◆たぶん週1エッセイ◆
映画「銀河鉄道の父」
原作で描かれている政次郎と賢治、それぞれの複雑な心情が、映画では切り捨てられてわかりやすくされている
妹トシが死ぬ場面も原作の創造が不採用となるなど、私にはけっこう原作とは違う作品に見える
宮澤賢治の父宮澤政次郎から見た宮澤賢治を描いた直木賞受賞作を映画化した映画「銀河鉄道の父」を見てきました。
公開2日目GW中の土曜日、新宿ピカデリーシアター8(157席)午前10時35分の上映は7〜8割の入り。
父喜助(田中泯)から継いだ家業の質屋宮澤商会の当主政次郎(役所広司)は、子煩悩で、幼い賢治が赤痢で入院すると周囲の反対を押し切って自ら病院に泊まり込んで付きっきりで看病し、喜助に反対されながら賢治に進学を勧めるが、賢治(菅田将暉)は質屋は農民を苦しめているなどと反抗し、日蓮宗に入信するなどし、政次郎は困惑し…というお話。
政次郎と賢治の親子関係が中心なのですが、原作では、政次郎は「新時代の」理解のある父になりたいのか「伝統的な」息子の壁になりたいのか迷い逡巡し、賢治は親の心子知らずで反抗的な態度、少なくとも素直になれない態度をとり続け、ねじれた関係の中で内心では信頼を持っているというような、より複雑な心情と関係が描かれているのに対し、映画では政次郎はまっすぐに親馬鹿を演じ、賢治も後半では素直に政次郎への敬意と感謝を示すというものすごくシンプルな描き方になっています。
特に象徴的なのは、賢治が「おらはお父さんになりたかったのす」と政次郎の大きさを素直に認め、しかし自分はなれない、そして子どもの代わりに童話を生むとつぶやく場面。原作ではもちろんこれは賢治がひとりでいるときのつぶやきで「むろん賢治は、政次郎に言うつもりはない。私はあなたになりたいのですなどと面と向かって口にすることは一生しないだろう」とはっきりと書かれています(270ページ)。それが映画では何と面と向かって言われ、政次郎がそれを受けて童話が子どもならそれは自分の孫だ、だからお父さんは賢治の童話が好きなんだとわかったなどと述べています。賢治が死ぬ場面も、原作では賢治が政次郎に席を外させるような発言をしてその間に死んだことを政次郎は賢治の最後の反抗かいたずらかと思う(402〜403ページ)のに対し、映画では賢治が政次郎に体を拭いてくれと求め、政次郎の目の前で死んでいきます。
映画の方が、わかりやすい父と子の絆の物語になっているのですが、素直になりきれない賢治と、正面から報われなくても子を思い続ける政次郎という原作の含みのある味わいをあっさり切り捨てていいのか、疑問なしとしません。
有名な「永訣の朝」で描かれた妹トシ(森七菜)が死ぬシーン。原作では、政次郎がトシに言い置くことがあるなら言いなさいと言い渡し、それに対してトシが「うまれてくるたて、こんどは・・・」と言いかけたところで賢治が政次郎を突き飛ばしてトシの耳元で法華経を唱えてトシが続きを言えなくなってそのまま死に(290〜293ページ)、それにもかかわらず賢治が「永訣の朝」(春と修羅)で、トシが「うまれでくるたてこんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる」と述べたように書いているのを見た政次郎が自分がトシの口を封じておきながらトシの言葉を捏造したことに腹を立て、しかし妹を犠牲にしてでも売ることが詩人としての自立なのだと思い直す(329〜333ページ)という複層的な事実と心情が描かれています。この部分は、原作者が想像力を働かせてある意味渾身の力を込めて創り出したものと思います。原作を読んだとき、「永訣の朝」から容易には想像できない状況に驚きました。しかし、映画では、トシが政次郎に死ぬ日より前に「うまれてくるたて・・・」を最後まで誰にも邪魔されることなく答え、死ぬ場面では特に言い残すことを邪魔されることもなく死んでいき、複雑な状況は生まれず、「永訣の朝」から素直に思い浮かべられるようなシーンだけで構成されています。原作が見せ場として創った場面がまるごと消し去られているのです。
賢治が童話を精力的に書き始めたきっかけは、原作では東京で何者にもなれぬ敗残者として自分を思い詰めていたところに日蓮宗団体の理事の言葉に力づけられ文房具屋で原稿用紙を見た途端に物語があふれ出してきた(261〜270ページ)というあまりわかりやすくないもので、それを書きためていたところでトシが病気だから帰ってこいという電報が来た(270ページ)とされているのですが、映画ではトシが病気だという電報が来てから書き始めたことになっています。映画の方が、動機としては、わかりやすいのですが、すぐ帰れという電報が来るほどの病状を聞いてすぐに帰ろうとしないで物語を書き始めるということも、そんなに短期間でたくさん書けるのかについても、不思議に思います。
シーンやエピソードとしては、原作に沿ったものが多いと思うのですが、小さく見える修正が大きなニュアンスの差異を生んでいて、私にはかなり原作と味わいの違う作品に見えました。
原作についての読書日記の記事はこちら→銀河鉄道の父 (このサイトではこちら)
(2023.5.6記)
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