◆女の子が楽しく読める読書ガイド◆
ヘンゼルとグレーテル (原題 Hansel und Gretel)
誰でも知っているグリム童話の有名作品だが、4版までと5版以降で構図が大きく異なる
5版以降では、グレーテルの成長物語と読むことができ、フェミニズムの観点でもいい教材となる余地がある
お薦め度:5版以降はお薦め/
グリム童話 初版1812年、1815年 以下1857年の第7版まで改訂
誰でも知っている童話の名作。
両親がヘンゼルとグレーテルを森に置き去りにする過程で母親が悪者にされている(改訂が進むに連れてその傾向が強まる。そのため「白雪姫」同様、第4版から継母に変更される)こと、悪役が魔女で愚かに描かれていること、前半グレーテルが泣いてばかりで何もできない娘と描かれすべてヘンゼルが主導していることから、一見、むしろ女性差別的なイメージも漂っています。
物語の分量から見ても、グリム兄弟自身は前半を重視しているように思えます。
しかし、私は、後半を重視して、これはヘンゼルとグレーテルの物語ではなく、グレーテルの成長物語と読みます。その観点から、甘いかも知れませんが、あえて星3つをつけてみました。
グレーテルは、前半では、ひたすら泣いているだけの受動的な存在です。両親が子どもたちを森に置き去りにしようと相談しているのを聞いたときも、森に置き去りにされたことを知ったときも、ただ泣いているだけです。ヘンゼルがグレーテルを慰め、小石を目印に落としてうちに戻るなどします。お菓子の家にたどり着いたときも、ヘンゼルは自ら屋根を食べ、グレーテルに窓を食べるように勧めるなど、あくまでもヘンゼルが主導しています。
さすがに魔女に捕まって閉じこめられた後はヘンゼルはなすすべもなくなります(それでも目の悪い魔女に太ったと悟られないように指の代わりに小さな骨を差し出す知恵はありましたが)。それでもグレーテルは泣くばかりですし、ヘンゼルを煮るための水をくまされても、森で獣に食べられていたら2人一緒に死ねたのになどといって泣くだけでした。
しかし、魔女に釜の中に入ってパンの焼け具合を見るようにといわれ、自分が殺されそうになったとき、グレーテルは、どうしたらいいのか私にはわからないと、愚かなふりをして魔女を釜の中に入れて扉を閉めて焼き殺します(3版までは、神様が気づかせてくれた、4版以降はグレーテルが自分で考えついた)。自分の命の危機を転機にグレーテルが積極的な行動に出て自分と兄のピンチを救ったのです。
初版では、助け出されたヘンゼルとグレーテルが魔女の宝石を持ち帰っておしまい。これだと魔女をやっつけた後のヘンゼルとグレーテルの関係は以前通りのようにも見えます。
2版から、帰り道に大きな川が登場します。ここでグレーテルが川にいる水鳥に呼びかけて川を渡してもらいます。こうなると、グレーテルの主導性が浮き出してきて、魔女をやっつけた後はグレーテルが主導的なイメージがあります。
5版以降では、この帰り道の川のシーンで、ヘンゼルは「渡れない」とあきらめるだけですが、ここでグレーテルが水鳥に呼びかけて渡してもらいます。しかも、水鳥が来たときにヘンゼルが先に乗ってグレーテルも横に座るようにいったのに対して、グレーテルはこれを拒否して、2人一緒では重すぎるから別々に乗せてもらいましょうと提案し、その通りにします。こうなるとグレーテルの主導性と知恵の優越は明らかです。
率直にいって、グリム兄弟がそういう意識であったとは思いませんが、第5版以降のヘンゼルとグレーテルは、グレーテルの成長物語と読むことが可能であり、またそう読むべきだと思います。そう読むと、むしろ前半のグレーテルのふがいなさは後半の成長の布石と読むべきですし、ヘンゼルの主導性も後半のグレーテルの成長を際だたせるための道具ともいえます。
女の子と読むときは、グレーテルがどう変わったかに意識を置いて読むと、結構いい教材・気持ちのいい物語になると思います。
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