庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2021年6月

19.それでも、あなたは回すのか 紙木織々 新潮文庫
 本を読むことが好きという以上に自分の強みをアピールすることができずに出版社の面接で軒並み落ち続けた就活敗者の文学部青年友利晴朝が、メイン商品を担当するプロデューサーの引きで採用されたソーシャルゲーム運営会社で、同期の力量はあるが尖りすぎた新人デザイナー青塚凛子と角突き合わせ、ゲームプランナーとして悪戦苦闘しつつチームプレイに馴染んでいくお仕事小説。
 著者自身がソーシャルゲーム開発会社のゲームプランナーで、業界内幕ものの性格が色濃く、ソーシャルゲーム運営会社の収益構造、課金収益をどのように増やすか、そのためにどのような顧客をターゲットにどのようなキャンペーン(イベント)を企画するか、社内での駆け引き等の説明と、デバッグ(プログラムのバグの発見、予定どおりに動くか等の確認)や顧客からの意見・クレーム・要望への対応等の描写がたいへん興味深く読めました。
 基本的にいい人に囲まれ、特に意地悪な敵もいない中で、ソーシャルゲーム運営会社のビジネスモデルとその置かれた環境の制約の下で、どうすべきかを学び考え成長するという作品で、不快感を持つ場面もなく明るく読めます。現実はもっと厳しいかなと思えますが。

18.大江いずこは何処へ旅に 尼野ゆたか 二見サラ文庫
 IT系ベンチャーで働く元彼高石善徳が二股をかけていたことを知り失意に暮れる20代後半のOL大江いずこが、露店で買ったコンパスのネックレスに潜んでいたマルコ・ポーロと自称するホログラムのような実在するような不思議な形態の中世ヨーロッパ風の白人とともに旅行をして、旅先でさまざま人と出会い自信を取り戻して行く短編連作。
 餃子の王将を誉め讃え、天下一品のラーメンで締める第1話京都編、ファミレスのチーズインハンバーグランチでだべり、てりかつ丼に感動する第2話春日井・土岐編と続き、もっぱらB級グルメに徹すると思われましたが、その後は海産物の一大絵巻を繰り広げる第3話若狭編、バーベキューを繰り返す第4話伊豆編で、そうでもなくなって、ちょっとあれっと思いました。
 エピローグでは「ぴんと来ない。太陽の塔、大阪城。あちこち巡って写真を撮ってみるが、いまいちしっくりこない。なんというか、浮き立つような楽しさがないのだ。大阪はオモロイところではないのか。なんでやねーん」(303ページ)と書かれていて、大阪はお気に召さなかったらしい。大阪出身者(太陽の塔がある千里は小2から高校まで過ごした地元)の私としては、京都旅行で寺1つ見ずに餃子の王将で満足したというのに、それこそなんでやね~んなんですが。

17.EYES 廃物件捜査班 柿本みづほ ハルキ文庫
 通り魔事件犯人に右目を刺され角膜移植手術をしたら紫色の虹彩を持つ「忌み目」により廃墟の「記憶」を知覚できるようになった27歳の巡査部長吉灘麻耶が、警察内部で疎んじられながらその超能力で事件を解決するという小説。
 ミステリーとしての部分は、まぁそうだろうと予測する方向で何となく進んでいき、ひねりがない感じがしますが、特殊な設定で主人公等の運命の方を読ませる趣向で、事件そのものはシンプルな方がいいという考えでしょうか。角川春樹小説賞受賞でデビューした作者の受賞後第1作の文庫書き下ろし作品で、最初から続編予告しているとしか考えられないラストは、すごい自信だと思います。
 ふだんは廃墟の「記憶」を黒のカラーコンタクトで保護/遮断しているという設定ですが、麻耶の知覚は画像/映像のみならず過去の人々の声/音声をも捉えています。画像のみなら黒のコンタクトレンズで遮断できるということでさほど違和感はないのですが、声が聞こえるのなら、耳栓ではなくコンタクトレンズで廃墟の「記憶」の音声が遮断できるのはなぜ?と気になってしまいます。

16.非正規公務員のリアル 欺瞞の会計年度任用職員制度 上林陽治 日本評論社
 非正規公務員の待遇の低さ(官製ワーキングプアの実情)、さまざまな職場での実態、非正規公務員に低い労働条件で恒常的・専門的業務を担わせている制度的・法的根拠、待遇改善をうたった会計年度任用職員制度や女性活躍促進法が待遇改善に繋がっていない現状などについて論じた本。
 自治総研の研究員の著者が、雑誌等に書いた論文を取りまとめたもので、そのパターンの本にありがちですが、ぶつ切れ感、重複感があり、特に後半は法制度と数字が中心で、読み通すのがちょっとつらい。ハローワークの非正規職員(1年任期で雇止めされて自分が求職者に回るとか。笑えない)や図書館員、臨時教員などの現状を紹介する最初の方は、とても興味深く読めたのですが。
 パート労働者を待遇が低いままで基幹職化を進めた場合、労働者は、第1段階では上司に聞こえるように悪口を言う、言われたことしかしない、離職する(消極的抵抗)、第2段階では不満を抱えたパート労働者が共同して1つの非公式権力を構成して管理者と対立する(積極的抵抗)、第3段階では不満を抱えたパート労働者の生産性が低下、それと連鎖して発生する正社員の負担増を通じた生産性の低下が起こるという主張の紹介がなされていて(44~45ページ)、使用者側の思惑どおりには行かないというところ、なるほどと思いました。
 公務員に適用される法律はとてもわかりにくくなっていて、弁護士も事件を担当しないと詳しくは調べないのできちんと理解していないことが多いです。非正規公務員の労災に関して、上下水道、交通事業、学校、動物園、病院、保育所、清掃事務所等の労働基準法別表第一の事業に従事するものは労災保険法が適用され、フルタイムの非正規公務員(常勤の地方公務員に準ずる者)は地方公務員災害補償法が適用され(地方公務員災害補償基金に請求)、それ以外のパートタイム非正規公務員は地方自治体の条例(議会の議員その他非常勤の職員の公務災害補償等に関する条例)が適用される(地方自治体に請求)ことが紹介されています(66~69ページ)。そういう事件を経験していないので、具体的には知りませんでした。勉強になります。
 非正規公務員の継続雇用の期待を裏切ったことについて国家賠償請求を認めた中野区非常勤保育士再任拒否事件の東京高裁判決は紹介されています(190~191ページ等:「画期的」と評価していますが、一方で更新回数制限、経験者も新人と同列で受験を要する公募を強要される原因となったとも書いていて、著者がどう評価しているのかわかりにくいですが)が、非正規公務員の雇止めについて唯一雇止めを無効とした国立情報学研究所事件1審判決には一度も言及されていません。高裁で覆され、その後1件も後に続いた判決がなく(雇止めが違法だとしても雇用の継続は認めず損害賠償しか認めない)、今後も現れる見込みがないというのが実情ですが、非正規公務員の雇止めを論じるからには、触れておいて欲しいなと思います。

15.ノマド 漂流する高齢労働者たち ジェシカ・ブルーダー 春秋社
 アメリカでキャンピングカー、トレーラーハウスの車上生活を送り、移動しながらさまざまなところで働く人々(ワーキャンパー)の生活を綴ったノンフィクション。
 車上生活者たちの自ら選択してそうしているというプライド、明るさなどを描きつつ、著者は、車上生活者に関する記事の大半は「ワーキャンパーという生き方を、楽しく明るいライフスタイルか、変わった趣味であるかのように報じていた。アメリカ人がやっとのことで生活賃金を稼ぎ、伝統的な住宅から閉め出されつつある、そんな時代を生き延びるためのぎりぎりの戦略だと報じる記事は、ほとんど見当たらなかった」「その他の報道もやはり、車上生活のわくわく感と連帯感を強調するものだった。これほど多くの人に生き方を根本的に変えさせる原因となった困難については、話題にするのを避けていた」(231~232ページ)と、著者の問題意識を明らかにしています。「私が何ヵ月にもわたって取材してきたノマドの人々は、無力な犠牲者でもなければお気楽な冒険者でもなかった。真実は、それよりはるかに微妙なところに隠されていた」(233ページ)という、車上生活者の強さ、したたかさを見つつも、それはやはり追い込まれた人々でありその原因を見据え政治と社会が対応すべきことを忘れてはいけないというあたりに著者のスタンスがあることを見逃さないようにしたいところです。
 車上生活者が白人ばかりだということについて、著者は「白人であってさえ、アメリカでノマドでいるのは並大抵のことではない。とくに住宅地でステルス・キャンピングをするのは、キャンプの主流から大きく外れている」「白人であるという特権的な切り札をもってしても、警官や通行人とのいざこざを避けられない場合があるのだ。であれば、丸腰の黒人が赤信号で止まっていただけで警官に撃たれるような地域ではとくに、人種差別的な取締りの犠牲になりかねない人が車上生活をするのは、危険すぎるのではないだろうか」(254ページ)と、思いをはせています。一面で追い込まれた人々でも、まだ恵まれているともいえるわけです。
 恒常的な人手不足に悩み、高齢者が多いワーキャンパーを社会経験があり几帳面でまじめな労働者であり、短期雇用で必要なときだけ使える労働力として使いたがる企業も出てきており、その典型がアマゾンだということのようで、この本で登場するワーキャンパーの多くはアマゾンで繰り返し就労しています。移動を繰り返しながら生活費を稼ぐために短期間の就労を希望するワーキャンパーとは持ちつ持たれつということではありますが、その重労働ぶりが繰り返し描かれ、揶揄されています。登場するノマドの1人、パティは「ねぇ、ウォルマートやアマゾンで買い物するのはやめましょう。町を歩いて、小さい昔からのお店で買いましょうよ。巨大企業の儲けを減らしてやるのよ」と語り(296ページ)、この本で中心的なノマドのリンダは「アマゾンで働いていると、こんなことばかり考えちゃうの。あの倉庫の中には重要なものなんてなに一つない。アマゾンは消費者を抱き込んで、あんなつまらない物を買うためにクレジットカードを使わせている。支払のために、したくもない仕事を続けさせているのよ。あそこにいると、ほんとに気が滅入るわ」と著者にメールしてきます(331ページ)。著者自身も短期間アマゾンでの就労を経験していますが、著者はアマゾンに対して批判的な視点を持ち続けているように思えます。謝辞(347~349ページ)でもアマゾンへの感謝の記載はありません。
 映画では、車上生活へと人々を追い込んだ原因への著者の問題意識は、まったく描かれていないとは言いませんがかなり薄められた感があり、アマゾンへの批判的な視点はほぼ覆い隠されています。それを棘として抜いたからアカデミー賞作品賞が取れたのかも知れませんが、本を読んだ印象は、映画の印象とは違うように思えました。
  映画の感想はこちら

14.迷子の龍は夜明けを待ちわびる 岸本惟 新潮社
 祖母の死後引きこもっていた、緑がかった褐色の肌を持つ少数民族「天空族」の巫女の孫娘セイジが、寝込んでいる富豪の依頼で40年ほど前に先立った妻の天空語で書かれた日記を読み聞かせることになり、死んだ妻とその息子の運命に触れ、「大和族」と天空族の関係、自分の祖母や両親などに思いをはせるというファンタジー。
 植物や龍、霊にエネルギーを「食われ」衰弱する/腹が減る天空族は、何のメタファーなのでしょうか。ディメンター(松岡訳では「吸魂鬼」)に幸福感や精気を吸い取られるハリー・ポッターのような世界観でしょうか。「天空語」がちょっと「蛇語」活字のようなフォントで書かれていることもあって、そういう連想をしました。
 セイジの現在、日記の40年前の世界、セイジと祖母の日々、引きこもり前の時期を行き来しながら、過去が解明されていくスタイルが取られています。さほど大きな謎はないのですが、穏やかにホッとしていくというような読み味です。

13.「治る」ってどういうことですか? 看護学生と臨床医が一緒に考える医療の難問 國頭英夫 医学書院
 国立がんセンター勤務を経て現在日本赤十字社医療センター化学療法科部長の職にある臨床医の著者が、医療上の答が出しにくいテーマについて看護学生と議論し雑誌「Canser Board Square」に連載したものを単行本化した本。
 タイトルになっている「治る」に関しては、「治った」「治らない」というのは境界がはっきりした yes / no の話ではなくて、10年20年経って再発することもあるけれどもそれは予めわからず、結果的に別の病気その他で死ぬまでに再発しなければ治っていたという結果論の話なのだけれども、一般の人は治ったのか治らなかったのかと聞きたがる、そういうときにどう説明すればいいのか、治ったと思っている人に病識を持たせるべきかというような悩みが論じられています(53~56ページ、121~125ページ)。治っていなくても10年20年平気で生きられることもあるし、治っていない、リスクがあると気にすることがその人の人生・生活に影響する/影を落とすことを考えると、どうすべきなのかはなかなか悩ましいところでしょうね。そうは言っても、治ったと説明していて再発すると、リスクを説明しておいてくれればよかったと文句を言われるのでしょうし。弁護士の場合は、基本、リスクを正しく説明するの一択だと思うのですが。
 延命治療についての事前指示書の問題も悩ましい。本人が延命治療は望まないと文書に書いていても、それから時間が経ったらその指示は有効か、長期間が経過しなくてもその意思はいつでも変えられる訳なのでその意思が変わっていないかをどう判断するか、本人が意識がないときにそれをどうするか、指示書で想定していない急変はどうするか(例えば癌で余命があまりないということで蘇生措置を拒否する意思を示している人が検査の際の造影剤でショック状態になったら蘇生措置をしないのか等)、本人が認知症になったら/病状が進んでいたらその意思をどう判断するのか、その場合に家族が決められるのか、かかりつけ医が判断することはどうかなどが議論されています(34~46ページ)。
 患者や家族の言動があまりに理不尽でこちらが怒ってしまうときにどうするかという問いは、業種を超えて、悩ましい問題だなと思います。どこにでもいますからね、ジコチュウでわがままな、それでいて自分が100%正しいと思っている人は。今どきは、カスハラなんて言葉が使われますが。そういうときは「自分がどうして怒っているのか、を考えよ」、まず自分が怒っていることに気づく必要がある、そしてその原因は何か、患者の言葉遣いか、そもそもこの家族はもともと態度が悪いと思っていたのか、もしくは自分がやろうとしていた仕事を邪魔されたからか…などなど考えていくうちに結論が出る出ないにかかわらず落ち着いていくというのです(76~77ページ)。確かに巧妙な手法です。言い返すまでに10数えろというのと似てはいますが。
 看護学生との比較の関係で、「はじめに」で、医学生の意欲のなさ、授業中最初から寝ている、講義の途中で平気で席を立つ、何が試験に出るかしか興味がないなどが指摘され、また随所で医学生の傲慢さに言及されています。まぁそういうものかなとも思いますが、学生のときはまだ責任感や自覚がなくても、仕事を始め経験を積む中で人間は変わり成長していくものだと思います。そこは寛大に見てやった方がいいかなと思います。弁護士でも、弁護士会の研修で、突っ伏して寝ていたり途中で平気で席を立つ人はいますが。最近はウェビナー研修なのでそもそも寝ているか聞いてるかもわからなくなりましたけど。

12.あたまの地図帳 地図上の発想トレーニング19題 下東史明 朝日出版社
 地図・地理と向きあうというコンセプトから思いついた発想・頭の整理法に関して語ったエッセイ。
 自分の頭の中にある「使い物にならなさそうな考え」を年末大掃除のように取り出し眺めていると最初は今考えないといけないアイディアや発想とは何の関係もなくガラクタばかりに見えるが「そんな中から少なからず『これは使えるかもしれない』と感じるものが見つかったりします。」(98ページ)。セレンディピティは単なる「偶然による発見」ではなくて、意識して感受性や理解のしかたにおいてふだんと違う立場に立つようにすることでどこかで従来の自分の予感とぶつかるときが来る、そういうことでいいアイディアが浮かんでくる(194~195ページ)というあたりは、なるほどねと思います。あくまでもそれがうまくいくこともある、そう務めることでよりよいアイディアに至る機会が増えるだろうというレベルの心がけ、ではありますが。
 インドネシアとアメリカ(アラスカを除く)の東西方向の距離はインドネシアの方が大きい(146ページ:メルカトル図法の地図で見てもそうなんですね)という指摘は、地図レベルで、確かに意外でした。
 著者が訪れたことがある都道府県を塗りつぶした地図が245ページに掲載されているのですが、22都道府県止まりって…30代の博報堂のコピーライターって意外に出不精?私は、30代前半までには47都道府県ひととおり行っていたはずですけど。先日見た映画「ザ・ファブル 殺さない殺し屋」で、ジャッカル富岡は、栃木県出身の女性を口説くのにあなたと交際できれば47都道府県出身の女性との交際を達成できると言い、OKをもらって、「コンプリート!」って言ってましたけど。

11.「恐怖」のパラドックス 安心感への執着が恐怖心を生む フランク・ファラング ニュートンプレス
 臨床心理士である著者が、多くの患者との臨床(セラピー)経験から、私たちの自由を抑制し、幸福感を失わせ、自己実現の能力を失わせるなどして、人生の膨大な部分を無駄にしている恐怖心が、何故私達の心を支配するのか、うまく折り合える方法はないのかを論じた本。
 恐怖の根源を闇に対する恐怖に求め、捕食者が潜んでいる危険が高い闇を恐怖する(忌避する)ことは、毒物を臭いその他の特徴から嫌悪することと同じように生存上有利であり、そのような特徴を生得的に持つものが子孫を残す結果、人類のDNAにそのような特徴が組み込まれてきたことの説明は説得的に思えます。その闇に潜む目に見えないものを、人類は、他の動物のように嗅覚を発達させることで感知できるようにするのではなく、危険を予測し脅威を予見する想像力により対応することとなり、さまざまな可能性を検討し未来を予測するという能力を得たという説明は、少し疑問を残すように思われますが、なかなかに面白い議論かなと思いました。
 その後の、ヨーロッパ中世のキリスト教会支配下の暗黒時代の話は、私には、生得的なものといえるほどの自然淘汰があったかには疑問に思え、社会的文化的環境の要因からの影響なのではないかと思えて、種としての人類史レベルの話とつなげて論じられることにはやや違和感を持ちました。
 そして、人間は、未熟な状態で生まれ、親から脅威判断を学習する、「すなわち幼児期や児童期における安心は私たちの生来の恐怖に頼るだけでなく、私たちの庇護者がこれまでに学んだ恐怖の経験にも依存する」(105~106ページ)、この脅威評価の柔軟さは種としての生き残りに有益であったが、養育者の人生のトラウマによってゆがめられやすいという弱みでもあるという説明は、「三つ子の魂百まで」がどこまで人生を規定するかという問題を含みつつも、なるほどと思いました。
 恐怖心を解決(克服)しようとする人間の心理は、暗闇を根絶するか、あるいは目が見えなくなるほど光を強くすることを求めがち、言い換えれば恐怖心から愛するすべてのものを破壊する危険を冒すか自分たちの崩壊を招くまで想像を抑え込むかとなりがちだが、著者としては第3の道、恐怖に対する応答が愛する人々に役立つような方向に道徳的に導かれた想像であり、自分の心や他人に対して疑いではなく信頼を持てるような道へと、最も恐れる精神的苦痛(過去のトラウマ)に敢えて飛び込み十分に時間をかけてそこに止まる中で回復の道をなんとか見いだしてゆくということを求めていて、観念的にはなんとなくの納得感を持つのですが、そこは著者が数々の臨床経験を踏まえて見ている世界と門外漢の私が想像する世界は違うはずなので、なおフラストレーションが残りました。

10.保健室から見える親が知らない子どもたち 桑原朱美 青春出版社
 養護教諭を25年務め、その後教育コンサルタントとなった著者の経験から、問題行動を繰り返す子どもや保健室を度々訪れる子どもたちの悩み・相談に対して、教師や親がどういう対応をしてはいけないか、どう対応すべきかを論じた本。
 タイトルからは、保健室を訪れる子どもたちの悩みの内容が紹介されている本のように見えますが、子どもの側では、そこよりも大人たちの言動、特に問題点を指摘し、叱責し、指導したり反省を求めたりするそのやり方を子どもがどう受け止めることが多いか、そしてそのようなやり方がいかにまずいか、無意味かの指摘が繰り返されています。
 基本的には、よくない自分、好きになれない自分も、それは自分の一面として受け止め、失敗や問題行動は「そうしてしまった自分」ではなくその行動の問題と受け止めて、どうすれば次はもっとよくできるかを自分で考えさせ、試行錯誤させる、過去に注目し続けるよりは未来においてどうなりたいか、どうなっていたいかから、逆算してそのためには今何をするかを考えていくことが勧められています。
 子どもの話を聞くときに、自分(大人)の評価・意見を挟まないで、①実際にあったこと、見たこと、聞いたことは何か(事実)、②そのときにどんな気持ちになったか(感情)、③どうしてそんな気持ちになったか(感情の理由)、④その気持ちになりどんな反応(行動)をしたか(反応)、⑤その結果どうなったか(反応の結果)、⑥本当はこうしたかったということはあったか(本当の気持ち)、⑦次に同じような状況になったときに今回とは違うことをするとしたらどういうことができるか(選択)に分けて丁寧に聞いてみてくださいと書かれています(182~183ページ)。聞く側が冷静さを保ち根気よく聞くということ自体がなかなか難しく、大人の側がクールダウンするためにも、項目分けして聞き続けるという方法論は有効かなと思いました。

09.不滅の子どもたち クロエ・ベンジャミン 集英社
 ニューヨークで紳士婦人服仕立店を営むユダヤ人家庭に生まれた13歳のヴァーヤ、11歳のダニエル、9歳のクララ、7歳のサイモンの4人きょうだいが、1969年の7月のある火曜日、人が死ぬ日がわかるという噂を聞いて、占い師の女の部屋を訪ね、一人ずつ自分が死ぬ日を知らされ、その後4人がどのように生きたかを短編連作のような長編のような枠組みで描いた小説。
 それぞれが自由を、また計画を持って、自分の人生を積極的に歩む展開から、自分が持つ不安定要素が拡大しあるいは自信を失い理性的な部分が後退し綻び滅びていく場面が多く見られ、人の性、人生の悲哀を感じます。
 自分が死ぬ日を告知されたらその後どう生きるか、どのようにその日を迎えるかは、人それぞれの考えと経験によると思います。幼いとき、若いときであれば、とにかくやりたいことをやっておきたい、その日までに悔いを残したくないと考えるのでしょうし、老いていればおそらくはそれまでの人生とさして変わりない日々を送るのだろうと、すでに61歳の私は考えます。しかし、難病にかかって医師から宣告されるのであればともかく、見知らぬ占い師から言われたことがそれほどその後の人生を左右するのでしょうか。子どもの頃の経験、特に恐怖が子どもの人生に強く影響するということがよく言われ、そういうことがあるのかも知れませんが、納得できない思いも残ります。

08.原発事故 自治体からの証言 今井照、自治総研編 ちくま新書
 福島原発事故当時とその後の地元自治体の状況と対応に関して、大熊町の前副町長と浪江町の前副町長へのインタビュー、自治労の調査等に基づいてレポートした本。
 大熊町の前副町長(事故時は農業委員会事務局長)の話で、役場と福島第一原発をつなぐホットラインは地震で断線したのか通じず、災害対策本部が本来設置されることになっていた部屋は確定申告で使われていたので別の部屋に設置、その部屋にしかないオフサイトセンターとのテレビ会議システムはセットできず、ファックスはなぜか17時まで動かず、訓練では東電からファックスを送ったという連絡が来るが本番では連絡もなく、動き出したファックスは大量の文書を吐き出し、地震関係の情報が大量にある中でわずかに混じる原発関係のファックスは紛れて気がつかなかった(59~63ページ)とか、役所には放射能漏洩の情報は全然来ず、かえって避難所では東電の協力会社の作業員がもうヤバいから逃げなくちゃというのを職員が聞いていたが、当然そういう情報は役場に入っていると思っていたので役場には報告しなかった(64~65ページ)、放射線量が上がっているとは誰からもいわれなかったのでマスクもせずに住民の避難誘導をしていたし放射線測定器も持ち出さなかった(69ページ)など、事故が現実に起こると想定していた対策・対応ができず、機能せず、情報がうまく入手できず伝わらないという実体験がとても貴重に思えます。書類上の、机上の計画なり対策がいくらきちんとできているように見えても、本当の事故災害の際にはそのとおりには行かないもの。対策があるから安全ですなんて考えで、対策がうまく行くことを前提に進めてはいけないということですね。
 自治体職員が住民のために献身的に働く様子、住民からの激しいクレームに消耗する様子、一部には出勤しなくなる職員、その後も続々と退職していく人たち、他方で住民からの感謝や労いの言葉に励まされモチベーションを保つ様子などにも、大変だなぁという思い、頭が下がる思い、仕方ないよねぇという思いを持ちました。

07.校閲記者の目 あらゆるミスを見逃さないプロの技術 毎日新聞校閲グループ 毎日新聞出版
 毎日新聞の校閲記者グループが、新聞の校閲の実情、ありがちな誤植・変換ミスその他のミスについて紹介した本。
 1970年に司馬遼太郎の論文で「銘酊」の用語が用いられ、当時の毎日新聞用語集も「銘酊」、さらに当時の広辞苑も「銘酊」となっていたことが紹介されています(67~68ページ)。校閲記者はまさか司馬遼太郎が書き間違えるとは考えられず広辞苑に助けを求めたら広辞苑も堂々と「銘酊」となっていた(第2版)というのです。辞書が誤植をしていたら、何に頼ればいいのか、校閲記者の悩ましさを感じました。
 言葉の中の数字が漢数字か洋数字かは、「ほかの数字に置き換えられないような言葉は漢数字」(72~73ページ)なんですね。「一人住まいの気安さ」「アパートに1人住まいの生活」「一人旅」などの文例(73ページ)を見ても、区別は微妙な気はしますが。
 「諫める」は、目下の者が目上に忠告することで、上司が部下に注意するときは使わない、そのときはたしなめるとか、諭すとか、戒めるを使うって(199ページ)。なるほど。祇園精舎(平家物語)でも「諫めをも思い入れず」は暴君たちのことでしたしね。

06.ダークブルー 真保裕一 講談社
 新たに開発されたロボットアームを装着した実証試験のため有人深海調査船「りゅうじん6500」を乗せてフィリピン海盆に向かう「日本海洋科学機関ジャオテック」の潜航士大畑夏海らと研究開発チームが乗船する支援母船「さがみ」がシージャックに襲われ、メンバーは侵入犯が求める過酷なミッションにチャレンジするが…という小説。
 国際協力が進んでいると思われる海・航海の世界で、今どき、船長に乗組員の「人種」を嘆かせ(43ページ:フィリピンやベトナム、インド人は、日本人と「人種」が違うんでしょうか…?)、シージャック犯・テロリストはインドネシアとみられる東南アジアの少数民族、それを「日本人は殺したくない」と考える者か否かで善玉・悪玉を選別するという、とてもナショナリスティックな価値観に満ちた設定とストーリーです。
 日本の組織人たちの士気の高さ、結束の強さ、使命感等が序盤で強調されています。読んでいて私は、なんとなく、東野圭吾の「真夏の方程式」を思い起こしてしまったのですが、JAMSTEC(海洋開発研究機構)という組織は、取材をした作家に、是非とも誉め讃え味方しなければという気持ちを、自発的にか他発的にか、沸き立たせるところなのでしょうか。

05.朝焼けにファンファーレ 織守きょうや 新潮社
 司法修習生と修習生を受け入れ指導する側の裁判実務関係者たちの日常業務と日常生活を描いた群像劇。
 修習生を受け入れた弁護士事務所の勤務弁護士が不倫の問題をめぐり、家裁少年部(刑事)の書記官が反省の色が見られない少年の審判や調査官面接をめぐり、検察庁の指導教官が双方泥酔した傷害事件や嬰児殺を繰り返した被告人の処遇をめぐり、配属された司法修習生と考え学んでいく話に、最後に後期修習のプレッシャーの中での模擬裁判の達成感と同期内での競争心・足を引っ張る陰謀を描く話を付けた短編連作になっています。
 司法修習生を主役とした作品は、私はこれまで見ませんでしたが、裁判所・検察庁・弁護士事務所それぞれの内情に触れられる、初心というか志のあるある意味で青臭い熱い議論もしやすいという点で、裁判業界ものとしては、書きやすい設定といえそうです。そして、裁判業界の人の多くは、修習生時代にノスタルジーを感じていますので、小説として一定の読者層を獲得しやすい分野ともいえるかも。私は、和光ではなく、研修所は湯島、寮は松戸の世代ですが、それでも久しぶりに修習時代の郷愁に浸りました。

04.終の信託 朔立木 光文社文庫
 呼吸器科部長を務める医師折井綾乃が3年前に18年間担当し続けた喘息患者江木秦三が重症の最終段階ステップ4-2に達し、そのときが来たらいつまでも苦しめないでお願いします、もう我慢しなくてもいい時を先生が決めてくださいと言い、その後心停止状態で搬送されてきたとき、懸命の蘇生措置で心拍をかろうじて戻し6日後に自発呼吸も回復させたものの植物状態になって、15日目には急性胃潰瘍と思われる出血を目にして、家族を呼んで気管内チューブを抜くがすぐには自然死せずに痙攣して苦しみはじめ、鎮静剤を静脈注射したがそれでも痙攣が治まらず筋弛緩剤を静脈注射して死亡させた件がマスコミに漏れ、検察官の取調を受けるという仕立ての、川崎協同病院事件を題材にした小説。
 技術の発展により生かしておくというだけであれば相当期間の延命治療が可能となり、他方で安楽死を容認する法令上の規定がなく判例上はかなり厳格な要件が課されている現在の日本で、回復の見込みがないのにただ長く苦痛を味わいたくないという患者の希望を向けられた医師はいったいどうすればいいのかを考えさせる作品です。作者の属性から、そういった困難な立場に立たされた医師が、現在の法律と司法の下ではどのように扱われるか、検察官の取調に対して医療について専門家であっても法律・司法を知らない素人がいかに無力かを描くことで、主として法律は、司法はこれでいいのかを問題提起しています。
 表題作とともに収録されている恋人を殺してしまった女性被疑者の警察での取調を描いた「よっくんは今」も合わせ、取り調べられる側の思いが取調官にいかに通じないか、いかに無視されるかを感じさせられます。捜査機関のやり口への批判であるとともに、やはり取調を受けるに至れば、必ず弁護士に依頼しましょう(弁護士に相談しましょう)というアピールでもありますが。

03.「グレート・ギャツビー」を追え ジョン・グリシャム 中央公論新社
 プリンストン大学の図書館から盗み出されたF・スコット・フィッツジェラルドの直筆原稿5編をめぐり、取り戻そうと画策する保険会社のエージェント、その手先となって動く売れない作家、容疑をかけられる書店主、原稿を追う強奪犯、捜査を続けるFBIが絡むサスペンス小説。
 原稿を追うグループの中心に保険金(2500万ドル)を払いたくない保険会社のエージェントを置いたあたり、「原告側弁護人 (The Rainmaker) 」で保険会社の悪辣さを声高に告発したグリシャムが、保険会社に妥協し配慮し機嫌を取ったとみるか、基本的なスタンスは同じとみるか、評価が分かれそうです。
 村上春樹訳を売りにした日本版です(グリシャムよりも村上春樹の名前の方が字が大きい!)が、グリシャム定番の白石朗訳になれた身にも特に違和感なく読めました。逆にいえば、村上春樹訳の特色というのも見えにくい感じがしました。「しかしその時代にあっては離婚は話のほかだった」(266ページ)というのがちょっと引っかかったくらいでした(「話のほか」という文例が、outrage の訳として村上春樹訳「心臓を貫かれて」405ページ、be out of the question の訳として村上春樹訳「心臓を貫かれて」280ページくらいしかネットの訳語辞典で出てきませんでした)。
 ややシニカルさはあるものの角の取れた温かみのある手堅い進行の作品です。そういうグリシャムに興味が持てれば、悪くないと思います。

02.東日本大震災からのスタート 災害を考える51のアプローチ 東北大学災害科学国際研究所編 東北大学出版会
 東北大学災害科学国際研究所に所属する研究者たち(一部別の機関の研究者を含む)が、各自が担当する東日本大震災とその後の防災に関する研究について紹介した本。
 基本的に、4ページで、「はじめに」「第1節 東日本大震災が明らかにした問題」「何が起きたのか?」「被害の実態」「第2節 震災が破壊したパラダイム」「従来までの常識と必要だった対応」「第3節 新しいアプローチ」「第4節 到達点とこれから」「新たな災害科学の手法」「おわりに~執筆者から」というフォーマットで書かれており(そうでない人もいますが)、読後感としては、学問研究というのは実にさまざまなテーマ領域があり学者研究者はあらゆることを対象とするのだなと感じ、東日本大震災に関してもさまざまな問題があると気づかせ視野を広げる本だなと思いました。他方において研究者の志も表現力もさまざまで、同じ4ページでも、問題提起から研究成果など新たな発見を感じさせてくれるものもあれば、自分の研究の重要さをアピールする以外の内容が読み取りにくいものなど玉石混淆だなと思いました。東京電力との連携ができたと喜び東京電力の言い分をほぼそのまま書いているもの(33~38ページ)など、まぁ学者研究者にはもともと原発推進派がいるわけですけど、大学でも研究者の志もいろいろだなと考えさせられます。コラムで「スポンサーである国や県、企業に忖度するような事業や研究は、ろくな成果をもたらすことができない」と指摘している(141ページ)点が救いというか、清々しいですが。
 「自然災害はどの災害をとっても同じものはない。起きる場所や時間帯・季節によって被害の形は異なる。時間の経過によって状況は変化する。だから、『こうすれば良いですよ』と教える正解は無いのである」(120ページ)という記述を読んで、そのとおりだと思うと同時に、この本のテーマとは全然関係ないのですが、私たち弁護士が扱う事件と裁判についても当てはまる表現だと思いました。裁判でも1つ1つの事件は同じではなく、事件ごとにポイントになる事実や問題点、放置した場合の見通し(被害)は異なってくるし、時間の経過・裁判の展開で状況は変化しますので、すべての事件に当てはまる正解がないのはもちろん、他の事件で正解だったこともその事件で当てはまるとは言えません。考え込まれた指摘には、通じるものがあるなぁという感慨です。

01.紅蓮の雪 遠田潤子 集英社
 「伊吹、ごめん」だけの書き置きを残して自殺した双子の姉朱里の自殺の理由を求めて、朱里が自殺直前に公演を観に行った大衆演劇鉢木座を訪れた牧原伊吹が、看板女形の若座長慈丹に勧められて入座し、旅程をともにして行くうちに、自分たちの親の過去、自分たちの出自、朱里の行動と思いを知っていくという小説。
 近親相姦と共食いのタブー、自己の汚れ、生まれながらにして汚れた存在という「原罪」的な観念、親の言動によるトラウマなどが、主人公の心に重々しくのしかかり、読んでいて重苦しさを感じます。
 主人公は父と母に怨みを持ち続けますが、私は、自らの行為の結果をいつまでも受け容れられずに向き合えない父の覚悟のなさには、ふがいなさを感じますが、母の開き直りには、もう少し諦めず心をすり切れさせずにいられなかったかという思いはあるものの、まぁ仕方ないんじゃないかと思いました。慈丹が、そして伊吹が、終盤でそこまで言うのはどうかと思います。むしろ、現在の自分をすべて親の言動の結果と捉えて(すべてを親のせいにして)うじうじとし続ける伊吹にはあまり共感できませんでした。

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