庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「猿の惑星:新世紀」
ここがポイント
 話し合いで解決しようとする者と力による解決を主張する者を抱える構造での社会のあり方、リーダーのあり方と苦悩が見どころ
 シーザーの現実認識と仲間・家族への愛が共感を呼ぶ

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 「猿の惑星:創世記」の続編、映画「猿の惑星:新世紀」を見てきました。
 封切り2週目日曜日、今年いっぱいで閉館が決まった新宿ミラノ1(1048席)午前11時30分の上映は1割くらいの入り。

 猿の惑星:創世記から10年後の地球。生存率500分の1とも言われる猿インフルエンザと名付けられた謎のウィルスが蔓延し、運転が維持できなくなった原子力発電所は炉心溶融を起こし都市は停電状態となり、サンフランシスコのタワーで暮らす人間たちは燃料を使い尽くす日が近づき、エネルギーの最後の頼りとして近郊の水力発電所の再開を計画した。しかし、そのダム一帯では、シーザーに率いられた知恵を付けた猿たちが道具を使った狩りや漁労をして生活していた。突然現れた人間に撃たれたアッシュは仲間を呼び、取り囲まれた人間のリーダーマルコム(ジェイソン・クラーク)は銃口を下げさせ、猿と話そうとしたが、現れたシーザーから「立ち去れ(GO!)」と言われて驚く。マルコムが戻った人間の集落では、猿と話し合って水力発電の再開をさせてもらおうとするマルコムと、戦闘を主張するドレイファス(ゲイリー・オールドマン)が対立し、猿の集落でも共存を主張するシーザーと、かつてシーザーといた研究所で人間から虐待され息子アッシュを撃たれたことから人間への強い不信感を持ち戦闘を主張するコバが対立し…というお話。

 いずれの側にも話し合い/交渉で決着しようとする者と、猜疑心・不信感と差別主義・排外主義的な感情から力による解決を主張する者が対立するという構造を持たせ、一種の社会のあり方と、そういった者たちを抱えるリーダーのあり方と苦悩といったところを描き出しています。
 シーザーの立場を、単純なあるいは無前提の人間への信頼(それはたとえて言えば手塚治虫「ジャングル大帝」のレオのような)ではなく、人間は銃/武器を持っており、追い詰めれば戦いとなり仲間に大きな犠牲が出るという現実認識と仲間・家族への愛に基礎づけられたものと描いているところが巧みです。前作でシーザーを育てシーザーと情を通じるウィルを登場させずに、人間側のリーダーを全くの別人にしたのも、個人的関係からの信頼ではなく、リーダーとしてのシーザーの判断を際立たせる効果を持っています。
 サルは仲間を殺さないと宣言したシーザーが、後日仲間に裏切られ、猿は人間より立派だと思っていたが、人間と同じだったと述懐する場面が、二重に悲しい。

 CGは前作よりもさらに技術の進歩を感じさせ、もうほとんど不自然さを感じさせません。猿が馬に乗って突き進みながら片手でマシンガンを撃ち続けるシーンさえ不自然に見えないのは、どう評価していいのか戸惑いますが。
 ラストシーンからすると、さらに次回作が予定され、普通に見れば次回作はすぐ引き続くシーンからになりそうですが、こうなると昔の「猿の惑星」につなげるのがかえって難しくなるような気がします。

 原発のメルトダウンを言いながら、この作品では放射能のことには全く言及されません。既に映画の中ではメルトダウンが起こっても、それは特別な特に恐れるべきできごとではなく、ありふれたできごと・記号として消費されるものになってしまったのでしょうか。
(2014.9.28記)

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