庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2024年7月

33.~40.珈琲店タレーランの事件簿 1~8 岡崎琢磨 宝島社文庫
 京都市中京区富小路通り二条上がるにある珈琲店タレーランを切り盛りしている1巻時点では23歳(8巻の終わりは1巻の初めの4年4か月後)のバリスタ切間美星が、知人から相談されたり客の話を聞いて日常の小さな謎を解いていくという体裁のミステリー小説。
 語り手の1つ年下の青年「アオヤマ」の語りが、ミステリーの宿命というか作者のクセなのか今ひとつ十分誠実とは言えないこともあり、ほぼ切間美星の魅力で読ませる作品となっています。その切間美星がまっすぐすぎるために「アオヤマ」をいじっているのかも知れませんが。
 作者のデビュー作の1巻は短編連作的な指向で、2巻でそこに通しテーマを入れて長編的な性質も持たせ、3巻はふつうに長編作品、4巻は短編集、5巻と6巻が長編で7巻がまた短編集、8巻が長編と、あちこちに行っているというのか、長編は長編、別途短編集も出すと分けるようになってきているようです。私としては、ミステリーとしては3巻が、ラブストーリーとしては5巻がいいかなと思いました。
 私の個人的な指向と関心からは、(おいしい)コーヒーを入れる専門職人バリスタ(barista:イタリア語)という呼称が、私たちの業界で法廷弁護士を指す barrister (英語)と絡んで興味を惹いたのと、学生時代(って、40年あまり前)に住んでいた京都の地理感が生きて楽しく読めました。

32.バロック美術 西洋文化の爛熟 宮下規九朗 中公新書
 バロック美術についての解説書。
 バロック美術という言葉はよく耳にするのですが、どういうものを指しているのかよくわからずにいました。この本では、ポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味するバローコに由来する、端正で調和の取れた古典主義に対して動的で劇的な様式を意味する、しかしバロックとは西洋の17世紀美術全般を指す時代概念でもあるとされ(はじめに)ルネサンスと啓蒙主義の間に位置する近代と前近代、科学と宗教が同居する矛盾した時代であったとされ、今ひとつ明確な定義というか概念がつかめない印象です。美術史的には、カラヴァッジョ、ルーベンス、ベルルーニ、ベラスケス、プッサン、レンブラント、フェルメールの時代ということで、そういうものとして理解しておけばいいということでしょうか。
 解説は時代や場所を追ってではなく、「聖」(キリスト教美術)、「光と陰」、「死」、「幻視と法悦」、「権力」、「永遠と瞬間」、「増殖」という7つのテーマを切り口としてなされています。私としては絵画論的な「光と陰」、「永遠と瞬間」のような解説が馴染み、作品自体よりも時代背景や聖堂・礼拝堂の由縁等に比重を置いた解説は今ひとつ読みにくくページが進みませんでした。通常目にしない壁画や天井画の画像をたくさん見れたことは収穫でしたが。
 光と陰を強調したカラヴァッジョの様式が多くの画家を惹きつけた背景に「強烈な明暗効果によってデッサン力が未熟であってもそれを糊塗して容易に情景を劇的に仕立てることができた」(64ページ)とされているのは目からウロコでした。

31.ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意 井下田久幸 朝日新聞出版
 ベンチャー企業で、その後東証一部上場企業で、ソフトウェアのコンペで300戦無敗の記録を打ち立てた(2ページ)という著者がビジネスでの心構え等を論じた本。
 「ビジネスコンペ300戦無敗」のサブタイトルで、そのための極意を披露するという売り文句になっているのですが、後半はビジネスコンペという場やそこで勝つということよりも自分はこうして成長してきたみたいな人生訓・ビジネス訓が多く、むしろそういう本として読んだ方がいいかなと思いました。チームにどういう人を選ぶか、というより「仲間に入れてはいけない人」(169ページ)、人からもらうことばかり考えている「テイカー」:「人生でテイカーの人と過ごす時間ほど、無駄なことはない」(170ページ)、理不尽な相手からは即刻離れる(180~182ページ)…こういうあたりの方が、利他とか情けは人のためならずみたいなことを言っている部分よりよほど実感がありました。

30.星を編む 凪良ゆう 講談社
 2023年本屋大賞受賞作「汝、星のごとく」の幼い少女結と2人暮らしする高校教師北原のそこに至る前日譚(今風に言うエピソード0)の「春に翔ぶ」、青埜櫂が書き残した原稿「汝、星のごとく」の出版とそのキャンペーンに賭ける編集者二階堂絵理と植木渋柿の奮闘を描く表題作「星を編む」、その後の北原と暁海らを描く「波を渡る」の中編3作からなる続編ないし番外編。
 「春に翔ぶ」と「波を渡る」が「汝、星のごとく」の読者の関心に応えるものと思いますが、「春に翔ぶ」のどこか意地っ張りな若さ故の勢いでというストーリーを読んでも、「波を渡る」で長年を経て暁海と性的な関係を結ぶに至るなど悟りきっているわけではないというのを読んでもなお、北原の生き様と心境にはついていけない感が残り、中高年男性読者としてはむしろ植木渋柿の視点がなじみやすく、長年連れ添った妻の醒めた諦めの仕草が今度の休みに二人で温泉に行こうと提案したところでじわりと笑みが広がっていきそこへ仕事の連絡が来て妻の笑顔が引っ込む(175ページ)というあたりの描写に微笑ましさと苦々しさを感じました。

29.存在のすべてを 塩田武士 朝日新聞出版
 1991年に横浜市で発生し警察が犯人を取り逃がした4歳児の誘拐事件で3年後に被害児童が祖父母の元に戻ったものの事件の真相も犯人も解明できないまま時効となった後、2021年に担当刑事が死亡したのを契機に、当時取材を進めていた新聞記者が改めて調査をして行くというミステリー小説。
 いかにものミステリー小説の体裁で開始しつつ、次第に画家の苦しみと美術業界の闇に焦点が当てられ、人の生き方、人間愛を考えさせるという方向になっていきます。最初のテンポと中盤の間延び感に少しギャップがあり、つかみで生じる期待で読んでいると失速感が生じます。また、ミステリーとしては、事件後被害児童の復帰までは描かれるものの犯人グループや事件当日の詳細などについては欲求不満が残りました。基本、ミステリーよりもヒューマンドラマと受け止めた方が、読後感がよくなると思います。

18.~28.おいしいベランダ。1~10+番外編 竹岡葉月 富士見L文庫
 大学入学とともに、ダラスに転勤する従姉の留守宅となる練馬のマンションに入居した栗坂まもりが、隣室のベランダで食用に野菜類を大量に栽培する口の悪いモデル級のイケメンデザイナー亜潟葉二に惹かれ、隣室に度々押しかけ自炊の食事のご相伴を重ねるうちに恋人となりという野菜園芸蘊蓄系実食クッキング恋愛小説。
 ときどき視点人物が入れ替わるものの、基本的に栗坂まもり側から描かれていて、若い女性の読者を想定しているのだと思いますが、高年男性の読者には、人の家に押しかけて食事をねだっている者が、ベランダの野菜を取ってこいとか料理の手伝いを指示されたといって人使いが荒いとか度々ぼやくところとか、どう見ても亜潟の側の方がずっと労力かかっているのに何を贅沢なというか勝手なことをと感じてしまいます。むしろ女子大生だとか若い女性だというだけで下にも置かれない待遇を受けるのが当然だと思っているのだな、何様のつもりかなとも感じましたが、そういった栗坂や友人たちの評価が正しいという扱いになっていますし、まぁ世間はそういうものかなと理解しました。
 ベランダ菜園はもちろん、登場する料理も(作者は実際に作ったという描き方ですしレシピも掲載されていますが)実際に自分で作ってみようとは思えませんでしたが、空想レベルではやってみたら楽しいかもとよさげな気持ちを持てる作品でした。

17.ココロブルーに効く話 精神科医が出会った30のストーリー 小山文彦 金剛出版
 精神科医で産業医の著者が診療や相談で出会った事例を紹介し感想等を述べた本。
 統合失調症と診断された妻が失踪し海で溺死体として発見された夫が8歳の娘に妻/母の死亡やその原因を伝えることができずに長らく思い悩む様子(47~55ページ)や、過敏性腸症候群を抱えた受験生に寄り添う幼なじみ(71~80ページ)など、ほろりとくるエピソードが味わい深く思えました。
 また、急に話せなくなり歩けなくなった認知症患者を救急外来の医師は認知症のせいだと判断したが、不審に思った著者が診ると話せないのは顎関節脱臼を起こしていたため、歩けなくなったのは下痢が続いて体内のカリウムが排出されすぎたことによると推測される低カリウム血症とわかったというエピソード(137~143ページ)には、先入観の怖さ、医師という専門家でもそういう事態に陥るという怖さを実感しました。

16.消費者金融ずるずる日記 加原井末路 三五館シンシャ
 中堅消費者金融に勤務して取立や不動産担保ローンの勧誘等に従事していた著者の在勤中の経験と、自らが多重債務者となった顛末などを告白する本。
 著者の勤務先の消費者金融が、本文でもプロフィールでも「デック」と記載されています。明らかに違法な行為をしていたことも書かれているのでぼかしているのかと思いましたが、後半では後にシティグループに買収されてCFJになったとはっきり書いている(161ページ)のですから、素直に「ディックファイナンス」と書けばいいのにと思います。著者が「チンピラ風かつ対面型」でそこに勤める知人は「どう見ても一昔前の田舎ヤクザ」(61ページ)という「E社」は文句を言われるだろうからイニシャルというのはまぁわかりますが(私もかつてはE社の野太い声のH管理部長と夜間に電話で不穏なやりとりをしていました)。
 取立に行って借主(債務者)に他社から借りてでも払ってくれと言ったり(54ページ)、不動産名義人が明らかに認知症患者なのに医者に現金1万円入りの封筒を差し出して「問題なし」の診断書を書いてもらって不動産担保ローンを成立させた(147~154ページ)とか、違法行為をしていたことが堂々と書かれています(後者なんてもう犯罪でしょ)。まぁこういうことやってるだろとは思っていましたけど、実体験として書かれるとやはり重い。

15.はじめてのデッサン教室 60秒右脳ドローイングでパース・陰影がうまくなる 松原美那子 西東社
 60秒間で直感的に形を捉えるドローイングを繰り返すことを勧め、絵に説得力を与えるパース(perspective 透視図法、遠近法)と陰影について解説する本。
 サブタイトルの60秒右脳ドローイングについては、短時間で絵を描くことで右脳を強制的に働かせる練習法(2ページ、18~23ページ)というのですが、考え込むより手を動かせということなのでしょうね。そういわれてもやってみようかと思わないものぐさな読者にはあまり入ってきませんが。
 透視図法を用いて物の奥行きを理論的に(透視図法上)正しく描いたり見えるままに描いても不自然に見えることがあり、そういうときは奥行きは適当に決める、消失点までの長さの4分の1をめやすにする(66~67ページ)、地面や水平線が描かれず物の接地面がはっきり描かれていないと安定感がなくしっくりこない(174~175ページ)など、実践的なアドバイスがあり、参考になります。

04.~14.これは経費で落ちません!1~11 青木祐子 集英社オレンジ文庫
 中堅石鹸・入浴剤メーカー天天コーポレーションの経理部に勤務する1巻時点で入社5年27歳、11巻時点で入社7年29歳の森若沙名子と経理部の面々、営業部の山田太陽らの会社勤めと人間関係、仕事上の駆け引き等と恋愛関係を描いた小説。
 タイトルから、主人公の森若沙名子がごまかしを目論む営業部員が持ってくるいかがわしい伝票を厳しくはねつける場面を予想していましたが、森若は大半の場面で上司が承認しているのならと承認して行き、このタイトルは何だったのかと思いました。タイトル通りの言葉が出るのは、3巻末から登場した「タイガー美華」こと麻吹美華が4巻で山田太陽の出金をはねつけた場面(4巻15ページ。もっともこのときは「これは経費で落ちません」で「!」はなし。文字通りの「これは経費で落ちません!」は、営業部の謎のフィクサー山崎柊一が森若と麻吹との3人での喫茶店代を落としてくれというのを麻吹がはねつける6巻183ページで初登場)。森若が山田にデートのためにデパ地下で買ったお弁当代「経費で落ちる?」と聞かれて「落ちません!」という場面(4巻232ページ)はありますが、これまでのところ、森若が「これは経費で落ちません!」という場面は登場していません(私が見落としていなければ)。まだまだ続きそうですので、これから先に出てくるのかも知れませんが。
 各巻冒頭に6~8名の登場人物紹介がありますが、山田太陽の先輩の営業部員の嫌われ役鎌本は登場頻度割と高いのに1度も紹介されていません。同じく嫌われ役の馬垣和雄は3巻の登場人物紹介に出ているのに。なんだか哀れ。
 文庫書き下ろしなんですが、各巻4話+エピローグ(経理部員佐々木真夕視点の一部振り返りなど)の構成が踏襲されています。5巻だけ、別巻とか外伝ふうの脇役たちのエピソード5話+森若目線のエピソードで、サブタイトルが「落としてください森若さん」になっています(5巻以外は、すべてサブタイトルは「経理部の森若さん」:何のためにこのサブタイトルはある?)。

03.ちくま日本文学 岡本かの子 ちくま日本文学(文庫)
 1936年から1939年にかけて短期間に多数の作品を発表し亡くなった作家岡本かの子の短編・中編集。
 戦前の作品ですが、仮名遣いを現代風に変え、本が新しいというだけで、ずいぶんと読みやすくなるものだと感じました(多分に心理的なもの)。念のために同じ作品が収録されている岩波文庫と見比べるとかなり印象が違います。
 人情の機微やそこはかとない(当時の基準では相当なかも)エロティシズムを読む/味わう作品が多い感じですが、作品中よりも、年譜に表れた作者自身の人生の方が想像力と妄想力をそそるかも。
 息子太郎(岡本太郎画伯)への手紙が掲載されていますが、そのネームバリューを使うためにしても、趣旨を理解しやすくするためにも、太郎からの手紙も挟んでほしかったと思います。

02.水車小屋のネネ 津村記久子 毎日新聞出版
 合格した短大の入学金を母が入金しないで愛人に貢いでしまい短大に行けなくなった18歳の山下理佐が、母の愛人から怒鳴られ閉め出された小4の妹山下律とともに、住み込みで働けるところを探してたどり着いた、そば屋がそば粉をひくために使っている水車小屋で、石臼が空回りして傷むのを避けるために見張りをしている言葉をしゃべるヨウムのネネと過ごした日々(1981年)から、10年ごとにネネと理佐、律、そば屋の夫婦らに新たな登場人物を交えながら2011年の大震災と原発事故、2021年のコロナ禍までの時の移り変わりを描いた小説。
 当初は単にオウム返しに言われた言葉を覚えて繰り返しているだけで意味がわかっているかどうかは不明という扱いだったネネの言葉が、次第にどう考えても意味わかって言ってるねとなってきて、少しシビアに始まったシリアスで現実的なお話が、現実から少し離れたふわっとしたヒューマンというかほのぼの系に変化していく感じです。
 人が世話をしないと生き続けられないネネを中軸において描くことで、世話をする/すべき大人の側での動物や子どもとの関わりと責任、子どもの側の成長と自立といったことを考えさせる作品になっているのだと思いました。

01.魔女狩りのヨーロッパ史 池上俊一 岩波新書
 15世紀~18世紀のヨーロッパでの魔女狩り/魔女裁判について検討し解説した本。
 魔女狩りが、社会の底辺層の嫌われ者・弱者に対して行われたのか、中流層以上の妬まれた者に対して行われたのか、魔女の告発は民衆が妬みであるいは信仰心や良心の痛みから行ったのか、支配層が権力を固めるために行ったのか、支配層・準支配層が政敵を陥れるために行ったのか、そのあたりの説明はいろいろで、シンプルな説明は難しいようです。「はじめに」でも「こうした活発な研究により、ヨーロッパの諸地域の魔女と魔女裁判のありようは徐々に解明されてきているが、全体から眺めるとまだ道半ばで、最終的な像を描くことはできていない」とされています。
 裁判の実例を紹介している第3章を読むと、自白至上主義と共犯者の自白(巻き込み自白)により、簡単に「有罪」とされるようすが、悲しくも情けない。しかし、自白や共犯者の自白が簡単にそして強固に信用されて有罪とされるのは、日本の刑事裁判でも見られることで、笑ってられない気がします。ヨーロッパでは18世紀初めには魔女狩りは終わったとされていますが、アフリカでは19世紀から20世紀にかけてリンチ殺人に近い魔女狩りが続き、今日でさえサハラ以南では天候不順や原因不明の死亡や事故、疫病に絡んで魔女狩りが頻繁に起きていると紹介されています(218~219ページ)。中世の迷妄などと言っていられないわけです(ヨーロッパでも魔女狩りの最盛期は中世ではなくルネサンス期だったわけですが)。簡単に人間の性と言ってしまいたくはないですが。

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