私の読書日記 2019年11月
06.小説 君の名は。 新海誠 角川文庫
アニメ映画「君の名は。」の制作と並行して書かれた小説だそうで、映画と小説のどちらが原作といえるかは微妙なところだと本人があとがきで書いています(254ページ)。
映画を見たときにも思ったのですが、前半で、山間部の集落糸守で神社の巫女の家系に生まれた女子高生宮水三葉と東京の男子高生立花瀧が入れ替わりを繰り返す過程で、瀧がこだわり続け、入れ替わる度に繰り返した胸を揉むこと(14~15ページ、85ページ、155ページ、200ページ)。女の体に入り込んだ男が好奇心から胸を揉みたくなる、それはよくわかる(現実に入れ替わったらどうなるのか、どういう感じなのか、もちろんわからないわけですけど)。でも、私が理解できなかったのは、瀧がいつまで経っても、何回繰り返しても、胸を揉む側の視点でいること。「見る」という行為は、基本的に見る側の意識が圧倒すると思うのですが、「揉む=触る」という行為は、自分で自分の体を触ったとき、触る側の触覚と触られる側の触覚がともにあり、むしろ触られる側の触覚の方が脳に強く感じられるように思えます。自分で自分の胸を揉むと、瀧の脳に、自分が胸を揉む感触と自分が胸を揉まれる感触がともに伝わり、揉まれる側の感触が否応なく意識されると思うのですが、女は胸を揉まれるとこういうふうに感じるんだという感想が、瀧から語られることは最後までありません。もちろん、現実にはあり得ないことを論じてもしかたないのですが、もしそういうことがあれば私なら第1に知りたいと思う女の側ではどういうふうに感じているのかに関心を持たず、さらには否応なく感じるはずのことさえ意識に上らない、そういう瀧の感受性の信じがたいほどの鈍さが、せっかく瀧に入り込んだ三葉が糸口を見つけてくれた奥寺先輩との関係を作れなかった原因なのでしょう。
確かに「スマートフォン」の略が「スマホ」になるのは論理的ではないですが、今なお「スマフォ」と書き続けるこだわりも、若干、読み味の足を引っ張ります。
05.ラストレター 岩井俊二 文藝春秋
中学時代、転校早々にサッカー部のセンターフォワードを任されて県大会優勝に導いたスーパーアイドルだった乙坂鏡史郎が、恋した生徒会長遠野未咲の卒業式の答辞作成を手伝った際に未咲から小説家になれるよと言われてその気になって書いた小説「未咲」で新人賞を受賞し、その後20年間ろくな作品も書けずに作家もどきのフリーターを続けていたところに、中学の卒業30周年同窓会があり、未咲に会えるかと出席したが、未咲の代わりに鏡史郎を慕っていたサッカー部のマネージャーだった妹の裕里が出席して未咲になりすまして挨拶したのに驚きつつ、未咲本人に会うことを狙って、裕里に対して未咲宛のメッセージを立て続けに送りつけるという展開を見せる偏執的色彩の恋愛小説。
自分を慕っている裕里に姉の未咲宛のラブレターを届けさせた中学時代、また同窓会に未咲になりすまして出席した裕里に未咲宛の「君にまだずっと恋してるって言ったら信じますか?」「まだずっと君に恋してます」というメールを送りつける現在(たぶん45歳)の、若さ故の残酷と中年になっての偏執を描くメインストーリーと、大学時代に交際した未咲を別の男に奪われ「未咲」でその男を悪者にしたものの落ちぶれたその男の現在を見てさえかなわないことを思い知らされた挫折感を描くサブストーリーが見られるのですが、そのサブストーリー部分はどうもとってつけた感があり、しっくり来ません。大学時代に未咲と交際するに至った経緯、交際中のエピソード、奪われた経緯がほとんど描写されないのが、どのような意図によるものかはわかりませんが、その現実感を大きく損ねています。大学時代に交際した相手の女性を今も慕い続けているという作品で、どうして現在脳裏に浮かぶエピソードがすべて一方的に思いを寄せていた中学時代のことなのか、何故思いが叶い交際できたときや、交際中の甘い楽しい想い出が先立たないのか、とても理解できません。交際していた大学時代の未咲にはいい想い出がないのなら、大学時代の現実の未咲よりも一方的に憧れていた中学時代の未咲のイメージの方がいいなら、つまり自分に都合よく美化した過去のイメージを好み固執しているなら、現在の未咲に会ってどうするつもりだったのでしょうか。
恋に落ちた男の視野狭窄ぶり、中年になっても(さらには壮年・老年でも)他のことが見えなくなりこれほどまでに愚かしいまねをするかということを見せる作品なのだろうと思いますが、大学時代に未咲と交際していたという設定を消化できずにどこか空中分解したような印象を持ちました。
04.わたしを離さないで カズオ・イシグロ 早川文庫
臓器移植を要する者たちに臓器を提供するためにクローン技術により生み出され、寄宿舎「ヘールシャム」で育てられた幼なじみの3人、キャシー・H、トミー、ルースの友情、行き違い、思慕や嫉妬、定められた将来への不安と諦め、葛藤、抵抗などを描いた小説。
臓器提供とクローン技術をめぐる倫理、命の公平性に関する問題を提起したものとも考えられますが、どちらかといえば、自らの体と命を他者のために「提供」することを義務づけられ、社会から隔離して育てられたという条件の下で、人は何を感じ、どのように生きて行こうとするものなのかという思考実験的な作品のように感じられました。キャシーたちが、自らを待つ不条理で過酷な未来に心を揺らせながらも破壊的にも破滅的にもならずに、しかし葛藤を持ち策を弄してわずかながらの逃避を試み挫折する様子に、哀しさと、キャシーたちにそうした運命を押しつけた者たち:臓器移植を求める金持ちたちへの怒りを感じます。「ヘールシャム」という、相対的に恵まれた、キャシーたちクローンを比較的優しく遇した施設を描くことで、目の当たりにする悲惨さを抑え、キャシーたちの人間らしい感情とその切なさを読ませながら、より待遇の悪い施設にいるクローンはいったいどうなるだろうということに思いをはせさせることになり、読者により深く増幅した感情を持たせる巧みな手法が採られているのだなと思いました。
この種の作品では、通常は近未来に設定されるのですが、この作品(2005年発表)では、キャシーたちが成人した冒頭を「1990年代末、イギリス」と近過去に設定しています。あり得たかも知れない社会の選択、さらにいえば「ヘールシャム」があまりにも人道的に思える臓器移植のための人身売買、現実社会で横行する特定のグループを人と思わない激しい差別など、未来の空想ではなく、考えなければならない問題はそこここに実在している、ということをも示唆しているのかも知れません。
2017年10月、多田謡子反権力人権賞の選考会議を終えて戻る途中、新橋駅前広場で、「石黒一雄さんが、ノーベル文学賞を受賞しました。ご存じですか」と、いきなりマイクを向けられました。私は、「ええと…『わたしを離さないで』の人ですか?」と答え、レポーターが興奮気味に「それです。どんな話か覚えていますか」と聞くので、「確か、臓器移植のために造られたクローン人間たちの悲哀みたいな作品だったと思いますが…」と答えたところ、「知ってる人がいた」といって、テレビ・クルーが呼び寄せられました。「ごめんなさい。映画は観たけど、原作は読んでません」といったのですが、声をかけた中にカズオ・イシグロを知っていた人がほとんどいなかったようで、それでもいいからとしばらく質問攻めにされました。ニュースの類いでその映像が採用されたのかどうかは、確認していませんが。その時点で、カズオ・イシグロの作品はまったく読んでいなくて、ノーベル文学賞受賞後も読んでいなかったのですが、どこかで読んでみないとと思っていたところで、図書館でたまたま目についたので読んでみたという経緯です。作者は日本生まれの日系人ではありますが、英語で書かれた作品で、日本語訳も別人が行っているものですので、文学作品としては、あくまでも日本文学ということはできないと思いますし、作品のタッチもイギリス文学だと思います。日系人の、あるいは日本人のノーベル文学賞受賞という枠組みで騒ぎ立てることには違和感を感じました。
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03.ハリー・ポッターと呪いの子 J.K.ローリング、ジョン・ティファニー、ジャック・ソーン 静山社
ハリー・ポッターシリーズ7巻終了後のハリー・ポッターに反抗する次男アルバス・セブルス・ポッターの冒険を描いた舞台脚本。
「ハリー・ポッターと死の秘宝」のラストシーンから物語が始まり、11歳になってホグワーツに入学するアルバス・セブルス・ポッターが、あろうことか、ドラコ・マルフォイの子スコーピウス・マルフォイと親友になりスリザリンに組み分けされます。息子の言動に心を痛めるハリーとハリーに反感を持つアルバスの親子関係を描きつつ、アルバスがハリーのせいで息子が殺されたと恨みを持つ老人エイモス・ディゴリーに触発され、逆転時計(タイムターナー)を奪って歴史を変えるために「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の三校対抗試合に潜入してセドリックを妨害したことから歴史が変わって大混乱にという展開を見せます。ハリー・ポッターファンには、シリーズの振り返り(主として「ハリー・ポッターと賢者の石」と「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」ですが)と、ここでの「たられば」で結末がこうも変わるのか、三校対抗試合が重大なターニングポイントだったのかという気づきとわくわく感があり、幸福な付録になっています。しかし、演劇用の脚本という性格上、ビジュアルを意識した展開で、どうしても小説のようなディテールの積み上げがなく、また見せ場が「炎のゴブレット」の三校対抗試合ということもあってかアルバスの第4学年でことが起こる設定のため序盤となるアルバス(とスコーピウス)のホグワーツでの3年間がスカスカで、小説としてのシリーズの読後のような満足感は得られません。小説としてのシリーズの続編というよりは、映画の続編/スピン・オフ作品と位置づけて読むべきでしょう。
01.02.危険な弁護士 上下 ジョン・グリシャム 新潮文庫
誰も弁護したがらない嫌われ者を弁護し(誰も見つからなければセバスチャン・ラッドに電話をかけろ。あいつなら、どんなやつでも弁護するぞ!:上巻17ページ)、多くの者から命を狙われ脅迫され、抗弾性能のあるスモークガラスで守られたカーゴヴァンを事務所とする弁護士セバスチャン・ラッドが、さまざまな事件をこなし巻き込まれるリーガル・サスペンス。上下巻各3章ずつの6章で構成されていて、最初の3章はまったく独立のストーリーのため、上巻を読み終わって下巻の第4章に入ったあたりでもなおこれは短編連作かと思い続けます。ついにグリシャムも長編が書けなくなったのか、上巻の裏表紙のサマリーなんて見ているとまるでリンカーン弁護士から設定を借りたみたいだし…(グリシャムもそれは意識していて、下巻の冒頭で、セバスチャン・ラッドに時間ができたときは「マイクル・コナリーの新作を読む」のが楽しみだと言わせています:下巻9ページ)。下巻に入って、上巻の登場人物やエピソードの一部が絡んできてつながっていくようにはなっていますが、全体の一体感にまでは至らないように思えます。グリシャムはそういうところ、もっと巧かったように思うのですが。
検察官や警察が、失敗(真犯人ではないものを起訴してしまい、また何ら落ち度もないものを殺傷してしまう)を犯してそれを隠蔽するために、証拠・証言を捏造していく様を繰り返し描き、糾弾し、おそらくはグリシャム史上最も反権力的な色彩の作品となっています。嫌われ者を弁護する故に「善良な」市民から嫌われていますが、弁護士の目からは、弁護士のあり方からすれば、理念的には理想に近くしかし現実的には誰も真似ができない、「孤高」という言葉が似合う弁護士を主人公とし、それを
"Rogue Lawyer " と名付けたグリシャムは、むしろ若々しい正義感に燃えているようにさえ見えます。グリシャムが、9.11以降の、アメリカ社会の変容に反発し警鐘を鳴らす意思であることは明白ですから、この
" Rogue Lawyer " は、やはり「ならず者弁護士」と訳して欲しいところです。訳者は、本文では「無頼の弁護士」とし、タイトルは「危険な弁護士」とされているのは、セバスチャン・ラッドが、悪者ではないという思いからなんでしょうけど。
第6章で、弁護士の目からは判決では勝てないことが明らかなのに、勝てるという幻想を持ち、弁護士が努力して通常であれば到底望めないほどの有利な和解案(有罪答弁取引)を勝ち取ったのを拒否する依頼者が登場します。ここ、弁護士には切実というか、そういうやつがいるんだよね、本当に困ったことだけどと実感するエピソードです。
上巻の10ページで、「わたしの依頼人たちは、ほぼ例外なく有罪だ」「しかしこの裁判の場合、被告人ガーディーは有罪ではない」とされているのは、(たぶん、原文は "guilty " なんでしょうけど)「有罪」ではなく「犯人」とか「犯罪者」と訳して欲しいところです。「有罪」という訳では、セバスチャン・ラッドが裁判で負け続けている腕の悪い弁護士だということにもなってしまいます(「犯人」「犯罪者」と訳せば、実際には犯罪を犯した者について無罪判決を勝ち取る腕のいい弁護士ということになるでしょう。現実にはそんなことはほぼあり得ないというかとても難しいでしょうけど)。
※ 読書日記は、2017年半ば頃までは、原則として読んだ本全部について何か書く/書くよう努力するという方針でやってきましたが、現在は、これは書いておこうと思ったときだけ書くことにしています。
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