが強化されることで一極集中構造が促進する(262~266ページ)というのは、なるほどともそうかねぇとも…その前段で示されている地域別の1人あたり雇用者報酬(労働者賃金)が、1997年頃をピークとして、減少に転じ、東京都は減少が比較的緩やかだが地方の減少が大きく東京と地方の格差が拡大しているというグラフ(251ページ)はショッキングです。経営側にこんなことをやらせていていいのかと、腹立たしく思います。
 今は地方自治体が補助金を得るために中央官庁のご機嫌伺いをしているけれども、「実は国の役所はお金を出したいのです。なぜならお金をばらまくことによって国の役所が成り立っているからです。」「そもそも国の役所は自分自身で何かをするということは少ない。自治体を含めて、結局、誰かにやってもらわないと自分たちの政策が実現できないのです。」(268ページ)「陳情に行くと国の役人はふむふむと偉そうに聞いている。」「だが、それは陳情に行くからです。地域で成功事例があると、噂を聞きつけて国は『視察』にやってきます。国が来たら教えてあげればよい。そうすると、次に国は何かお手伝いできないでしょうか、と言ってくる。そうしたら、しかたないね、と言って補助金をもらう。成功事例と呼ばれている地域ではそのような構造になっています。その前提は、国に頼らず、自分たちが市民や地域の企業と考えに考え抜いて、地域づくりに励むことです。最初から国に頭を下げるとロクなことはない。」(269ページ)というのは、銀行と同じですね。そのとおりだと思いますが、でも実行はなかなかたいへんでしょうね。
 2009年に安土町が近江八幡市と合併するという話が急浮上し、反対派住民が署名を集めて合併の可否を問う住民投票条例制定を議会に直接請求したが議会は否決、反対派住民が署名を集めて町長の解職請求、リコール成立、選挙で合併反対派町長が当選、新町長が住民投票条例を提案したが議会が否決、反対派住民が署名を集めて議会の解散請求、住民投票で議会解散、町議会選挙で反対派議員が過半数をとるという署名集め3回、住民投票2回(町長解職、町議会解散)、選挙2回の7つの手続ですべて反対派住民が勝利したにもかかわらず、その間に町議会がした合併議決の効果で、合併反対派の町長と町議会の下で合併が実行されざるを得なかった(178~179ページ)というエピソードは、読んでいて涙が出ます。一体、日本の地方自治とは何なのか、と呆れてしまいます。
 地方自治の考え方の基本として、住民に一番近い自治体(地方政府)がまず住民のための業務を行い、市町村ではできないか広域で行った方が望ましい業務は都道府県が補完的に行い、都道府県でできない業務を国が補完して行う補完性原理を説明し、誰か有能な人がいてその人を民主的に選出すれば後はその選出した人の指図どおりに動いた方が効率的ではないか、国家全体が民主化されていれば地方自治など必要がないという考え方に対して「歴史をひもとくと、これまで世界は何度も痛い目にあってきた。ドイツでもイタリアでもロシアでも、ある意味では日本でも、広い意味で民主化の動きが出て来た直後に、その流れに危機感や失望感を抱いた人たちによって導かれた独裁政権や戦時体制になだれ込むことが起きた。計り知れない犠牲を払ったのです。」と論じています(64~66ページ)。近年の情勢を思うにつけ、噛みしめておきたいところです。

11.12.荊の城 上下 サラ・ウォーターズ 創元推理文庫
 ロンドンの西、メイデンヘッドの町の近くのマーロウという村の古城に伯父と住む巨額の資産の相続人だが結婚するまでは相続財産を自由にできない娘モード・リリーの存在を知り、モードを騙して結婚しその後はモードを精神病院に入れて財産を自分のものにしようという詐欺師リチャードの計画に誘われ、モードの侍女となってリチャードのアシストをすることになった17歳の孤児の掏摸スーザン・トリンダー(スウ)が、侍女として過ごすうちにモードに好意を持ちついには性的関係を持ってしまい、揺れる心に悩まされながら計画を進めるうちに予想外の事態に陥るという展開のミステリー小説。
 スウの側からの第1部、同じ場面をモードの側から見る第2部、再びスウが舞い戻る第3部の3部構成になっています。予想を裏切る巧みな展開ではありますが、下巻に入ると特に重苦しい雰囲気が強まります。第1部がスウの視点で入りますので、ふつうの読者はスウの側で読み進めると思うのですが、そういう心情では、第3部は陰鬱な思いが続き、次第に読み進むのがつらく感じられてきます。そんなに悲しい思いをさせなくていいんじゃないの、と私は思ってしまいます。モードへの愛憎を重ね、後半恨み続けるスウを見るのがしんどく思え、ラストの展開に、正直なところそういう気持ちになれるか疑念を抱き、すっきりしませんでした。
 孤児スウの育ての親、スウが母ちゃんと呼ぶサクスビー夫人の実の子と長年育てた子への思いも、重要なポイントになっています。血は長年共有し積み重ねた思い出よりも重いのでしょうか。その点も考えさせられますが、私の感覚とは違うなぁと思いました。
 この作品を原作とした韓国映画「お嬢さん」では、後半のスウを悲しませる重い部分、サクスビー夫人の立ち回りなどをカットして、ハッピーで痛快に仕上げています。重厚さ、人生の悲哀を感じさせる味わいをなくしたともいえるでしょうけど、私には、この作品を読んで、こういう展開にして欲しかったなぁと思ったストーリーで、娯楽作品としては映画の方がよかったかなと思いました。

10.硝子の太陽N-ノワール 誉田哲也 中央公論新社
 フリーライターの上岡慎介が殺害された事件をめぐり、新宿ゴールデン街のバー「エポ」経営者陣内陽一ら「歌舞伎町セブン」メンバー、元警視庁捜査一課刑事の新宿署刑事課強行犯捜査第一係長東弘樹らに勝俣、姫川らが絡む警察周辺小説。
 姫川玲子シリーズかと思って読んだのですが、基本は「ジウ」シリーズ→「歌舞伎町セブン」→「歌舞伎町ダムド」の続編で、それに姫川玲子シリーズから勝俣と姫川がちょっとだけ登場する「コラボ小説」だそうな。シリーズを順に読み進む読者を想定しているようで、かつての「事件」、過去のしがらみのある謎の敵対者、あれこれの経緯が、そこここに登場し、シリーズを読んでいない読者にはちょっと辛い。
 ミステリーや刑事ものというよりは、「歌舞伎町セブン」の仲間を奪われての復讐ものと読んだ方がいいと思いますが、クライマックスとなるべき部分が、初期に見せる歌舞伎町セブンのポリシーとも整合しない感じがするし、それならそれで徹底すればいいのに、なんか中途半端な感じがします。事件の解決というか、真相の解明という点でも、まだ別の事情や事件が示唆され、さらに続編を書くということなんでしょうけど、すっきりしない印象です。
 沖縄問題/反基地闘争/米兵の犯罪糾弾の世論などについて、デモや世論の高揚を目的のためなら手段を選ばぬ左翼犯罪者による陰謀/デマによるものとし、沖縄にも米軍駐留を望みそれにより生活している者がいることを強調するというところがこの作品の基本的な設定となっています。作者が、沖縄闘争/左翼への執念深い敵意を持っているのか、左翼嫌いの読者に媚びているのか…

09.新富裕層の研究 日本経済を変える新たな仕組み 加谷珪一 祥伝社新書
 インターネットが基本的なインフラとなり、すべてのものやサービスがネットでやり取りされるようになった今、ネットのインフラを駆使すれば、自分で何かを作り出さなくてもすでに世の中に存在しているものをうまく集めてくるだけでビジネスを立ち上げられるようになっており、事業所や製品、従業員等を用意する多額の投資をする必要はなく、ただニーズを読み取った新たなアイディアがありそれを迅速に事業化できれば、新たな富を作り富裕層になることができるという、起業のすすめ。
 シェアリング・エコノミー、例えば Airbnb (民泊の仲介)、Uber (運送の仲介)が典型例として挙げられています。多数の一般人が保有している家(空き室)、自動車と提供者による空き時間の労働を利用して、利用希望者とサービス提供者(こずかい稼ぎ希望者)をマッチングして手数料を取るビジネスモデルです。サービスのための施設(宿泊施設や自動車)もサービスをする従業員も所持・雇用することなく、用意する施設はネット上の登録・予約システムだけ、それで相手にするのは客も提供者も分断され孤立した個人ですから力関係で優位に立ち好きなように立ち回れるという、経営者にとても都合のいいビジネスモデルです。客の立場からすれば、正体不明の個人の家に泊まったり、正体不明の人に自分や大切な荷物を運んでもらうことには相当なリスクがあります(民泊だと合鍵で侵入されたり、盗撮カメラが仕掛けられていたりしないでしょうか…)。「シェアリング・エコノミー」でない事業者の場合、著者が煩わしがる、起業の障害となる事業所の確保、施設への巨額の投資があればこそ、簡単には逃げられないから、評判を落とすようなまねはしないだろうという点で一定の信用を確保でき、また長期雇用の従業員にサービスさせるから従業員が悪事を働かないだろうと信用できるわけです(もちろん、リスクがゼロではありませんが、相当程度小さいと考えられるわけです)。シェアリング・エコノミーの事業者(仲介者)がサービスの質を維持しようと思えば、登録者を契約で拘束し、マニュアルを徹底しということになっていくでしょうが、そうなれば、サービス提供者(登録者)は実質的には雇用された労働者に近い拘束を受けながら、「個人事業者」として「業務委託」を受けているという形式(建前)故に労働者としての保護を受けられないということになりかねません。サービス提供者側は、言ってみれば登録型日雇い派遣という究極の不安定雇用の「業務委託」版です。労働者として保護されないのですから、日雇い派遣労働者よりもさらに保証/保障がない、それが「雇用によらない働き方」の正体です。シェアリング・エコノミーに限らず、著者はたびたび、これまでの起業では過剰雇用のコストが高い、日本の労働法制下では原則として解雇が禁じられている、と文句を言い、「タクシー代わりに自分の車を提供する個人は、あくまで個人の判断ということになりますから、どこまでが不当な労働なのかを決めることも難しくなります。」(66ページ)などと述べていることからして、まさに労働者としての保護を受けさせない形でサービス提供者を安いコストで使いこなすことが、著者がいう新たな起業/新富裕層の決め手とも言えそうです。
 「三木谷氏もベンチャー企業には労働基準法は適用すべきではないと発言して、物議を醸したこともあります。筆者自身もサラリーマンから起業家に転身した経験がありますから、この感覚は実感としてよく理解できます。事業が軌道に乗るまでの2年間は、毎日、深夜残業があたりまえであり、大晦日と正月以外に仕事を休んだ記憶はありません。」(29ページ)というくだりには、著者の姿勢がよく表れています。経営者として自分がどれだけ働こうがまたどのような考えで働こうが、それは自由です(私も、個人自営業者ですから、残業代請求事件の依頼者の大半よりも長時間働いていますが、それは自己責任だと考えています)。しかし、労働者にそれを求めることは筋違いですし、ましてや労働基準法を適用すべきでないなどという身勝手な主張を正当化する余地はまったくありません。過労死の事件とかがあると、自分はそれ以上働いていたが大丈夫だったなどと言いたがる輩がいますが、体力や適性は人によりさまざまだという当然のことも理解できず、他人の体力やストレスなどの事情に思いをはせる想像力もコミュニケーション力もないことを宣言しているだけです。こういう人物に雇用されている労働者や「個人事業者」として付き合わされている/こき使われている人はとても不幸だと思います。
 強欲な経営者にとって夢のような労働者いじめ/切り捨てを容易にする「新たな仕組み」を推奨し、ネットで用意できる他人の財産や労力を、仲介ビジネスで中間搾取して儲けようという幻想を振りまき、それが実現すれば使われる側に多くの不幸なものを生み出すというのが、著者の主張の先行きにある未来だと、私は考えてしまいます。

08.日本フィギュアスケートの軌跡 伊藤みどりから羽生結弦まで 宇都宮直子 中央公論新社
 カルガリーオリンピック(1988年)から平昌オリンピック(2018年)までの日本代表選手のインタビューや当時の状況などを記した本。
 「日本フィギュアスケートの軌跡」という表題から、当然、過去に遡って調査取材した、日本のフィギュアスケートの歴史、選手の人物像や代表選考のドラマなどがそこそこ網羅的に書かれているものと思って読んだのですが、最後の平昌オリンピック(そもそもまだ来年だし)と羽生結弦についての書き下ろし以外は、すべて、著者が「Number」(文芸春秋社のスポーツ雑誌)と一部「文藝春秋」本誌に書いた、オリンピック直前と一部オリンピック直後の原稿を再掲しただけの、安直な出版。オリンピック直前の選手の状況と当時の発言については、それなりには興味を持てますが、オリンピック前後以外は対象になっておらず、その間の選手の様子が全く空白で、到底「日本フィギュアスケートの軌跡」など読み取れません。「ライター宇都宮直子の軌跡」と題すべき本だと思います。

07.密着 最高裁のしごと 野暮で真摯な事件簿 川名壮志 岩波新書
 毎日新聞の最高裁担当(司法記者クラブ)記者が、4つの裁判を取り上げて、最高裁の「しくみ」を説明する本。
 民事裁判では、DNA鑑定によって親子関係がないことが証明された子を母親が親権者として代理して法律上の父親(元夫)に対して親子関係不存在確認請求をした事件(最高裁は訴えを認めなかった)、夫婦別姓を認めない国に対する損害賠償請求事件(最高裁は夫婦別姓を認めない現行民法は合憲と判断した)を、刑事事件では、裁判員裁判による1名の強盗殺人事件(被害者が死亡しなかった余罪多数)での死刑判決を高裁が覆した事件(最高裁は高裁の判断を追認)と、裁判員裁判による発達障害を抱えた被告人の殺人事件での発達障害を刑を重くする事情として検察官の求刑を超えた判決を高裁が覆した事件(最高裁は高裁の判断を追認)を取り上げています。
 取り上げられた4件の事件の内容や最高裁の判断については、ほどほどの説明がなされ、これらの裁判について知るという点では、適切に思えます。しかし、書かれている内容は、事件の当事者に取材した部分を除けば、判決を読めばわかることですし、この本の目的とされる最高裁の審理・判断の「しくみ」に関しては、掘り下げた記述はなく、私が期待した、最高裁担当記者として最高裁裁判官や最高裁関係者に取材して引き出したと思われる情報はなく、私にとって新情報はありませんでした。その点で、せっかく最高裁担当記者が書くのなら、最高裁に食い込んだ独自取材で書いて欲しかったなという欲求不満が残ります。
 1審、2審の合議体(裁判官3人)での判決について、「各裁判官の意見が分かれることを、俗に『合議割れ』というのですが、合議割れの判決というのは1、2審ではありえないわけです。(略)きっと全員一致になるまで、とことん議論を尽くしているのでしょう。」(30ページ)と書かれています。最後の一文は皮肉ですけど、それにしても著者は1審、2審では現実は疑わしいものの「建前としては」全員一致でなければならないのだと誤解しているようです。裁判所法は、「裁判は、最高裁判所の裁判について最高裁判所が特別の定をした場合を除いて、過半数の意見による。」と定め(裁判所法第77条第1項)、さらに意見が3つ(以上)に分かれた場合の決め方も定めています(裁判所法第77条第2項)。法律上、1審、2審判決の合議割れは予定されていますし、それで構わないわけです。ただそれを判決上記載しない、合議の内容は秘密だというだけです。司法記者クラブの記者が、刑事事件には詳しい(基本的に刑事裁判に関心を持ち、また警察担当をしてから司法記者クラブに来ることが多いため)ものの、民事裁判や裁判一般については基本的な知識に欠けることが多いのは、日弁連広報室時代(って、ずいぶん昔。1989~1993年)に身に沁みましたが、本を書くのならきちんと勉強して書いてほしい。
 刑事事件では、どちらも裁判員裁判の量刑を高裁が覆し最高裁が高裁の判断を追認したケースを取り上げています。マスコミの多くが、裁判員裁判の尊重を主張し、職業裁判官がそれを覆すことに批判的で、著者も同様の書きぶりです。「市民感覚」というけれども、長い陪審制の歴史を持つアメリカでも市民による陪審が判断するのは有罪・無罪だけで有罪の場合の量刑は職業裁判官が決定しています。この本でも「世界で唯一、日本だけが、一般市民に死刑の判断まで迫る制度設計になっているということです」(188ページ)と書いています。本来、一般市民の裁判員に量刑判断をさせることの方に無理があるのではないかということを、そのような制度を取っているのが世界中で日本だけだというのに、まるで論じようとしない態度の方にこそ、私は大きな疑問を持ちます。

06.超訳 哲学者図鑑 富増章成 かんき出版
 歴史上の有名な哲学者(著者の言葉によれば「ビッグな思想家」)60人の思想のポイントを各4ページで解説するという哲学入門書( For Beginners )。
 著者は、巻末の著者紹介によれば、河合塾その他の大手予備校で「日本史」「倫理」を担当する「鉄人講師」。目次( Contents )といいますか、取り上げた哲学者60人のリストを見て、まず感じることは、偉大な哲学者には、日本人はいないんだということ。「倫理」だけじゃなくて「日本史」も専門の著者がリストアップしてそうなのだから、歴史上、日本の哲学者には見るべきものがいないということなんでしょうね。
 私は、哲学は、どちらかというと苦手領域なので、哲学者のことはあまり知りませんが、この本で目についたのは、キケロ(古代ギリシャ)の項目で、「年をとればとるほど人生は楽しくなる」「老人は高度な仕事ができる」「いままでの思い出が多いのも老境の楽しみの1つ」などとされていること(32~35ページ)。それに共感するのは、私が年を取った証拠でしょうけど、これから先の人生を楽しむためにも、かみしめておきたい言葉です。
 他方、因果関係(例えばボールを投げると飛んでいくという原因と結果)は繰り返された経験による思い込みで信じられているだけで因果法則がどこかにあるわけではないというヒューム(イギリス)の項目(90~93ページ)は、日頃から因果関係、経験則をベースに業務(論証、裁判官等の説得)を行っている身には、驚天動地です。
 ハンナ・アーレントの項目では「現代の人間は思想に興味がありません。『思想なんて意味がない』『考えても仕方がない』という態度で、楽しいことだけを求めています。このようになにも考えない人たちが増えてくると、いつの間にか善悪がわからなくなってきます。すると、ヒトラーのような独裁者が出現するのです。」とされています(228ページ)。なるほど、昨今の情勢を見ると、哲学/思想を学ばなきゃ、ですね。

05.数学を使えばうまくいく アート、デザインから投資まで数学でわかる100のこと ジョン・D・バロウ 青土社
 音楽や美術、文学その他の芸術・技術等において、数学が大きな役割を果たし、また果たしうるということについて論じた本。
 広範な分野について、数学的な検討がなされ、意表を突かれるというか、感心するというタイプの本です。
 しかし、それほど数式が羅列される場面はないとはいえ、論じられる数学的な議論を、きちんと検証する、正しいと納得できるまで読み込むことは、通常の読者には困難です。著者の議論/主張が、数学的に正しいかについては、本来はそれぞれの主張をていねいに追ってみる必要があるのでしょうけれども。
 例えば、正三角形の各頂点から各辺を半径とする円弧を描いた、要するに各辺を円弧で膨らませた形の「ルーロー三角形」と円の関係、実質的/技術的には両者を断面とする金属製のふたを製造する場合に必要な材料の量を論じているところで、「正三角形の一片の長さ、すなわち円弧の半径にして一定になる幅が w の場合、ルーロー三角形が囲む面積は 1/2 (π-√3) w2 となる。幅 w の円盤だったら、その面積はもっと小さい 1/4πw2 となっただろう。このことから、一定の幅の蓋を作る必要がある場合、π-√3=1.41 のほうが 1/4π=0.785 よりも大きいため、断面が円形ではなくルーロー三角形をした蓋を使ったほうが材料の無駄を少なくすることができる。」と書かれています(64ページ)。いや、これ、いくらなんでもおかしいでしょう。普通に考えて「幅 w の円盤だったら、その面積はもっと大きい 1/4πw2 となっただろう。このことから、一定の幅の蓋を作る必要がある場合、1/2 (π-√3) =0.705 のほうが 1/4π=0.785 よりも小さいため」のはず。こういうのを見つけてしまうと、その数学的考察の正確性をどこまで信じてよいのか、不安になります。
 一つの記事の中にどれだけの誤植があるかを、2人の校正者に別々に校正をさせた結果から(統計的に)推定するという議論で、校正で見落とされている間違いの数は、1人目の校正者だけが見つけた間違いの数と2人目の校正者だけが見つけた間違いの数を掛け、それを2人ともが見つけた間違いの数で割ったものとなると論じています(208~209ページ)。これも、説明と数式を追っている分には、ほぉーっと思うのですが、おそらくその推定を利用するためには2人の校正者の能力と誠実さを前提にする必要があり(2人とも無能か怠惰だった場合、現実には大量の間違いを見落としていても、2人とも自分だけが見つける間違いは多くないため、推定は過少評価になると考えられる)、さらに現実には見つけやすい間違いと見つけにくい間違いがあるはずで、見つけにくい間違いは2人とも見つけられない可能性が高くなるので、現実には見つけにくいタイプの間違いの推定が過少評価になりやすいという欠陥を抱えているように、私には感じられました。
 後者で前提にされる「独立性」は曲者で、理論的にあるいは説明を受ける分には独立の事象と見えるものが現実には独立でないことがままあります。原発の大事故の確率は、さまざまな「独立」の事象の確率を掛け合わせることで、とても小さく計算されます。しかし、現実には独立している別々の機器が火事や地震で一気に故障したりしますし、検査や補修はいくつかの機能を不作動状態にして行いますのでそこに作業ミスが重なると予想外の機器不作動が同時に生じたりします。故障で運転状態がおかしくなることで運転員・作業員が動揺して通常なら考えにくいミスをするということもあり得ます。「独立」の事象を前提とする数学的考察は、原発事故の確率を現実より小さく見せるという役割を発揮してきました。数学的考察は、便利でまた説得力を持ちやすいものですが、そういった疑いの目/批判的検討が不可欠でもあります。

04.傑作浮世絵コレクション 歌川広重 日本の原風景を描いた俊才絵師 河出書房新社
 「東海道五拾三次」や「木曾海道六十九次」(山地を貫く道がなぜ「海道」なんでしょう…)などで有名な広重の浮世絵を紹介し解説した本。
 日ごろ、断片的に、特に有名な絵しか見ない広重の浮世絵をまとめて見て比べると、いろいろ思うところがありました。
 改めて見ると、現在とは使える画材(染料・色素)が違うためでしょう、色合い、色の組み合わせが現代のものとは相当違うのですが、それがまた味わい深く、しゃれた感じがします。「東海道五拾三次」の「神奈川・台之景」「戸塚・元町別道」の茶色、黄色、灰色の家並み(宿屋)、その柔らかな色彩とは合わないように思える黒(暗緑色)の樹々、藍色の海/空の意外に美しい組み合わせなど、感心します。
 広重が、何度も描いた東海道五拾三次を比べると、見慣れているせいかもしれませんが、やはり保永堂版が一番完成度が高いと感じます。
 広重の版画は、風景画が多いのですが、その風景画も、その中にほとんどの絵で漫画のような人が書き込まれていて、その人(旅人や宿場の人たち)の様子が絵の味わいを深めていることがわかります。
 「双筆五十三次」という広重と三代歌川豊国(歌川国貞)の合作のシリーズがあるのは、初めて知りました。美術作品としては中途半端にも思えますが、なんだかおもしろく飾り物としてはいいセンスのように思いました。

02.03.怒り 上下 吉田修一 中央公論新社
 八王子郊外の新興住宅地で発生した壁に血で「怒り」の文字が残された夫婦惨殺事件の容疑者山神一也が逃走潜伏し続け、それを追う刑事たち、手配写真と似た特徴を持つ出自不明の若者の周りで殺人犯ではないかという疑いを持ちながらその正体不明の若者とかかわる千葉/東京/沖縄の人々を描く小説。
 体裁は、殺人事件の捜査を軸としたミステリーですが、ミステリーとして読むよりも、自らと関係がない事件とその報道を契機に身近な者を疑い、信じきれないことに憔悴しやりきれなく思い後悔する心情、自分をそのままに信じ受け入れてもらえない者の悲しみといった人間の情を読む作品だと思います。出自/過去/その他の事情を隠し、また自己の内心を語らないまま、すべてを信じ受け入れてくれないと、嘆くのは、甘えではないか、それを丸ごと受け入れなければ親として(洋平の場合)、恋人として(優馬、北見の場合)関係を維持できないというのでは浮かばれない/やってられないという思いもありますが。
 まったく落ち度のない夫婦が惨殺され、その殺人事件の真相も明らかにならないという設定で体感治安の悪化を印象付け、沖縄では自分が経営する民宿で基地問題を語り那覇にデモに行く辰也の父を客が聞き飽きて逃げ出し息子の辰也に疎ましがられる存在として描き、辰也にそんなことをしても変わらないと言わせ、米兵のレイプ被害を受けた女子高生泉には告訴しない「私はそんなに強くない」と言わせる。沖縄の運動に冷ややかな視線を送り、闘わない者の闘わない理由の方に同調のサインを送る、なんかいやらしさを感じるなぁと思ったら、読売新聞朝刊の連載小説だそうな。掲載媒体への媚でしょうか。

01.1%の力 鎌田實 河出文庫
 諏訪中央病院の名誉院長で、日本チェルノブイリ連帯基金理事長、日本・イラク・メディカルネットワーク代表の著者が、人生・生き方をより良い方向にちょっとだけ/ちょっとずつ「1%」変えてみよう/踏み出そう、例えば1%相手の身になってみる、他人のために生きる、そういったことを勧めるエッセイ。
 とりあえずの目標を小さく設定することで始めやすくする、徐々に目標を上げていって持続させる、そういうことを狙って、その象徴として「1%」というキーワードが使われています。読んでいて、何がどう「1%」なのかは、よくわかりませんし、数字にする意味があるのかもあまり必然性を感じず、「1%」という言葉にこだわるとむしろ違和感を持ち、居心地が悪く思えます。
 著者自身の経験で子どものころ、近所のおばさんのうちでごちそうになると「何を食べてもおいしかった。僕の家で食べる父がつくってくれるご飯に比べれば、すべて食べたことがないほどおいしいものばかりです」「ぼくは貧乏だったのでご飯に弱いんです。ご飯に誘われると断れません」(20~21ページ)というエピソードは、切なくもほほえましいし、「人生は、半分は錯覚と誤解でできています。自分は運がいい、と思い込むことが運のいい人になるための大原則」(26ページ)は至言だと思います。イラクの病院で貧しい白血病の少女を院内学級の助手として雇うことでその少女の再発を監視し防ぐとともに、白血病患者が助手として登場したことでそれまで白血病になったら死ぬと思っていた患者の親たちが治るかもしれないと希望を持つようになって、院内の雰囲気が変わり治療成績も改善したという話(83~90ページ)は心温まります。
 どちらかというと、「1%」にあまりかかわらないところで、感じさせるところのある本かなと思いました。

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