庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  ◆活動報告:原発裁判

 柏崎刈羽原発訴訟最高裁決定

 2009年4月23日、最高裁第1小法廷は、柏崎刈羽原発訴訟の住民側の上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定を行い、住民側の敗訴が確定しました。(上告や上告受理の制度について知りたい方は「まだ最高裁がある?民事編」を見てください)
 中越沖地震で建物や機器の一部が破損して運転を停止していた柏崎刈羽原発で、損傷が最も小さかった7号機の運転再開に向けて東京電力が働きかけを強め地元の行政の判断が注目されている最中にこの決定があるとは予想もしていませんでした。この裁判自体は中越沖地震でより大きな揺れに襲われた1号機の原子炉設置許可に関する裁判ですから、最高裁も1号機についての評価が出るまで待つと思っていたのですが。最高裁決定のあった当日、さっそく新潟県知事が運転再開を近く県議会に諮ると表明。最高裁決定は、柏崎刈羽原発の運転再開を後押しするものになりました。いくら何でも最高裁がここまで政治的に動くとは。

  最高裁決定の内容 

 最高裁決定は、上告棄却・上告不受理決定の決まり文句にカッコ書きで1文だけ言い訳を加えています。まず、理由全文を引用しましょう。すごく短いですから。

 1 上告について
 民事事件について最高裁判所に上告をすることが許されるのは,民訴法312条1項所定の場合に限られるところ,本件上告理由は,違憲及び理由の不備・食違いをいうが,その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって,明らかに上記各項に規定する事由に該当しない。
 2 上告受理申立について
 本件申立ての理由によれば,本件は,民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。
 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する(なお,原審の口頭弁論終結後の平成19年7月16日,本件原子炉の近傍海域の地下を震源とする新潟県中越沖地震が発生したところ,この点は,法律審としての当審の性格,本件事案の内容,本件訴訟の経緯等にかんがみ,上記の判断を左右するものではない。)。

 カッコ書き以外は、いつもの決まった言葉です。では、カッコ書きで言っていることはどういう意味があるでしょうか。

  原子炉設置許可取消訴訟での裁判所の判断の枠組み

 「法律審としての当審の性格」という最高裁の言い訳を検討するために、しばらく法律論の話をします。
 住民が原発を止めるために起こす裁判は大きく分けて、原発の運転差し止めを求める民事裁判と、国の原子炉設置許可の取消を求める行政裁判に分けられます。1970年代や1980年代前半に起こされた原発裁判は、ほとんどが後者の行政裁判でした。
 これらの裁判で、住民側は、裁判所が原発の安全性全般を審理して危険性を判断すべきであると主張してきました。しかし、裁判所は、原子炉設置許可の取消を求める行政裁判では、審理・判断の対象は原発の設計全般ではなく「基本設計」に限定され、裁判所は直接に原発の安全性を判断するのではなく原子力安全委員会等が行った安全審査に「不合理な点」があるかだけを判断するという立場を取りました。その集大成が伊方原発訴訟での最高裁判決でした。
 伊方原発訴訟の最高裁判決は、安全審査に用いられた具体的審査基準が不合理であるか、安全審査の調査審議及び判断の過程に看過しがたい過誤欠落がある場合には安全審査には不合理な点があり違法となるとしました。そしてその判断は安全審査の当時の科学技術水準ではなく「現在の科学技術水準」で判断すべきとしています。
 この裁判所の考え方は、住民側の要求に応えないものでしたが、それはそれで一つの立場です。

  柏崎刈羽原発の耐震設計審査と中越沖地震

 裁判の対象となっている柏崎刈羽原発1号機の安全審査では、中越沖地震の震源断層となったと見られる海域の活断層は見落とされて全く検討されず、耐震設計は最大想定地震による揺れが450ガルであることが大前提となっています。
 中越沖地震では、柏崎刈羽原発1号機の敷地にはこの450ガルを遥かに超える揺れが現実に生じました。何倍の揺れかは正確には言えません。というのは、より正確にいうと安全審査の想定で450ガルを想定した場所は「解放基盤表面」という理論上の場所で柏崎刈羽原発では敷地の地下深くですから中越沖地震での揺れを直接は測定していません。しかし、中越沖地震で柏崎刈羽原発では柔らかな岩盤のために原発敷地地表の揺れは減衰されたということですから、解放基盤表面の揺れは原発地下フロアの揺れよりも大きかったことになります。そうすると安全審査の想定の外れ具合はかなりのものになりますが、少なくとも安全審査の最大想定の2倍以上の揺れが現実に生じたことは明らかです。

  伊方原発訴訟最高裁判決の判断基準と中越沖地震

 原発敷地周辺の海域の活断層を見落としたことは、調査審議及び判断の過程での「欠落」か「過誤」ですし、最大想定地震による敷地(地下の解放基盤表面)の揺れを450ガルと想定したことが調査審議及び判断の過程の「過誤」であることは明らかです。耐震設計において最大想定地震の設定はその大前提であり最も基本的なものですから、その設定のために検討する活断層の誤りは重大なことですし、最大想定地震による敷地の揺れの評価の誤りは極めて重大なことです。安全審査で想定した最大想定地震を越える揺れを生じうるような活断層の見落としや、最大想定地震による揺れが現実に生じる地震によるものの2分の1以下などということは、どう考えても「看過しがたい」ものというほかありません。
 伊方原発訴訟での最高裁判決は、裁判所が原発の安全性を直接判断することを否定して安全審査の調査審議及び判断の不合理性のみを判断する、そしてその判断方法は現在の科学技術水準に照らして安全審査の調査審議及び判断の過程に看過しがたい過誤欠落があるかだと明言したのですから、安全審査に看過しがたい誤りがあっても結果的に壊れなかったからいいという逃げ道はありません。伊方原発訴訟の最高裁判決の判断基準からは結果的に安全かという判断を裁判所はできないのですから(それに基本設計だけが対象なら、できあがったものが壊れなかったとして、それが基本設計の余裕なのか詳細設計の余裕なのか施工の余裕なのかもわかりませんし)。
 つまり、伊方原発訴訟の最高裁判決の判断基準を当てはめれば、中越沖地震で明らかになった事情を考慮して「現在の科学技術水準」で判断すれば安全審査は違法となり取消は免れなかったはずです。

  中越沖地震でわかったことは「事実」か?

 民事裁判でいう「事実」とは法律適用の前提として認定される、法律による評価の対象となることがらです。
 中越沖地震で明らかになった海域の活断層の存在(中越沖地震以前から東京電力は知っていて隠していたわけですが)や最大想定地震による揺れを遥かに超える揺れが現実に生じたことは、裁判にいう「事実」でしょうか。
 原発の危険性そのものが審理判断の対象となる民事裁判であれば、それは現在の柏崎刈羽原発の危険性を基礎づける事実の1つと考えられます。
 しかし、原子炉設置許可取消訴訟では、伊方原発訴訟の最高裁判決で確立された裁判所の考え方によれば、審理対象である事実は過去の安全審査の調査審議及び判断の過程なのですから、その過程で海域の活断層を検討しなかったことや最大想定地震による揺れを450ガルしか想定しなかったことが審理対象たる事実です。検討しなかった活断層が実在することや450ガルを遥かに超える揺れが生じうることは、評価する対象である「事実」ではなく評価の基準である「現在の科学技術水準」の問題です。つまり、行政裁判では、中越沖地震でわかったことは、民事裁判でいう「事実」ではなく評価基準である経験則などむしろ「法律」側の問題なのです。

  「法律審としての当審の性格」は言い訳になるか

 かなり法律技術的な説明が続きますが、柏崎刈羽原発訴訟で住民側はここまで述べてきたようなことを最高裁に提出した書面でもこんこんと説明してきました。住民側の感覚には必ずしもフィットしないのですが、最高裁が伊方原発訴訟で自ら創り上げた法律論の土俵で勝負する限り、こういう議論になります。
 伊方原発訴訟最高裁判決がいう審理対象を前提とすれば、この問題で必要な原審で認定すべき事実は、安全審査で中越沖地震の震源断層となったと見られる海域の活断層を検討しなかったことと最大想定地震による揺れを450ガルとしたことだけで十分です。それを現在の科学技術水準に照らして判断すれば、安全審査の調査審議及び判断の過程に看過しがたい過誤欠落があったことはもう明らかです。そして「現在の科学技術水準」は判断基準の問題ですから原審が確定すべき(最高裁が独自に認定すべきでない)「事実」ではありません。
 ですから、「法律審としての」最高裁は、伊方原発訴訟最高裁判決の枠組みに普通に乗れば柏崎刈羽原発1号機の安全審査が違法であったと優に判断でき、またそう判断するしかなかったのです。
 それにも関わらず、最高裁は今回それを逃げ、逃げる口実として「法律審としての当審の性格」を持ち出しました。それが誤りであることはこれまで長々と説明してきました。最高裁もそれだけでは説得力がないと認識したのでしょう。それに加えて「本件事案の内容、本件訴訟の経緯等」という当事者である私たちにさえ一体何のことを指して言っているのかわからないようなことを付け加えて、ごまかしを図っています。
 法律審であるから法律の判断しかしないというのなら、それも1つの立場かも知れません。しかし、高裁が原発訴訟で初めて国を負かして原子炉設置許可を無効としたもんじゅ訴訟では法律審としての抑制を大きく踏み越えて事実整理を大幅に入れ替え高裁判決の評価を大胆に変更して覆した最高裁が、安全審査の欠陥が明白になった今回は「法律審としての当審の性格」で判断を逃げるというのは一貫しません。原発訴訟は国側を勝たせたいということだけが一貫していると見るのは私のひがみでしょうか。

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