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ナルニア国ものがたり  ライオンイメージ
  The Chronicles of Narnia
C.S.ルイス作
1巻 ライオンと魔女(原題 THE LION,THE WITCH AND THE WARDROBE) 1950年
2巻 カスピアン王子のつのぶえ(原題 PRINCE CASPIAN) 1951年
3巻 朝びらき丸東の海へ(原題 THE VOYAGE OF THE DAWN TREADER) 1952年
4巻 銀のいす(原題 THE SILVER CHAIR) 1953年
5巻 馬と少年(原題 THE HORSE AND HIS BOY) 1954年
6巻 魔術師のおい(原題 THE MAGICIAN’S NEPHEW) 1955年
7巻 さいごの戦い(原題 THE LAST BATTLE) 1956年
以下、引用は岩波少年文庫の新版(2000年)によります。
 ファンタジーの古典で、多くのファンタジーが影響を受けている作品です。
 物語の中での時代は、実は6巻、1巻、5巻、2巻、3巻、4巻、7巻の順番になっています。
 物語全体の構想は、必ずしも一貫しているとはいえません。いずれも別の世界ナルニアに人間(アダムの息子、イブの娘)が迷い込み(実はナルニアの救世主アスランに呼び込まれ)冒険をする物語です(5巻は例外)。正義を体現するのは、ライオンの姿をした救世主アスランです。これに対する悪役は、6巻、1巻、4巻では魔女ジェイディス(1巻では「白い魔女」)ですが、5巻、7巻では敵国カロールメンとその守護神タシです。6巻でナルニア創造の時から魔女ジェイディスとの戦いがあったことを描いていて、魔女ジェイディスは1巻で死んでも(ライオンと魔女245頁:原書でも the Witch was dead となっています)4巻でまた現れている(死んだのに復活したいきさつは説明されていませんが)のですから、4巻で死んでもまた出てきて最後の戦いは魔女ジェイディスとの戦いになってもよさそうですが、最後の戦いの相手は、ナルニアの時代的にはずっと昔の第5巻で出てきたきりのカロールメンです。通し読みするとちょっと、「えっ、どうして」と思います。 
 1950年代に書かれた作品としては珍しく、冒険をする主人公は原則として同数の男の子と女の子です(3巻では男の子2人と女の子1人ですが)。女の子の読者の存在にかなり意を配っているとはいえます。(同時期に書かれた名作ファンタジー「指輪物語」と対比しても、それは明らかです)
 しかし、1巻、2巻、5巻では、ピーター王、スーザン女王、エドマンド王、ルーシー女王の4人(兄弟姉妹)が登場しますが、兄ピーターが「一の王」とされています。1巻、2巻で活躍するスーザン女王はなぜか2巻あたりから作者に嫌われて(カスピアン王子のつのぶえ176頁、186頁、219頁でアスランを信じるルーシーと対立させ、227頁でアスランから「おくびょう神の声を聞いていた」:原書ではYou have listened to fears , child と非難されます。映画ではこの台詞はありませんでしたが)、5巻では「ふつうの大人の女の人みたいなんだ。弓はとてもじょうずだけれど、戦には出ないのさ」と非難され(馬と少年268頁:原書では Queen Susan is more like an ordinary grown-up lady . She doesn't ride to the wars , though she is an excellent archer .)、7巻のさいごの戦いでは「もはや、ナルニアの友ではありません」とされて(他にもいろいろけなされていますが省略します。さいごの戦い227頁〜228頁参照:原書では My sister Susan is no longer a friend of Narnia .)4人のうちただ1人ナルニアに呼ばれません。1巻で明確にアスランを裏切ったエドマンドも3巻・4巻で過ちを犯したユースチス・ジルも許されていることと対比すると、スーザンがこれほど嫌われるのは不思議です。
 5巻で実際に冒険をするシャスタ(コル王子)とアラビスは、シャスタがアラビスの危機を救ったことでシャスタが優位に立ち、シャスタは実は王子とわかって後にナルニアの友好国アーケン国の王位を継ぎ、アラビスはシャスタと結婚して王妃となります。
 6巻では、ナルニアの初代の王と女王として馬車屋(フランク王)とその奥さん(ヘレン女王)が即位します。この2人には形の上では上下はつけられていませんが、ヘレン女王は馬車屋が王となることになってから突如呼び込まれ、ほとんど発言もなく、何かいかにもとってつけたような存在です。
 その後、ピーター王ら4人の並立があった後は、物語上のナルニアの王は、カスピアン王、リリアン王、チリアン王といずれも男性で女王は登場しません。
 また、6巻で冒険をしたディゴリーとポリーについては、ディゴリーはその後有名な学者になったと書かれていますがポリーのその後は出てこず、ただポリーおばさんとされています(魔術師のおい301頁〜302頁、さいごの戦い90頁〜91頁)。
 作者なりには男の子と女の子のバランスを取っているのかも知れませんが、これまで述べたような微妙な書き分けが気になります。
 主人公の書き分けの他にも、引っかかる表現がいくつか出てきます。
 1巻ではアスランの化身と見られるサンタクロースはルーシーに対して「女が戦うときの戦はみにくいものだ。」と述べています(ライオンと魔女152頁:原書では battles are ugly when women fight )。(ディズニーの映画化では、さすがに「女が戦うときの」は削除されていましたね)
 エドマンドは1巻ではルーシーについて「女の子らしくすねて」(ライオンと魔女46頁:原書では Just like a girl , sulking somewhere)、スーザンについて「そこが、女の子のいちばん悪いくせなんだ。」「女の子の頭には、からきし地図がはいっていないんだもの」:(カスピアン王子のつのぶえ177頁:原書では That's the worst of girls . They never carry a map in their heads .)と述べています。(ディズニーの映画では、地図の話はそのまま出てきますが、字幕版では「他の点で強いからね」、日本語吹き替え版では「その代わり脳みそがつまってるの(男の子の頭には脳みそが足りないと切り返してるわけ)」と原作よりたくましく言い返されています)
 ユースチスはジルに対して「コンパスの方位がわからないってのは、女の子たちの、なんともふしぎなところだな。」と述べています(銀のいす25頁:原書では It's an extraordinary thing about girls that they never know the points of the compass .)。もっとも作者は後で「女の子一般のことは、わたしは知りませんが」とフォローしていますが(銀のいす52頁:原書では I don't know about girls in general)。
 ジルはリリアン王子に対して「わたしのきましたもとの世界では」「じぶんの奥さんに大きな顔をされる男たちをよく思う者はありませんわ。」と述べています(銀のいす234頁:原書では Where I come from , they don't think much of men who are bossed about by their wives .)。
 5巻でカロールメンのラバダシ王子は「女というものが風見鶏のように気の変わりやすいことは、だれでも知っております。」と述べています(馬と少年176頁;原書では For it is well known that women are as changeable as weathercocks .)。またここではアラビスは「女の子にしては」勇気のあるとされます(馬と少年188頁:原書では brave girl though she was , her heart quailed で、ちょっとニュアンス違うような・・・)。
 6巻でディゴリーはポリーに対して「やっぱり女の子だな。女の子とくりゃ、ひとのうわさか、だれそれが婚約したなんていうばかばかしいことだけしか、知りたがらないんだ。」と述べています(魔術師のおい89頁:原書では It's because you're a girl . Girls never want to know anything but gossip and rot about people getting engaged .)。
 こういうことを考えると、女の子の読者の存在に目配りされてはいますし、書かれた時代を考えれば上出来ともいえるでしょうが、今、女の子が読むということを考えたときにお薦めできるかというと、ためらいを感じざるを得ません。 

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