庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

たぶん週1エッセイ◆
映画「コリーニ事件」
ここがポイント
 不適切な立法により生じた不正義をどうするか、どう考えるかが問題提起されている
 コリーニの最後の決断をどう見るか、原作との違いもあり、意見は分かれそう
    コリーニ事件:映画|庶民の弁護士 伊東良徳
 フェルディナント・フォン・シーラッハのリーガル・サスペンスを映画化した映画「コリーニ事件」を見てきました。
 公開3日目日曜日、YEBISU GARDEN CINEMA スクリーン1(187席/販売97席)午前11時の上映は観客30人あまり。

 弁護士になって3か月の駆け出し弁護士カスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)は、そうと知らずに青少年時代の恩人ハンス・マイヤー(マンフレート・ザパトカ)を殺害した犯人ファブリツィオ・コリーニ(フランコ・ネロ)の国選弁護人となる。ライネンが殺害の動機を聞いてもコリーニは話そうともせず、裁判は淡々と進んでいく。このままでは謀殺(計画的殺人)として終身刑になってしまうとライネンは焦るが、法廷で犯行に使われた拳銃がワルサーP38であることが話題になり、ライネンに閃きが生じて、ライネンは裁判長(カトリン・シュトリーベック)に1週間の休廷を申し出、調査を開始する…というお話。

 この作品のテーマをネタバレなしに論じることはおよそ不可能なので、以下ネタバレ解説になります。

 この作品では、謀殺であれば終身刑となるが、殺人であっても「低劣な動機」でない場合には「故殺」となり、法定刑が低くなるという枠組みの下で、コリーニによるハンス・マイヤー殺害の動機が何かが問題となります。前半では、コリーニが動機を(それ以外も含めてほとんど)話そうとしないので、コリーニはいったいなぜハンス・マイヤーを殺害したのかを軸に展開され、後半ではそのコリーニの動機を法的にどう評価すべきかが問題になります。
 その中で、1968年に成立した「秩序違反法に関する施行法」によって謀殺罪の幇助犯は故殺犯として扱われることになったことがクローズアップされます。法廷でその説明をするように求められたマッティンガー弁護士/教授(ハイナー・ラウターバッハ)がその内容(謀殺罪の幇助者は故殺として扱われることになった)を2度繰り返しても、皆がその重大な意味をそれでは理解できないというシーンが描かれているように、その適用によってナチスによる虐殺の関与者のほとんどが「故殺」扱いされることによりすでに公訴時効が成立したことになって一切処罰され得ないにもかかわらず、そのことが十分に理解されないままにこの法律が可決されてしまったということが争点となります。
 映画では、この点が焦点化される前から、コリーニが、何の法律によって、奴(ハンス・マイヤー)が処罰を免れるのか教えてくれと繰り返し、法律の欠陥があるのだということが示唆され、アピールされています。
 この点は、原作の中心テーマで、原作本(日本語訳)の末尾にも「本書が出版されて数か月後の2012年1月、ドイツ連邦共和国法務大臣は法務省内に『ナチの過去再検討委員会』を設置した。」と記載されていますし、映画の公式サイトにもその紹介がなされています。その委員会が結局何をしたのかは、私が調べてもよくわからないのですが。
 謀殺と故殺は、そういう区別がない日本刑事法しか知らない弁護士にとっては、今ひとつよくわからないのですが、どちらも明らかに計画的な殺人であるハンス・マイヤーの住民殺害(命令)とコリーニのハンス・マイヤー殺害が、一方は法の規定により一律に故殺とされて不処罰となり、他方は弁護人がその動機を理由に故殺を主張しているという構図は、どこかアイロニカルにも思えます。
 コリーニの最後の決断の動機が、映画ではより見えにくいように思えますが、ハンス・マイヤーの行為と刑事処分の不法を確認した満足なのか、自己の減刑を求めることを不本意と思う故なのか、考えさせられます。ただ、この点に関しては、原作のラストが、コリーニの長年にわたる悲しみと懊悩を感じさせるのに対して、設定を変えてしまったことでよりシンプルなものになっています(これを深みを失ったと見るか、問題点/焦点が純粋になったと見るか、意見が分かれるかも知れませんが、原作とかなり味わいの違うものになっていることは間違いありません)。

 さまざまな点で、原作が現役弁護士によるものであり現実的に抑制された記述となっているのに対して、映画では派手な展開を狙って変更を試みています。
 弁護士の目から見ると、地味な点ではありますが、被害者が自分の青少年時代の恩人/知人であることに気がついた時点で被疑者(コリーニ)にそのことを説明した上で、それでも自分が弁護することを希望するかを確認する場面が、原作ではベテラン弁護士マッティンガーが助言し、ライネン自身直ちに行っていますが、映画ではそれがありません(ずいぶん後になって言及しています)。弁護士としては、欠かせない手続だと思うのですが、弁護士以外にとってはどうでもいいことなんでしょうね。
 ライネンがコリーニの動機に気がついたきっかけの凶器がワルサーP38であることは、原作では、記録をめくっていて気がつき、それ以上には説明されません。ちなみに休廷はライネンが申し出るのではなく参審員がインフルエンザに罹患したためです。これに対し、映画では、法廷での証言を聞いて初めてライネンが気がついた挙げ句、ライネンが調査もしない段階で1週間の休廷を求めます。現実に裁判を行っている者の目からはかなり非現実的に思えます。そしてワルサーP38は今ではほとんど目にしない、ライネンが子ども時代の記憶を頼りにハンス・マイヤーの書斎からワルサーP38を発見するなど、十重二十重に説明してくれます。ドイツ人には第2次世界大戦時にドイツ軍の制式拳銃であったことは説明しなくてもわかる(原作はそれで十分と判断したのでしょう)が、一般向けにはきちんと説明してあげないとという配慮でしょう。私には、ワルサーP38といえば、アニメ「ルパン三世」でルパンが愛用していたというくらいしか思い浮かびませんから。
 その休廷期間中、原作ではライネンが独りで連邦文書館にこもりますが、映画ではピザ屋の配達員(ピア・シュトゥッツェンシュタイン)を連れ、長らく連絡していなかった父親にも手伝わせて文書館の文書を分析するだけでなく、イタリアに調査に出かけます。そのイタリア調査で訪問した虐殺現場にいた通訳(通訳自身は戦後ナチス協力者として処刑)の息子クラウディオ・ルケージ(サンドロ・ディ・ステファノ)を証人として尋問し、証人自身は見たはずもない(父親から聞いたのでしょうけど)ことを見てきたように証言させ、さらには当時9歳の少年コリーニ自身が虐殺現場にいて目の当たりにしたという設定になっています。
 法廷での尋問では、ハンス・マイヤーの行為が当時の国際法、戦後の国内法上合法であったかに関する議論を、原作では文書館長のシュバーン博士を、ライネンとマッティンガーが尋問する形で応酬しますが、映画では何と問題の立法の過程に若き日に参加したとしてマッティンガーを証人申請してハンス・マイヤーの遺族代理人のマッティンガーにハンス・マイヤーの行為を不処罰とすることが不正義であると言わせます。(映画ではその際にライネンはマッティンガーに、それは法治主義と言えるかとも尋問していますが、立法してその法律に従って処分が決定されているのを「法治主義じゃない」と言うのはかなり無理があります。翻訳の問題があるのかも知れませんが)

 これらの変更は、より劇的になり、またわかりやすくなるのでしょうけれども、弁護士の目には/私には、何だかなぁと思えました。

 この映画では、他にも、原作とは多数の点で設定が変更されています。
・コリーニがハンス・マイヤーに撃ち込んだ銃弾の数:原作では4発、映画では3発。
・カスパー・ライネンが弁護士になってからの期間:原作では42日、映画では3か月。
・カスパー・ライネンが受任後に被害者が青少年時代の恩人と知った経緯:原作ではヨハナから知らされた、映画では弁護士仲間から知らされた。
・カスパー・ライネンの出自:原作では明示はされていないが父がバイエルン州に遺産相続した森を持っていることからドイツ人と思われ、ルートヴィヒスブルグで乗車したタクシーの運転手がトルコ系と見られる描写があるがその際特に親近感その他の描写もない、映画ではトルコ人。
・カスパー・ライネンの親との関係:原作では母が別の男を作って出て行き父親に育てられた、父は森の林務官屋敷に独り住まいで今も連絡している、映画では父が出て行き母に育てられた、父は書店を経営、父とは長らく連絡がなくライネンは恨みに思っている。
・カスパー・ライネンの喫煙:原作ではライネンは喫煙せず、コリーニがタバコを出して「火は?」と聞くがライネンはライターを持ち合わせていなかった、映画ではライネンが独りでタバコを吸い続け、終盤でコリーニが心を開く表れとして初めて一緒にタバコを吸う。
・カスパー・ライネンのボクシング:原作ではまったく示唆もないが、映画では冒頭からライネンがボクシングをするシーンが多用される。これはライネンの闘争心をイメージさせる目的と思われる。その点は悪い演出ではない。
・カスパー・ライネンとヨハナの学生時代の関係:原作では一度ヨハナがライネンにキスをするだけだが、映画では肉体関係を持つ。
・カスパー・ライネンとハンス・マイヤーの関係:原作ではもらった物は古いチェスのセットくらいだが、映画では自動車をもらって現在も乗っている。
・カスパー・ライネンに対する買収:ライネンに弁護をやめたら高額の報酬のある事件を回そうと持ちかけるのは、原作ではマイヤー機械工業の顧問弁護士バウマン、映画ではマッティンガー。
・コリーニの姉:原作では戦時中に殺された、映画では生きながらえて事件の2か月前に死んだ。

 基本的にドイツ語の映画です(イタリア調査の場面でイタリア語も出てきます)ので、聞いていても全然わかりませんが、ヨハナ(アレクサンドラ・マリア・ララ)のライネンに対する台詞で突如「ファック・ユー」と言われてびっくりしました。え…ドイツ語にも「ファック・ユー」が?ドイツ語には適切な罵り言葉がない(上品な言語)?
 そういうシーンも含め、原作ではより抑制的なヨハナが、映画では感情を露わにし、しかしそれならさすがにコリーニの弁護人となったライネンとエッチはしないだろうと思っていたら、そこはきっちりするんです。ライネンの側で、仮に過去に何があったとしても、刑事事件受任中に被害者の親族と肉体関係を持つって、どう考えてもダメだろうと思います(原作を読んだところでそう思いました)が、ヨハナの側もブレ/揺れが大きすぎる感じがします。被害者が受ける心の傷とダメージを描くのならばもっと別の表現方法があると思いますし、この作品のヨハナの描き方には、私は違和感を持ちました。

 なお、原作の感想については→私の読書日記2020年6月分 03.に書いています。
(2020.6.14記)

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