庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2026年5月

32.「セラミックス」のことが一冊でまるごとわかる 齋藤勝裕 ベレ出版
 セラミックスの定義、歴史、伝統的な製法と製品、現代のセラミックスの技術開発と今後期待できる分野等について解説した本。
 セラミックスの定義というか範囲として、陶磁器のほかにガラスやセメント・コンクリートが挙げられた上、今では一般の人がセラミックスという言葉を使うときはそれらの伝統的なセラミックスではなくファインセラミックス(高純度の原料を用いて化学的及び物理的特性を精密に制御することで特定の機能を発揮するよう設計されたセラミックス)を頭に思い浮かべているのではないかと書かれています(160~161ページ)。私は、セラミックスというと陶磁器(焼き物)のことと思っていて、コンクリートもセラミックスと言われたところで「えっ」と思い、陶磁器なんかじゃなくてファインセラミックスを想定するでしょと言われて、ちょっと頭を抱えました。
 さまざまな材料によるさまざまな「セラミックス」に分類される製品というか、素材等の特性や期待できることが紹介され、知識を拡げるというか頭の引き出しを増やすのに役立ちましたが、多くのものが紹介されている分、一つ一つのもの・ことにもう少し詳しいというか突っ込んだ情報が欲しいなという印象を持ちました(私の関心としては、ファインセラミックスによる骨置換の話:191~193ページなんかもっと詳しく書いてほしい)。この本は入門編で「一冊でまるごとわかる」を目指すものだから、興味を持ったらより詳しい本を読めということなのでしょうけれど、著者が実質はファインセラミックスに関する現代の技術開発を語りたいなら(終盤で一般人もそう考えるでしょなんていうのなら)最初から対象をファインセラミックスに絞って、前半の「伝統的なセラミックス」の説明を大幅に端折った方が、そこを説明する紙幅を確保できてよかったのではないかと思います。
 もっとも、「伝統的」なところでも、ローマ時代のコンクリート建築が今でも残っていることについての技術的な分析(98~100ページ)も、十分解明されているわけではなく、推測にとどまっているようですが、そこもとても興味があり、もっと詳しく書いてくれたらなぁと思うのですが。

31.ウチの共有不動産揉めてます! 桂望実 角川書店
 都心から電車で40分ほどのS町の住宅街の敷地80㎡築52年の戸建ての土地建物を相続した4人きょうだい、社員10人ほどの翻訳会社の社長をしているが決断力に乏しい長男井上春馬、看護師長を務めるしっかり者だが過去を持つとともに夫に別居され思い悩む長女山脇渚、大企業に勤務しているが考えるより先に行動する次男井上秋人、離婚後母の住む実家に戻った次女井上小雪が、相続不動産の売却を不動産会社勤務2年目の渚の娘山脇葉月に依頼するが、井上小雪が売却額でごねはじめ自分は居住者だから追い出せないと主張し、こじれて行く様を描いた小説。
 相続の問題を契機として、それまで疎遠であったきょうだいがお互いの事情や母親の生活や考えを知り、思いをはせていくというのがテーマであり、メインストーリーになっています。作者らしいほのぼのと爽やかな展開で読み味は上々です。高年男の読者としては、きょうだいで唯一配偶者と円満な井上春馬と妻井上令子の関係が微笑ましくいい感じに思えます。

30.イオラと地上に散らばる光  安壇美緒 角川書店
 世界最大の発行部数を誇る東光新聞の広告局から関連会社東光新聞ライブラリーに左遷されてその会社が運営する新興ネットメディア「リスキー」の実質的な担い手として記事を書く岩永清志郎が、ワンオペ育児に疲弊して夫の長時間労働がすべての元凶と考えて夫の上司を刺した萩尾威愛羅をネタにして実際にはなかったSNSでの同情が集まっているかのように装いフェミとアンチを煽る記事を書いて炎上させた顛末とその後を、岩永に取材のための雑用をさせられるようになって事件現場の写真を撮影したプライドだけ高くて愚痴ばかり言う引きこもりの「デニーズ」、編集長鷲津と岩永以外の唯一の部員=記者で芽が出ない見栄っ張りで不満ばかり多い小菅一成、岩永清志郎、その妻岩永涼子、最後にまた岩永清志郎の視点からの5つのパートに分けて描いた小説。
 女性/若い母をワンオペ育児で疲れ果てさせる社会環境もしくは夫の問題がテーマとも読めます。特に岩永涼子とAIの対話とみられる「4」はその趣が強いですし、それを受けた岩永清志郎の傲慢な思考が炸裂する「5」への流れはその印象を強めています。
 しかし、全体としては、ただPVを稼いで広告売上を増やすために節操も良識もなくネット民を刺激する記事をアップし続け、実際に苦しんでいる人の存在や記事で影響を受ける人への配慮などまったく意にかけないネットメディアの無責任ぶりが主たるテーマだろうと思います。
 小菅一成の彼女奈瑞菜が、誕生日を祝いに来た小菅一成に対して放った「イッセーは、知らない他人を小馬鹿にするのが好きすぎるよね」(94ページ)が、小菅だけでなく「リスキー」編集部の面々、さらにはネットメディアの関係者やSNSに炎上投稿をするネット民らに向けられているようで、この作品で一番刺さりました。

29.弁護士はこう訊く裁判官はこう聴く 民事尋問教室  牧田謙太郎、柴﨑哲夫 学陽書房
 民事裁判での証人・当事者の尋問について、尋問の心構えとルール、尋問準備(陳述書作成)、主尋問、反対尋問、異議の各段階に分けて弁護士から見た失敗例の解説と修正例を挙げてそれに対して裁判官の見方をコメントし、その後裁判官の介入尋問・補充尋問に関して裁判官が設例を設けて解説しそれに弁護士からコメントするという形で論じた本。
 陳述書での他人の発言についての言及(伝聞供述)の場面での裁判官のコメントとして、「人の発言は、大半は真実(発言者が真実と信じている主観的真実)をそのまま表現したものであって、積極的に虚偽を述べることは(程度の差はあろうが)多くはない。訴訟手続においては、経験則がものをいうのであり、通常であれば生じないであろうことがこの場面では生じたのだということを裁判官に認定してもらうためには、その分、特別な証拠の追加提出が必要ということである」とされています(45ページ)。同時に反対尋問を経ていない陳述書の証拠評価は「弁論の全趣旨と同程度の証明力しかないものと考えればよく、他の証拠から認定できる事実を補完する役割を担う程度の意味しかない」「ゼロを僅かに上回るにとどまり」(ただし、決してマイナスに作用するものでもない)(42~43ページ)ともされていますが。そうすると、法廷で尋問を受けた人の供述(陳述書を含む)のうち反対尋問で追及されなかったり追及しても崩れなかった供述は、原則として裁判官に真実と評価されるということになります。弁護士の目にはそんなナイーブな感覚でいいのかと疑問に思えますが、民事裁判ではそれを覚悟して実務を進めないといけないということです。
 質問に対する答えが具体的の事実を伴わず抽象的な回答に終始する、特に何を聞かれても同じ回答を繰り返すという場合について、裁判官から「証言の信ぴょう性に疑問を抱かせる事情」とコメントされています(113~114ページ)。証人が「原理原則論を振りかざすことに終始するようであれば反対尋問としては成功といえよう」とも。まぁ、そうですよね。
 通常の実務本に比べて、尋問での異議を積極的に出すことを推奨しています。裁判官もウェルカムというなら考えてみてもいいかもですね。

28.裁判官はこう考える弁護士はこう実践する 民事裁判手続  柴﨑哲夫、牧田謙太郎 学陽書房
 民事裁判の手続について、総論的な民事裁判のしくみ、書証と証拠説明書、争点整理手続、人証調べ、和解について裁判官から見た解説、事件受任から提訴まで、訴状の作成・提出、答弁書・準備書面の作成・提出、人証調べの準備(陳述書、証拠申出、尋問準備)、訴訟の中断・受継(当事者の死亡等)、訴えの変更・反訴・別訴提起、最終準備書面、判決後の処理について弁護士から見た解説をし、それぞれに反対側からのコメントを付して、裁判官と弁護士の見方、実務の実情等を説明した本。
 裁判官の事実認定の過程について、証拠をジグソーパズルのピースに見立てて空白部分を推察しその推察による穴埋めも用いて孤立したピースをもつなげて全体像、すなわち一連のストーリーを認定してゆくという話(99ページ)は、なんとなく理解しやすく思えました。そしてそのパズルは人証調べ前に9割前後埋まっているというのですね。
 弁護士側の解説で、陳述書を本人に書かせることはしない(144ページ)とか、本人に尋問の手控え(質問事項と回答を記載)は渡さない方がいい(155~156ページ)というのには、私は違和感を持ちました。今どきは文章を書ける依頼者が多いので、私は、むしろ書くべき項目や書き方の大枠だけ示してまず本人に陳述書の原稿を書いてもらい、それを元に明らかに不要な(本筋に関係ない)ものを削除し表現が不適切なところを直すなどして作成することの方が多いです。そして、自分が申請した証人・本人の主尋問は私が質問を書き出して本人(またはこちらが申請した証人)にメールで送り、こう聞いたらどう答えるかを書き込んでもらい、それを見て、思ったような回答でないときは質問の内容や順番を変えたりして(回答の方を変えてくれなどということは、私は決していいません)また送りというやりとりをして尋問案(この本でいう尋問の手控え)を作成します。つまり回答は証言する本人に書かせるので、回答を渡して暗記させるのは不適切などというようなことになりようもありません。著者の弁護士は、尋問の回答を本人ではなく自分が答えてほしいように作っているということなんでしょうか。私には、それでは主尋問がうまく進まないというか、怖くてできませんが。

26.27.判事の殺人リスト 上下 ジョン・グリシャム 新潮文庫
 裁判官の不正について調査するフロリダ州司法審査会の調査官レイシー・ストールツが、フロリダ州地区裁判所の判事が連続殺人事件の犯人であるという告発を受けて調査を進めるというサスペンス小説。
 リーガル・サスペンスの雄ジョン・グリシャムの新作ですが、法廷シーンはなく、実際にはグリシャムの著作の相対的多数を占める裁判業界をめぐる毀誉褒貶/あれこれをテーマにしたものです。書く側は、「告発者」の主人公レイシー・ストールツをもう一度主人公にしたいというところからスタートしている(作者あとがき:下巻326ページ)ので犯人は裁判官以外にはできないということなんでしょうが、読む側からすれば、この作品で連続殺人犯を裁判官で設定する意味は感じられず、弁護士でも政治家でも財界人でも大差はないように思えました。
 読後感としては、グリシャムらしい手堅いテイストでそこそこ楽しめるものではありますが、グリシャム作品にしては殺害場面での残虐というか妙に生々しい描写が見られ、誉田哲也作品(ブルー・マーダーとか)に近い印象も持ちました。
 グリシャム作品はアメリカで出版されて2年か3年で邦訳が出ていたのですが、「告発者」が原書2016年発売で邦訳2024年、本書が原書2021年発売で邦訳2026年です。邦訳されていない作品がたまってきているように思えます。書き手のスピードに日本語訳者のスピードが追いつかないというだけならいいのですが。

25.JKⅤ 松岡圭祐 角川新書
 1巻で川崎の不良たちに目の前で両親を殺害されて犯され「輪姦島」送りにされたが脱出し江崎瑛里華の名で帰還し復讐を遂げ、その後、女性を暴力で支配する男への攻撃・復讐を続ける有坂紗奈が、罠にはまり捕らえられ、同様に捕らえられた、4巻で登場した婚約者李沢直也、1巻以来の旧友中澤陽葵、植村和真とともに脱出を図るという展開をするシリーズ第5巻。
 1巻以来有坂紗奈の心の支えとなり、生き抜くすべであり、このシリーズタイトルのゆえんである「JKの哲学」の著者ジョアキム・カランブーの正体が追求され、この巻のメインテーマとなっています。またこの巻は全体として、RPGのダンジョン編の趣です。
 バイオレンス・アクションが売りの作品で、ミステリー味のところに緻密さは求めていないのかなと思いますが、首謀者/犯人の動機というかこの巻全体の構想や優莉匡太の姿勢・態度の不自然さ/無理を置いても、253ページの記述を前提にするなら日登美を縛ったのは誰がどうしたのかは、やはり釈然としません。
 相変わらずの殺戮ぶりですが、やや残虐さが抑えられやや明るさというかふつうっぽくなったかなという印象です。単に読み続けて感覚が麻痺しただけかもしれませんが。
 これまでになく、次巻の存在がほのめかされ(解説者など、「第六弾の刊行を、首を長くして待っている」と書いています:264ページ)、長期シリーズになりそうです。
  Ⅰ~Ⅲは2024年6月の読書日記02.~04.で、Ⅳは2025年9月の読書日記.15で紹介しています。

24.日本はラテン語でできている ラテン語さん SB新書
 日本の社会でもラテン語が使われていたりラテン語が語源の言葉が多数あることなどを、47都道府県ごとに章立てして語る本。
 「はじめに」では「アジェンダ」とか「アリバイ」などごく一般的に使われるカタカナ語にもラテン語のものがあると紹介しています(5ページ)。本文でもそういう話が多数出てくるかと思ったら、そういうのは「フォッサマグナ」(大地溝帯)とか「エトセトラ」(その他)くらいで(本文ではアジェンダもアリバイも登場せず)、ちょっと拍子抜けしました。
 ラテン語そのものが使われているものとして紹介されているのは、企業や組織の名称や製品の名称、組織のモットーや格言、碑文が多く、それは日常会話レベルとか日本での生活に溶け込んでいるのではなくて、企業等がイメージとして知的なあるいはエキゾチックなイメージを出すための戦術で、むしろ日本とは違うものとして打ち出しているものだろうと思いました。その中では「carpe diem」(今を楽しめ:201~203ページ)なんか、ちょっといい感じです。
 この本の紹介の多くは、直接はフランス語や英語のものを、さらにその語源はラテン語だというものです。「はじめに」の次、目次の前の「本書の内容例」で「『シェリーに口づけ』、シェリーの正体→80頁へ」とあるのを見てどこがラテン語?と思って該当箇所を読むと、私の認識通りミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」(1969年:日本では1971年にヒット)の原題 Tout, Tout Pour Ma Cherie の Ma Cherie はフランス語で愛しい人の意味なのですが、この cherie の語源がラテン語の caritas だというのです(80~81ページ)。学問的には語源なのかもしれませんが、これだけ違うとその語源の言葉が日本でも使われているとかなじみがあると言われても釈然としません。その手の説明が大半を占めているので、読んでいて、だから何?という気持ちになる部分が多くあったのが残念です。

23.ウルトラ図解 性感染症 知っておきたい正しい知識と治療法 今村顕史監修 法研
 性感染症の症状や感染経路、検査、診断、治療等について解説した本。
 さまざまなものが性感染症とされていて少し驚きます。もっぱら性行為によって感染する病気ではなくて、性行為によっても感染するものが性感染症とされるのですね。経膣分娩での母から子への感染は、性行為で感染するなら、まぁほぼ当然に感染しうるとわかりますが、トリコモナス症は下着やタオルでも感染(83ページ)って、もういんきんたむし並みじゃないですか。う~ん…
 梅毒、感染者が増えているとは言われていますが、2023年の感染者数は2017年の約2倍(55ページ)って。このグラフ見ると、それどころか、2010年と比較すると24倍ですよぉ。
 検査しましょうと繰り返し書かれているのに、検査費用は、保健所でHIVなどの一部の性感染症は無料だけどそれ以外は有料で、症状がないけど不安だからという検査は保険が利かず全額自費の自由診療の上、費用の目安などはまったく書かれていません。保険が利かなければ医療機関ごとに好きに値付けするから紹介しようがないということなんでしょうけど、そういうことだと検査のハードルは高くなりそうです。

22.脳が壊れるインターネットポルノ依存症 石川有生著、白戸あゆみ監修 すばる舎
 インターネットでポルノを見続けてしまい止めたいのに止められないという状態の人に対して回復プログラムと再発防止対策を提示する本。
 止めるための手法や再発防止については、記録する、スモールステップ(ちょっとずつ)、完全を目指さない(焦らない)など、著者の相談経験が反映されたものとして説得力を感じました。
 ポルノ依存症、あるいは止めたいのに止められなくなっている状態の原因・機序としては、ポルノ視聴により脳の報酬系が活性化して快楽物質のドーパミンが大量に分泌され、その過剰分泌が続くとその快楽になれてしまい日常生活の喜びや満足感を感じにくくなる(21~22ページ)と説明し、基本的にはそれにとどまっています。
 タイトルから、インターネットポルノ視聴の連続・習慣化で脳がどう「壊れる」というのかに興味を持って読んだ、言い換えれば脳科学の本を期待していたのですが、完全に文系の本でした。著者の肩書きが牧師、ポルノ依存症専門カウンセラーとなっていますので、その段階で気づくべきでしたが。
 インターネットポルノ依存症の本質は実は「エロ」よりも「新しい刺激」「目新しさ依存」だと説明されています(69~73ページ)。そこは、なるほどと思いました。スマホを見ていて次々動画を見て時間を無駄にしてしまうという点では、Facebook がこちらの反応を見て次々送ってくる動画の方が罪深いように思えます。私は今はバドミントンのラリー動画が次々来てなんとなく延々見てしまっています。こちらの視聴傾向を緻密には把握できないようで、わざとらしいスローモーション(速いラリーに感心してみてるんで)とか、なぜか志田千陽(現在のバドミントン界のアイドル?)の写真とかが来たところで白けて止めるため、深くはハマりませんが。
 スマホで利用者を依存症に追い込むという点では、ポルノ依存症よりも、ゲーム依存症の方が根が深いのではないかと、私は思います。まさに止められないように、課金できるように、それを狙ってゲームを設計し、それで儲けている事業者・企業が大手を振っているのは、私にはポルノ業者よりもあくどいように見えます。著者は牧師なのでポルノの方が許せないのでしょうけれども。

21.嫌われる文章 読み手をイラつかせないために覚えておきたい51のルール 諸星晃一 JTBパブリッシング
 朝日新聞記者として23年勤め知らず知らずのうちに嫌われる文章を書いてしまったことが何度もあると自戒する著者が、嫌われる文章の例文と修正例を51挙げて解説した本。
 著者が自身の失敗例と明示しているのは、動物園にインドの子どもから数枚のルピー硬貨(当時のレートで数十円)と動物の餌代に使ってくださいという手紙が届いたことをちょっといい話としてコラム「青鉛筆」に書いた際に職員の言葉として感謝の手紙を送るということに「郵便代の方が高くつきそうですが」と付け足したという例(216~219ページ)。いや、それ、もう、ちょっといい話じゃなくて、善意の子ども相手にありがた迷惑だって言ってるんで、とんでもなく大人げない。掲載後読者からご批判をいただいたというのですが、それ以前に、朝日新聞でそれがノーチェックで掲載されたことにビックリ。
 著者自身の具体例としては、後は、「肌身離さず」という言葉が盛り過ぎでしょと指摘された(125ページ)というくらいで、一般的に「同」を使いがち(ありがたい存在でした:161ページ)、先輩に漢字ばかりではなくやまとことばをなるべく使おうとアドバイスされた(193ページ)、「みられる」等を取材は重ねたけれど断定は難しいときにやむを得ず使う(197ページ)とか、抽象的な話ばかりです。「はじめに」で嫌われる文章を書いてしまったことが何度もあるとか、手痛い経験をもとにとか書いているけれども、痛恨のミスは青鉛筆の1件だけなんでしょうか。せっかくの「はじめに」での謙虚な姿勢も、本文での具体的失敗の紹介が伴わないと、他人ごとの上から目線の評論に感じられ、この本のスタンス自体が「嫌われる本」にさえ思えます。
 企業のプレスリリースの文例で条件をたくさん付けて対象を狭くしてこじつけで「初」とうたうことを批判しています(100~103ページ)。これ、企業側は、新聞社などのメディアが無理矢理にでも「初」と言わないと報道しないから、それに合わせて書いてるんだと思います。企業を批判する前にまずメディア側が反省すべき点じゃないですか。例えば、大谷翔平が何かしたらどうでもいいことでもこじつけで「新記録」と言いたがるメディア、どうにかしてほしい。

20.子どもの性の多様性 佐々木掌子 ちとせプレス
 子どもの性、性自認、性的指向等の多様性について解説し、学校等の現場がその多様性を尊重して性的マイノリティが抑圧されずに生きられるような環境にあるべきことを説く本。
 冒頭で生物学的性に関しても、外性器でも性染色体でも典型的男性・女性のみでなく割合的には少数であっても非典型の性が存在することが解説されています(1~3ページ)。私自身は、学生時代に「性の署名」(ジョン・マネー、パトリシア・タッカー)で「n個の性」という考え方(極論すれば人の数だけ性がある)を読み、そのように受け容れてきました。
 心の性についても、性自認(自分の気持ち)とアイデンティティ(対他の関係も含めより包括的な捉え方)、性的指向も性愛・性行為の相手、性的な魅力を感じる相手、恋愛感情を持つ相手などさまざまなレベル・局面で異なり得ることが指摘されています。考えてみれば、体の性も男女二分ではなく非典型なさまざまな形態があるのであれば心の性も、むしろ心の性の方が、性自認として男性か女性かにとどまらず男性30%女性70%とかも出てきそうに思えます。そしてそのように考える場面を増やして行けば、相手の性も相対化され、バイセクシュアル(相手が男性の場合も女性の場合も)やパンセクシュアル(相手の性にとらわれず)という人の割合も増えてくるだろうと思います。
 著者が序章で性的マイノリティのカテゴリーをどんどん細分化して示していることも併せて、そうやって考えていくともう男女というカテゴリーでとりあえず考えること自体の意味が失われて、大半の問題に一人一人の個性として向き合い対応するということになっていきます。それは理論的には望ましいことですが、現実にそれを求められる教育機関・教師は大変だろうなと思います。
 著者らの研究も含めた双生児の研究から異性役割行動については環境要因よりも遺伝要因の影響が強く、特に女児でその傾向が強いとされ、それについて著者は「女児は男児に比べると異性役割行動への圧力が弱い」と評しています(106~108ページ)。男児が男らしくしなさいと言われるよりも女児が女らしくしなさいと言われることは少ないということでしょうか。本当かなという気もしますが、お転婆娘への抑圧が減っているならそれはそれでいいことだろうと思います。他方で、異性役割行動が遺伝的要因が強いという言辞は社会的な偏見につながりかねず、そこは慎重に議論して欲しいと思います。
 第4章までは論理的なある意味観念論的な帰結からの「あるべき論」が中心ですが、ホルモン療法や手術を扱う第5章は研究論文等を多数引用したかなり技術的実証的な議論が展開されています。知識の習得という観点からはこちらが一番読みでがあるかもしれません。

19.長生きしたけりゃ肝臓と腎臓を同時に整えなさい 栗原毅 東洋経済新報社
 健康のために重要な肝臓と腎臓についてセットで守っていくことが重要だと説く本。
 著者の主張の根幹は、肝臓は腎臓の上流にあり、まず肝臓が先に悪くなり、腎臓が後から悪くなっていく、慢性腎臓病も含め脂肪肝があらゆる病気の出発点であり、脂肪肝の解消を最優先すべきであるというものです。
 医療の世界に縦割りがあり、単刀直入に言ってしまうと肝臓の専門医と腎臓の専門医はあまり仲が良くない(50ページ)といい、著者は肝臓の専門医ということなので、肝臓が上流だ、肝臓を優先すべきという主張には、バイアスがあるかもしれませんが。
 読んでいて驚いたのは、脂肪肝の解消には中性脂肪を減らすことが必要だが、問題となる中性脂肪は余分な糖質から変換された中性脂肪であって口から入る中性脂肪は関係ない、必要なことは糖質過剰を避けることであって、肉や揚げ物等をたくさん食べてもかまわない、食事で摂取するコレステロールも関係ない(93~104ページ)、むしろ油は健康にいい、腎臓が弱い人にマヨネーズはお勧めだ(150~154ページ)というのです。著者が食事について勧めるのは、主食のご飯やパンをちょっとだけ減らす、甘い飲み物をできるだけ控える、果物をなるべく控えるの3点(106~112ページ)。う~ん、ご飯と甘い飲み物はいい(既に心がけてる)けど、果物は…毎朝キウイ1個日課にしてるし楽しみなんだけど。
 さらに水分摂取は、1日3リットルの水を飲むことを勧めている(食事で1リットル、食事以外で2リットル)(185~187ページ)というのも、すごいかも。
 運動も、食事で摂った脂肪等を消費するのに消化ができた食後2時間後くらいがいいのかと思っていたら、血糖値スパイクを避けるために食後5~10分後に運動しろって(125~128ページ)。
 いろいろとこれまで信じていたことが違うと指摘され、目からうろこなのか半信半疑でもありますが、刺激を受ける本でした。

18.改訂版 わかりやすい戸籍の見方・読み方・とり方 伊波喜一郎、山﨑学、佐野忠之 日本法令
 戸籍(除籍、改製原戸籍を含む)のとり方と読み方について解説した本。
 戸籍の作成時期による書式・記載事項の違いについて、明治19年式戸籍、明治31年式戸籍、大正4年式戸籍、コンピュータ化後の戸籍に分けて説明し、大正4年式戸籍の昭和23年戸籍法改正による一次改製(昭和23年戸籍法改正後の婚姻、子の出生等による改製)と二次改製(昭和23年戸籍法改正施行後10年時点での残存者が筆頭者の氏を称する夫婦と子のみの場合にそのまま新法の戸籍とみなす扱いだったものをその後昭和41年までかけて改製を行ったもの)をも説明しているのが勉強になりました。戸籍の年式だけでなく、その記載時期により、続柄欄や事項欄の記載事項や書き方が変わっているのが、なかなか面倒くさく、戸籍の読みづらさを強めています。戸籍の記載を隅々まで読めば一応はわかることになっていても、さらっと読むと読み逃すというかわからないところが残りがちです。当然、この本の例示で尽くされないもっと難しいケースもありますので万能ではありませんが、読み取りにくいところの手がかりを示してくれているので助かります。
 解説に用いている戸籍の記載例で「出生事項省略」「婚姻事項省略」等とされているところが多いですが、実際の戸籍の読み方に慣れるという意味でも省略にしないで記載した方がいいかなという気がしました。

17.「ふつう」ってなんだろう 病気と健康のあいだ 美馬達哉 講談社現代新書
 さまざまなことがら・状態について病気と扱うべきなのか、病気とすることのメリット・デメリット、治療の是非・あり方などを論じ問題提起する医療系エッセイ。
 「身体完全性違和」として、自分の手や足が余分で不快な異物と感じられそれを切り落とすことを心から望む人が紹介されています(68~76ページ_)。その望みの実現にためらいを感じるのは身体障害は望ましくないという障害者差別意識によるのではないかと言われると、哲学的には実に悩ましい。私自身、学生の頃には安楽死/尊厳死も含めてこういった場面では本人の意思以外で定まることがおかしい、本人の意思を尊重すべきと考えていました。しかし、純理論の世界では(法学の世界で言えば民法的世界観では)そうだとしても、さまざまな事情でそれが弱者にしわ寄せされ弱者が虐げられる結果につながるのが現実世界だという認識(法学の世界では労働法とか消費者法的な世界観)の下ではいや待てよと言わざるを得ません。ただ、それでも個別にその本人は心からそれを願っているというときに他人・世間への影響を理由にどこまで言えるかは、また個別事件での権利実現を仕事とする弁護士の価値観の下で葛藤はあります。安楽死問題(206~217ページ)や結合双生児の分離手術の是非(85~92ページ_)も、同様のまたは類似の悩ましさがあります。
 植物状態の人に「テニスをしているところを想像してください」(運動想像課題)、「自宅の中を歩いているところを想像してください」(場所記憶再生課題)と呼びかけた後に機能的MRIを実施すると課題にあった脳の部位に活動が見られた、植物状態でも意識があり声が聞こえその意味が理解されそれに沿った想像/脳活動ができた、その後の研究で植物状態とされた患者の5人に1人が脳スキャンによって初めて意識の存在が確認された(122~124ページ)というのは、ある種勇気づけられるエピソードであるとともに植物状態と尊厳死の問題に関していろいろと考えさせられます。
 揺さぶられっ子症候群による死亡事例での冤罪問題と、それによる虐待認定の困難化の話(134~143ページ)など、仕事がら狂おしく思えるほどに悩ましく考えさせられます。
 純粋に医療マターでも、現在は胃潰瘍の原因として健診で発見されれば除菌が勧められるピロリ菌について、ピロリ菌を持っていない人ほどかかりやすい病気がいくつかあり、ピロリ菌除去で胃がんは減っても脳卒中や肺がんが増える傾向があって総死亡率は変わらないという報告もある(100~101ページ)というのも興味深く読みました。寄生虫駆除と似たような話ですね。
 さまざまな問題について興味深い問題提起があり、とても考えさせられる本でした。

16.クマは都心に現れるのか? 小池伸介 扶桑社新書
 クマの大量出没の原因と対策等について論じた本。
 日本におけるツキノワグマの生息数は4万頭とも言われているが正確には把握できておらず(ひょっとしたら10万頭程度の可能性すらある:126ページ)、スカンジナビア半島全体(面積は日本の倍くらい)で約3000頭と考えられていることと比較して生息密度が非常に高く(182~183ページ)、海外では人間とクマが住んでいる場所が離れているためクマ居住地(森林)と人間居住地の間に生態学的堤防(緩衝地)を設ける「ゾーニング」という発想自体がなくゾーニングを実践している国(日本がお手本とすべき国)がない、「人間とクマが隣り合って暮らす状況で、どうやって共存を実現するかは、日本が世界で初めて取り組む課題」だそうです(181ページ)。
 大量出没したクマを民間の猟友会頼みで駆除している現状は出没の原因を放置したままなので解決につながらないし、本来自分の趣味のために猟銃免許を得ただけで市街地でクマを撃つための訓練も受けておらず高齢化が進む猟友会を頼ることに無理があると指摘されています。現在の日本の銃規制の下で猟銃での射撃ができるようになるまでの負担の大きさが44~47ページで紹介されていますが、これだけの手間とコストをかけて免許取得したい人が多数いたりそれを自分には何の利益にもならない(危険だけを負う)クマの駆除に向けたい人がいると期待することが無理というか厚かましいことがよくわかります。
 著者の意見は、以前は人が利用していた里山や森林に人が入らなくなりまた耕作放棄地が増えてクマと人の緩衝地だった場所に人がおらずそこにクマの餌があるためにクマが緩衝地まで出てくるようになって、人の居住地付近までクマの生息地が拡大し、その結果どんぐりの凶作年にクマが餌を求めて人の居住地に至りそこで餌(収穫されずに放置されているカキや生ゴミ)を見つけてさらに市街地まで出没するようになったものなので、対策としては、人肉などの味を覚えた(人を襲った)クマは確実に駆除する(駆除したクマについては駆除してお終いにしないでデータを管理してどういうクマが市街地まで出てきたのか人を襲ったのかをきちんと分析する)、それ以外ではむしろ犬等をけしかけて山に追い返す(人里に行くとイヤな思いをすると学習させる)、クマが出没する地域に餌を残さない、緩衝地を手入れし(下草を刈るなどして見通しをよくする)クマが立ち入りにくくするなどで、再度クマと人との間に緩衝地を確保してゾーニングを実施する、そのためにせめて都道府県レベルで野生動物管理の専門知識を持つ(アメリカのベア・スペシャリストのような)職員を恒久配置(人事異動しない)で確保する(市町村の担当者が困ったらその専門職員に相談する)などを推奨しています。住民や行政の負担を考えると実行は容易ではなさそうですが、ただパニックに陥るだけの現状から踏み出すため有用な指摘だと思います。

15.ジャック・ラカン フロイトへの回帰 松本卓也 岩波新書
 「難解で知られる」(表紙見返し)ジャック・ラカンの理論体系を、フロイトが拠り所とした「五大症例」を切り口として読み解くという体裁の解説書。
 5つの症例について、概ね10ページ前後の症例の紹介、やはり10ページ前後のフロイトの解釈、その後30ページ弱でラカンの解釈の紹介とフロイトとの対比や著者の見方による解説がなされています(最後の「症例狼男」は、フロイトの後に担当したブランスウィックの診療・分析やその後の経緯が長めに割り込みますが)。症例が先にあり、当否は置いても何を言っているかはわかりやすいフロイトの解釈が先行しているので、確かにラカンの見解についてもなんとなくわからないでもない印象はあります。しかし、それでもなお、必要以上に特異な概念/用語を弄ぶような叙述は、わかったような気になっても、本当に理解できたとは、私には思えませんでした。いわゆる「ニューアカ」ブームのとき(1980年代前半!)によく名前は聞いたものの結局1冊も読まなかったラカンについて、いい機会だから読んでみようと思って読みましたが、やっぱり私にはなじめませんでした。
 「難解」ということももちろんあるのですが、そもそもフロイトの解釈自体が、前時代的な家族観を前提とした父性や父親的役割、母性や母親的役割、性行為に向けた欲望と忌避などをめぐる幼少期の経験等で無理くりに断定して行くもので、信奉者の方には悪いけど、「名探偵コナン」の毛利小五郎が起きているときに示す推理みたいな外れた議論に思えます。ラカンの主張は、フロイトを補足するにせよ再解釈するにせよ批判するにせよ、基本的にその延長線で小難しくしているもので、理解したいと思えなくて、読み込んできちんと理解しようと努力する意欲自体が生じません。
 読んでいて、1980年代後半に霊感商法被害弁連が統一教会に対して集団訴訟を起こした際に、霊感商法が統一教会の指揮に基づくものだということを論証する準備書面を書くために、ひと夏かけて統一教会の機関誌類等の資料とともに教理解説書(統一教会では「聖書」とはいわない)「原理講論」を読んだときに、こういう断定的な解釈の提示に、素直で観念論が好きな若者には魅了されるというか「真理だ」と衝撃を受け感動する人がいるんだろうな、私みたいにすれた人間には無理だけどと思ったことを思い起こしました。

14.アカデミー賞入門 松崎健夫 角川新書
 アカデミー賞の歴史、選考方法、過去の受賞と授賞式などについて解説した本。
 アカデミー賞というより、西海岸に映画撮影所が次々と作られハリウッドが映画の本拠となった経緯について、トーマス・エジソンの特許を用いたアメリカ映画の配給や興行網の支配、利権と反対者に対しては暗黒街のマフィアのような存在を実行部隊とする暴力行為も辞さないやり方への対抗にあったという解説がなされています(92~95ページ)。すごい書きぶりだなと思いましたが、やっぱり「エジソンは偉い人」じゃなかったんですね。
 作品賞の選考に関して、最も秀でた作品が受賞するとは限らないという例として、「E.T.」ではなく「ガンジー」が、「スター・ウォーズ」ではなく「アニー・ホール」が受賞したことを挙げています(159~162ページ)。私は、その問題に触れるなら、より納得できず、政治的な思惑が働いたと思われるのは、今なお世界歴代興収第1位に輝く(しかしアメリカ先住民への親近感を示す)「アバター」を差し置いて、今やその作品を覚えている人がどれだけいるのかというイラク占領米軍を讃えた権力媚び媚び映画「ハート・ロッカー」が受賞したことだと思うのですが、この本はそれについて一言も触れていません。もっとも、アカデミー賞とマイノリティ、ポリティカル・コレクトネスの問題に度々言及し、未だに黒人監督の受賞がないことを4ページを費やして書いている(148~151ページ)著者が、女性監督の初受賞がこの「ハート・ロッカー」でのキャスリン・ビグローであることについて本文では一言も触れていない(略年譜でだけこっそり記載:229ページ)ことは、「ハート・ロッカー」の受賞を快く思っていないことを示しているのかもしれませんが。

13.基礎からわかるゲームビジネスの法律実務 増田拓也 中央経済社
 デジタルゲーム(コンピュータゲーム、ビデオゲーム)ビジネスを行うに際して問題となりうる法律とその運用について解説した本。
 例えば有償でアイテム等を得る「ガチャ」に関して景表法関連でコンプガチャ(コンプリート/カード合わせによってレアアイテムを得られるしくみ)の禁止(射倖性)や優良誤認・有利誤認(実際の条件と違う広告表示等)、賭博該当性など、運営に当たってさまざまな検討を行う必要が論じられていて、勉強になります。eスポーツ大会に至っては、ゲームの著作権関係はもちろん、実施場所施設が興行場法の興行場となるか、風営法上の許可を要するゲームセンター等営業になるか、優良成績者への賞金が景表法の賞金規制(10万円以下)を受けるか、参加料を徴収する関係で敗者の出捐金が勝者への賞金に回ると賭博罪にならないかなど、そんなことまで考える必要があるのかと、驚くというか認識を新たにします。全然知らなかったものも含めさまざまな行政規制があり、事業運営にはそれぞれの分野で学び検討することが多いのだと改めて感じました。
 オンラインゲーム課金について未成年者取消の主張がなされることは少なくなく、消費生活センターから返金依頼が来ることもあることが紹介され(26ページ)、事業者側に予防的な対応を勧めています(26~29ページ)。返金請求に対して実際にはどう対応しているのか、事業者側での実情も紹介してくれると、うれしいのですが。

12.音と光の世紀 ラジオ・テレビの100年史 原真 集英社新書
 ラジオ放送の開始から100年を機会に、ラジオとテレビの放送の歴史を振り返った記事。
 「おわりに」で「本書は、2024年1月から12月まで、共同通信に加盟する新聞社に計50回配信した連載記事『音と光の世紀』に、大幅に加筆したものである」と書かれています(224ページ)。50回の配信記事なのに60項目あることからして、追加のオリジナルの記述も相応にあるのでしょう。
 テレビ放送の開始時、当初正力松太郎が国家主義者として公職追放中だったこともありGHQが開設を認めなかったが、アメリカ連邦議会で反共主義宣伝のテレビ版を日本やドイツで始めるべきという声が上がりその主唱者と連携した正力が読売新聞でテレビ推進のキャンペーンを張った上で公職追放解除となると日本テレビ放送網として放送免許を申請、電波監理委員会は初のテレビ予備免許を日テレだけに与えた(100~102ページ)とかは、なんとも生々しい話です。
 他方でNHKについて、アメリカの学者に、政治干渉からの保護を規定した理想的な法的枠組みが存在するにもかかわらず、NHKが提供するのは政治家や官僚を傷つけないような中立的で非論争的なニュースと指摘させ、元NHK視聴者広報室長の「NHKの歴史上、政府与党など政治権力と対立、対峙した例はほとんどない」という発言を引用しています(182~183ページ)。
 近年のバラエティー番組について、元バラエティー演出者に、最近テレビを見ていない「つまんないから。タレントを集めてギャーギャーやってるのを、写してるだけ。つくってない」と言わせたり(122ページ)、元電通のCM企画者にネット広告について「データに基づいて、消費者が歩きそうなところに、わなを仕掛けようとしているだけだ。それで、商品と人との関係ができるのか。最近、良いCMが少ないのはなぜなのかを考えなきゃいけない」と言わせる(154ページ)など、そうだよねと思う記述も多々見られます。
 対象となることがらが長期間の多岐にわたることなのでもう少し突っ込んでほしかったりあれにもこれにも触れないの?と思うところも多々ありますが、放送を手際よく振り返るには手頃なものと思います。

11.パンデミックの記憶・・・隠れたヒーローたち 平出敦 プロネスティ
 2019年に医療過疎地域で医療を支える医療従事者を支援する目的で設立されたNPOわれらはふるさと医療応援団(以下、単に「NPO」と記載)の代表者である著者が、コロナ禍の最前線ではなく後方の医療機関等で関わっていた者たち、具体的にはダイヤモンド・プリンセス号乗客のために船外の検疫所会議室で服用薬の調剤に当たった薬剤師、NPOメンバーの日常業務、大阪府医師会会長、民間患者搬送会社社長、大学病院救急センター長、大阪市消防局救急課長、NPOでワクチン接種ボランティアをした者・保健所支援に参加した者、地方都市の消防本部の救急救命士等の話を聞いたり、奈良県の山間部でワクチン接種ボランティアに従事した際の著者自身の経験を書き綴るなどした本。
 すぐに思い浮かぶところ以外でもさまざまなところでさまざまな人がコロナ禍に対処し苦労していたのだなということが感じられます。最前線で闘っていた人でないということや記録時期が遅いということから事実のすごみや生々しさはあまり感じられず、やや抽象的な感じではありますが。
 各章ごとに、扉でカミュの「ペスト」を引用し、ご丁寧に章の終わりで再度その引用部分の台詞が語られた場面の説明をしています。コロナ禍での現実の苦労話が小説のフレーズと解説で区切られ、それがアクセントになって読み物として読みよいと評価する人もいるでしょうし、これでは紹介されている人々の経験は著者の文士気取りの自己満足の材料のように見えてしまうと感じる人もいるでしょう。

10.HOKUSAI ぜんぶ、北斎のしわざでした。 葛飾北斎 青幻舎
 2025年9月13日から同年11月30日にかけて行われた展覧会「ぜんぶ、北斎のしわざでした。」の公式図録。
 葛飾北斎の作品のうちいわゆる浮世絵でない書物(画集、挿絵)になったものを集めたもので、有名な「北斎漫画」、「富嶽百景」や「東都勝景一覧」、「画本東都遊」などのほか、「北斎画譜」、「北斎写真画譜」、さらには私には初見の「一筆画譜」、「日新除魔図」など、書籍形態のものにも見るべきものがあることがわかります。もっとも、たぶん展覧会で見せられるのではあまり興味を持てず流し見るだけでしょうから、こうして画集として手にとって見る方が価値がわかるというものだと思います。
 「富嶽百景」のあとがきで75歳の北斎為一改め「画狂老人卍」は70歳以前の自分の絵は取るに足りず、80歳でますます上達し90歳で奥義を極め100歳で神の域に達しという趣旨を書いていたそうです(239ページ)。75歳でその向上心と自負というか強い意欲を持てることに頭が下がります。
 北斎の「富嶽三十六景」を見ても「富嶽百景」を見ても、(そうでないものもないわけではないのですが)ほとんどの富士が山頂の形が鋭角に描かれています。実際に見える富士の山頂は平らな部分があり、また角度は135度くらいです。他の絵師が描く富士はみな(少なくとも広重とかは)山頂に平らな部分があり角度は135度~120度くらいです。北斎の富士は、特異な意匠に見えます。変形して尖らせた方がアピールすると考えたのでしょうか。

09.深海の地図をつくる 五大洋の底をめぐる命がけの競争 ローラ・トレザウェイ 柏書房
 日本財団が2017年に立ち上げた2030年までに地球のすべての海底を網羅した地図を完成させるという Seabed2030プロジェクトと、五大洋のすべての最深部に到達するファイブ・ディープスに挑戦する探検家ヴィクター・ヴェスコヴォのチャレンジを中心に、海底測量の現状と今後の見通しなどを解説した本。
 現在地球全体について作られている海底地形図は人工衛星からの重力測定に基づく推定によるものでその解像度は4km四方が限界で(31~34ページ)、より精度の高い海上音波探査により測定されたのは全海底の15%程度で(43ページ)、海底地形図は月や火星の地形図よりも後れをとっているとされています。
 音波探査の測定データも船の揺れ等によりエラーが多数発生し、どれをエラーとして削除するかは海底地形図制作者(ocean mapper)のセンスによるところが大きく「たとえ同じデータセットを使っても、異なる二人がそれぞれ作成した海底地形図は、決して同じものにはならない」のだそうです(167ページ)。さらに言うと、この本では海底の表面の高さ(深さ)だけしか触れていませんが、海上音波探査では海底の表面の下の地層や断層も測定してその図面を作成し、原子力施設の立地の際には近隣の海底の断層(活断層)評価をしています。仕事がらそれを見る機会が多いのですが、できあがった図面の解釈もまた読み方のセンスの問題があって、私が見ても全然判別できないものが専門家には明白だとされたりして苦慮します。こういうのを、AIにやらせた方が一律明瞭でいいと考える人も特に今どきではよくいると思います。私は、AIにやらせることでならして平均レベルにするよりも専門家の知識とセンスで高いレベルものが残る方がいいと今のところ考えていますが。
 海外のジャーナリストの著作だけに、日本財団に関して、「笹川はモーターボート競争による一大ギャンブル王国を築いて財を成し、また『ヤクザ』と呼ばれる日本のマフィアと右派政党が驚くほど複雑に絡み合う世界で、ある種のキングメーカーとして活躍してきた」などの遠慮ない記述がなされ(96~98ページ)訳者が弁解の補足をしていたり(99ページ)、海底地形の命名に政治的な思惑が絡み「最も粘り強い申請国は中国と日本」(201ページ)とか、海底地形図の作成が海底資源の大規模採掘とそれによる環境破壊につながること(第10章)などが指摘され、少し目を開かされます。

08.地図とデータで見る砂漠の世界ハンドブック ニノン・ブロン 原書房
 世界の砂漠について、気候、自然的・歴史的な形成、地下資源とその開発・抗争、居住の実情と歴史、文化、観光等のさまざまな面から解説した本。
 豊富な地図・図表が売りの本で、眺めているだけでも楽しく勉強になる気がします。しかし、その図表を本文の解説が使い切れているか若干の疑問がある上に、図表の配置が本文と合っておらず(本文と順番が逆)とんちんかんな場所に置かれている例が散見されます(少なくとも、89ページのドバイと91ページのガダーミス、101ページのトルクメニスタンと103ページのリビア、119ページのウランバートルと120ページのエル・ウェド、123ページのカナダ北極圏と125ページのアフリカの角、149ページのオーストラリア(クンプピンティル湖周辺)と151ページのイヌイット歴は逆にすべきことが明らかで、編集者が本文を読んで配置しているのかさえ疑わしくなります)。
 さらに大気循環の図には愕然とさせられました。

     《大気循環とゾーン砂漠と題する図に赤の×を書き込み》
21ページに掲載されている図に地球の大気循環が図示されているのですが、赤と青の矢印で図示される大気循環12のうち8(図中に赤の×を付けました)が間違い(大気移動の方向が逆:逆回り)です。ハドレー循環は赤道付近で太陽光による加熱(温度上昇)を受けて上昇気流が生じることによって生じるのに赤道の南側(南半球側)では赤道付近に降りてくる下降気流を描くという発想がどうして出てくるのか、フェレル循環で緯度30度付近は下降流と下向きのらせん矢印を書いているのに北半球で北緯30度付近の北側に上昇流を描いたり南半球に至っては南緯30度付近の両側(北側も南側も)に上昇流を描くってどういうセンスなんでしょう。少なくともこの図を描いた人が大気循環(地球科学や気象ではかなり初歩の知識ですが)をまったく理解していないこと、本文を読んでいないことは明らかです。それをチェックする人もいなかったのでしょうか。29ページにも大気循環の図があって、そちらでもハドレー循環の南半球側と、北緯30度~60度の循環の2か所は同じ間違いを犯しています(南緯30度~60度と南緯60度以南は正しくなっています)。
 こういう科学知識の初歩部分で誤りを繰り返されると、ほかの点も信じてよいのか不安になりますし、図表の扱いが雑な本だなと思いました。

07. 「地震」と「火山」の国に暮らすあなたに贈る大人のための地学の教室 鎌田浩毅 ダイヤモンド社
 地球の成り立ちと内部構造、プレートテクトニクス、マグマ、火山噴火(巨大噴火)、超巨大地震等について解説し、今後への備え、考え方を説く本。
 東日本大震災の刺激を受けた日本列島が1000年ぶりの「大地変動の時代」にあり、近い将来、2030年代あたりに南海トラフ巨大地震が起こりそれで揺すられた富士山が噴火する恐れがあり、また首都直下地震がもういつ起きても不思議ではないというのが、この本での著者の警告です。
 地球温暖化について、温室効果ガス(二酸化炭素など)の増加により平均気温が上昇していることはかなり正しいが、大噴火が起こると火山灰の大気中拡散で一気に寒冷化するところ、20世紀後半は大規模噴火が特異的に少なかった、太陽の黒点は11年周期で変化するところ今は増加する(温暖化の)時期にあるがこれから減少する(寒冷化の)局面に入る、長期的には今は間氷期で地球はゆっくりと氷期に向かっている、脱炭素を行け行けドンドンで推進して大丈夫かという危惧感が表明されています(68~72ページ、379~382ページ)。私自身は、子どもの頃に地球は寒冷化している、氷河期が来ると言われていた記憶があり、そういった感覚からは著者の指摘はなじむのですが、何というか、どうもこの議論には科学者間の予算(研究資金)のぶんどり合戦のきらいを感じてしまいます。
 「『火山が噴火して災害を起こす前に、地面に穴を開けてマグマを出せばいい』という意見もよく耳にしますが、それもできない。そもそも穴を開けられないし、できたにしても、それがきっかけで大きな噴火となったら、もう手が付けられません」(385ページ)。火山の専門家の現在の見解でも、まだ「グスコーブドリの伝記」のブドリの英雄的な行為は実現不可能な空想の域を出ないのですね。

06.子どもはどのように音を聞いているか 育ちを支える「保育の音環境」 嶋田容子 新曜社
 子どもの発達過程で静穏な環境が必要として、保育施設の騒音特に音圧レベルと残響時間の改善を提言し、建築設計段階での対応や吸音工事の実施、それがコストの問題で困難な場合でも手作りの吸音材の取り付けなどをしてすぐに対応すべきことを論じた本。
 第1章で子どもの聴覚の発達の過程での特性として生活雑音/背景雑音の中で特定の必要な音を選んで聴き取る選択的聴取と音が聞こえてきた方向を判断する音源定位が苦手であることが説明されています。心理学系の本にありがちなものとして、ここで示されている実験のサンプル数や結果の程度からその結論を導いていいのかに、門外漢として少し疑問は残りますが。そこから騒音環境の下では子どもの言語発達の遅れや注意や意欲の低下、コミュニケーション能力や学習能力の発達に支障があることが論じられています。子どもが大きな声を出して話すことについて、子どもがそうしたいからするのだと思いがちですが、それが大きな声を出さないとコミュニケーションがうまくいかないからそうしている(そのような経験をしているから騒音環境以外のときもそうするようになっている)かもしれないとしたら、それは一考を要することかなと思います。
 この本の主張は、子どもの発達への影響を言って保育施設の構造と施設内の音環境の改善を求めることにありますが、最初に説明された選択的聴取の関係で子どもと話すときに静かな環境で話す/テレビ等は消す、自分が声を落とすことなども言われていて、そちらの方になるほどと思いました。Q&Aで子どもにはピアノの音は音量が大きすぎて声を覆い隠すことがある、右手のメロディと左手の伴奏が子どもの耳にはただの混濁した音に聞こえ大人が思うように美しい響きとして聞こえていない可能性がある、ピアノ、先生の声、他の子どもたちの声も混じり合ってくると音色や音楽を味わうどころか音の洪水に圧倒されてしまう、ピアノを使うならマットなどで響きを抑え片手のメロディや短音を味わうことを試みるべき(117~118ページ)など、現在の音楽教育を根底から覆すような提案もされています。ここまで言うのなら、むしろそちらの方をQ&Aの1項目でさらりと触れるのではなくより詳しく展開して欲しかったと思います。

05.3934km 国境を越えて フアン・カルロス・ケサダス Type Slowly
 生まれてすぐに両親と離れ祖母の元でエルサルバドルの海岸の町ラス・ボカニタスに暮らしていた9歳の少女マリア・イレーネ・マダリアガ・マダリアガ(通称ネコ)が、町のギャングに祖母を殺害されてサン・サルバドルのサン・パトリシア孤児院に引き取られたが、ネコに性的な行為をしようとしたトム神父を殺害して修道女のダヤンとともに逃走して両親が行方不明になったと聞かされているデンバーを目指すという小説。
 貧民・移民がどれほど虐げられているか、どれほどの危険にさらされているかがテーマです。
 苦労してエルサルバドルとグアテマラの国境を越えたネコが「国境というものが、世界でもっとも愚かな嘘のように思えた」という場面(115ページ)、途中からネコとダヤンを支えてくれた娼婦のソチトルがメキシコまで送り届けた後にネコとダヤンのこれまでを聞いて「私たちはずっと嘘をつかれてきたわ。国境、神、愛、肌の色…、人生のすべてに!」と叫ぶシーン(134ページ)などに、感じ入りました。
 たまたまネコに駐車中の車を貸してくれと言われただけのソチトルがあまりにも多くの犠牲を払ってまでネコとダヤンを助けるのは、作者にとってはそうでもしないと10歳にしかならない少女がエルサルバドルからアメリカまでたどり着くということが荒唐無稽になるということなのでしょうけれども、現実世界でそこまでのことがありうるとは考えにくく、作品の重みを削いでいるように感じてしまいました。同時に、それが娼婦のソチトルにより実行されることに、同じく底辺を生きる者の心意気や献身性を見て涙ぐみました。

04.禁忌の子 山口未桜 東京創元社
 救急搬送されてきた遺体が容貌のみならず体の隠された部分まで自分とうり2つであったことに不審と不安を抱いた兵庫市民病院の救急科医師武田航が、同僚の看護師からトラブルを相談したらすぐ解決してくれると評判だと言われて、同じ病院の消化器内科医で実は武田と中学の同窓生の城崎響介に相談し、謎の遺体の正体と自分との関係を調査し始めると調査先でもキーパーソンが謎の死に至り、というミステリー小説。
 作者自身が現役の消化器内科医ということもあり、医療ミステリーとしては違和感もなく、新人(本作がデビュー作)ではありますが文体も読みやすくさらさらと読めました。
 ただ、ミステリーとしては、この謎解きを成り立たせるのであれば、生島リブロクリニック(「主な登場人物」の次に「平面図」掲載)の入口自動ドア付近に備え付けられた防犯カメラ映像を武田と城崎が院長の生島蒼平とともに検分しているシーンの記述(179~182ページ)を説明できるのかに、私は疑問を持ちます。謎解きの過程で城崎はそこに言及しません(260ページで城崎は、生島リブロクリニックでの事件当日の鍵を握る重要人物「X」を「中待合に向かっても自然で、疑われない人物」としていますが、それは総務部主任の黄信一の「不審な人物は誰も中待合に向かっていない」という証言との矛盾がないことしか意味しておらず、その人物の防犯カメラ映像が城崎と武田の検分時に引っかからなかったことにはつながらないし説明になりません)。防犯カメラ映像がないと城崎の「背理法」推理の前提があやふやになってしまいミステリーとして説得力を欠くことになるのでこの作品では防犯カメラ映像は必須だったと思いますが、そうした以上は、「X」の防犯カメラ映像を城崎と武田がなぜ見過ごしたのかを説明する必要があると思います。

03.舞う砂も道の実り 井戸川射子 文藝春秋
 家族も故郷もないと言い見知らぬ者と一夜限りの同衾をしながら旅する乳歯が全部抜けた頃合いの少年ワオスリと、子を産んだときに双子だったのに1人をその場で何者かに連れ去られたと言い閉経を機に手元に残った1人の子を夫に託して行方不明の子を探しているダエ、両親と姉妹兄弟が次に住める移住先を探している青年イフンが旅をする日々を描いた小説。
 3人が旅の過程で何人かに出会い交流して生じるできごとを、3人の視点での語りをつなげる形で綴っています。会話と視点人物の脳内での思考を発言にしないまま垂れ流したものと地の文が混在する「私的応答」(2026年4月の読書日記22.で紹介)と同様の文体(ただし、「舞う砂も道の実り」の方は、場所は特定されていないものの外国の設定なので、関西弁ではなく標準語)で、やはり読みにくい。
 イフンが旅の途中で一時合流したマレーに恋するのですが、マレーの一人称が「僕」で同性愛ということなのでしょうけど、特にそれを明示しないというか、ごく当然のことで気にするまでもないという扱いがなされています(しばらくは、マレーは自分を「僕」と呼称する女性かとも疑ったくらい)。ワオスリが見知らぬ相手と性交する場面(35~38ページ)ではその相手を「相手」「この人」「その人」、「性器」「性技」とし、老人バウムから肉体関係を求められる場面(155~158ページ)でもバウムを「老人」「師」「この人」、「触りたい」「体の関係」「股」とするなど性別を示さないこだわりを見せている(ただし、その後ワオスリを「少年」といちゃつかせてもいますが:55~57ページ)ことと合わせ、同性愛も異性愛も等価で、どちらかを気にすること自体不要(やぼ)とされているのかなと思いました。それはそれでひとつ突き抜けているのかなと。

02.小さな店をつくりたい 好きな仕事で生きる道 井川直子 家の光協会
 都内で小規模な飲食店を立ち上げて続けている人々の動機、経歴、起業準備と開店後の状況と対応、思いなどを取材したノンフィクション。
 小規模なだけに万人向けの広いマーケットを目指す必要もなく、経営者の考え、好みを打ち出して、近隣の人や指向を同じくする人々の支持で賑わっていく、特に宣伝しなくてもやっていけているという例が多いですが、それは結果的にそれでやれた成功例が取材掲載されているということで、同じようにやってうまくいかずに撤退した例がその陰にごまんとあるのだろうと思います。でも、起業する側は、そうしたいと思うものなんですよね。零細個人事業者として、実感するところですが。
 起業の話なので、開業資金の話、融資の話、そのための金融機関との折衝・事業計画書などに触れられ、店舗の物件探しの重要性がわかります。それとともに、特に小規模の店舗ということもあり、開業、成功には周囲の人との人間関係、人脈が重要だということが痛感されます。
 「食材って、怒っている人が触るとすぐ駄目になる。イライラしながら料理を作ると本当にまずくなるから、絶対に怒りながら料理を作っちゃいけない」(157ページ)というのが、たぶん料理だけじゃなくて、仕事一般に通じるかなと、ちょっと沁みました。

01.ジャカランダの樹 ガエル・ファイユ 早川書房
 パリで暮らすルワンダの虐殺の生存者でルワンダでのことを語らないヴェナンシアがパリで出会ったフィリップと結婚して生んだ息子ミランが、中1のときに一時パリの家に引き取られてきた頭部に深い傷を負ったクロードとの交流を機にルワンダでのできごとに関心を持つようになり、ルワンダに渡航して初めて祖母に会い、ルワンダに戻っていたクロードと再会しルワンダの青年たちと過ごすうちに考えや人生を変えていくという小説。
 虐殺を生き延びた者の子世代が、虐殺の被害者・加害者、その対立と感情を前にしてどのような影響を受け、どのように生きていけるかというようなところがテーマかと思われます。
 プロローグ(と題されているわけではないのですが)で、ミランよりも一世代若いステラの医師からPTSDを疑われる自閉が描かれ、読者の関心を引きつけます。そのステラの母ウセビーに対する反発・反感、母の無理解・鈍感さへの非難が何度か描かれるのですが、自身が虐殺の被害者・生存者でシングルマザーとしてステラを育てながらルワンダ社会の再生に向けた仕事に打ち込むウセビーは、どうしなければならなかったというのか(218~228ページでウセビーが虐殺のときの自己の経験を語っています。これだけの凄絶な経験をした者がルワンダに残り子育てをしながら国会議員になって国と社会の再生のために働いている、それを読むだけで、私は感嘆し涙してしまいます)、これほど頑張ってきてなお、作者にステラを材料に非難されるウセビーがかわいそうだと、私はそっちの方が気になってしまいました。

**_**区切り線**_**

私の読書日記に戻る私の読書日記へ   読書が好き!に戻る読書が好き!へ

トップページに戻るトップページへ  サイトマップサイトマップへ