庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

    ◆私のプロフィール詳細版◆
  弁護士会の委員会

 プロフィールで「弁護士会での主な役職」の「過去の主な役職」は、実質的なトップの役職だけを書いて、委員会の副委員長とか、部会長とか、ましてや平の委員とかは書いていませんので、わりとあっさり目の記載になっています。それは、書き出したらごちゃごちゃするということもありますが、率直に言うと、昔の「多重会務者時代」のことは正確に覚えてないからです。

人権系統の委員会:若かりし頃
 私が弁護士会の委員会に入って活動したのは、弁護士2年目に日弁連の「女性の権利に関する委員会」(当時。その後「両性の平等に関する委員会」と名称変更)に林陽子弁護士の推薦で入れられたのが最初でした。当時、刑事弁護で担当した被疑者の話から女性被疑者の留置場を男性看守が監視していることを知り、それは人権侵害じゃないかと弁護士会やマスコミに問題提起したことが目にとまったようです。当時、日弁連女性の権利に関する委員会は全国で50人の委員会で男性弁護士は1割程度でした。私は教育・福祉問題を担当する第2部会に入り、教科書での性差別問題を提起しました。2年目からは副部会長、3年目からは部会長になったと思いますが、日弁連として初めての教科書問題についての意見書が理事会で差し戻されたり、かなり物議を醸し大幅な修正をした上で通りました。その時に、日弁連ではかなりの後退を強いられたこともあり、意見書作成の中枢メンバーで書いたのが「教科書の中の男女差別」(明石書店、1991年)です。
 弁護士4年目に、当時既に東海第二原発訴訟、六ヶ所核燃料サイクル訴訟を担当していて、原発訴訟関係者の間では名が知れていたこともあり、日弁連公害環境委員会の委員に指名されました。日弁連は意外に昔から原子力利用に対する批判的意見を表明していて、公害環境委員会に原子力部会を設けていました。ここでも2年目から原子力部会の副部会長となっていました。
 このように、私の委員会経験は、人権系統の委員会からスタートし、しかも二弁では該当する委員会に所属せずに日弁連の委員会だけで委員となって活動するというややイレギュラーなものでした。どちらも、弁護士会からではなく、日弁連の委員会側から目をつけられての引きだったためで、活動するのには特に支障はありませんでしたが、所属弁護士会の委員会で修行を積んで日弁連の委員に指名されるというプロセスを踏んでいないので、ほかの会から選出された委員からはやや不思議な存在だったかと思います。

日弁連広報室嘱託
 弁護士5年目に、プロフィールにも書いている日弁連の広報室嘱託になりました。広報室嘱託は、専従職ではありませんが、日弁連から給与が支払われる数少ない役職の1つです(当時日弁連が給与を支払っていた弁護士職員は、会長、事務総長、事務次長、調査室嘱託、広報室嘱託だけでした)。当時の先輩や事務次長の話では、基本的には日弁連新聞という機関誌を作るのが主要な職務ということで、広報室といってもほとんど内部向け広報に限られていたのです。私は、広報室ということから対外的な広報が主要な仕事と思っていたので、メディアからの依頼は原則断らない方針(「NOと言わない広報室」)を提起し、記者とのつきあいを拡大して、日弁連が少しでもメディアで取り上げられるように仕向けていきました。当時は記者は弁護士会に報道価値を見いだしておらず、日弁連が何かやっても報道されることはほとんどありませんでした。私は広報室嘱託の時期に記者とのつきあいを拡げましたが、当時ちょうど私が担当していた連合赤軍事件(担当した経緯はこちら)の最高裁での弁論の期日が指定されて最高裁担当の記者が私のところに次々と取材に来るのに対し、最高裁担当の記者が弁護士会担当を兼ねていることが多かったので「日弁連の行事にも来てね」と呼び込んでいたのが実情でした。
 この広報室嘱託になった際に、当時の事務総長から、広報室に君のような旗幟鮮明な人物が来るのは異例のことだ、広報室はすべての委員会を平等に扱う必要があるので所属している委員会は辞めて欲しいと明言されました。私は、それぞれの委員会で部会での活動の中枢を担っていましたので辞めるわけにはいかず、任期(日弁連の委員会の任期は通常2年)中は務めて任期満了後再任しないという線で妥協を図りました。

法律相談センター関係
 広報室の嘱託になって半年で女性の権利に関する委員会と公害環境委員会の任期が切れて委員会は無所属になったのですが、弁護士会で何も委員会に入らないのも寂しい(こう感じることがすでに中毒的な「多重会務者」ですね。たぶん普通の弁護士は広報室嘱託だけで十分忙しくてほかの役職は拒否したくなるでしょう)ので、二弁の法律相談センター運営委員会に入りました。法律相談は、弁護士なら誰でもやることなので、色がついているとか、偏っていると言われる余地はないと判断したのです。
 この後、ほんの一時期を除いて、二弁の法律相談センター運営委員会に所属し続け、そこから日弁連公設事務所・法律相談センター(当初はたしか、「法律相談事業に関する委員会」。その後「日弁連法律相談センター」となり、公設事務所の設置が始まる段階で「日弁連公設事務所・法律相談センター」となっていったと思います)に送り込まれ、そちらで事務局長を務めることになります。広報室嘱託の任期満了(2年を2回で4年)後は再度人権系統の委員会に戻ってもよかったのですが、広報室という現場を持った事業部門の仕事になじんだことと法律相談センターの仕事がそれなりにおもしろかったこと、人権系統の委員会に戻るのも少ししんどいなと思ったというところです。
 日弁連公設事務所・法律相談センターでは、私が事務局長になった頃(事務局長の任期は慣例として3年)、弁護士過疎問題の解決が急務とされ、ちょうどその頃の会長・副会長の努力で全国の弁護士から特別会費を徴収して弁護士過疎地の法律相談センターの運営費や公設事務所の経費を援助するという「ひまわり基金」が設置されました。それまでは、ある種理想を語っていればよかった面もあったのが、公設事務所の経済面での現実性が出て、実現をしなければならなくなり、弁護士過疎地を抱える全国の弁護士会を回って説得するという業務に追われました。今は弁護士が増えすぎ、当時裁判所の支部単位で弁護士が一人もいないか一人しかいない「01地区」が何十か所もあったのがすべて解消して、状勢が大きく変わり、隔世の感があります。
 それからしばらくして、二弁の方で法律相談センター運営委員会の委員長をやるハメになったのをきっかけに日弁連公設事務所・法律相談センターの方は引退させてもらいました(これ以上続けているとそちらでも委員長とか不穏な匂いも感じられましたし)。
 二弁の法律相談センター運営委員会の委員長は、何となく日弁連広報室時代に通じるやりがいとしんどさがありました。現場を持ち専従の職員を抱えている部署ですので、他の委員会と異なり、委員長の即決判断が求められる機会が多くあります。委員長になってみて、委員長と副委員長で職責がまったく違うことを初めて実感しました。基本的に毎日一度は事務局に顔を出して職員が抱える疑問に事実上の決裁(正式の決裁は弁護士会事務局の法律相談課長)を出していくのは、しんどくもあり楽しくもありました。聞いてみると、私以前の委員長はそこまでやってなかったようですが。

労働問題関係
 2005年になり、2006年4月からの労働審判制度の開始を前に、東京の三つの弁護士会(東京に弁護士会が3つある事情はこちら)と東京地裁労働部の間で労働審判制度の運営に関する協議会が始まることになりました。当時、二弁には労働問題を担当する委員会は存在しませんでした。もう少し言えば、労働事件は、使用者側と労働者側の対立が激しく、弁護士会でも使用者側の弁護士と労働者側の弁護士が席を同じくすることはほとんど考えられないという状況だったのです。そうは言っても、東京地裁労働部が協議をしたいと言っているのに弁護士会が受けないわけにはいきません。東弁と一弁ではこのときに「労働法制委員会」が設置されました。ところが、二弁は当時の理事者の方針で新しい委員会は作らない(どうしても作るときは委員会を1つつぶして作る)ということになっていたために新しい委員会は作られず、民事訴訟改善委員会(実はもう正確な名称を覚えていないんです)の部会として労働法部会が設置されることになりました。
 当時、私は、法律相談センター運営委員会で労働事件を相当数取り扱っている数少ない弁護士として、労働相談について何か問題があったときは私が担当するというような役回りでした。東弁、一弁、二弁の法律相談センター担当者の協議会である東京法律相談連絡協議会(東相協)の労働相談プロジェクトチームの一員として労働相談の実施方法の検討や労働相談担当弁護士向けの研修会の企画をしていました。二弁ではこの時点でこの部署が労働問題を扱っている唯一の部署だったのです。それで、この新しくできる労働法部会に委員として送り込まれることになりました。
 その後、委員会の統廃合で、倒産法問題と組み合わされて民訴・倒産法委員会(これも正式名称を忘れました)の労働法部会、更に統廃合で司法制度調査会の労働法部会となり、部会の内容・メンバーは替わらないまま委員会を流れ流れていきました。
 2011年になってようやく憲法委員会の労働と貧困部会と部会同士で統合して「労働問題検討委員会」が発足するに至りました。委員会発足前に司法制度調査会の労働法部会の部会長だったことから、1期目(2年間)は副委員長になりました(委員長は労働と貧困部会長だった水口洋介弁護士)。この委員会発足後は、労働事件法律相談ガイドブックの作成と追補版作成の事実上の責任者を担当し、勉強になるなぁと思いながら原稿チェックや修正に励んでいます。
 2013年4月からの2期目は委員長になりました。東弁の労働法制委員会は労働者側弁護士が大多数、一弁の労働法制委員会は使用者側弁護士がほとんどなのに対して、二弁の労働問題検討委員会は労働側と使用者側が拮抗しています。労働者側弁護士にとって使用者側弁護士の話を(裁判の相手として以外の場で)聞けるのは(使用者側弁護士にとっても同じですが)、日常の業務ではうかがい知れない情報を得るいい機会で、一委員としてはためになりますが、委員長としては…やりがいのあることでしょう。
 二弁の労働問題検討委員会の委員長になったことに伴い、2013年5月からは東京三弁護士会労働訴訟等協議会の議長になりました。これは、上で書いているように2006年4月からの労働審判制度の導入を控えて、東京地裁労働部から弁護士会と労働審判制度の運用について協議したいと申し入れがあり、それに応じる形で、まずは労働審判制度推進協議会という名称だったと思いますが、東京地裁労働部と弁護士会の協議会が実施され、それが数年続くうちに労働審判制度のみならず通常の訴訟も対象にしようということで、労働訴訟等協議会となりました。この東京地裁労働部との協議会の準備と実施のために東京の3つの弁護士会の労働問題関係の委員会等の関係部署が協議する場が、東京三弁護士会労働訴訟等協議会です。この当番会が毎年交代し、2013年度は二弁が当番会なので、二弁の労働問題検討委員会の委員長となると、当然に東京三弁護士会労働訴訟等協議会の議長になります。あーしんど。
 2015年4月、2年の委員長任期を終了し、無事委員長を降り、身軽になりました。副委員長として委員会正副には残留することになりましたが…

 これらの間に、所属委員会から別の委員会に派遣されたり、それと関係なく別の委員会に所属したことも多々ありますが、上で書いた委員会以外はあまりまじめにやらなかったので書く資格もなくまた書く意欲も出て来ません。
 なお、私はもう10年来一度も委員会の所属希望を出したことがありませんが、事務局か理事者の意向で委員に指名され続けています。弁護士会の会務はそろそろ引退したいと思い続けているのですが・・・

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