庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2022年5月

31.小説 如月小春 前夜 伴剛峰 言視舎
 1980年代に一世を風靡し2000年に亡くなった劇作家・演出家の如月小春の学生演劇時代を描くという触れ込みとタイトルで、1970年代の演劇と演劇をめぐる状況・雰囲気を描いた小説。
 表題作自体は、高校時代に弘前高校演劇部で書いた作品「コモンセンス」で全国大会最優秀賞を獲得したのをピークに、その後演劇に関わったり離れたりしながら、演劇では何者にもなれなかった大道寺孝という人物が、学生時代に、学生演劇時代の如月小春が率いた3つの公演で照明係をしたというだけの縁で、自分の学生時代を語る中で一部当時の如月小春を語っているというスタイルです。全体の中で如月小春が登場する部分は体感的には1割くらいで、まぁ当時の如月小春を語ってはいるのでしょうけれども、全体としては70年代の演劇の周囲にいた学生の様子や当時の世相を描いた小説と読むべきでしょう。
 その後につけられている「大道寺先生のこと」という29ページの文章で、作者がこの小説は自分の経験ではなく、その大道寺孝から聞いたことを元に自分で当時の状況を調べて小説化したもので「会話の部分はすべて私の創作です」(225ページ)と断っています。しかし、そういいながら、この「大道寺先生のこと」と「エピローグ」で、表題作以上に、これが実話だというニュアンスを出しています。
 読んでいる間は、語り手の大道寺孝自身の経験を回想したものと思い、それほど深く関わったわけではなくても、よく覚えているなぁと感心したのですが、そこは本人ではない作者が勝手に膨らませたり、文献で調査したこととと知ると(「大道寺先生のこと」の記載からはそういうことになります)、感心した部分が萎れて、70年代に学生生活をしながら、学生運動(や宗教団体)に怯えて関わりを避け(逃げ回り)ながら鼻で笑う不遜で不愉快な人物が有名人の名前を看板にして語った羊頭狗肉の昔語りを読まされたという徒労感が満ちてきます。

30.1行思考 目的をたった30文字書くだけですべての問題は解決する! 中村圭 株式会社KADOKAWA
 意欲を持てない仕事をしているときにその仕事をする目的を、自分が何をすべきか、多数のやるべきことの中で何を優先するか、どのような姿勢で仕事に当たるべきかなどを考えるために未来に向けて自分の現在の目的を、周囲の人とどういう関係を持つか、周囲に何を提起するかを考えるために全体のあるべき姿に向けての自分の目的を、短い言葉で表しそれを意識することで、モチベーションを高め、雑念・雑音を振り払って集中し、ポジティブに行動しようということを提唱する本。
 他人にアピールする「キャッチフレーズ」ではなく、自分の行動指針(座右の銘)を明確にするために、言葉を作り言葉にこだわる、それがコピーライターの新たな飯の種なんだそうです(4ページ)。その作り方のヒント:問題(現状)と未来(理想)を考えてその媒介となる目的を考えるとか、過去(強みまたは弱み)と未来(あるべき姿、目標)を考えてその未来を実現する行動指針を考えるとかを、ある会社で専務と社長の派閥争いの下で専務派の部長に圧迫されている平社員のストーリーを使って説明しています。
 手軽に読めて何となくポジティブになれるというところがよさげな本です。

29.たとえ世界を敵に回しても 志駕晃 株式会社KADOKAWA
 北陸の地方都市の介護施設で働く49歳一人暮らしの小山葉子が、施設や自宅に迷惑系ユーチューバー「ピエロマン」は葉子の息子だとする告発・苦情を受け、5年前に東京へ行くと置き手紙をして出て行った息子雅也が人様に迷惑をかけているのかと思い煩って、ピエロマンの住所と知らされた新宿歌舞伎町のマンションを訪れるが、そこにいたピエロマンの手伝いをしているという若者から3日前からピエロマンが行方不明だと知らされて奔走するというミステリー色のあるヒューマンドラマ。
 冒頭、介護職員歴17年になる葉子が新たな施設に勤務して2か月になるが、効率優先で食餌介護を1人5分であげろと指示されて戸惑い、誤嚥事故に遭遇して危うく死亡事故に至りかねないところを何とか切り抜けるシーンがあり、介護労働の現場の困難さを描く小説と受け止めて読み始めたのですが、その後関連するエピソードや展開はなく、えっ、この第1章は何だったの?と思います。
 「ホストに嵌まる客は、間違いなく承認欲求に飢えているタイプだ」、騙されていることに「薄々気付いているんだろうけど、その現実を直視したくないんだよ。そこが承認欲求の罠なんだ。人に愛された経験がないから、いくら金があっても自分に自信が持てないんだろうな。それが見え透いた嘘だとわかっていても、その言葉にすがってしまうんだ」(104ページ)というのは、そうだろうなと思い、しかしホストがそういうのを聞くとすごく嫌な気分になります。

28.かくも甘き果実 モニク・トゥルン 集英社
 ラフカディオ・ハーン/小泉八雲と関わる3人の女性、出生地のギリシャの島で幼少期にともに暮らした母ローザ・アントニア・カシマチ、20代の頃にアメリカのシンシナティ、ニューオーリンズで新聞記者をしていたときに下宿先の料理人をしていて知り合い結婚した黒人アリシア・フォーリー、日本に渡った後結婚した小泉セツの語りの形式で、3人の女性の人生と思い、ハーンの人生と人柄の断片を描いた小説。
 ローザはハーンが成長した後に読ませるための記録として、アリシアはインタビューに応じて、セツは死んだ八雲への報告の形でこれまでのできごとを語るのですが、ハーンの父とのできごとやハーンとの暮らしよりも自分の人生の話の方に入り込んでいき、人はやはり自分のことを聞いて欲しい/語りたいものだということをにじませ、作品としても、ハーンを描くことよりもこの時代に生きた女性の方に関心を寄せているように感じます。
 女性たちの語りの後に、エリザベス・ヒズランドによる伝記「ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡」からの関連部分要約引用があり、その頃のハーンの状況についてはそっちの方がわかりやすかったりします。そういうことも含めて、ハーンの人生を知りたいというニーズではなく、ハーンは狂言回しというか設定として、同じ時代を生きた立場を異にする女性の生き様を描くフィクションとして読むべきなのだろうと思います。

27.日本美術の核心 周辺文化が生んだオリジナリティ 矢島新 ちくま新書
 日本文化においては、西欧で発達した権力者が見る者を跪かせることを目的として制作した完成度の高い立派な威圧的な作品(著者はそれを「ファインアート」と呼んでいます)とは異なる見る者を楽しませるようなあるいは庶民が楽しむための造形が発展しており、それが日本美術のオリジナリティであるとして、そのような系譜の作品を紹介した上で著者の主張を述べた本。
 遠近法やリアリティを無視した浮世絵等や敢えて完成品の美よりも日用品を用いたり不均等の造形を試みる「わび」茶、素朴絵・かわいい絵などが紹介されています。また絵と文字が組み合わされた作品(与謝野蕪村の俳画や、浮世絵等)は日本独特のものとされています。
 そういったものが、特に江戸時代に発達したことは、町民の識字率の高さ、庶民層の文化需要の高さを示しているというのです。
 もちろん、日本にも著者の言うファインアートは多数あり、美術作品としてみるときにはそちらの方が感心すると思いますが、この本で紹介されているような作品(今回初めて知ったのでは、仙厓の力を抜いた素朴絵とか)も、これからは注目しておこうかと思いました。

26.奴隷貿易をこえて 西アフリカ・インド綿布・世界経済 小林和夫 名古屋大学出版会
 18世紀から19世紀半ば(1850年頃)までの西アフリカ、特にセネガンビア(セネガル川・ガンビア川流域)とイギリス・フランスの貿易、そこで西アフリカ側の重要な輸入品であったインド綿布の生産・交易関係を検証し、当時の大西洋経済について通常言われる「三角貿易」や支配/被支配とは違った視点を主張した本。
 主としてイギリスの統計から、イギリスが奴隷貿易を廃止した1807年以降においても、西アフリカのパームオイル、アラビアゴム、落花生などがイギリスにとって重要な輸入品であり、それらを生産するセネガンビアの者たちはイギリスの安価な大量産品の綿布よりもインド綿布を好み、南インドの職工たちは西アフリカの需要者に嗜好に合わせた綿布を生産してイギリスを介して取引が続いていたことを論じ、しかし西アフリカ全体では次第にイギリス製綿布が普及していったことに言及しつつ、フランスに関しては詳細な統計はないがセネガンビアではその後もフランスを介してインド綿布(特に藍染め製品の「ギネ」)が好まれ続けたことを指摘して、西アフリカの需要者/消費者の主体性を強調しています。イギリス製品はインド綿布を模倣して製作されたが、匂いが異なり、セネガンビアの消費者は違いを見抜き、イギリス製品に見向きもしなかったとされています(92~94ページ、114~119ページ)。インド南東岸のコロマンデル海岸にあるポンディシェリの水に含有されるアルミニウムの割合が藍染めの品質上の優位を支えていたという指摘もされています(188ページ)。
 産業革命を経たイギリス綿布の競争力がインド綿布に及ばなかったとか、西アフリカとイギリス等の貿易が西アフリカの消費者の嗜好に左右されていたとかの指摘は、ルネサンス以前のヨーロッパキリスト教社会の文化や生産力がイスラム社会の後塵を拝していたという指摘を受けたときと同様、教科書で習った現在の力関係の幻想に引きずられた歴史観を改める刺激となります。
 他方で、具体的な数字がほとんどないフランス資料を用いた定性的な叙述をも駆使してイギリス綿布がインド綿布に勝てなかったという結論を導く姿勢には少し強引なものを感じ、またいずれにしても20世紀にはアフリカは植民地化されアフリカサイドの主体性を発揮できなかったと思われます(そこも違うという研究があるのなら、それは読んでみたいですが)ので、19世紀半ばまではと期間を区切った西アフリカ消費者の主体性の論証がどこまで意味があるのかという思いもあります。
 そのあたりの限界なり限定はあるものの、これまで言われてきたことに疑問を抱かせ新たな視点を得るところがある興味深い読み物でした。

25.ジョン・ロールズ 社会正義の探求者 齋藤順一、田中将人 中公新書
 「正義論」で知られる哲学者ジョン・ロールズの生涯と、「正義論」をはじめとするロールズの主要な著作と理論を概説する本。
 政治哲学ないし政治理論の歴史的/金字塔的著作とされている「正義論」(1971年出版、原書の本文は587ページに及ぶそうです。1999年に改訂版出版)は、名前は聞いたことがありますが、もちろん(と言うのもなんですが)読んでいません。そのエッセンスでも理解できればという本ではありますが、それはそれで簡単ではありません。
 社会のあり方、政治のあり方をめぐる理念的な原則は、私のような法律実務家はついそれで何が変わるのか、実践・現場が第一でしょと思ってしまうのですが、他人の権利(自由)を否定する権利はない、持って生まれた才能や条件が低い人の存在を放置しない:「制度が、もっとも不利な立場におかれる人びとにとって長期的に見て最大の利益になるよう編成されることを要求する」(70ページ等)ことを社会・政治の原理原則とするという姿勢には庶民の弁護士として好感を持つというか、一種の感動を覚えます。
 社会の構成員が、熟慮の結果そういった理にかなった判断をする/そのような判断に同意するというのは、性善説に過ぎると言うべきか、確信犯的に他人を踏みつけ続ける者は社会の構成員に包含できないということにならざるを得ない(いかなる議論でも、公正や正義を目指す理論では他人の権利を一方的に否定することが許されるということにはならないでしょうから、それは他の理論でも同じか仕方ないということになるのかもしれませんが)もので、完璧・完結は望めないのでしょうけれども、そういったもの/理論を追求し構想する姿勢はやはり大切だな/尊いものだなと、読んでみて思いました。読んで、内容が十分理解できた/自分なりに咀嚼できたとはやはり思えなかったのが残念ですが。

24.アメリカ外交史 西崎文子 東京大学出版会
 アメリカ合衆国の建国(独立戦争)前後からトランプ政権に至るまでの外交・対外政策について解説した本。
 250年ほどの期間を通して読むと、アメリカの/政権の姿勢が、これまでに持っていた印象以上に、理屈/理念は語っているものの一貫性はなくその時期その時期の国際情勢、経済事情等によって揺れ動いてきたことが感じられました。
 また、著者が「はじめに」で「自らを自由や民主主義の代弁者とするアメリカの思い込みと、対象地域の認識のギャップがアメリカ外交史に見られる大きな特徴だったとすれば、『受け手』の側からの視点を投入することはアメリカ外交の歴史的評価に不可欠であろう」とし、「あとがき」で「私にとってのアメリカとの遭遇は、ベトナム戦争というプリズムを通じてであった」「それから半世紀以上経った今でも、このときの経験から逃れようもなく、また逃れたいとも思わない」と自己のスタンスを示しているように、アメリカの政権と外交姿勢に対して、距離を置いた少し冷ややかな評価が基本線となっています。ニクソン=キッシンジャー外交について「目的のためには手段を選ばず」(254ページ)という表現とか、ソ連のアフガニスタン侵攻についてイスラム原理主義がソ連邦内の中央アジアに拡大することをソ連が恐れていることを知りながらブレジンスキー(カーター政権の国家安全保障問題担当補佐官)が反政府イスラム勢力を支援してソ連を挑発したとする分析(270~271ページ)など、アメリカに親近感を持たない私には、そうかそうかと読めますが、アメリカ大好きの人は不快に思うでしょう。
 半分くらいはどこかで聞き知っていることがテーマでそれを掘り下げているという内容の性質と、注が1つもないということで、東京大学出版会発行の研究者による論文ないしは教科書的な書物であるにもかかわらず、とても読みやすいです。

23.性的人身取引 現代奴隷制というビジネスの内側 シドハース・カーラ 明石書店世界人権問題叢書
 30代前半と思われるインド系アメリカ人男性の一研究者の著者が、インド・ネパール、イタリア、モルドヴァ、アルバニア、タイ、アメリカ(ロサンジェルス)など世界各地の売春施設等を訪れてその中で未成年の性的奴隷とみられる者を探して話を聞きシェルターの情報を渡そうと試み、現地の性的奴隷制と闘いその解放と保護の活動をしている団体の紹介で保護されている女性の話を聞くなどの経験をレポートするとともに、性的奴隷制による業者の利益率を試算して性的人身取引撲滅のためにその利益を減少させる(性的人身売買等の罰金を上げ、検挙率・有罪率を上げる。捕らわれている女性の探索・解放のための人員・予算を増大させて性的奴隷としての拘束期間を短くする)対策が必要でありまた最も有効であると提言する本。
 著者自身が各地の売春施設に単身乗り込んで危険を冒し、売春料を払いながら、当然のこととしてまったく性的サービスを受けずに、業者に気づかれるリスクに注意しながら話を聞くという試みを重ねていることから、その報告部分が貴重な情報ではあるのですが、そこについては、業者に気付かれないようにしかも初めて会った相手の警戒心を解きながら短時間で聞く話という制約のため、内容はごく断片的なものにならざるを得ません。体験者の話としては、具体的なものは現地の保護団体のシェルターに暮らす既に解放された人の話です。そうすると、読者のニーズに応えるという観点では、保護団体自身がレポートした方がより詳細なものができるということになってしまいます。
 誘拐されたり職業あっせんや結婚と騙されて拘束されたエピソードが多数紹介され、現代でもそのようなことが行われていることに衝撃を受けます。しかし、この本の記述でより衝撃的なのは、保護団体の努力や警察の摘発で解放された女性が、故郷に帰ろうとすると親から一族の恥だ、帰ってくるなと言われ、生きてゆく手段がなくまた性的奴隷に戻ったり街娼となるとか、親が娘が性的奴隷となることがわかっていて売っている事例、さらには娘の方もそれがわかっていながら「親孝行」のために我慢しているとかそれを誇りに思っていると語る者がいるとか、もともとの生活で家族やその他の男から日常的に暴力をふるわれ続けている生活だったためにとにかくそこから逃げたくて怪しいとわかっていても斡旋業者の誘いに乗ったとかいう話です。私たちが生きる現代社会が不正義と悲しみに満ちていることが、性的人身取引を生き延びさせているということになります。
 著者の主張では、1990年代初頭にIMF(国際通貨基金)が旧ソ連諸国や東南アジア諸国に融資の条件として緊縮財政(社会保障の切り下げ)や国営企業の民営化、金利の引き上げ等を強く求めたことで(外国資本の利益と債務の返済のために)インフレ(現地通貨の下落)と失業の増加で庶民の生活が圧迫された上社会保障(セイフティネット)が削減されたことで性奴隷が増加したとされており、国際機関の行動についても、いろいろと考えてみないといけないなと思いました。

22.失敗しないためのジェンダー表現ガイドブック 新聞労連ジェンダー表現ガイドブック編集チーム 小学館
 新聞記事とそのWeb版を想定して、ジェンダー表現についての改善を提起する本。
 「揚げ足取りや言葉狩りを意図したものではありません。単なる言い換えマニュアルでもありません。言い換え案を提示してはいますが、ただのテクニックにとどめています。その『心』を知ってこそ、表現が本物になるからです」(はじめに:5~6ページ)とあるように、表現そのものに関する記述よりもジェンダーに関わる問題についての「識者」のインタビューが多く、そっちの方が読みでがあります。
 志は買いたいところですが、タイトルの「失敗しないための」は、外部から問題点を指摘されたくないがため、それこそ揚げ足を取られるのが嫌だからという感じで、なんだかいじましく情けない。著者の思うところからすれば、せめて「差別に加担しないための」か「偏見を助長しないための」、よりポジティブには「平等を進めるための」じゃないかと思う。販売戦略として、女性団体から揚げ足取られるのが嫌だと思っているレベルのおっさん編集者/記者に読んでもらうために敢えてそうしているのかもしれませんが。
 言い換え提案部分では、新聞記者が新聞記者に向けて書いていることを考えると、ジェンダー的に/ポリティカル・コレクトネス上、正しい/正確な表現を説明するにとどまらず、字数を見据えた提案をしないと説得力がないと思うのですが、そういう点に触れているところがほとんどない(私が気づいた限りでは62ページの1箇所だけ)というのは残念です。

21.ミニシアターの六人 小野寺史宜 小学館
 銀座シネスイッチをモデルにした銀座のミニシアターで、末永静男という監督の追悼上映として1995年に撮影された「夜、街の隙間」と題する銀座の一夜を描いた映画が1週間限定で上映され、それを最終日前日の水曜日午後4時50分の回に観た客6人、その映画館の受付をしていて監督に子どもの名前をつけてもらった60歳の三輪善乃、20年前の上映で一緒に観た友人から追悼上映を観たという連絡があって一人で観に来たバツイチ教師40歳の山下春子、自主映画を撮り続けていたが落選して入選作の1つだった末永監督の映画を観て能力差を見せつけられて映画を諦めて就職した70歳の安尾昇治、20年前の上映で映画好きの彼女に誘われて観たがそのときに彼女にフラれた過去を引きずる50歳の沢田英和、20歳の誕生日を彼氏とデートのはずが祖母の危篤の報があってドタキャンされて1人でぶらりとミニシアターに入った川越小夏、映画を撮って応募したが芽が出ず先輩の引きでテレビ制作会社に入って仕事に追われ先行きを迷う末永監督の隠し子30歳の本木洋央と、それに加えて証券会社に勤める末永監督の実子末永立男が、映画のストーリーと絡めつつ自分の人生に思いをめぐらせる小説。
 映画も4組の男女と警官と猫がすれ違いながら交錯して行くストーリーになっていて、観客6人もまたその人生でもその一夜でも微妙に交錯する仕立で、ほのぼのと味わい深い読み物になっています。

20.ひきなみ 千早茜 株式会社KADOKAWA
 父親が挫折してこころの病を持ちそれに付き添う母から瀬戸内海の島の祖父母の元に預けられた小学6年生の桑田葉が、男と女が別々に集まり女が男の顔色を窺う村社会になじめず、祖父にも祖母にも打ち解けられない中で、孤高を保つ同学年の少女桐生真以に憧れと友情を感じつつ裏切られた思いを持つ第1部と、20年近く経ち飲料メーカーに勤め広報を担当しているが部長から嫌われて圧迫され続ける中で真以を探す第2部からなる小説。
 男社会の中での女性の息苦しさをテーマにしているんだとは思うのですが、あまりにわかりやすすぎる露骨な男尊女卑的な言動が、ちょっと今どき…と、わざとらしく感じたり、葉の姿勢がここまで父親を嫌いすべてを父親のせいにできるものか(まぁ小学6年生って、父親を嫌う年頃ですが…)、自分を引き取って面倒を見てくれる祖父母にここまで感謝の気持ちも感じず自分の感情だけで動けるものか(まぁ子どもだから仕方ないか…)と思うところなど、素直に乗って行きにくい印象でした。葉と同い年ながら、子どもの頃から試練をくぐり抜けたこともあって、大人びた真以の様子には、いじらしく思い、素直に共感を持てるのですが。
 タイトルの「ひきなみ」は、「引き波」ではなくて「曳き波」のようです。私は、引波と読んで、最初は津波の話かと思ってしまいました。「しきなみ」と見間違えて/読み間違えて(江戸っ子だってねぇ)アスカ・ラングレー外伝と思う人はいないでしょうけど…

19.これってヤラセじゃないですか? 望月拓海 講談社文庫タイガ
 情熱的でまっすぐな大城了と天才的な企画力を持つが人前で話せない乙木花史のコンビ(園原一二三)が放送作家として育っていく放送業界青春小説。「これでは数字が取れません」の続編。
 シリーズ2作目のこの作品は、音楽番組を舞台に、26歳にして音楽番組では圧倒的な評価を得ている凄腕放送作家宝生真奏との対立が軸となります。
 2作続けて、凄腕の放送作家ながら本人は自分には才能がないとコンプレックスを持ち本当にやりたいことを抑えて数字をたたき出していて、それが暗黒面を作っていたが、大城の「純粋な熱さ」にほだされるという展開で、読み味はいいと思いますが、このパターンで続けられるのかなという疑問を持ちました。
 才能とは何か、その仕事が好きということの意味の問いかけも通しテーマのように思え、考えさせられます。

18.これでは数字が取れません 望月拓海 講談社文庫タイガ
 沖縄の底辺高校卒ガテン系で熱くなりたい大城了と天才的な企画力を持つが人見知りが酷く人前で喋れない乙木花史が、日本一売れている放送作家韋駄源太が主宰する「韋駄天」で知り合い、放送作家は作家じゃねぇ、放送作家の仕事は局員の手伝いだ、生き残りたきゃクライアントの犬になれという韋駄に反発して独立し、「日本一の放送作家」を目指して奮闘するという放送作家青春小説。
 元放送作家の作者による業界内幕ものの趣が読ませどころでしょうか。
 シリーズ1作目のこの作品では、バラエティ番組を中心に、大御所の韋駄と新人大城・乙木コンビ(園原一二三:「藤子不二雄」みたい)の対立が軸となります。
 親切すぎる韋駄の元弟子直江ダークや、切れのいい芸人小山田ライト、極道役の「危険な俳優」大河内丈一など、さまざまなキャラが立っていますが、私としては、序盤で登場した元伝説の銀座No.1ホステスの文ちゃん=乙木花史の祖母にもっと活躍して欲しかったと思います。

17.最後の講義 上野千鶴子 これからの時代を生きるあなたへ 上野千鶴子 主婦の友社
 NHKが「もし今日が最後だとしたら、何を語るか」という問いの下に講義を行わせるという番組で、著者が講義を行って2021年3月に放映されたものをベースに出版した本。
 タイトルを見ると、東大の退官講義かと誤解しますが、全然違います。
 2019年の東大入学式の祝辞で著者が述べた「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」というのは、円熟の域に達した著者がたどり着いた境地かなと思います。「別に女は男みたいになりたいわけじゃありません。『男のようになる』ということは、強者、支配者、抑圧者、差別者になることです。女はそんなことをちっとも望んでいません。男も、過去には弱者だったし、いずれは弱者になります。フェミニズムは弱者が強者になりたいという思想ではありません。弱者になっても安心できる社会をつくることが、わたしたちの目的です」(134ページ)と、女が、男が、フェミニズムが均一な特定の誰かが代表できるようなものとして論じるのは、レトリックであり、また自負ではあるのでしょうけれども、そう突っ張らなくてもいいんじゃないかなと感じました。
 講義を起こしたものなので、さらさら読めて、著者の生き様に触れ(クリスチャンファミリーに生まれたけど、思春期に父に背いて教会を離れ、祈ることを自分に禁じたんだとか:140~141ページ)、著者の振り返る過去から現在を知ることができ、著者に関心を持つ読者にはお得な本です。

16.ビジネス心理学の成功法則100を1冊にまとめてみました 内藤誼人 青春出版社
 どこかの編集者が「ビジネス心理学の第一人者」と勝手に書き始めたものを変更するのも面倒なのでそのまま著者略歴に使っている(229ページ)という著者が、「すべてのネタが心理学の専門雑誌に発表されている論文に基づいています。本の後ろに『出典(参考文献)』をつけておきましたので、それが証拠です。インチキなサイトには、これがありません」(4ページ)として、どの記事がどの文献に基づくのかを素人にはおよそ判断できないリスト(232~235ページ)付きで、100項目の見出しをつけて、人間にはこういう傾向があるよという紹介とコメントを並べた本。
 心理学的な基礎/根拠に関しては、実験の内容やアバウトな条件、サンプル数が時々言及されているだけ(全然触れていないものが多数)で、その実験でそういうことを結論づけてよいかを検討できるような具体的記述はなく、そこは気にしないことにして世間話として受け止めるという本だと思います。1項目見開き2ページかせいぜい3ページで、言われていることも特に意外性のないありがちな話ですから、もともと軽く読み流すものでしょうし。
 「スターバックスのコーヒーがおいしいと思う人は多いと思うのですが、それはおいしいコーヒー豆を使っているからではなくて、『儀式が多いから』ではないでしょうか」(80ページ)とかは、感性としては支持したい気がしますけど。

15.心理学論文の読み方 都筑学 有斐閣アルマ
 心理学をこれから学ぶ大学生向けに心理学論文の探し方、読み方を説明した本。
 発達心理学を専門とする大学教授の著者が、「心理学のどの分野の論文でもスラスラと読めるわけではありません。領域が異なる研究分野だと、知らない心理学用語が出てきて、理解できないことがあります。研究の手続きがわからなくて、戸惑ってしまうこともあります。心理学の専門家だからといって、心理学のすべてがわかっているというわけではないのです」と言っている(6ページ)のは、「わかる」のレベルの問題はあると思います(専門家であればあるほど、本当にわかっているのでないと、自分はわかっていないと言うでしょう)が、なるほどと思います。
 さらに、「他の学問分野の論文を読むときには、その戸惑いはさらに大きくなります」として、「教育学や社会学の論文には、本文中に注が付けられていることが多々あります。心理学では、そのような注を用いることはほとんどありません」(6ページ)というのは、ちょっと驚き。学問分野/業界によって、作法が大きく違うということですね。
 日本語の論文で、結果を述べるのに「○○と考えられた」「○○が見いだされた」「○○と推測される」などと受動態で書かれているのが多いのは、論文では「私は」という主語を使わないからで、英語では私( I )を使わなくても、例えば This result suggests …とか、This Figure says …とか能動態で書けるが、日本語で私はを使わないと受動態になってしまう、その結果、主張が弱い/積極的でない印象となり、「日本語で受動態を用いて論文を書いていると、自分がその結果を見出したという意識が薄れていくような気さえする」と述べられています(166ページ、38ページ)。「と思われる」とかいうどこか自信なさげな文章が多いのは、日本人が謙虚だからではなく、日本語が、「私は」を主語にしないとそういう文章になってしまうという性質のためだったんですね。新発見です。
 心理学に限らず、勉強/学問の始め方という趣の優しげな文章で、読んでいて少し初心に帰る思いをしました。

14.絶景の成り立ちを学ぶ 山口耕生 世界文化社
 インスタ映えする世界各地の絶景について、それができたり出現する構造・原因を解説した本。
 グランドキャニオンやギアナ高地等の大規模な造山運動と浸食による地形についてはさまざまな本で読みましたが、この本では恒常的に「ある」絶景だけでなくて変動しつつ出現するものも紹介されていて、そちらが目新しい感じです。
 アタカマ砂漠が数年に一度「花咲く砂漠」になる(108~111ページ)話など、私にはただ世界で最も乾燥した砂漠(プレインカのミイラ文化を育んだ)という認識のアタカマ砂漠でエルニーニョの時には大量の降雨があって一斉に花が咲くと聞くと驚きで、108~109ページの写真などショッキングでした。
 ワイトモ洞窟の天井の銀河のような光の帯の正体。「ツチボタル」と呼ばれる正式名称は「ヒカリキノコバエ」という「実は蚊の一種」(124ページ)って、いったい何なんだと思う。何故にそういうややこしい名がつくのでしょう。
 それぞれの説明が見開き2ページ、多くても4ページなので、踏み込んだ説明はなされませんが、美しい写真を見ながらほどほどに納得できて知的好奇心を刺激される本です。

13.税理士も知っておきたい実例から学ぶ同族会社法務トラブル解決集 松嶋隆弘 ぎょうせい
 中小企業、同族会社での紛争に関して、参考になりそうな判例について、事例と裁判所の判断を紹介してコメントした本。
 ふだん、個人の依頼者からだけ受任し、会社の経営者間の覇権争いとかは相談も受けない私には、自分ではなかなか調べてもみない領域の判例を読めて勉強になりました。
 必ずしも、中小企業・同族企業の事案でなく、この判決の趣旨を中小企業法務でどう活かすべきなのかはよくわからないものも見られますが、それは連載を続ける中でのネタ切れという側面があるのでしょう。
 デパートのビル内のテナントのペットショップの行為についてデパートが名板貸し(デパートの一部であるかのような営業を許していた)責任を負うかについての判決(最高裁平成7年11月30日第一小法廷判決)の判断を整理して紹介する表(131ページ)の記載は、何か別の判決と取り違えているものでまったくの誤り(誤記)です。
 タイトルは、月刊「税理」の連載記事を出版したという事情によるのでしょうけれども、税理士は、税理士だけを読者(購入客)と考えた出版ができる規模(日本税理士連合会のサイトの記載によれば2022年3月末現在全国で7万9887人)なんだと再認識しました。

12.学校では学力が伸びない本当の理由 林純次 光文社新書
 年齢に応じ能力別でない集合一斉授業を基本とする現在の学校教育を批判して、児童生徒の能力に応じて多段階のメニューを準備しオンライン授業等を基本として自由に選択できるような教育への改革を提言する本。
 暗記力や我慢強さは努力で向上させられない一種の才能(小見出しでは「遺伝子の強い寄与度」とされています:52ページ)とする評価の下で、認知力の低い児童生徒がまったくわからない授業を我慢して聞き続け、他方で上位の児童生徒が落ちこぼれを防ぐことに主眼を置いた授業で時間を持て余しながら我慢してそこに居続ける現在の学校教育の効率の悪さ、教師の低レベル化と授業準備以外に追われて疲弊する現状、それを促進するモンスターペアレントの威圧、少子化による進学の容易化に伴う学習意欲の低下等が、著者の問題意識、現在の学校教育批判の基礎となっています。
 そういう面はあると思いますが、著者の主張を推し進めれば、能力のある児童生徒は自分とは違う能力や環境等の事情の下にある児童生徒の存在に気づかず、社会においてさまざまな人と事情が存在し物事が簡単には進まないことへの想像力を持たないままに成長していく可能性が高まるように思えます。著者は、学校に通わなくてもアルバイトやボランティアをさせてそこで社会性を身につける方が均質の学校よりも有意義な経験となるというのですが、富裕層ではそれが期待できないことも多いと思います。その点については、著者は「理不尽な社会に出て行くのだから、学校で“プチ理不尽”を味わわせておくべきとするならば、現行の学校は合理的なシステムと言えようが、その過程で大量の被害者を生み出している現状は看過できるものではない」(286ページ)と反論しているのですが。
 そして、オンライン授業の個別選択の主張は、よりよい教師への選択と集中を生みますが、人気のある教師は一方通行の授業しかできない(多人数に対しインタラクティブな講義、質疑・応答など無理ですから)ということに繋がります。オンライン授業の成功例として指導者側のモニター画面に「生徒一人ひとりの表情や作業をしている手元がカメラによって映し出され、やる気や理解度が把握できる」(211ページ)というミネルバ大学の事例を挙げていましたが、自由に選択できるオンライン授業ではそういうことはおよそ無理です。そうなると、結局は、オンライン授業を視聴するだけで質問等をしなくても自力で理解できる能力のある児童生徒だけが実力を伸ばしていけるということなのではないかと思います。
 著者の提言どおりにすれば解決できるのかはわかりませんが、児童生徒と教師をめぐるさまざまな事情に気づかせてくれる本だと思います。

11.感じがいいと思われる敬語の話し方 川道映里 ナツメ社
 敬語表現についてのマニュアル本。
 場面ごとに基本的な応答がまとめられていて読みやすくできています。
 「『すみません』は基本的に目上の人が目下の人に使うものです。」(36ページ)って、知りませんでした。もちろん、「申し訳ありません」「申し訳ございません」という敬語があり、目上の人、というか気難しい相手向けにはそういう言い回しをしますが、「すみません」に目下と扱われている印象を持つ人がいるというのは驚きました。まぁ、うるさい人はうるさいですからね。
 「モノや外来語に美化語は使わない」として食品では「お紅茶、お大根、お茄子など」(38ページ)「【例外】お茶、お弁当、お餅など」(39ページ)、「天候などの自然現象は『お/ご』を付けると不自然に聞こえます」「【例外】お空、お天気など」(39ページ)というのも、言葉なので理屈どおりに行かず人々の現実の使い方で変わってきますから何事にも例外は出てきますが、説明として聞くと、そもそもそういう原則の取りまとめ方がどうなのかなと思います。生活用品にも美化語は使わない、「お座布団」「お服」は使わないとされています(38ページ)が、「お座布団」はあまり違和感ありませんし、ビジネスシーンではありませんが、うちでは「お布団」はふつうに使っています。「お服」と言わなくても「お洋服」は使うんじゃないでしょうか。ビジネスシーンでも、「お鞄」くらいは使うように思えます。
 タイトルの「思われる」は受け身(受動態)なんでしょうか、推量(文法用語では「自発」)なんでしょうか。前者なのだろうと「思われ」ますが、それを明確にするためには「相手に」とかを入れるべきなんじゃないでしょうか。日本語の使い方を指導する本であれば、誤解の余地がない明瞭な記載を心がけるべきかと思います。

10.遊廓と日本人 田中優子 講談社現代新書
 吉原遊廓の沿革、文学や記録に描かれた遊女、吉原文化、年中行事等について解説した本。
 吉原を初めとした遊廓をどう捉えるかについて、冒頭とあとがきで、ジェンダーの視点と伝統・文化に引き裂かれる著者のスタンスが記されています。「遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」(3ページ)、「遊廓は、家族が生き残るために女性を、誰も選びたくない仕事に差し出す制度でした。同じようなことを今日の私たちはしていないのか、と立ち止まる必要があると思います」(7ページ)としつつ、同時に「遊廓は日本文化の集積地でした」(7ページ)、「遊廓では一般社会よりはるかに、年中行事をしっかりおこない、皆で楽しんでいたこと。それによって日本文化が守られ承継されたという側面」(8ページ)とする著者には、遊廓に対して学者として研究対象に向ける愛着が感じられます。著者の中ではそれは矛盾するものではないようです。著者は、「遊廓がなければ、芝居から排除された女性たちは踊り子として、芸者衆として、町の中で芸能や師匠をしながら生きていたでしょう」(165ページ)、「他の社会であれば、遊女たちが別の面で才能を発揮し、日本の文化と社会に大きな貢献をしたのではないかと考えると、とても残念な気がします。辛い経験の果てに命を絶った遊女や病で亡くなった遊女のことを考えると、悲しいです。しかし同時に、彼女たちは家庭に閉じ込められた近代の専業主婦たちに比べれば、自分を伸ばす機会を与えられたのではないか、とも思うのです」(166ページ)と論じるところでその調和を取っているように思えます。しかし、遊廓がなければ踊り子として「自由に」生きたであろう女性たちがどれくらいいたと評価できるか、それと遊廓の遊女/娼婦の数、ましてや専業主婦の規模を同じ視野の中で語れるのかには疑問を感じます。矛盾は矛盾として残しつつ忘れてはならないことと位置づけた方が、私にはしっくりときます。
 正月に抱え主から遊女に着物が配られる風習を紹介した後「太夫からは遣手にも、身の回りを手伝ってくれる禿にも、着物を贈ります。また遊女からは抱え主に対してもお歳暮としてご祝儀や布を贈り、遊女屋や挙屋の従業員たちにも祝儀を配ります」という記述が「まさに贈り物文化です」と評されて結ばれています(101ページ)。高級遊女はそういった費用をすべて客に転嫁できたのかもしれませんが、年季・前借り金で拘束されている遊女には、そのような風習自体が身柄の解放を大幅に遅らせる縛りではなかったのでしょうか。そこをあっさり、文化と肯定的に賞賛されると、違和感を持ちます。
 吉原に通う客の方もさまざまな嗜みを求められたという中で、「髭は徹底的に抜きます」(63ページ)というのが、毛深いおっさんには衝撃的でした。まぁ、遊廓はもちろん、お金持ち/お大尽の遊興場など行きたいと思わないので、私にはどうでもいいことですが。

09.場所からたどるアメリカと奴隷制の歴史 クリント・スミス 原書房
 トーマス・ジェファーソンの所有していたモンティチェロ・プランテーション(ヴァージニア州)、鎮圧された奴隷反乱後のさらし首を再現するなど当時の奴隷小屋と奴隷の生活を展示するホイットニー・プランテーション(ルイジアナ州)、「奴隷解放」後陪審員の全員一致でなくとも有罪判決を言い渡せる仕組みの下で大量の黒人囚人を収監し労働力として貸し出していたアンゴラ刑務所(ルイジアナ州)、奴隷制度を守るために戦った南軍の兵士を埋葬するブランドフォード墓地(ヴァージニア州)、北軍将軍ゴードン・グレンジャーが奴隷解放宣言を読み上げたと言われているガルヴェストン島(テキサス州)、南北戦争で自由州を名乗りながらその実奴隷制度により発展しウォール街が南部の奴隷制度を支えていたニューヨーク、奴隷貿易の拠点だったゴレ島(セネガル)を著者が訪ね、現地での歴史を語るツアーに参加するなどして、奴隷制度を語るガイドの様子やガイド等との問答を描写しながら奴隷制度の過去と現在を報じた本。
 現地でガイドをする人たちの姿勢、葛藤、逡巡、反発等を描くことで、奴隷制度の過去と現在をめぐる実在の生身の人々の思いを浮かび上がらせ、最後には著者自身が祖母たちと語り合う中で歴史や知識だった奴隷制・人種差別が自分の家族の物語だったことに気づくエピローグを配することで、問題意識を身近に感じさせる巧みな構成が取られています。
 他方、一般に反奴隷制の立場の偉人と扱われるトーマス・ジェファーソンやリンカーンにせよ、南軍の英雄ロバート・E・リー将軍にせよ、ツアーのガイドにせよ、著者が気に入らないというか苛立つ様子が目につきます。それは立場上仕方ないこととも思えますが、トーマス・ジェファーソンが妻の死後再婚しないという誓いを16歳くらいだった女性奴隷に6人の子を産ませることで守ったことや奴隷所有者として多数の奴隷を売り払って家族を離散させた、黒人を差別し劣った存在と論じていた、リンカーンも黒人と白人の社会的・政治的平等には反対していたということを採り上げて非難する書きぶりには、私は違和感を持ちます。そういうことを知っておくことは有益だと思いますが、それはむしろガイドの人たちが指摘するように、複雑な一面と捉える方が大人の感性ではないでしょうか。もしトーマス・ジェファーソンやリンカーンが、著者が好むような平等主義者でそれを表明し貫いていたとしたら、そもそもその時代に大統領になることも、政治家として力を持つこともできず、彼らが成し遂げたこと自体が実現できなかったのではないでしょうか。
 そのあたりのせめぎ合いが読みどころにもなっているような、読んでいて息苦しく感じる点でもあるような気がしました。

08.日本の虐待・自殺対策はなぜ時代遅れなのか 吉川史絵 開拓社
 虐待や自殺・他殺願望を知った専門家に通告義務(同時に守秘義務の解除)を課し、行政、医師、教育従事者、警察等がチームを組んで積極的に介入していくアメリカ(カリフォルニア)での取り組みを紹介し、日本でも同様の取り組みを実施するよう勧める本。
 タイトルにある「なぜ」の部分に言及しているのは、自殺対策について本人の意思、自主的な気づきを重視する日本でのカウンセリングが、「日本の文化に仏教思想が根付いていることと、河合隼雄というユング派の著名な学者が存在したからだと考えられます」(105ページ)としている点くらいで、それも「ではないか、とする研究者もいます」(109ページ)、「河合隼雄によるこうした影響で、日本での心理支援は問題解決に向けた変化よりも、丁寧に話を聞いてくれたとクライアントに思わせて、安心感を与えることを重視するカウンセリングのレベルにとどまることになったようです」(110ページ)というところにとどまっています。
 どちらかといえば「なぜ」時代遅れなのかというよりは「どのように」「いかに」時代遅れなのかを指摘する本だと思います。
 日本ではカウンセラーの資格が統一されず、民間資格やさらには資格もなしにカウンセラーを名乗って開業できて怪しげな連中が跋扈している(14~17ページ)、資格を統一して倫理違反に対して厳しく対応すべきだ(209~221ページ)と主張しているところは、同業者には厳しい意見ですが、正論でしょう。
 アメリカで事件が起こったときにそれで法律を変えて対応できる理由を判例法主義だからとしている(157ページ)ことには、疑問を持ちました。著者がその例として取り上げている2004年のイウィングとゴールドステインの事件の判決にしても、事件が起こったのは2001年と書かれています(158~159ページ)。アメリカの裁判は迅速だと誤解している人が多いですが、事件の衝撃で立法するなら事件後3年も経って出た判決を待たずに議会がさっさと立法すればいいのです。判例法主義だから事件ですぐ対応できるというのは実態に合わない意見だと思います。

07.EU司法裁判所概説 中西優美子 信山社
 EU司法裁判所の構成、権限、手続、取り扱われる訴訟、各国裁判所との関係などについて解説した本。
 EUという国家連合/国際的な組織において各国の裁判所と別に存在するEU司法裁判所がどのような存在でどのように機能するのか、興味深いところで、それがコンパクトな本で解説されており、いくつかはその判断の実例が紹介され、最後には判決文の1つが掲載されていて、勉強になりました。
 弁護士の立場からすると、各国での裁判(日本の裁判でいえば、通常の民事・刑事の訴訟)の中でEU法がどのような場面でどのように問題となり、その裁判の過程で裁判所がどのようにEU司法裁判所に判断を付託し、そこに当事者やそれ以外の者がどう関与していくのか、つまり通常の裁判の中でEU司法裁判所がどのように利用され、どのような影響を現実に与えるのか、そしてEUの機関の行為を争う事件(日本の裁判でいえば行政訴訟・取消訴訟)はどのような問題について誰が提訴できて実際にはどんな展開でどういう判決が出るのか、具体的事件の顛末を数件程度詳しく紹介した上で説明してくれれば、グッとわかりやすくなったのではないかと思います。
 制度や法的概念、用語が日本のものとは異なるところで、その説明が今ひとつなされていなかったりわからなかったりして、日本の裁判でいえば何に当たるのか、日本にまったくない制度・概念なら日本のものとどこがどう違うのかが、読んでいて理解できないところが多々あります。EU司法裁判所には裁判官の他に法務官がいて、裁判官と同等と説明されるのですが、この法務官が結局どういう役割を果たしているのか(裁判官の判決と別に法務官が「意見」を出すようですが、その意見はどういう位置づけで法的にあるいは政治的にどういう意味があるのか)私には理解できませんでした。たぶんこの言葉はふつうに日本の制度でいえば別の言葉だよな(たとえば90ページの「不作為確認訴訟」って日本の法律概念では「不作為の違法確認訴訟」だろうねとか)と思いつつもどこか違うかもしれないしその違いがわからないのでモヤモヤ感・隔靴掻痒感が残ります。また、通常の日本語以上に主語・目的語が省略されているところが多く、日本語として疑問に思うところ、誤字、変換ミスが目につくのが残念です。

06.証拠法の心理学的基礎 マイケル・J・サックス、バーバラ・A・スペルマン 日本評論社
 アメリカでの裁判における証拠法、例えば不公正な予断を与えるような証拠(ぞっとするような写真とか)を陪審員に見せないとか、特定の証拠を特定の事実の認定に使用してはいけない(被告人の前科を被告人が現在訴えられている犯罪を犯したという認定に用いてはならないとか、事件後改善策がとられたことを所有者・管理者に過失があったことの認定に用いてはならないとか)とか、違法に収集された証拠は考慮してはならない(陪審員は見ても忘れるように!)とか、伝聞証拠は原則として証拠にならないとかについて、心理学者の立場から、そのルールが心理学的に妥当性を有するか、認定に使わないようにと指示された陪審員はそれに従えるか等を論じた本。
 著者の心理学者としての証拠ルールに対する意見(賛否ないし妥当性)が、それほどはっきりとした形で書かれているわけでもないので、モヤモヤした感じが残りますし、心理学研究・実験の常として実験条件の妥当性の評価は難しいところ、この本は心理学そのものの本ではないこともあって紹介されている実験の条件は詳しく説明されなかったり標本数が少なかったりでスッキリなるほどと思えるという印象はあまりありません。
 「真実を語っているかまたは嘘をついている話者のビデオ録画による信用性評価について、裁判官の正確性を(警察官や他の種類の専門家とともに)テストした数少ない研究の1つがある。テストされたすべてのグループで、概ね偶然レベルにとどまる成果しか見られなかった(つまり、コイントスによって判断した方が良かったということである)」(69ページ)という記述(同様の、より詳しい記述が155~158ページにもあります)は、ある意味で興味深く、もし裁判官が自分は証人の嘘を見抜く能力があると考えているのであればこういった研究データを知って謙虚になっていただきたいということではあります。しかし、他方で、裁判実務に携わっている者の感覚として、裁判官も弁護士も証言等の信用性を評価するときに、証言の際の態度を中心に考えることはあまりなく、客観的な証拠や前後の経緯等からみてどの程度現実的かの方に比重を置いていると思います。そのあたりで、心理学者が注目するところと裁判実務の発想・感覚のズレを感じます。
 指紋の一致について、イギリスの指紋専門家5名に、その人が過去に担当した事件で「一致する」と報告した指紋についてそうと知らせずに、「最近FBIが誤ってスペインで爆弾を仕掛けたテロリストの指紋をオレゴン州の無実のアメリカ人の指紋と結びつける判断をした」と告げて、その判断とは関係なく評価するように求めたところ、過去の見解を維持したのは1名だけだった(260ページ)というのは、注目しておきたいところです。一般に確度が高いと考えられている指紋鑑定でさえ、信頼性はその程度だったとは。

05.世界が青くなったら 武田綾乃 文藝春秋
 「奇跡が起こる店」「自己満足を売る店」を舞台にパラレルワールドが交錯し、ありえた自分とあり得た近しい/会いたい人の関係を夢想する人々を眺める仕立ての小説。
 サン・テグジュペリの「星の王子さま」の世界を下敷きにしつつ、私にはどこか「ハウルの動く城」をイメージさせるような(「動く城」はまったく出てこないのですが)作品です。
 「人生には明らかにヤバいと本能で察する瞬間が何度かある」として、挙げられる例が「例えば、あと五分で家を出ないといけないのに、寝癖がとんでもなかった時、或いは、鍋に少しだけ醤油を足そうとしたら、思いのほか大量に中身がでた時」(214ページ)とか、受け狙いなんでしょうけど、パラレルワールドの存在や黒猫が返事をするくらい、それに比べればヤバいことではないという位置づけなんでしょうか。
 異変が起こったとき世界が青い光で満たされたというのは、臨界事故の時のチェレンコフ光のイメージでしょうか。
 いろいろに勘ぐって/夢想してしまう作品でした。

04.まさかの日々 中野翠 毎日新聞出版
 著者が「サンデー毎日」に連載しているコラムの1年分(2020年11月15日号~2021年10月31日号)を出版した本。
 1985年から連載が続いているそうで、記録的な長期連載、毎年12月に1年分が出版されるのが定例行事化しているのだそうです。私は全然知らず、初めて手にしたのですが、読まれ続けるというか長期連載が可能なコラムというのは、自分の意見を前に出しつつ手厳しい批判は避けて多方面に配慮している、私の目には無難な余り毒のないものにならざるを得ないのだろうなという印象を持ちました。
 コロナ禍の下という事情があるのでしょうけれども、テレビ番組に関する話題が多くを占め、大相撲のほぼ全裸で飛沫を飛ばしあっての濃厚接触への関心が目につきます。ネタ探しへの苦しみも感じられ、もろにテーマにするときは、前にも書いたがと断ってはいますが、ほぼ同じフレーズを目にすることが多々あります。週1で読んでいればそれほど気にならないのかもしれませんが、一気読みすると、また同じこと繰り返し言っているよねと感じます。同じ人物が書いている以上、関心もさほど変わらずボキャブラリーの範囲もありますから、それは仕方ないですし、高齢者は同じ話を繰り返しがちでもありますから…

03.運命の絵 もう逃げられない 中野京子 文春文庫
 著者が選んだ名画のテーマ、成り立ち、画家の生涯などの背景事情を織り込んだ絵画評論集。
 私が見つめても気がつかない(文庫サイズでは豆粒どころかごま粒大のものやページの継ぎ目に埋もれたりして見えなかったりもしますが)細部の解説に、専門家のこだわりというか執念を感じます。知らなかった絵を見られたり、よく知らなかった画家の人生を垣間見たりできたのも収穫でした。印象としては、紹介されている画家は優雅な人生を送った者が多かったようです。私はどうも生前世間の理解を得られずに不遇を託った画家の方に興味を持ってしまうのですが。
 直接取り上げた絵だけじゃなくて関連して紹介されている絵も興味深いのですが、「メデューズ号の筏」(テオドール・ジェリコー)491×716cm(36~37ページ)、「ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン」(アントワーヌ=ジャン・グロ)523×715cm(142~143ページ)って、壁画・天井画ならともかく、ルーヴルにはそんなでかい絵があるのかと驚きました。
 さまざまな運命があるとは言え、どこがどう「運命の絵」なんだろうと疑問に思えます。絵の選択基準は、著者の好みなり思い入れなんだろうと思えるのですが。

02.女たちが死んだ街で アイヴィ・ポコーダ ハヤカワ・ポケット・ミステリ
 ロサンジェルスで起こった15年前の街娼ら女性の喉を切り裂く連続殺人事件と、再度起こった同様の手口の殺人事件を題材に、15年前に喉を切られたが生き残ったフィーリア、娘を殺害されたドリアンの訴え・恨み言を通じて、通りや怪しげな店で売春をする女性達に対する人々の蔑み、警察の無気力・無関心を描いた小説。
 裏表紙の紹介では「女性たちの目線から社会の暗部を描き出す、エドガー賞最終候補の傑作サスペンスミステリ!」とされていますし、冒頭には「歯に衣着せぬフェミニストで、女性の性と生殖に関する健康の分野における先駆者で通りで働く女性たちの理解者でもあったフェリシア・スチュアートの思い出に。」という献辞もあるのですが、女の敵は女的な描き方もあり、フェミニズム作品と思って読むとちょっと違うかなと感じます。ミステリー作品としては、布石も謎解きも十分とは言えず、サスペンスとしては刑事が犯人に迫っていく過程が丁寧に描かれていなくて物足りなく思えます。
 訳者あとがきでは、他の作家の「読みだしたら止まらない物語」という言葉(厳密には「この作品がそうだ」とは言っていませんが:378ページ)を掲載し、自身も「本書は(略)ページターナーです。」と述べつつ(378ページ)、「じつは、著者の筆が進まなかったり、著者自身があまり好きではなかったりする部分は、(作業時にその事実を知らなくても)翻訳のスピードも上がらないことがままあるのですが、今回もそれで、翻訳に時間がかかったのも第一部と第三部でした」(388ページ)と書いています。率直なところ、第三部(183ページ~)に入るまでは、だらだらとした展開で、読み続けるのがずいぶんと苦痛に思え、もう投げだそうと何度も思い、どこがページターナー(読み始めたら止められない本の意味)だと、思っていました。

01.原発事故 最悪のシナリオ 石原大史 NHK出版
 危機管理においては最悪のシナリオを想定し、それを回避するために/あるいは最悪の場合には何をすべきかを検討すべきであるのに、福島原発事故の際には、後に知られた近藤俊輔原子力委員長らの最悪のシナリオが政府に提出されるまでになぜ2週間もかかったのか、またそれ以外に自衛隊や米軍は最悪のシナリオを作っていなかったのかという点を追及したドキュメンタリー。2021年3月6日放送の NHK ETV特集「原発事故“最悪のシナリオ”そのとき誰が命を懸けるのか」の取材を取りまとめたもの。
 たぶんそうだろうという意味では大きな驚きがあるわけではないですが、隠されていた事実のディテールに迫っていくストーリーは迫力があります。
 事故の被害の拡大を防ぎ、より有効な手を打つためということであれば、「最悪のシナリオ」は「事故後速やかに」ではなく、事故前、原発の運転が開始される前に作成・公表されるべきだと思いますが、そういう点には言及されません。そのあたり、叩く相手は今や野党の民主党というところが安易な感じがします。
 この中で、福島事故時自衛隊のブレーンとして助言していた元通産技官が、原子力安全・保安院の幹部に依頼されて2009年に「原子力発電所の稼働率・トラブル発生率に関する日米比較分析」という論文を公表していた、その目的は「そのころ東電はほかの国内の電力会社と比較しても突出して数多くのトラブルを発生させており、保安院の内部ではそれを是正させる必要が議論されていたという。しかし東電は自分たちの技術力を過信し、保安院等の指導に応じないことが多々あった」ので東電の姿勢に切り込むためだった、しかしその論文が出るのと同じタイミングでその幹部は異動となり「論文が保安院内部でまともに取り上げられることはなかった」と紹介されています(191~192ページ)。私には、福島事故前にこういう保安院内での動きや暗闘があったということが、実は一番興味深く読めました。

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