庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2026年5月

16.クマは都心に現れるのか? 小池伸介 扶桑社新書
 クマの大量出没の原因と対策等について論じた本。
 日本におけるツキノワグマの生息数は4万頭とも言われているが正確には把握できておらず(ひょっとしたら10万頭程度の可能性すらある:126ページ)、スカンジナビア半島全体(面積は日本の倍くらい)で約3000頭と考えられていることと比較して生息密度が非常に高く(182~183ページ)、海外では人間とクマが住んでいる場所が離れているためクマ居住地(森林)と人間居住地の間に生態学的堤防(緩衝地)を設ける「ゾーニング」という発想自体がなくゾーニングを実践している国(日本がお手本とすべき国)がない、「人間とクマが隣り合って暮らす状況で、どうやって共存を実現するかは、日本が世界で初めて取り組む課題」だそうです(181ページ)。
 大量出没したクマを民間の猟友会頼みで駆除している現状は出没の原因を放置したままなので解決につながらないし、本来自分の趣味のために猟銃免許を得ただけで市街地でクマを撃つための訓練も受けておらず高齢化が進む猟友会を頼ることに無理があると指摘されています。現在の日本の銃規制の下で猟銃での射撃ができるようになるまでの負担の大きさが44~47ページで紹介されていますが、これだけの手間とコストをかけて免許取得したい人が多数いたりそれを自分には何の利益にもならない(危険だけを負う)クマの駆除に向けたい人がいると期待することが無理というか厚かましいことがよくわかります。
 著者の意見は、以前は人が利用していた里山や森林に人が入らなくなりまた耕作放棄地が増えてクマと人の緩衝地だった場所に人がおらずそこにクマの餌があるためにクマが緩衝地まで出てくるようになって、人の居住地付近までクマの生息地が拡大し、その結果どんぐりの凶作年にクマが餌を求めて人の居住地に至りそこで餌(収穫されずに放置されているカキや生ゴミ)を見つけてさらに市街地まで出没するようになったものなので、対策としては、人肉などの味を覚えた(人を襲った)クマは確実に駆除する(駆除したクマについては駆除してお終いにしないでデータを管理してどういうクマが市街地まで出てきたのか人を襲ったのかをきちんと分析する)、それ以外ではむしろ犬等をけしかけて山に追い返す(人里に行くとイヤな思いをすると学習させる)、クマが出没する地域に餌を残さない、緩衝地を手入れし(下草を刈るなどして見通しをよくする)クマが立ち入りにくくするなどで、再度クマと人との間に緩衝地を確保してゾーニングを実施する、そのためにせめて都道府県レベルで野生動物管理の専門知識を持つ(アメリカのベア・スペシャリストのような)職員を恒久配置(人事異動しない)で確保する(市町村の担当者が困ったらその専門職員に相談する)などを推奨しています。住民や行政の負担を考えると実行は容易ではなさそうですが、ただパニックに陥るだけの現状から踏み出すため有用な指摘だと思います。

15.ジャック・ラカン フロイトへの回帰 松本卓也 岩波新書
 「難解で知られる」(表紙見返し)ジャック・ラカンの理論体系を、フロイトが拠り所とした「五大症例」を切り口として読み解くという体裁の解説書。
 5つの症例について、概ね10ページ前後の症例の紹介、やはり10ページ前後のフロイトの解釈、その後30ページ弱でラカンの解釈の紹介とフロイトとの対比や著者の見方による解説がなされています(最後の「症例狼男」は、フロイトの後に担当したブランスウィックの診療・分析やその後の経緯が長めに割り込みますが)。症例が先にあり、当否は置いても何を言っているかはわかりやすいフロイトの解釈が先行しているので、確かにラカンの見解についてもなんとなくわからないでもない印象はあります。しかし、それでもなお、必要以上に特異な概念/用語を弄ぶような叙述は、わかったような気になっても、本当に理解できたとは、私には思えませんでした。いわゆる「ニューアカ」ブームのとき(1980年代前半!)によく名前は聞いたものの結局1冊も読まなかったラカンについて、いい機会だから読んでみようと思って読みましたが、やっぱり私にはなじめませんでした。
 「難解」ということももちろんあるのですが、そもそもフロイトの解釈自体が、前時代的な家族観を前提とした父性や父親的役割、母性や母親的役割、性行為に向けた欲望と忌避などをめぐる幼少期の経験等で無理くりに断定して行くもので、信奉者の方には悪いけど、「名探偵コナン」の毛利小五郎が起きているときに示す推理みたいな外れた議論に思えます。ラカンの主張は、フロイトを補足するにせよ再解釈するにせよ批判するにせよ、基本的にその延長線で小難しくしているもので、理解したいと思えなくて、読み込んできちんと理解しようと努力する意欲自体が生じません。
 読んでいて、1980年代後半に霊感商法被害弁連が統一教会に対して集団訴訟を起こした際に、霊感商法が統一教会の指揮に基づくものだということを論証する準備書面を書くために、ひと夏かけて統一教会の機関誌類等の資料とともに教理解説書(統一教会では「聖書」とはいわない)「原理講論」を読んだときに、こういう断定的な解釈の提示に、素直で観念論が好きな若者には魅了されるというか「真理だ」と衝撃を受け感動する人がいるんだろうな、私みたいにすれた人間には無理だけどと思ったことを思い起こしました。

14.アカデミー賞入門 松崎健夫 角川新書
 アカデミー賞の歴史、選考方法、過去の受賞と授賞式などについて解説した本。
 アカデミー賞というより、西海岸に映画撮影所が次々と作られハリウッドが映画の本拠となった経緯について、トーマス・エジソンの特許を用いたアメリカ映画の配給や興行網の支配、利権と反対者に対しては暗黒街のマフィアのような存在を実行部隊とする暴力行為も辞さないやり方への対抗にあったという解説がなされています(92~95ページ)。すごい書きぶりだなと思いましたが、やっぱり「エジソンは偉い人」じゃなかったんですね。
 作品賞の選考に関して、最も秀でた作品が受賞するとは限らないという例として、「E.T.」ではなく「ガンジー」が、「スター・ウォーズ」ではなく「アニー・ホール」が受賞したことを挙げています(159~162ページ)。私は、その問題に触れるなら、より納得できず、政治的な思惑が働いたと思われるのは、今なお世界歴代興収第1位に輝く(しかしアメリカ先住民への親近感を示す)「アバター」を差し置いて、今やその作品を覚えている人がどれだけいるのかというイラク占領米軍を讃えた権力媚び媚び映画「ハート・ロッカー」が受賞したことだと思うのですが、この本はそれについて一言も触れていません。もっとも、アカデミー賞とマイノリティ、ポリティカル・コレクトネスの問題に度々言及し、未だに黒人監督の受賞がないことを4ページを費やして書いている(148~151ページ)著者が、女性監督の初受賞がこの「ハート・ロッカー」でのキャスリン・ビグローであることについて本文では一言も触れていない(略年譜でだけこっそり記載:229ページ)ことは、「ハート・ロッカー」の受賞を快く思っていないことを示しているのかもしれませんが。

13.基礎からわかるゲームビジネスの法律実務 増田拓也 中央経済社
 デジタルゲーム(コンピュータゲーム、ビデオゲーム)ビジネスを行うに際して問題となりうる法律とその運用について解説した本。
 例えば有償でアイテム等を得る「ガチャ」に関して景表法関連でコンプガチャ(コンプリート/カード合わせによってレアアイテムを得られるしくみ)の禁止(射倖性)や優良誤認・有利誤認(実際の条件と違う広告表示等)、賭博該当性など、運営に当たってさまざまな検討を行う必要が論じられていて、勉強になります。eスポーツ大会に至っては、ゲームの著作権関係はもちろん、実施場所施設が興行場法の興行場となるか、風営法上の許可を要するゲームセンター等営業になるか、優良成績者への賞金が景表法の賞金規制(10万円以下)を受けるか、参加料を徴収する関係で敗者の出捐金が勝者への賞金に回ると賭博罪にならないかなど、そんなことまで考える必要があるのかと、驚くというか認識を新たにします。全然知らなかったものも含めさまざまな行政規制があり、事業運営にはそれぞれの分野で学び検討することが多いのだと改めて感じました。
 オンラインゲーム課金について未成年者取消の主張がなされることは少なくなく、消費生活センターから返金依頼が来ることもあることが紹介され(26ページ)、事業者側に予防的な対応を勧めています(26~29ページ)。返金請求に対して実際にはどう対応しているのか、事業者側での実情も紹介してくれると、うれしいのですが。

12.音と光の世紀 ラジオ・テレビの100年史 原真 集英社新書
 ラジオ放送の開始から100年を機会に、ラジオとテレビの放送の歴史を振り返った記事。
 「おわりに」で「本書は、2024年1月から12月まで、共同通信に加盟する新聞社に計50回配信した連載記事『音と光の世紀』に、大幅に加筆したものである」と書かれています(224ページ)。50回の配信記事なのに60項目あることからして、追加のオリジナルの記述も相応にあるのでしょう。
 テレビ放送の開始時、当初正力松太郎が国家主義者として公職追放中だったこともありGHQが開設を認めなかったが、アメリカ連邦議会で反共主義宣伝のテレビ版を日本やドイツで始めるべきという声が上がりその主唱者と連携した正力が読売新聞でテレビ推進のキャンペーンを張った上で公職追放解除となると日本テレビ放送網として放送免許を申請、電波監理委員会は初のテレビ予備免許を日テレだけに与えた(100~102ページ)とかは、なんとも生々しい話です。
 他方でNHKについて、アメリカの学者に、政治干渉からの保護を規定した理想的な法的枠組みが存在するにもかかわらず、NHKが提供するのは政治家や官僚を傷つけないような中立的で非論争的なニュースと指摘させ、元NHK視聴者広報室長の「NHKの歴史上、政府与党など政治権力と対立、対峙した例はほとんどない」という発言を引用しています(182~183ページ)。
 近年のバラエティー番組について、元バラエティー演出者に、最近テレビを見ていない「つまんないから。タレントを集めてギャーギャーやってるのを、写してるだけ。つくってない」と言わせたり(122ページ)、元電通のCM企画者にネット広告について「データに基づいて、消費者が歩きそうなところに、わなを仕掛けようとしているだけだ。それで、商品と人との関係ができるのか。最近、良いCMが少ないのはなぜなのかを考えなきゃいけない」と言わせる(154ページ)など、そうだよねと思う記述も多々見られます。
 対象となることがらが長期間の多岐にわたることなのでもう少し突っ込んでほしかったりあれにもこれにも触れないの?と思うところも多々ありますが、放送を手際よく振り返るには手頃なものと思います。

11.パンデミックの記憶・・・隠れたヒーローたち 平出敦 プロネスティ
 2019年に医療過疎地域で医療を支える医療従事者を支援する目的で設立されたNPOわれらはふるさと医療応援団(以下、単に「NPO」と記載)の代表者である著者が、コロナ禍の最前線ではなく後方の医療機関等で関わっていた者たち、具体的にはダイヤモンド・プリンセス号乗客のために船外の検疫所会議室で服用薬の調剤に当たった薬剤師、NPOメンバーの日常業務、大阪府医師会会長、民間患者搬送会社社長、大学病院救急センター長、大阪市消防局救急課長、NPOでワクチン接種ボランティアをした者・保健所支援に参加した者、地方都市の消防本部の救急救命士等の話を聞いたり、奈良県の山間部でワクチン接種ボランティアに従事した際の著者自身の経験を書き綴るなどした本。
 すぐに思い浮かぶところ以外でもさまざまなところでさまざまな人がコロナ禍に対処し苦労していたのだなということが感じられます。最前線で闘っていた人でないということや記録時期が遅いということから事実のすごみや生々しさはあまり感じられず、やや抽象的な感じではありますが。
 各章ごとに、扉でカミュの「ペスト」を引用し、ご丁寧に章の終わりで再度その引用部分の台詞が語られた場面の説明をしています。コロナ禍での現実の苦労話が小説のフレーズと解説で区切られ、それがアクセントになって読み物として読みよいと評価する人もいるでしょうし、これでは紹介されている人々の経験は著者の文士気取りの自己満足の材料のように見えてしまうと感じる人もいるでしょう。

10.HOKUSAI ぜんぶ、北斎のしわざでした。 葛飾北斎 青幻舎
 2025年9月13日から同年11月30日にかけて行われた展覧会「ぜんぶ、北斎のしわざでした。」の公式図録。
 葛飾北斎の作品のうちいわゆる浮世絵でない書物(画集、挿絵)になったものを集めたもので、有名な「北斎漫画」、「富嶽百景」や「東都勝景一覧」、「画本東都遊」などのほか、「北斎画譜」、「北斎写真画譜」、さらには私には初見の「一筆画譜」、「日新除魔図」など、書籍形態のものにも見るべきものがあることがわかります。もっとも、たぶん展覧会で見せられるのではあまり興味を持てず流し見るだけでしょうから、こうして画集として手にとって見る方が価値がわかるというものだと思います。
 「富嶽百景」のあとがきで75歳の北斎為一改め「画狂老人卍」は70歳以前の自分の絵は取るに足りず、80歳でますます上達し90歳で奥義を極め100歳で神の域に達しという趣旨を書いていたそうです(239ページ)。75歳でその向上心と自負というか強い意欲を持てることに頭が下がります。
 北斎の「富嶽三十六景」を見ても「富嶽百景」を見ても、(そうでないものもないわけではないのですが)ほとんどの富士が山頂の形が鋭角に描かれています。実際に見える富士の山頂は平らな部分があり、また角度は135度くらいです。他の絵師が描く富士はみな(少なくとも広重とかは)山頂に平らな部分があり角度は135度~120度くらいです。北斎の富士は、特異な意匠に見えます。変形して尖らせた方がアピールすると考えたのでしょうか。

09.深海の地図をつくる 五大洋の底をめぐる命がけの競争 ローラ・トレザウェイ 柏書房
 日本財団が2017年に立ち上げた2030年までに地球のすべての海底を網羅した地図を完成させるという Seabed2030プロジェクトと、五大洋のすべての最深部に到達するファイブ・ディープスに挑戦する探検家ヴィクター・ヴェスコヴォのチャレンジを中心に、海底測量の現状と今後の見通しなどを解説した本。
 現在地球全体について作られている海底地形図は人工衛星からの重力測定に基づく推定によるものでその解像度は4km四方が限界で(31~34ページ)、より精度の高い海上音波探査により測定されたのは全海底の15%程度で(43ページ)、海底地形図は月や火星の地形図よりも後れをとっているとされています。
 音波探査の測定データも船の揺れ等によりエラーが多数発生し、どれをエラーとして削除するかは海底地形図制作者(ocean mapper)のセンスによるところが大きく「たとえ同じデータセットを使っても、異なる二人がそれぞれ作成した海底地形図は、決して同じものにはならない」のだそうです(167ページ)。さらに言うと、この本では海底の表面の高さ(深さ)だけしか触れていませんが、海上音波探査では海底の表面の下の地層や断層も測定してその図面を作成し、原子力施設の立地の際には近隣の海底の断層(活断層)評価をしています。仕事がらそれを見る機会が多いのですが、できあがった図面の解釈もまた読み方のセンスの問題があって、私が見ても全然判別できないものが専門家には明白だとされたりして苦慮します。こういうのを、AIにやらせた方が一律明瞭でいいと考える人も特に今どきではよくいると思います。私は、AIにやらせることでならして平均レベルにするよりも専門家の知識とセンスで高いレベルものが残る方がいいと今のところ考えていますが。
 海外のジャーナリストの著作だけに、日本財団に関して、「笹川はモーターボート競争による一大ギャンブル王国を築いて財を成し、また『ヤクザ』と呼ばれる日本のマフィアと右派政党が驚くほど複雑に絡み合う世界で、ある種のキングメーカーとして活躍してきた」などの遠慮ない記述がなされ(96~98ページ)訳者が弁解の補足をしていたり(99ページ)、海底地形の命名に政治的な思惑が絡み「最も粘り強い申請国は中国と日本」(201ページ)とか、海底地形図の作成が海底資源の大規模採掘とそれによる環境破壊につながること(第10章)などが指摘され、少し目を開かされます。

08.地図とデータで見る砂漠の世界ハンドブック ニノン・ブロン 原書房
 世界の砂漠について、気候、自然的・歴史的な形成、地下資源とその開発・抗争、居住の実情と歴史、文化、観光等のさまざまな面から解説した本。
 豊富な地図・図表が売りの本で、眺めているだけでも楽しく勉強になる気がします。しかし、その図表を本文の解説が使い切れているか若干の疑問がある上に、図表の配置が本文と合っておらず(本文と順番が逆)とんちんかんな場所に置かれている例が散見されます(少なくとも、89ページのドバイと91ページのガダーミス、101ページのトルクメニスタンと103ページのリビア、119ページのウランバートルと120ページのエル・ウェド、123ページのカナダ北極圏と125ページのアフリカの角、149ページのオーストラリア(クンプピンティル湖周辺)と151ページのイヌイット歴は逆にすべきことが明らかで、編集者が本文を読んで配置しているのかさえ疑わしくなります)。
 さらに大気循環の図には愕然とさせられました。

     《大気循環とゾーン砂漠と題する図に赤の×を書き込み》
21ページに掲載されている図に地球の大気循環が図示されているのですが、赤と青の矢印で図示される大気循環12のうち8(図中に赤の×を付けました)が間違い(大気移動の方向が逆:逆回り)です。ハドレー循環は赤道付近で太陽光による加熱(温度上昇)を受けて上昇気流が生じることによって生じるのに赤道の南側(南半球側)では赤道付近に降りてくる下降気流を描くという発想がどうして出てくるのか、フェレル循環で緯度30度付近は下降流と下向きのらせん矢印を書いているのに北半球で北緯30度付近の北側に上昇流を描いたり南半球に至っては南緯30度付近の両側(北側も南側も)に上昇流を描くってどういうセンスなんでしょう。少なくともこの図を描いた人が大気循環(地球科学や気象ではかなり初歩の知識ですが)をまったく理解していないこと、本文を読んでいないことは明らかです。それをチェックする人もいなかったのでしょうか。29ページにも大気循環の図があって、そちらでもハドレー循環の南半球側と、北緯30度~60度の循環の2か所は同じ間違いを犯しています(南緯30度~60度と南緯60度以南は正しくなっています)。
 こういう科学知識の初歩部分で誤りを繰り返されると、ほかの点も信じてよいのか不安になりますし、図表の扱いが雑な本だなと思いました。

07. 「地震」と「火山」の国に暮らすあなたに贈る大人のための地学の教室 鎌田浩毅 ダイヤモンド社
 地球の成り立ちと内部構造、プレートテクトニクス、マグマ、火山噴火(巨大噴火)、超巨大地震等について解説し、今後への備え、考え方を説く本。
 東日本大震災の刺激を受けた日本列島が1000年ぶりの「大地変動の時代」にあり、近い将来、2030年代あたりに南海トラフ巨大地震が起こりそれで揺すられた富士山が噴火する恐れがあり、また首都直下地震がもういつ起きても不思議ではないというのが、この本での著者の警告です。
 地球温暖化について、温室効果ガス(二酸化炭素など)の増加により平均気温が上昇していることはかなり正しいが、大噴火が起こると火山灰の大気中拡散で一気に寒冷化するところ、20世紀後半は大規模噴火が特異的に少なかった、太陽の黒点は11年周期で変化するところ今は増加する(温暖化の)時期にあるがこれから減少する(寒冷化の)局面に入る、長期的には今は間氷期で地球はゆっくりと氷期に向かっている、脱炭素を行け行けドンドンで推進して大丈夫かという危惧感が表明されています(68~72ページ、379~382ページ)。私自身は、子どもの頃に地球は寒冷化している、氷河期が来ると言われていた記憶があり、そういった感覚からは著者の指摘はなじむのですが、何というか、どうもこの議論には科学者間の予算(研究資金)のぶんどり合戦のきらいを感じてしまいます。
 「『火山が噴火して災害を起こす前に、地面に穴を開けてマグマを出せばいい』という意見もよく耳にしますが、それもできない。そもそも穴を開けられないし、できたにしても、それがきっかけで大きな噴火となったら、もう手が付けられません」(385ページ)。火山の専門家の現在の見解でも、まだ「グスコーブドリの伝記」のブドリの英雄的な行為は実現不可能な空想の域を出ないのですね。

06.子どもはどのように音を聞いているか 育ちを支える「保育の音環境」 嶋田容子 新曜社
 子どもの発達過程で静穏な環境が必要として、保育施設の騒音特に音圧レベルと残響時間の改善を提言し、建築設計段階での対応や吸音工事の実施、それがコストの問題で困難な場合でも手作りの吸音材の取り付けなどをしてすぐに対応すべきことを論じた本。
 第1章で子どもの聴覚の発達の過程での特性として生活雑音/背景雑音の中で特定の必要な音を選んで聴き取る選択的聴取と音が聞こえてきた方向を判断する音源定位が苦手であることが説明されています。心理学系の本にありがちなものとして、ここで示されている実験のサンプル数や結果の程度からその結論を導いていいのかに、門外漢として少し疑問は残りますが。そこから騒音環境の下では子どもの言語発達の遅れや注意や意欲の低下、コミュニケーション能力や学習能力の発達に支障があることが論じられています。子どもが大きな声を出して話すことについて、子どもがそうしたいからするのだと思いがちですが、それが大きな声を出さないとコミュニケーションがうまくいかないからそうしている(そのような経験をしているから騒音環境以外のときもそうするようになっている)かもしれないとしたら、それは一考を要することかなと思います。
 この本の主張は、子どもの発達への影響を言って保育施設の構造と施設内の音環境の改善を求めることにありますが、最初に説明された選択的聴取の関係で子どもと話すときに静かな環境で話す/テレビ等は消す、自分が声を落とすことなども言われていて、そちらの方になるほどと思いました。Q&Aで子どもにはピアノの音は音量が大きすぎて声を覆い隠すことがある、右手のメロディと左手の伴奏が子どもの耳にはただの混濁した音に聞こえ大人が思うように美しい響きとして聞こえていない可能性がある、ピアノ、先生の声、他の子どもたちの声も混じり合ってくると音色や音楽を味わうどころか音の洪水に圧倒されてしまう、ピアノを使うならマットなどで響きを抑え片手のメロディや短音を味わうことを試みるべき(117~118ページ)など、現在の音楽教育を根底から覆すような提案もされています。ここまで言うのなら、むしろそちらの方をQ&Aの1項目でさらりと触れるのではなくより詳しく展開して欲しかったと思います。

05.3934km 国境を越えて フアン・カルロス・ケサダス Type Slowly
 生まれてすぐに両親と離れ祖母の元でエルサルバドルの海岸の町ラス・ボカニタスに暮らしていた9歳の少女マリア・イレーネ・マダリアガ・マダリアガ(通称ネコ)が、町のギャングに祖母を殺害されてサン・サルバドルのサン・パトリシア孤児院に引き取られたが、ネコに性的な行為をしようとしたトム神父を殺害して修道女のダヤンとともに逃走して両親が行方不明になったと聞かされているデンバーを目指すという小説。
 貧民・移民がどれほど虐げられているか、どれほどの危険にさらされているかがテーマです。
 苦労してエルサルバドルとグアテマラの国境を越えたネコが「国境というものが、世界でもっとも愚かな嘘のように思えた」という場面(115ページ)、途中からネコとダヤンを支えてくれた娼婦のソチトルがメキシコまで送り届けた後にネコとダヤンのこれまでを聞いて「私たちはずっと嘘をつかれてきたわ。国境、神、愛、肌の色…、人生のすべてに!」と叫ぶシーン(134ページ)などに、感じ入りました。
 たまたまネコに駐車中の車を貸してくれと言われただけのソチトルがあまりにも多くの犠牲を払ってまでネコとダヤンを助けるのは、作者にとってはそうでもしないと10歳にしかならない少女がエルサルバドルからアメリカまでたどり着くということが荒唐無稽になるということなのでしょうけれども、現実世界でそこまでのことがありうるとは考えにくく、作品の重みを削いでいるように感じてしまいました。同時に、それが娼婦のソチトルにより実行されることに、同じく底辺を生きる者の心意気や献身性を見て涙ぐみました。

04.禁忌の子 山口未桜 東京創元社
 救急搬送されてきた遺体が容貌のみならず体の隠された部分まで自分とうり2つであったことに不審と不安を抱いた兵庫市民病院の救急科医師武田航が、同僚の看護師からトラブルを相談したらすぐ解決してくれると評判だと言われて、同じ病院の消化器内科医で実は武田と中学の同窓生の城崎響介に相談し、謎の遺体の正体と自分との関係を調査し始めると調査先でもキーパーソンが謎の死に至り、というミステリー小説。
 作者自身が現役の消化器内科医ということもあり、医療ミステリーとしては違和感もなく、新人(本作がデビュー作)ではありますが文体も読みやすくさらさらと読めました。
 ただ、ミステリーとしては、この謎解きを成り立たせるのであれば、生島リブロクリニック(「主な登場人物」の次に「平面図」掲載)の入口自動ドア付近に備え付けられた防犯カメラ映像を武田と城崎が院長の生島蒼平とともに検分しているシーンの記述(179~182ページ)を説明できるのかに、私は疑問を持ちます。謎解きの過程で城崎はそこに言及しません(260ページで城崎は、生島リブロクリニックでの事件当日の鍵を握る重要人物「X」を「中待合に向かっても自然で、疑われない人物」としていますが、それは総務部主任の黄信一の「不審な人物は誰も中待合に向かっていない」という証言との矛盾がないことしか意味しておらず、その人物の防犯カメラ映像が城崎と武田の検分時に引っかからなかったことにはつながらないし説明になりません)。防犯カメラ映像がないと城崎の「背理法」推理の前提があやふやになってしまいミステリーとして説得力を欠くことになるのでこの作品では防犯カメラ映像は必須だったと思いますが、そうした以上は、「X」の防犯カメラ映像を城崎と武田がなぜ見過ごしたのかを説明する必要があると思います。

03.舞う砂も道の実り 井戸川射子 文藝春秋
 家族も故郷もないと言い見知らぬ者と一夜限りの同衾をしながら旅する乳歯が全部抜けた頃合いの少年ワオスリと、子を産んだときに双子だったのに1人をその場で何者かに連れ去られたと言い閉経を機に手元に残った1人の子を夫に託して行方不明の子を探しているダエ、両親と姉妹兄弟が次に住める移住先を探している青年イフンが旅をする日々を描いた小説。
 3人が旅の過程で何人かに出会い交流して生じるできごとを、3人の視点での語りをつなげる形で綴っています。会話と視点人物の脳内での思考を発言にしないまま垂れ流したものと地の文が混在する「私的応答」(2026年4月の読書日記22.で紹介)と同様の文体(ただし、「舞う砂も道の実り」の方は、場所は特定されていないものの外国の設定なので、関西弁ではなく標準語)で、やはり読みにくい。
 イフンが旅の途中で一時合流したマレーに恋するのですが、マレーの一人称が「僕」で同性愛ということなのでしょうけど、特にそれを明示しないというか、ごく当然のことで気にするまでもないという扱いがなされています(しばらくは、マレーは自分を「僕」と呼称する女性かとも疑ったくらい)。ワオスリが見知らぬ相手と性交する場面(35~38ページ)ではその相手を「相手」「この人」「その人」、「性器」「性技」とし、老人バウムから肉体関係を求められる場面(155~158ページ)でもバウムを「老人」「師」「この人」、「触りたい」「体の関係」「股」とするなど性別を示さないこだわりを見せている(ただし、その後ワオスリを「少年」といちゃつかせてもいますが:55~57ページ)ことと合わせ、同性愛も異性愛も等価で、どちらかを気にすること自体不要(やぼ)とされているのかなと思いました。それはそれでひとつ突き抜けているのかなと。

02.小さな店をつくりたい 好きな仕事で生きる道 井川直子 家の光協会
 都内で小規模な飲食店を立ち上げて続けている人々の動機、経歴、起業準備と開店後の状況と対応、思いなどを取材したノンフィクション。
 小規模なだけに万人向けの広いマーケットを目指す必要もなく、経営者の考え、好みを打ち出して、近隣の人や指向を同じくする人々の支持で賑わっていく、特に宣伝しなくてもやっていけているという例が多いですが、それは結果的にそれでやれた成功例が取材掲載されているということで、同じようにやってうまくいかずに撤退した例がその陰にごまんとあるのだろうと思います。でも、起業する側は、そうしたいと思うものなんですよね。零細個人事業者として、実感するところですが。
 起業の話なので、開業資金の話、融資の話、そのための金融機関との折衝・事業計画書などに触れられ、店舗の物件探しの重要性がわかります。それとともに、特に小規模の店舗ということもあり、開業、成功には周囲の人との人間関係、人脈が重要だということが痛感されます。
 「食材って、怒っている人が触るとすぐ駄目になる。イライラしながら料理を作ると本当にまずくなるから、絶対に怒りながら料理を作っちゃいけない」(157ページ)というのが、たぶん料理だけじゃなくて、仕事一般に通じるかなと、ちょっと沁みました。

01.ジャカランダの樹 ガエル・ファイユ 早川書房
 パリで暮らすルワンダの虐殺の生存者でルワンダでのことを語らないヴェナンシアがパリで出会ったフィリップと結婚して生んだ息子ミランが、中1のときに一時パリの家に引き取られてきた頭部に深い傷を負ったクロードとの交流を機にルワンダでのできごとに関心を持つようになり、ルワンダに渡航して初めて祖母に会い、ルワンダに戻っていたクロードと再会しルワンダの青年たちと過ごすうちに考えや人生を変えていくという小説。
 虐殺を生き延びた者の子世代が、虐殺の被害者・加害者、その対立と感情を前にしてどのような影響を受け、どのように生きていけるかというようなところがテーマかと思われます。
 プロローグ(と題されているわけではないのですが)で、ミランよりも一世代若いステラの医師からPTSDを疑われる自閉が描かれ、読者の関心を引きつけます。そのステラの母ウセビーに対する反発・反感、母の無理解・鈍感さへの非難が何度か描かれるのですが、自身が虐殺の被害者・生存者でシングルマザーとしてステラを育てながらルワンダ社会の再生に向けた仕事に打ち込むウセビーは、どうしなければならなかったというのか(218~228ページでウセビーが虐殺のときの自己の経験を語っています。これだけの凄絶な経験をした者がルワンダに残り子育てをしながら国会議員になって国と社会の再生のために働いている、それを読むだけで、私は感嘆し涙してしまいます)、これほど頑張ってきてなお、作者にステラを材料に非難されるウセビーがかわいそうだと、私はそっちの方が気になってしまいました。

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