◆たぶん週1エッセイ◆
映画「ラストレター」
重苦しく読み味の悪い小説が設定も展開もほぼ同じでも視点を変えると大きく印象が変わるのは驚き
さまざまな点で、裕里の優しさ、それを演じた松たか子に救われた作品だと思う
岩井俊二監督が自らの小説を映画化した「ラストレター」を見てきました。
公開3日目日曜日、新宿ピカデリーシアター2(301席)午前10時15分の上映は、5〜6割の入り。
自殺した姉未咲(広瀬すず)の葬儀に出席した裕里(松たか子)は、未咲の娘鮎美(広瀬すず:2役)から高校の同窓会のお知らせを見せられる。同窓会に出席した裕里は周囲から未咲と勘違いされて未咲の死を言い出せず、不本意ながら未咲として振る舞い、帰りのバス停で未咲の同窓生であり自らが憧れていた先輩でもある乙坂鏡史郎(福山雅治)にもっと話したい場所を変えて飲まないかと誘われるが、もう帰らないといけないからと連絡先を交換して別れた。鏡史郎から「君にまだずっと恋してるって言ったら信じますか」などのメールが来て、それを見た夫(庵野秀明)にスマホを水没させられた裕里は鏡史郎に手紙を書き始め…というお話。
乙坂鏡史郎と未咲、裕里の青春時代が原作では中学生時代で映画は高校生時代(ここは、さすがに中学生時代にするとキャスティングに無理があるからでしょう)、原作では乙坂鏡史郎がサッカー部のエースストライカーで裕里はマネージャーといういかにも青春もののベタな設定だったのが映画では生物部の先輩と後輩という2点を除けば、ほぼ原作どおりの設定と展開です。
原作を読んだとき、この読み味/後味の悪い小説をいったいどうやって映画化するのかと思いましたが、映画では、前半を乙坂鏡史郎ではなく裕里と鮎美、裕里の娘の颯香(森七菜)サイドから描いていて、松たか子と森七菜のキャラ/演技のせいでしょうけれども、原作の乙坂鏡史郎サイドの自己中の偏執的な人物視点の重苦しさとは大きく異なり、明るく軽やかなタッチに仕上がっています。設定も展開もほぼ原作どおりなのに、視点を変えることでこれだけ印象が違うのかと驚きました。この点は、ものを書くときのアイディアとして参考になります。後半は、原作のエピソードにこだわる限り、乙坂鏡史郎サイドからしか描けなくなることもあり、原作同様の重苦しく偏執的な印象になっていくのを、やはり裕里、回復した鮎美、颯香がカバーしてなんとか明るさを保つという展開ですが。
原作でほとんど描かれていないため、映画でも乙坂鏡史郎と未咲の大学時代の交際、阿藤陽市(豊川悦司)と未咲の結婚生活は若干の言葉での描写以外は描かれません。阿藤陽市は恋敵である乙坂鏡史郎から悪の権化のように見られますが、乙坂が送った未咲を描いた小説の原稿を取り上げることも破くこともせずにいたわけで、裕里の夫よりは鷹揚に思えます。物語としてみるとき、残された鮎美の視点を考えるとき、大学生時代や阿藤陽市との結婚生活も含めた未咲の人生の起伏をもう少し描いて欲しかったなと思いました。
乙坂に思いを寄せている自分に、話したことさえない姉の顔を見ただけで好きになったとして、自ら申し出たこととはいえ、姉宛のラブレターを繰り返し届けさせたという過去、そしてその後終わった恋にいつまでも固執して姉のことを書いた小説を1つ書いただけでろくに小説も書けずに作家もどきのフリーターを続けるこれまで、さらにはかつて告白した自分に姉宛のずっと君に恋してるなどというメールを送りつける現在(子どもの頃はまだしも40過ぎてこんなことできる?)を経て、それでもなお乙坂を初恋の人、憧れの先輩と扱う裕里の、私には奇跡的とも思える優しさ、それを演じた松たか子に救われた作品と思えます。
原作の感想は、読書日記2019年11月分 05.を見てください。
(2020.1.19記)
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