庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

女の子が楽しく読める読書ガイド
ペギー・スー   バルーンイラスト
ここがポイント
 自立心の強い少女が不思議な世界で冒険を続ける姿が爽快
 設定は荒唐無稽、以前の巻との矛盾も少なくない
 いつまでも子どもではいられない、大人になれば女らしくという作者の示唆も見える

 お薦め度:星イメージ星イメージわりとお薦め/

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(1巻~9巻の原題 : PEGGY SUE ET LES FANTOMES)
(10巻~の原題:PEGGY SUE ET LU CHIEN BLUE)
(新シリーズ?12巻~?原題:LES MONDES FANTASTIQUES DE PEGGY SUE)
セルジュ・ブリュソロ作
1巻 魔法の瞳をもつ少女(原題: Le jour du chien blue)2001年
2巻 蜃気楼の国へ飛ぶ(原題:Le sommeil de demon)2001年
3巻 幸福を運ぶ魔法の蝶(原題:Le papillon des abimes)2002年
4巻 魔法にかけられた動物園(原題:Le zoo ensorcele)2003年
5巻 黒い城の恐ろしい謎(原題:Le chateau noir)2004年
6巻 宇宙の果ての惑星怪物(原題:La bete des souterrains)2004年
7巻 ドラゴンの涙と永遠の魔法(原題:La revolte des dragons)2005年
8巻 赤いジャングルと秘密の学校(原題:La jungle rouge)2006年
9巻 光の罠と明かされた秘密(原題:La lumiere mysterieuse)2006年
10巻 魔法の星の嫌われ王女(原題:Le loup et la fee)2008年
11巻 呪われたサーカス団の神様(原題:Le cirque maudit)2008年、日本語版2010年7月29日発売
12巻? L'arbre qui n'existait pas (存在しない樹)2011年
13巻? L'homme à la tête de plomb (鉛の頭の人)2011年

 10巻から原書のシリーズタイトルがPEGGY SUE ET LU CHIEN BLUE(ペギー・スーと青い犬)に変更されています。その意味では新シリーズというべきかも知れませんし、でも1巻から青い犬が出てきていてこのシリーズタイトルも可能だった上に、4巻からは以前のシリーズタイトルに無理があって元々こっちのタイトルの方が合っていたわけですし・・・(原書では2011年に LES MONDES FANTASTIQUES DE PEGGY SUE という新しいシリーズタイトルの1巻と2巻が出版されています。これが12巻、13巻にあたるのか、それとも別シリーズなのか、著者の公式サイトがほとんど何も書いてない状態ですし、私のフランス語読解力ではちょっと判別しかねています。)
 原書のペギー・スーのイラストは年相応のティーンエイジャーに描かれています。1巻~4巻では赤毛のショートカット、5巻~11巻は金髪のポニーテールですが・・・(原書の表紙があるページをAmazon.frでリストアップすると、1巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10巻11巻12巻?、13巻?です:以前は著者のサイトと関連サイトにリンクしていましたが消えたりしますのでリンク先を替えました)。しかし、日本語版のイラストは、10巻まではとても14歳とは思えませんでした。最初の方はどう見ても幼稚園児体型の3頭身(顔はややませ気味の幼稚園児くらい)、6巻あたりから少し修正して9巻では5頭身くらいになっていますが、それでもやっぱり小学生にしか見えませんでした。ありがちなパターンではありますが。日本の出版文化の幼児傾向と評価すべきか、ヨーロッパでティーンエイジャーに読ませているものを小学生に読ませていると評価すべきかは何ともいえませんけど。これが11巻ではようやく年相応のイラストになりました。赤毛というか茶髪のセミロングというあたり原書に対する独自性を保っていますが(その点は、むしろ原書の方が、9巻でペギー・スーが実は「赤毛の妖精」アゼナの子だったということが明らかにされた段階で、最初は赤毛だったのを金髪に変えたのはなぜ?という問題をはらんでいるわけですが)。
 14歳(10巻の途中から15歳)の少女ペギー・スー・フェアウェイが、テレパシー能力を持つ青い犬らとともに様々な土地で繰り広げる冒険物語です。ペギー・スーは「見えざる者」を見ることができることと、視線で「見えざる者」にダメージを与えられること以外は、「普通の少女」とされています。4巻以降「見えざる者」は登場しませんし、ペギー・スーの特殊な能力はすべて5巻で治されてしまいますから、今では完全に「普通の少女」のはずです。
 しかし、そのペギー・スーが、蜃気楼の世界に入り込んだり、気球で雲の上の世界に行ったり、地球の中心まで続く地底の世界に行ったり、果ては別の星に行ったりと、ストーリーはかなり荒唐無稽です。星は天空の黒い布に張り付いてるとか、稲妻は空の鍛冶屋が星を溶かして作ってるとか・・・「これはファンタジーなんだ」と割り切って読むしかありません。
 さらには、人間関係の設定もかなりいい加減です。初期はケイティーおばあちゃんとか恋人のセバスチャンとかが重要な役割を果たしていたのですが、セバスチャンは7巻で狼になり、ケイティーおばあちゃんは9巻で他人とわかり、10巻ではペギー・スーと青い犬だけが「ペギーの生まれ故郷」アンカルタ星に行くことになりそれまでの人間関係が全部ご破算になります。しかも、9巻ではペギー・スーの父親は人間だったがペギー・スーが赤ん坊の頃に「見えざる者」たちに殺された(9巻163頁)と言っていたのに、10巻のはじめで「亡くなったって聞かされていたかと思うけれど、本当は生きています」(10巻5ページ)とあっさり方向転換されて、ペギー・スーの父親の国王「ウィリアム3世」が登場します。なぜ殺されずに生き延びられたかとか、あるいはなぜ殺されたことにしておいたのかとかいう説明は一切ありません。もうちょっとまじめにストーリーを考えて欲しいものです。さらに11巻の最後には、8巻から登場しなくなっていたセバスチャンが突然登場してケイティーおばあちゃんがあぶないんだといって「つづく」となり、またしても地球に戻る模様。10巻以降はアンカルタ星での新シリーズという路線と思われましたが、やっぱり気が変わったというところでしょうか。原書の11巻が出てから2年が経ちますがまだ原書の12巻は発行されていないようです。展開に苦しんでいるのでしょうか。
 設定はむちゃくちゃなんですが、扱っているテーマは、人間の欲望とか動物虐待とか環境破壊とか人間(大人)の身勝手さとか、結構考えさせてくれます。
 6巻では金持ちが貧乏人を犠牲にして快楽にふけっている様子が取りあげられて社会派色を強めていて、庶民の弁護士としては、好感を持ちました。
 7巻では、ドラゴンの涙を飲み続けないと怪物(オオカミ)になってしまうという設定の下で、怪物になるくらいなら毒を飲んで石像になる(なれ)という人びとと、ドラゴンに依存するより怪物になって生きようとする人びとの対立が描かれていて考えさせられます。
 8巻では、地球外の怪物との戦いの形ですが、戦争とは何か、そこでの「英雄」とは何か、英雄志向への疑問を考えさせられます。(9巻は8巻の続きになっていますが、登場人物を引き継いだこと以外はほとんど関連はなく、社会派色は薄まった感じで、魔法と登場人物の意地悪さが目立ちます)
 10巻では、王族・貴族のわがまま勝手ぶりと虐待される貧民たちの怨嗟の念やしぶとい生き様が描かれています。11巻はその続きですが、貧民たちの抵抗は描かれずその路線は放棄されますが、究極の兵器による「きれいな戦争」を皮肉っているあたりに社会派色が残されています。
 (1巻から9巻のシリーズの)原題の PEGGY SUE ET LES FANTOMESは、「ペギー・スーとお化けたち」で、ペギー・スーと「見えざる者」の闘いなんです。で、その「見えざる者」たちは、3巻でペギー・スーに壊滅されてしまいました。本来は、この3巻で完結するはずだったんです。
 ところが、翌年には4巻が出版され、4巻以降、敵は巻別に新しい宇宙人や新たな惑星が登場しています(4巻の終わりで青い犬が、「おーい!お化けども!どこに隠れてるんだ?そろそろ戻ってきたらどうだ?」と呼びかけているので、いつか「見えざる者」が復活するかも知れないという含みを持たせていましたが、10巻でシリーズタイトルが「ペギースーと青い犬」に改められ、その可能性は、たぶんなくなりました。「お化けたち」時代の登場人物のアゼナが9巻で再登場し、ペギー・スーの実の母親として今後も出てくることになって、その点からはお化けたちの再登場があり得ないわけでもないように見えますけど・・・)。こうなると、ウルトラマンみたいに次々と新しい宇宙人が出てきてシリーズは当分続きそうです。それぞれの巻で、前の時から数ヶ月たったとされているのにペギー・スーがずっと14歳(9巻でもまだ14歳です。10巻に入りその後半年が経ってようやく15歳になりました)なのも、サザエさんみたいに続くことを予感させます。
 9巻でペギー・スーの出生の秘密が唐突に明かされ、10巻でシリーズタイトルが改められて(4巻以降の実態に合わされただけですが)、新シリーズっぽくなっていましたが、11巻の終わりで12巻からまた地球に戻ることが予告されていてアンカルタ星の新シリーズという路線ではなくなったようですが、少なくとも12巻があることは予告され、今後また従来の路線に戻って進めることも予想され、作者はまだ続ける気のようです。
 ペギー・スーは、あくまでも普通の少女という設定です。勉強は苦手、体育は得意です。
 冒険のパートナーの青い犬の危険を察知する能力、セバスチャンの怪力、ときどきケイティーおばあちゃんの魔法などに助けられながらですが、冒険は、基本的にペギー・スーの勇気と決断(間違っていることもままありますけど)で進められます。敵との戦いになると怪力のパートナー(男性)に助けられるところは「オズの魔法使い」と似ていますが、ペギー・スーの方がドロシーより相当積極的・主導的です。
 「彼女は男の子に命令されるのが大嫌いなのだ。」(2巻118頁)とされていますし、セバスチャンが主導権を取りたがると、度々、男の子というものは・・・という批判的なコメントが入ります。
 そして、「<魔法なんてごまかしよ!>とペギーはよく言ったものだ。<私は自分の力で切り抜けるほうが好き>」(6巻268頁)と自主性・主体性が強調されています。  
 他方、性別役割が強調された表現も散見されます。例えば、「女の子たちは人形遊びに慣れているから、最高の召使いになれるんだ」(1巻189~190頁)、「おまえたちは女の子だから、部屋の掃除をしているママを手伝え。」(2巻26頁)、「いろんな機械の名前をこと細かに覚える男の子たちの好奇心にペギーはいつも驚かされたものだ。彼女にとっては、飛行機が大きかろうが小さかろうが、青だろうが赤だろうが・・・そんなことはどうだっていいのに!」(2巻100頁)、「なにしろ男の子なのだから、機械に詳しいはずだ・・・。」(2巻247頁)、「そういう超能力の話って私にはどうでもいいの。男の子が好きそうなことよね。私はすっごくおいしいフルーツタルトを作れるようになりたいだけ。」(4巻245頁)。「どのみち、スーパーヒーローは男の仕事だからな」「女の仕事じゃないぜ!まともなスーパーヒロインなんていないだろ。キャットウーマンとかスーパーガールなんて、かなりの脇役だ!バトントワラーみたいなもんだな!」(8巻27頁)。まあ、「『こんなの・・・屈辱だ!』と彼はわめいた。『男のすることじゃない!』『じゃあ』とペギーは言った。『やたらと怒りを爆発させて、いつでも脳をぐちゃぐちゃにできる恐ろしい犬のところに、女の私は喜び勇んで服の手入れに出かけるとでも思ってるの?女の子は片手にアイロン、片手に縫い針を持って生まれてくるって信じてるんでしょ?』」(1巻183頁)と反撃するシーンもありますけど。
 また、作者が不必要に男の子ってものは、女の子ってものはと書き過ぎる傾向があります。
 せっかく、少女を主人公にした物語を書いてるんだから、そのあたり、もうちょっと配慮して欲しいなと思います。
 10巻になり15歳になるペギー・スーに、作者はやや微妙な表現をしています。家庭教師の指導に従ってもう少し女らしくなりなさいというアゼナ(母親)に対し、反発を感じるペギー・スーの心情を「しかし、心の底では、それが不可能だとわかっていた。彼女は大人になりつつある。それにつれて、周囲の状況も変わるものだ。やがて、彼女は子供時代に別れを告げなければならなくなる。素晴らしい子供時代のドアが、背後で閉じられることになる。そうなれば、大人の世界に入っていかねばならない。悲しい話だ(読者のみなさんも、そう思いませんか?)。」と伝えています(10巻6~7頁)。冒険に満ちた少女時代の終焉を、悲しいこととしながらも同時に不可避のこととしているのです。元気な女の子を勇気づけた物語が、主人公の成長に従い、大人になればそのような生き方はできない・許されないとして元気な女の子の夢を摘んでしまう、そういうありふれたありがちな物語の陥穽に、このシリーズも沈んでゆくのでしょうか。ペギー・スー自身はなおマイ・ペースで冒険を続けているのは救いですが。
 設定のむちゃくちゃさ加減は大人にはつらいし、不用意な表現も目にはつきますが、「普通の」少女ペギー・スーが主体的・積極的に行動するところ、女の子が主人公のファンタジーが少ないことを考えれば、ちょっと押したいと思います。

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