庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2020年12月

16.見た目レシピいかがですか? 椰月美智子 PHP研究所
 イメージコンサルタント御手洗繭子のコンサルティングを受けて娘や夫から好評を得て前向きに生き始めた専業主婦の純代、繭子のコンサルティングを受けさせて男ぶりが上がった夫が浮気を再開したのを見て自分も良心の呵責を感じることなく再会した高校の同級生と浮気に走るアパレルメーカー販売計画部副部長のあかね、憧れのバンドのリーダーと交際することになり繭子のコンサルティングを受けてイメチェンを図るヘヴィメタファンの美波、素直じゃないやっかいな客のコンサルティングをする繭子の4つのエピソードの短編連作。
 短編連作にする場合、第1話の純代が紹介してコンサルティングを受けさせたママ友のかすみ、杏子、薫を順に語り手にして、純代から見た話とは違う側面を語らせるというのが、常套手段ですが、4話に共通して登場するのは繭子だけで、別々の話になっています。イメージコンサルティングを素直に受け入れる客、自信を持ちすぎたりして問題行動を起こす客、周りからは褒められるがそれに違和感を持つ客、素直になれない斜に構えた客など、様々な客の様子を描きたかったのかなと思います。
 48歳(高校卒業30年)で自分も夫も浮気しているあかねが、独身の同級生千佳子から夫とのセックスについて聞かれ、「ふつう」「レスではない」と答えたあと、どのくらいの頻度でと聞かれて「週1くらい」と答えたときの千佳子の反応。「週1いぃぃぃ!?」「この歳でそんなにやってんの、日本であんたたちぐらいよ」(99ページ)って…えっ…そういうもんですか…

15.アンジュと頭獅王 吉田修一 小学館
 童話「安寿と厨子王」を厨子王の逃亡ないしは復讐のための旅程を現代まで800年余に延長し、源氏物語なども入れて変形した童話。
 もともと過酷な運命を強調したフィクションですが、厨子王の放浪ないし逃亡を現代に至る800年余とすることで非現実性がより明白になり、むしろパロディ化されて悲しみを感じにくくなっているように思えます。過剰な表現が、一定の程度までは読者の感情を揺さぶるのに効果があっても、度を超すと白けるということを実感させたいのでしょうか。私には今ひとつ作った意図が理解できませんでした。
 アンジュは生き返らせながら、乳母うわたきはどうなったかわからず、作者に見放されています。命を失っても身分が低い故に顧みられないうわたきの運命にむしろ同情してしまいました。

14.マリーナの三十番目の恋 ウラジーミル・ソローキン 河出書房新社
 ゴルバチョフ登場前のアンドロポフ政権下のソ連において反体制派に共感を持ち反体制派と友好関係を持ちながら奔放な性生活を送り多数の女性と肉体関係を持ち男性とのセックスではオーガズムを得られないでいたピアノ教師マリーナが、ソルジェニーツィンに似た共産党エリートとのセックスで初めてオーガズムに達し、工場労働に目覚めて模範的な労働者となり共産党の言説に共鳴していくという、官能小説に見せかけた反体制派カリカチュアライズ小説。
 体制側のプロパガンダと言えるかについては、ソ連内での公表がソ連崩壊後ということもあり、体制側をも戯画化していると読まれた可能性もあるため、違うのかも知れません。体制側も反体制派もともにからかっているのかも知れませんが、少なくとも反体制派を貶めようとする作品であることは間違いないでしょう。
 小説としては、エピソードのつながりがわかりにくく、最後はもう演説で放り出していて、実験的なものと言え、読んで楽しいものではありません。これを誉め讃えるセンス、今これを日本語訳して出版するセンスは、私には理解できませんでした。

13.図解でよくわかる 土壌診断のきほん 一般財団法人日本土壌協会監修 誠文堂新光社
 土壌の分類・特徴と農耕地としての適性、その判定、土壌改良等について解説した本。
 粘土が多い埴土では保水性が高いが固く締まり根が張りにくく、砂が多い砂土では水はけがよく保水性が低く肥料成分も保持供給されにくい。そう考えると農耕に適した土壌というのはどうやってできるかというと、粘土や腐植などの土壌粒子が、有機物が分解される際に分泌される粘着物や鉄やアルミニウムの化合物を接着剤として結合した微小団粒が、さらにカビの菌糸や根からの分泌物により集合体となってより大きな団粒を形成した団粒構造が必要なんだそうです(16~17ページ)。単に岩が破砕・風化して砂、さらに粘土化するというだけでは「土」「土壌」にはならず、生物の関与があって土壌化していくというプロセスを見ると、土、土壌というものには、それ自体、希少価値があるのですね。
 さらに、pHや土壌中の養分の分布等によって、栽培に適した作物が変わり、また収量も左右されるということで、そういう話がわりと細かく(業界の人にとってはこの程度の記述は大雑把なものなんでしょうけど)書かれています。農業って、とりあえず土地があれば、適当に好きなものを植えればできるってわけじゃないことがわかりました。

12.ラファエロ ルネサンスの天才芸術家 深田麻里亜 中公新書
 ルネサンスの巨人ラファエロ・サンツィオの生涯と絵画等について解説した本。ラファエロ没後500年に合わせて出版されたもの。
 私にとって、ラファエロは、他の絵はさておいて、絵画に描かれたもっともチャーミングな女性(単に私の好み、なんですが)「サン・シストの聖母」(この本では、「シストの聖母(マドンナ・システィーナ)」と表記されています)の作者として、記憶されています。したがって、「サン・シストの聖母」についての詳細の記述を期待したのですが、そこはあっさりしていて、ちょっと残念でした。
 同時代の美術史家ジョルジョ・ヴァザーリによれば、「ラファエロは女好きで『愛の悦楽に事欠かなかった』という」(147ページ)、「ヴェールの女性」と通称される肖像画のモデルの女性の容貌が、「シストの聖母」の聖母の顔に似ている(147~149ページ)とか…本当かどうかは検証されていないけれども、やはり愛人だから、あんなに魅力的に描けたのかと考えると納得ですね。

11.事実認定の基礎[改訂版] 裁判官による事実判断の構造 伊藤滋夫 有斐閣
 元東京高裁部総括判事、元司法研修所教官である著者が、裁判官が行う事実認定の際の判断構造に関して論じた本。
 テーマ、タイトル、サブタイトルからして、民事裁判での事実の主張立証を仕事としている身には必読書とも思え、実際興味深く読みました。第3章の証拠から事実を認定する判断の構造(27~70ページ)での書証と、さらに証言についての説明は、長く民事裁判実務を行っている者にはごく常識的な内容ですが、改めて整理されているのを読むとやはり勉強になります。その中で、長く民事裁判官として執務してきた著者が、「一見不合理とも思われる証言の信用性」などの記載をして、「ときに、人間は不合理とも思われる行動をすることもあるので、そうした点をも念頭に置いて、諸般の事情を総合的に考慮しなければならない。」(57ページ)等と度々戒めているのが印象的でした。実際の裁判で、そのことがどれくらい検討されているか、一見不合理な証言を信用/採用してくれることがどれくらいあるのかというと、それは、あまり期待できないと思いますが。
 この本の7割以上を占める第4章以降は、事実認定をめぐる方法論や思考方法に関する学説的な説明と他の論者の説に対する批判等が多くなり、また証拠からの事実認定よりも証拠により認定されるべき事実の範囲・選択、事実と評価の区分等の論理的な話が多くなり、証拠をどのように評価して事実を認定するかという点からは離れていく感じになります。それも裁判官の思考パターン、判断に至る過程の話ではありますから、弁護士にとっては、それでも直興味深いところではありますが、タイトル、サブタイトルから裁判官の証拠や証言の評価に関心を持って読み始めた業界外の読者には、最後まで読み通すのは困難だろうと思います。

10.再起は何度でもできる 中山雅史 PHP研究所
 53歳にして現役サッカー選手を続ける(ただし2012年11月24日以後は公式戦出場なし:リハビリ中)著者が、サッカー人生、ドーハの悲劇、フランスワールドカップ、日韓ワールドカップ、現役引退と復帰、怪我とリハビリなどについて語った本。
 タイトルは現役引退後に復帰し、リハビリを続けて公式戦出場を模索中の著者の意気込みも含めて付けたもののようで、内容は、著者のこれまでと今後というような感じです。
 プロとして、高いパフォーマンスを示すには、ある場面では体力の温存を図る必要があるわけですが、そこで「逆算思考でプレーをシンプルにしていく判断は、やり続けて回数を重ねてこそできること。若い選手はとにかく惜しまずに『やる』ことが大事。最初からそれを怠っていたら、成長はない。」(66ページ)というのは、なるほどと思います。サッカーだけじゃなくて、他の仕事、私たちのようなある意味で切りがない仕事でどこまでやるか、どこで見切るかということにも当てはまりそうです。
 落ち込んだときに気持ちをスッキリさせる方法として、自分をカッコいいと思い込むことを推奨しています。「リハビリ中には、ちょっと痛みがあるだけで不機嫌になったり、効果がなかなか現れなくて筋トレをやる気が失せたりすることもある。でも、黙々とリハビリトレーニングをしているところを人が見たら、『ケガと闘ってる中山、カッコいい!』と思うんじゃないかな-。そんなふうに勝手に思い込むと、『よ-し!じゃあやるかぁ』と筋トレに向かっていくことができた。そして、鏡に映る自分を見つめ、弱い自分に打ち克つ自分を想像する」(142~143ページ)。やはり、ポジティブシンキングだ、この人は。

09.ロマンシェ 原田マハ 小学館文庫
 与党役員の父を持ち幹事長の娘との見合いを勧めらて逃げ惑うイケメンながら恋愛対象は男子の美大生遠明寺美智之輔が、同級生の高瀬への恋心を秘めつつパリに留学し、愛読する小説「暴れ鮫」シリーズの作者羽生光晴が近隣のリトグラフ工房に匿われていることに関わりを持ち、リトグラフに目覚めていくという青春小説。
 主人公の性癖はさておいて、経済的にも容姿的にも恵まれながらさしたる努力もせずに不満ばかり言っている主人公の姿勢になじめず、今どきあんまりと思えるほどにカリカチュアライズされたオネエ言葉のぶりっこスタイルのゲイ(というより「オカマ」)表現にも違和感を覚えました。主人公以外のキャラは概ねフランクで捌けた感じでふつうに受け容れられるのに、主人公を浮かせすぎているのが読みにくく感じました。
 終盤のキーワードとなっている「君が叫んだその場所こそがほんとの世界の真ん中なのだ」…私と同世代(私より2歳若い)の作者にして、セカチューは本歌取りすべき古典なのかと、妙な感慨を持ちました。

08.豆の上で眠る 湊かなえ 新潮文庫
 広島県内らしき「三豊市中林町」(香川県に「三豊市」が実在するのですが、三豊は新神戸からこだまで2時間の新幹線停車駅とされているので…)の新興住宅地に居住していた小学1年生の時に2つ年上の姉が行方不明になり2年後に戻ってきたが、その後戻ってきたのが本当に姉なのかに疑問を持ち続ける主人公が、大学2年生の夏に母の入院を聞いて帰郷した際に、姉の失踪事件を回想し、久しぶりに会う/会うのを回避しているような家族の様子に改めて疑念を生じて真相に迫ろうとするというミステリー。
 ミステリーで上のように書いていいのか、本来ならば迷うところのはずですが、小学1年生の時に姉が失踪した事件があり現在は大学生の姉が実家から大学に通っていること、三豊駅前でその姉とかつて姉にあった右目の横の特徴のある傷を持つ連れの女性を見かけたこと、姉に疑い/アンデルセン童話の「えんどうまめの上にねたおひめさま」の蒲団越しの豆粒のようなかすかな違和感を持ち続けていることが冒頭で明かされ、このミステリーが姉の失踪事件と戻ってきた姉の正体をめぐるものという構図が明示されています。
 この最初から示された謎の解明に向けて長編を読ませていく筆力はさすがだと思いますが、最初に枠組みを示されて向かうべきポイントが見えている状態でページ数の約7割を失踪事件から帰還までに費やすのはバランスが悪いように思えます。
 謎解き以外では、妹側から見た姉への心情の描写が読みどころとなります。

07.誰にも言えない夫婦の悩み相談室 小野美世 WAVE出版
 「性の悩みへの優しい答えと負けるが花」というブログを書き続け、パートナーシップと性のカウンセラーを自認する著者が、自分自身の経験とカウンセリングでの経験から、女性に対して、男性と闘う、批判する、不満を言うのではなく、相手をコントルールしようと思わずに武器を捨てて丸腰の姿勢で自分の本当の気持ちを素直に伝えることを勧め、それで相手が思い通りに動かなくてもそこから後は相手に任せるという姿勢を取る(負けるが花)ことを勧める本。
 専ら女性に、闘いを放棄して相手に委ねることを勧めることは、ステレオタイプの男女・夫婦関係を維持・強化する方向性を持ちます。昔ながらの「亭主操縦法」にも見えます。繰り返される「やわらかくて、ふわふわしていて、その美しさに周りが影響されるもの。それが男性から見た女性だよ」という「教え」、イメージ(84ページなど)も、どうかなという気がします。
 男性はこういうもの、女性はこういうもの、だからこうすればという考えには疑問を持ちますが、「夫は妻がご機嫌でいてくれるとほっとする」「私が朝、イライラしながら、不機嫌さをまき散らしてお弁当を作るくらいなら、お弁当はなくてもいい」「夫が帰宅したとき、家の中はきちんと片付いていて、掃除もできている。でも、妻がイライラしている。自分に攻撃的な態度をとる。話を聞いてくれない。これは夫にとって、幸せではないのです。きれいごとの話ではなく、どうやら本当にそうらしいと、私は学びました」(68~69ページ)という下りは、実感・共感してしまいます。そこは、私もそういう男女観・夫婦観から自由でないということなんでしょうか。

06.犯罪・非行の社会学[補訂版] 常識をとらえなおす視座 岡邊健編 有斐閣ブックス
 犯罪とは何か、人はなぜ犯罪・非行に至るのか、人はなぜ犯罪・非行に至らないのかなどを解明しようとする犯罪社会学について、大学で教科書として使用することを想定して解説した本。
 犯罪社会学が明らかにしたことを実証的に解説してもらえることを期待して読みましたが、著者らの関心はやはり「犯罪社会学」を学ぶ教科書づくりにあるようで、犯罪社会学の流れ・沿革、各学説の内容、議論の紹介が中心となっています。実証的な研究についても、研究成果の実証的な紹介ではなく、研究手法やその学説の特徴、それに対する批判等に目が向けられているように思えます。
 2000年代後半に「厳罰化ポピュリズム」に関する質的・量的双方のアプローチを用いた国際比較調査が蓄積され、その調査結果が、「日本では通常厳罰化の防波堤となるはずの専門家集団が率先して厳罰化を推し進めており」と紹介されている(194ページ)のですが、その一言で終わっていて、調査の内容も調査結果の詳細もまったく書かれていません。一般人はそういうところこそ読みたいと思うのですが、著者の学者さんの関心はそこにはないようです。体感治安についても、日本でも無作為抽出で6000人に対して行われた国際犯罪被害実態調査で治安がよいとする者の比率が一貫して上昇し、悪いとする者の比率が一貫して低下している(216~217ページ)、社会安全研究財団の調査でも回答者は日本全体では治安が悪くなっていると考えながら、居住地ではそうでもないと感じている(229~230ページ)などが記されていて、国民は自分が直接経験的に知覚できるレベルでは治安の悪化を感じていないのに、ただマスコミが治安の悪化を煽るために治安が悪化していると信じ込まされていることがわかりますが、そういう情報も断片的にしか紹介されず、きちんと論じられていないのが残念です。日本の各地で行われているまちづくり活動が行政・警察主導で外部の専門家が入って行われ結局は防犯活動に注目が集まり「安心・安全」を意識させるという議論(242~243ページ)も、社会学者がやるのであれば具体的実証的に論じて欲しいところですが、抽象的観念的な言及にとどまっています。
 犯罪社会学という学問自体に興味があるのならいいのでしょうけれども、犯罪社会学が明らかにした犯罪をめぐる人々の行動や社会のありようの方に興味を持つ読者にとっては、欲求不満が残るように感じました。

05.地下 ある逃亡 トーマス・ベルンハルト 松籟社
 第2次世界大戦終戦から2年後、ザルツブルグのギムナジウム(中等学校)に通っていた16歳の「私」が、ある日、踵を返して反対方向に進み、底辺層が集住するシェルツハウザーフェルト団地の地下にある食料品店の商店見習いとなり、アル中や貧乏人の客たちと接しながら肉体労働に明け暮れた日々を、記者として稼働している25年後に回想する小説。
 前半は、エリートとして「学習工場」であるギムナジウムに通うことになじめず反発して社会の底辺での肉体労働をすることで「役に立つ存在」になったということを、繰り返し、観念的に述べ続けています。新たな出来事がほとんど起こらず、新たな情報がほとんど付け加わらないままに、同じことを少しずつ言い方を変えて繰り返し、繰り返しながら少しずらせていき、しかしまたしても繰り返しに戻るというパターンをこれだけ続けられるのは、ある種の文才なのだと感じました。そのまま終わりまで突っ走るのかと思いきや、後半では、「私」は地下食料品店で働きながら、スタインウェイのグランドピアノを備えた歌の先生の元で歌唱指導を受け音楽に目覚めていきます。前半と後半での生き様をめぐる葛藤や懊悩はまるで見えません。そうすると、エリートとしての人生に反発して底辺での労働を尊ぶような前半の書きぶりは何だったのかと思えます。この作品は作者の言葉の遊び、観念の手慰みなのかとも感じられたのですが、訳者あとがきでの紹介によれば、作者の自伝的な小説なのだそうです。自伝・事実なのであれば、理屈や理念で貫けないし、それで説明もできないということなのでしょう。でも、それならば、より具体的なエピソードを書き、事実で語らせればいいのに、どうしてここまで観念的な書きぶりなのかと思います。
 エリート層、底辺層との間合いの他に、作者=「私」の祖父への敬意と親密感、失望と侮りの落差が目に付きます。思索的と見るにはちょっと振り幅が大きいように感じてしまいますが。
 本文130ページの作品ですが、2パラグラフしかありません。7ページから始まり129ページまで1パラグラフで、そこまで改行がありません。どこまで行っても改行がないので、最後まで改行なしかと思ったら129ページで1か所だけ改行されて第2パラグラフに移行するのですが、この改行の意味も不明です。7ページほどの第2パラグラフは25年後の「現在」ではあるのですが、第1パラグラフでも時折「現在」は登場していて、なぜここでパラグラフを分けたのか作者の意図は私には理解できませんでした。

04.見えない脳損傷MTBI 山口研一郎 岩波ブックレット
 頭部への打撃や、頭部への直接の打撃がなくても頭部が揺さぶられ加速・減速のエネルギーが加えられることにより脳がダメージを受け、事故直後のみならず数日、数週間、人によっては数か月して記憶障害、注意障害(集中できず長続きしない、判断力低下等)、コミュニケーション障害、無気力、脱抑制、疲労感、嗅覚・味覚異常、神経過敏、歩行障害、排泄障害等の症状・障害が生じるという軽度外傷性脳損傷(Mild Traumatic Brain Injury)について、高次脳機能障害診療に取り組んできた医師である著者が解説した本。
 画像診断上顕著な病変が見られず、画像診断の進歩もあり画像診断により器質的病変を確認できるようになっても早期からの継続的な画像診断記録を残しておく必要があり、他方で症状が事故後直ちに生じるとは限らずしばらく経ってから生じることが多々あり、しかもその症状に他覚的所見が見られないとなると、自賠責や裁判での認定のハードルは高く、ほとんど障害と認定されず、障害が認められても事故との因果関係が認められないということになりがちです。頭部への打撃が強度でなく事故時に意識障害がないのに強度の後遺症が生じたと主張されれば、こういった情報に接していなければ、詐病を疑ってしまいます。病像についての研究や診断技術が進んで、より確実な判断ができるようになり、理解が進むといいのですが。
 私たちの世代は、すでに「あしたのジョー」で「パンチ・ドランカー」が記述されていたのに(思えば、少年漫画でけっこう最新の医学知識が紹介されていたのですね)、外傷に至らない、脳が揺さぶられること自体の危険性を深刻に受け止めずに来たのだと、この本で久々に「パンチ・ドランカー」という言葉に触れ(4ページ)、再認識してしまいました。

03.アノニム 原田マハ 角川文庫
 IT長者のアートコレクター、トルコ絨毯商人、花形建築家、画廊経営者、世界屈指の美術品修復家、ラグジュアリーブランドオーナー、サザビーズの花形オークショニア、天才エンジニアらで構成される謎の美術品窃盗団「アノニム」が、香港で行われるオークションのメイン出品作品となっているジャクソン・ポロックの知られざる記念碑的作品「ナンバー・ゼロ」を贋作とすり替えるというミッションに挑むというメインストーリーに、香港で繰り広げられる学生運動/デモにそれまで消極的だった画家志望の難読症の高校生が関わっていくサブストーリーを絡ませた小説。
 豪華メンバーの窃盗団という設定から、オーシャンズ11みたいなサスペンス・アクションを期待しましたが、そちらはあまり追求されず、全体としては初心な高校生の爽やかな青春小説という趣になっていきます。それはそれで悪くないのですが、大仕掛けな設定を用意したのに、もったいないなぁという不完全燃焼感が残ります。

02.患者の話は医師にどう聞こえるのか 診察室のすれ違いを科学する ダニエル・オーフリ みすず書房
 内科医として勤務する著者が、自己の経験と他の患者や医師のインタビュー等を通して医師と患者のコミュニケーションについて論じた本。
 多数の患者を診療しなければならず短時間で患者から多くの情報を得て迅速に判断する必要があり時間に追われる医師が、患者の言葉を遮って自分が聞きたいことだけを聞こうとしたり、医師自身は言葉を尽くしわかりやすく繰り返し説明したつもりでも患者が理解をしていない様子について、著者は医師の立場に立ちながら、あくまでも患者の差し迫った事情を理解する必要があった、患者にしゃべりたいだけしゃべらせても(患者の言葉を遮らなくても)大半の患者はさほど長時間しゃべり続けられない、説明するだけでなくて理解しているか患者に言わせてみる時間を取ればよかったと、自省的に語っています。
 時間の制約と専門知識のギャップからコミュニケーション不足を生じやすい(相談者の話/真実/意図を聞き損ねるリスクがある、相談者がこちらの説明を理解しているように見えて理解していない)ことは、弁護士と相談者・依頼者間でも同様に問題になります。そういう問題意識から、興味深く読みました。もっとも、弁護士の場合(若手は知りませんが)、医師のように電子カルテへの書き込みや診断ツール参照のためにコンピュータに首っ引きになって患者の顔もろくに見ないということはなく、他方で医師の場合わがままな患者や嘘つきの患者に言うままに応じても治療は患者のためになり間違うときも影響を受けるのは患者なのに対し、弁護士の場合身勝手な依頼者の意に沿うようにすると相手方などの周囲に迷惑が及ぶという問題を気にしなければならないという違いがありますが。

01.君がいないと小説は書けない 白石一文 新潮社
 文藝春秋編集者を経て作家デビューした作者と同じ経歴設定の作家野々村保古が知人たちとの過去や消息・近況等を語る体裁の自伝的小説。
 20年来同居している「いちばんの長所は容姿」「若い頃は、それこそハッとするほどの美人だった」(108ページ)「とにもかくにも非常に美しい人だった」(132ページ)「暴力的な美しさ」(141ページ)という事実婚の妻ことりとの関係を一応軸に置きつつ、様々な知人のことを思いつくままに述懐している風情で、どこかとりとめなくエピソードが並んでいて、ある種「徒然草」っぽい印象も持ちます。
 エピソードの中で、実力がありながら家庭の事情でワーカホリックな働き方ができなくなって閑職に甘んじたり退場していった知人の話、それを不正義と憤り会社への不満を語る部分が目に付きます。「この国で出世したいなら、まずは責任感を放棄(無責任能力)し、友人知人、取引先への同情や憐憫、あわれみといった感情を放棄(共感欠如能力)じなくてはならない。組織で出世した人たちは、自分の能力が競争相手に比べ秀でており、そのおかげで厳しい出世レースにおいて勝ち続けてきたからだと思い込みがちだが、それがとんでもない誤解や錯覚であることに早く気づいた方がいい。彼らはレースに勝利したのではなく、多くのまともな競争相手(RさんやLデスクやMさんたち)が責任感やあわれみの感情に従ってレースから降りてしまったがゆえに、かろうじて勝者と呼ばれるようになった(つまりはレースに最後までしがみついた)に過ぎない」(342ページ)というのは、会社員勤めを辞めて自営業者に転身した者らしい厳しい批判的考察でありまた負け惜しみでもあるように見えます。よかれ悪しかれハッとしたフレーズでした。

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