私の読書日記 2007年2月
32.白い黒人 ネラ・ラーセン 春風社
シカゴ出身の肌の黒くない混血黒人女性2人、黒人の出自を隠し人種差別主義者の夫と結婚して白人として生きるクレアと黒人社会の中で黒人としてのアイデンティティを持って生きるアイリーンが再会しクレアがニューヨークに住むアイリーンを頻繁に尋ねるようになっての愛憎劇。設定上、クレアは冷酷でジコチュウで欲しい物を手に入れるために手段を選ばない人物として描かれ、アイリーンは正直に黒人としてアイデンティティを保つ人物とされています。そういう設定で黒人の作者が書いた作品ですから、クレアは裏切り者で、アイリーンは正義の人物となるのが通常のパターンですが、この作品はそう単純には行きません。クレアが出産するときの、黒い肌の子が生まれて黒人とばれるのではないかという恐怖が描かれ、クレアの地位の不安定さが前半で強調されていますし、最後にクレアが死ぬことも、クレアの生き方を否定的に示しているとは言えます。しかし、クレアは女性として魅力的に描かれ、黒人集落を訪れても人びとを惹きつけます。他方、アイリーンは、ブラジルに新天地を求めたい医師の夫にニューヨークから去ることに反対し続け、夫が子どもたちに黒人差別の実情を教えることに反対し、むしろ隔離された黒人集落内での成長・発展を拒否した安定を強く指向する人物として描かれます。そして、(アイリーンの頑なさに嫌気がさした)夫とクレアの親密さを感じ取り不倫を疑い始めてからは、クレアを追い出すためにクレアの夫にクレアが黒人だと知らせようかと悩み、クレアの夫と偶然出会った後はクレアが開き直って離婚してハーレムに住みついてアイリーンの夫を奪うことを恐れてクレアの夫と出会ったことを隠したりさらにはクレアの死を願うに至ります。後半での心情は、むしろアイリーンの方が裏切り者的です(裏切りきれずに逡巡を重ねるのですが)。黒人であることを隠して(それをPassing、日本語版では「白い黒人」と呼んでいます)欲しい物を手に入れるクレアの生き方の自由と活力にも魅力があり、他方黒人としてカムアウトして正直に生きる者にも小心な安定指向や身勝手さが潜んでいるのではないか。紋切り型ではなくそういった少し考えさせるテーマをはらんだ作品だと思います。最後に付された解説が、アイリーンとクレアの同性愛指向を指摘しているのは、私は違和感を持ちました。クレアに魅力を感じるアイリーンの描写にそれを暗示するところはありますが、アイリーンはクレアに夫を取られまいとしてクレアを追い出そうとしているわけで、全体として同性愛を読み込むのはうがちすぎだと思います。
31.学園のパーシモン 井上荒野 文藝春秋
名門私立高校を舞台に、演劇部の美少女勝堂真衣、過去のある美少年岩崎恭、絵画力のある少女迫木綿子、落ちこぼれ美術教師磯貝努らが送る日常のけだるさに満ちた小説。ストーリーは、メインの主人公をおかずにこの4人を順次動かして展開しています。4人とも家庭に問題を抱え、木綿子は学校で仲間はずれにされながら絵に打ち込むことで、真衣と磯貝、恭は愛情もなく性関係を持ち続けることで、閉塞感に満ちた学園生活をしのいでいるといった風情です。一応、木綿子は絵に、真衣は演劇に打ち込む姿が書かれているのですが、それで何かを切り開くとか、力強さは感じられません。明るい展望は描かれず、けだるさ・かったるさを振り払うのではなくしのいでいるという感じです。学園で数々の噂が話題になりながらその真相が見えないのも、真実を明らかにしようという意欲が学園にも登場人物にも感じられないからでしょう。園長の病気の進行が表の軸とされているのに対して、ジコチュウで高慢な、そして傷つきやすい美少年恭がトリックスター的に舞台回しをして、自己崩壊していくのが、ストーリーの対抗軸になっていると読みました。その中で、相対的に強く見えた真衣が、どうも主体性が見えませんでした。冒頭では美少年恭の誘いを無視して磯貝を選びながら、後半では恭に振り回され、その心理の変化なんかは読み取れません。一人くらい高慢な美少年恭を正面からはねつける存在がいて欲しかったという意味でも、真衣は毅然としていて欲しかったんですが。結局は、穏健な道を歩んだ木綿子にほのかな期待を感じさせて話は終わりますが、スッキリした解決は何もなく、けだるいままです。ただ、けだるさ・閉塞感に満ちているのですが、それほど重苦しくないのが救いというか不思議な感じです。タイトルの「学園のパーシモン」は生徒の一人が主宰していた自殺愛好会サイトの名称から。それ自体はストーリーの中でそれほどの位置づけではないのですが。
30.キララ、探偵す。 竹本健治 文藝春秋
アイドル研究会所属の20歳男子学生のところに、従兄の博士から送られてきた美少女メイドロボットが、ご主人様に奉仕したり助けたりしつつ、殺人事件や誘拐事件、アイドルのストーカー事件を推理して解決する小説。アキバ系オタクの願望・妄想に沿った物語。たぶん、オタク系の若者のニーズにこたえるために何でも言うことを聞く美少女メイドロボットという設定をしたけど、いちゃいちゃさせてその願望を満たすだけでは話が持たないこともあって探偵物にしたってところでしょう。持ち歩いて読むにはかなり恥ずかしい。読んでいる間は、当然作者は30代、初出は「アニメージュ」とか、でなきゃWEB小説なんて思っていたんですが、巻末の記載を見てビックリ。初出の媒体が「別冊文藝春秋」で、作者が私より年上の50代って・・・。文藝春秋を手に取る世代にもオタクニーズが結構あるんでしょうか。美少女ロボットよりも、その点に頭がクラクラします。
29.老醜の記 勝目梓 文藝春秋
59歳男性作家が、2度の離婚の末、21歳銀座のホステスを愛人にしつつ、再婚はしないで囲っていたが、ホステスに愛人ができて三角関係になり、体で満足させられなくなったと悟り、肉体関係を持たずに愛人関係を続けようとするに至る13年間を描いた小説。前半は、老人男の願望を絵に描いたような話で、38歳年下のホステスとの赤裸々な肉体関係の話。そうしながら結婚したいというホステスを、老い先短い身だから若い女性を拘束しちゃいけないなどと、白々しい理屈でかわし続けます。そうしているうちに寂しくなったホステスに愛人ができると嫉妬に煩悶します。タイトル通りの老醜ですね。それでも若いホステスへの未練が募って三角関係の下で肉体関係を続けるのですが、ホステスが愛人からSM嗜好を植え付けられ、それを望むようになったのを知り、自分はホステスを満足させられないと悟って肉体関係は絶つことにします。しかし、それは性欲が抑えられたからではなく、敗北を再確認することを自尊心が許さないため。主人公が時折語るきれいごとと実態が終盤まであわず、人間、いつまでたっても老いてもきれいに悟ることはできず見苦しく妄執を持ち続けるもの、というのがテーマでしょうか。主人公の生き方には、ここまで言うのなら、最初の段階で再婚してしまうか、さっさと身を引けばいいのにと思い、読んでいていらだたしいですが、それができないのが人生なんだよって、作者は言いたいんでしょうね。
28.ぼくらの七日間戦争 宗田理 ポプラ社
全共闘世代(団塊世代)ジュニアの中学生が夏休みに閉鎖された工場跡に立てこもり「解放区」として、学校や親たちの説得に抗して7日間の籠城戦・ゲリラ戦を闘うというストーリーの小説。1985年に角川文庫で発表されて大ヒットし、「ぼくらシリーズ」が29冊も生み出される元になった作品の新装版。立てこもった子どもたちの闘争宣言が、ミニFM放送で発表され、そこで日大全共闘の詩や安田講堂の落書(「連帯を求めて孤立を恐れず」ではなく、「我々は玉砕の道を選んだのではない。我々のあとに必ず我々以上の勇気ある若者が、解放区において、全日本全世界で怒濤の進撃を開始するであろうことを固く信じているからこそ、この道を選んだのだ」)が引用されたり、「練監ブルース」が唄われたりするあたり、いかにも70年代っぽい。そのあたりから見ても、作者は子どもに向けてよりも全共闘世代向けに書いているように感じます。政治的な思想の背景なく、子どもが何でも言うことを聞くと思っている大人=権力と闘うということだけで、さらにいえば何かおもしろそうだからレベルで闘いを始めるというあたり、本家の全共闘をどう捉えるかにより全共闘へのエール・賛歌とも全共闘のパロディ・アイロニーとも読めますが。権力を身近なレベルで(大人=権力とか)捉えることは、本来の権力(国家権力とか)を相対的に見えにくくして免罪するという側面と、プチ権力との闘いを日常的に繰り返すことで闘争への踏み出しを容易にし実践に結びつけやすいという側面があります。多田謡子反権力人権賞選考委員としては、後者の視点を大切にしたいと思いますけど。この作品については、籠城戦を主旋律にしつつ、誘拐事件の解決とか汚職事件の告発とかを入れてエンターテインメントの側面を強めていますし、クラスの男子全員が一糸乱れず結束し、敗北する場面も一切なしで、主人公に感情移入して読む限り痛快で、都合よ過ぎるくらい。実践を勧めている・考えさせようというよりは、読んでカタルシスに、という感じがします。古い道具立てにもかかわらず中高生に人気(うちの子どもも絶賛してます)なのは、読み物としての痛快さに加えて、子どもを抑え込もうとする大人たちとの闘い、日頃抑え込まれておもしろくない・何かおもしろいことしたいという思いにマッチするからでしょう。続編のぼくらシリーズはその思いをすくい取れているのでしょうか。
27.ゴヤ 大保二郎 小学館(西洋絵画の巨匠シリーズ)
スペインの画家ゴヤの解説付き画集。ゴヤは宮廷画家として成功し、作品の多くは貴族の肖像画です。しかし、ナポレオン戦争後のフランスからの独立戦争を描いた戦争画では民衆が主人公となっていますし、貴族のために書いた絵でも時々民衆の労働がテーマになったりしています。貴族を描いた絵の方がテクニックとしてはきれいに書かれていて民衆を書くときはラフなタッチが多いように感じます。そのあたりは意図的に使い分けているんでしょうか。
26.フェルメール 尾崎彰宏 小学館(西洋絵画の巨匠シリーズ)
17世紀のオランダの画家フェルメールの解説付き画集。フェルメールは寡作の画家で作品として知られているのは三十数点ですから、さすがに全部収録されているようです(本では全部とは宣言していませんが)。フェルメールの絵は、テーマへの共感とかは感じませんし、人物の表情もどこかキリッとしないのですが、描写力、特に光の使い方の巧さに感心します。17世紀の油絵ということもあってか、ひびが多数走っているのが残念というか、痛々しいんですけどね。特に人物画で顔がひびだらけなのは。これまで人物画しかみていなかったのですが、風景画の「デルフトの眺望」もいい絵です。室内画は、並べてみると、ほとんどが窓の位置、家具の配置、壁の絵の位置一緒です。同じアトリエでそのまんまの構図で書いているんでしょうね。描写の技巧でいうと、今回初めて見たんですが、対比のために86頁で紹介されている同時代のオランダの画家ハブリエル・メッツーの方がうまい。こちらの画集も探してみようかな。
25.ふれていたい 小手鞠るい 求龍堂
19歳の元フィギュアスケート選手(15歳で世界選手権5位だって)佐藤可南子が、元ペアの流との想い出を引きずりつつ、粗雑で包容力のある関西弁水泳選手宗治との交際を進める乙女チック純情恋愛小説。純愛路線というより純情路線というべき、少女漫画でホッペに横線と汗、まわりに花とか猫とかが泳いでいそうな、純情な10代少女のときめきという線でまとめられています。京都の大学に行って別れた流とバリ島で再会するとか、いかにもの設定で、バリ島で帰国する日に何時間もかけてバスに乗って会いに行く(普通にはこういうのは執念とか意地の領域でしょ)のに雨が降り続ければ会えない・だから降りやまないで、会いに行くのに迷いはなかった「なぜなら、雨がやんだから」(185〜187頁)とか(スコールなんだから当然30分も降ればやむでしょ)、白々しい言い訳したり、付いていけないなと思いますが。まあ、かっこいい流君は実のところ引き立て役で、どっちかというと風采の上がらない関西人が恋の勝者になるのは、ちょっと溜飲が下がりますが。それにしても、こういう純情小説を書く人って若いのかと思ったら、私より年上ってビックリ。職人的に書いてるんでしょうね・・・。もっとも、若い作者だったら、こんな純情な行動とらせないでさっさと両方とHさせてるか・・・
24.アルフォンス・ミュシャ 島田紀夫 六耀社アートビュウシリーズ
アール・ヌーヴォーの旗手アルフォンス・ミュシャの解説付き画集。ミュシャといえば、サラ・ベルナールの演劇のポスターが有名で、それと装飾用パネルの連作を中心に紹介されるのが普通のパターンですが、この本では、ミュシャの出版した本「主の祈り」「装飾資料集」「装飾人物集」を中心に紹介しています。後の2つはイラスト集で、これを見ていると、改めて、ミュシャは「画家」というよりもイラストレーター、商業デザイナーとして成功した先駆者だなと感じます。線の整理されたポスターからの印象とは少し違うデッサンの作品を多数見られただけでも、私としては収穫でした。
23.とっさの家庭医学 基本のき 米山公啓 世界文化社
ありがちな症状や俗信について医師の立場から説明した漫画付き解説本。世間で言われている健康情報の多くは間違っているという観点から書かれています(プロローグ)ので、へえってことも多く、それなりにおもしろく読めます。けがをしたときは水で洗う必要はあるが消毒はするな(20頁)とか、風邪の自覚症状が出始めたらその後は薬を飲んでも飲まなくても病院に行っても行かなくても治り方にあまり差はない(33頁)とか、血液のサラサラ度チェックなんて機械で判定できないし意味がない(82頁)とか、酸素バーなんて疲労回復に意味がなくて老化を進める恐れあり(91頁)とか、まあ言われていることではありますが、医師の立場で断言してくれると気持ちいい。無理な早起きは体に悪い(89頁)とか・・・。でも、風邪をひかない方法で、手洗い、うがい、湯冷めをしない、睡眠をしっかりとるはいいんですが、室内では加湿器を使い、外出時はマスクをする、満員電車はウィルスの巣窟なので使わずタクシーを頻繁に利用するが「以上のような当たり前のことをするだけでカゼと無縁の生活を送ることができます」(33頁)って、医者にはそれが当たり前の生活なんでしょうか。朝起きたら常温の水を500ミリリットル飲む(188頁)ってのも・・・コップ1杯ならわかりますが、2杯半も飲める?
22.知るほどハマル!化学の不思議 吉村忠与志 技術評論社
日常生活で見かける現象を中心に化学の観点から解説した本。私はどちらかというと、汚れ落とし関係のテクニックの紹介に惹かれました。茶渋は発泡トレイでこするとよく落ちる(34頁)とか、フライパンの焦げ付きは塩を振って加熱すると取れやすい(36〜37頁)とか、換気扇の汚れは天ぷら油で落とす(38〜39頁)とか、自転車の錆は木工用ボンドではがれる(40頁)とか、プラスチックやガラスに油性ペンで書いた文字は水性ペンでなぞってティッシュで拭くと取れる(78頁)・ポテトチップスでこすると取れる(79頁)とか・・・。あとアジサイの花の色が土壌の酸性度によって違う(酸性度が強いと青くなる:114頁)なんてのも知りませんでした。広く浅くなので食い足りない部分も多いですし、終盤にはこの本のテーマの化学と関係ないのに原子力推進の論調が出てきたりするのが興ざめですが。
21.不安に潰される子どもたち 古荘純一 祥伝社新書
現代の子どもがおかれているストレスと不安から来る危機にどう対処するかというテーマの本。不況やリストラで親たちの幸福の図式が崩れ、親が自信を失い不安を持っている状況で子どもたちは親たちの不安を感じ取っているという指摘に始まり、核家族化とそれに伴うおじいちゃんおばあちゃんや兄弟、近所のおじさんおばさんとのコミュニケーションの喪失、メディアの変化、インターネット、ゲーム、ケータイの普及等の環境の変化から、知識は増えたが実体験は減りバーチャルな世界観が・・・というマスコミでよく聞く「原因」が語られています。子どもの発達年齢は昔の7掛け、30歳になってようやく一人前(21〜24頁)というのは、「今時の若者は・・・」って論調にも聞こえます。どう対処するかというのがテーマですが、もちろん、簡単な答はありません。「頑張れ」というのは自信のない子には逆効果(88〜89頁)、よその子と比較しない(90頁)、期待水準を上げすぎないというあたりが、現実的な対処法ということでしょうか。終盤で、日本ではちょっとはずれた者を「治そう」としがちだが、適応できればいいと考えるべき(231頁)と指摘しているのが、ホッとします。
20.「退化」の進化学 犬塚則久 講談社ブルーバックス
人間が他の動物から進化する際に他の動物のどの器官を捨ててきたか、つまり退化させてきたかを論じることで進化の道筋を解説する本。耳は、耳骨はあごの骨、耳管は鰓から発達したとかはわりと有名ですが、鎖骨は魚のカマの名残とか、知りませんでした。咀嚼器官の発達が様々に影響していて、歯の分化、臼歯の発達で咀嚼することができるようになってエネルギー効率がよくなり恒温動物化したとか。頭蓋骨にあいている眼窩の上の突起の形も咀嚼時に上あごにかかる力が分散しやすいように変わってきたそうです(158頁)。頭蓋骨は生まれるときに産道を通りやすいように6枚の骨でできていて子どもの頃は隙間が空いているのは知っていましたが、次第に癒合していきすべての骨が癒合するのは80歳頃だそうです(80頁)。いろいろと知らないことが多く勉強になりました。広く浅く書いているので1つ1つのことは、食い足りない気もしましたし、どうしてだかわかっていないことも多いようですけど。
19.八月の路上に捨てる 伊藤たかみ 文藝春秋
前回の芥川賞が図書館の棚に転がっていたので読んでみました(たいていの図書館ではまだ予約数ヶ月待ちだと思うんですが)。表題作は脚本家志望を持ちつつうまくいかず自販機の補充のバイトをする夫と編集者志望で雑誌編集の仕事に就きながらやめた妻が次第にすれ違っていき、不倫・離婚に至る夫婦の模様をバイト先の同僚との人間模様を絡ませつつ描いたもの。うーん、いかにもありそうって夫婦生活の機微を描いてしみじみとした読み物に仕上がっています。傑作かとか新鮮さはといわれると、つまり「芥川賞?」って聞かれると、どうかなあって思いますけど。カップリングされた短編「貝からみる風景」は今のところうまくいっている夫婦の生活の機微って感じ。破綻した方にしてもうまくいっている方にしても、夫婦関係の話を並べられたら、ちょっと妻は困るでしょうね。芥川賞受賞の時の取材で妻(角田光代)が「受賞作は読んでませんけど」って答えていたのは、むべなるかな。
18.ヒストリー・オブ・ラヴ ニコール・クラウス 新潮社
数十年前に書いた小説「ヒストリー・オブ・ラヴ」が知らぬうちに出版され、売れなかったその小説の1冊を送られた母にその登場人物にちなんで名付けられた少女が、迫害を逃れてアメリカに渡ったユダヤ人の作者に巡り会うというストーリーの小説。ニューヨークに住むユダヤ人の老人の元錠前屋レオ・グルスキ、レオ・グルスキがかつて愛した少女アルマ・メレミンスキ(アルマ・モーリツ)とその子どもたち(長男は実はレオ・グルスキの子)、ヒストリー・オブ・ラヴを出版した作者とされるツヴィ・リトヴィノフとその妻ローサ、ヒストリー・オブ・ラヴを夫から送られて娘をアルマと名付けた母と娘アルマ・シンガーと弟バードの4組の動きがバラバラに展開し、ちょっと読みづらい。レオ・グルスキとアルマと息子まではすぐなじめるのですが、残りの展開が、だからどうだっていうの?って感じで、少しいらいらします。出張の往復で時間がたっぷりあったので読み切りましたが、そうでなかったら途中でぶん投げた可能性大。過去にヨーロッパ書いた小説が南米で青年と妻を感動させてその名を付けられた娘と作者がニューヨークで出会うという、因果はめぐるという話ですが、自分の書いたものが見知らぬ人の人生に与える影響というか影響を与えたいという作家の願望を込めた夢をテーマにしたもので、読まされる身には、そういうこともあるかもしれないけどだからどうしたのという思いを持ちました。
17.レストランの秘密 レストランマル秘情報研究会 宝島社
レストランの原価や古くなった食材の整理、業務用食品(できあいの製品)利用などの裏事情ネタを集めた本。原価の安さも興味深いですが、私は、日本には世界一多くのソムリエがいるけど筆記試験で資格を取るのでまともな飲み比べができる人は少ない(71頁)とか、高級店のランチは2番手以下の練習台(63頁)とか、料理人は10人雇っても1ヵ月で9人がやめていく厳しい世界で万年人手不足(73頁)とかそういう人の方の話題に興味を持ちました。もっとも、中身を見ると、うわさ話的なところが多いので、話半分におもしろがって読む本だと思いますが。
16.ルワンダ大虐殺 レヴェリアン・ルラングァ 晋遊舎
ルワンダで1994年4月から7月の間に行われたツチ族に対する大虐殺で家族を皆殺しにされ、自身も瀕死の重傷を負い左目と左手を失いながら生き残った青年の手記。虐殺の被害者は100万人にも上るのに、国際社会では必ずしも重大に受けとめられていないこと、そしてその虐殺が多数派のフツ族の近隣の知人たちの手によって行われ虐殺者の多くは処罰もされず処罰されても短期間の収容で社会復帰して何事もなかったように暮らしていることに、著者の怒りの訴えが続けられます。著者を治療し養っているクリスチャンのボランティアから、虐殺者への赦しを求められることに著者が示す拒絶感といらだちは強烈です。むき出しの憎悪を投げつける著者の言葉は、読んでいて憂鬱な気分になりますが、著者の体験からすれば当然の反応でもあり、解決不能の問題に立ちつくすしかないと思えます。著者が指摘するような、それまで仲良く暮らしていた近隣の普通の人びとがメディアの煽りを受け虐殺者となり、200万人もの人が虐殺に手を染めたという事態に至ったら、正義や信頼、結束と和解のために、一体何をすればいいのでしょうか。考えさせられるというか、考えても結論の出そうにもない問題に、それでもまずはそれを知る、知ることしかできなくても知っておこう・・・そういう覚悟で読む本なのでしょうね。
14.15.ラーマーヤナ5、6 樹海の妖魔上下 アショーカ・K・バンカー ポプラ社
インドの民族叙事詩「ラーマーヤナ」をベースにした物語。この巻では、梵天兵器で阿修羅軍を壊滅させたラーマがコーサラ国に戻ったが、コーサラ国王宮内の陰謀で追放され14年間阿修羅の跳梁する恐怖の森で隠棲することを命じられ、妻シーター、弟ラクシュマナとともに恐怖の森の中の丘で暮らし、そこにラーマを慕う夜叉シュールパナカーがラーマに拒絶されて怒りにまかせて呼び込んだ阿修羅軍の残党1万4000頭が襲い、ラーマに助力を申し出るクシャトリヤや山賊たちと共にラーマたちが戦いを始めるまでを描いています。1〜4が阿修羅軍とラーマの戦いを軸にした比較的わかりやすい英雄物語であったのに対して、この巻では、正義の国コーサラ国が阿修羅の意を受けた乳母マンタラーに操られた第2王妃カイケーイーの要求で、かつてカイケーイーに命を助けられて何でも望みを2つ聞くと約束していた王ダシャラタがラーマの追放に同意し、そのダシャラタも死んで内部崩壊して行く様、他方阿修羅の国ランカーは梵天兵器の直撃で植物状態になった王ラーヴァナの統制が効かず内戦状態になって自己崩壊と、双方が滅びの危機に瀕して行く様子が上巻で延々と続きます。下巻では、当初恐怖の森では一夜も生きのびられないと言われていたのに、ラーマたちが住み始めて4ヵ月は何も起こらず、ラーマは非暴力を主張して阿修羅とも戦わずに説得を試みるという間延びした状態が続きます。4までの活劇の続きで読むと、ちょっと調子が狂います。しかし、ラーマの非暴力は、結局その横からラクシュマナが阿修羅を攻撃して危機を救いますし、ラーマも6の終わりでは阿修羅が説得に耳を貸さないと見るや次々と殺戮を始めますから、ここまではがまんしたのだからと、ラーマの戦いを正当化する位置づけでしかなかったような感じがします。そして、兄弟や宰相、さらにはカイケーイーさえもラーマの翻意を促し、誰一人ラーマの隠棲を望まない中で、ただ死んだ父王が決めたことを守らねば父王の名誉が守られないという理由だけで頑なに恐怖の森へと突き進むラーマの姿を感動すべきものとして描くのは、いかに非合理的であっても上の指示には従うべきという家父長的なあるいは原理主義的な価値観を称揚するようで、私はかなり違和感を感じました。民の幸せも現実的な判断も超えたところで観念的な倫理観を優先するラーマは、むしろ王としての資質に欠けるのではとさえ思えてしまいます。この巻は、阿修羅軍に対するラーマたちの反撃開始で終わっていますので、続巻が訳されるまでの数ヶ月ちょっと落ち着きませんね。
13.えんぴつ1本ではじめるイラスト手習い帖 兎本幸子 エムディエヌコーポレーション
イラストの描き方の入門書。こういうのっていかにもきれいな絵だと入門書になりにくいのですが、サンプルの絵がかなりラフなので、なんか描けそうな気になるのがいいですね。ラフな絵なのに人の表情とか犬とか猫とかちゃんとわかるのが不思議。そこにプロのテクがあるわけです。人の姿勢も骨格からイメージして描くのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの時代からのお約束ですが、いかにも精緻なデッサンではなく落書きっぽい絵でもそれが示されてそれに注意して描くと、それらしく見えることがわかります。犬の絵と猫の絵の違いとかもコンパクトに示されていてふ〜んと思います。
12.ペギー・スー ドラゴンの涙と永遠の魔法 セルジュ・ブリュソロ 角川書店
ペギー・スーシリーズの第7巻。14歳の「普通の」少女ペギー・スーが、宇宙のかなたの惑星ザントラに入植した地球人の末裔の幽霊に導かれてザントラに行き、ドラゴンの涙を飲み続けなければ怪物(狼)に変身してしまうという問題を解決することを求められるというお話。ストーリーは例によって荒唐無稽で、ペギー・スーと青い犬、恋人のセバスチャンらが様々な冒険をします。その中で、この巻では、怪物になるくらいなら毒を飲んで石像になりたい/なるべきだという人びとと、ドラゴンに依存するよりも怪物になって生き続けるべきだという人びとの対立が描かれていて、けっこう考えさせられます。しかも作者の視点はシニカルで、石像派の支配者は実は怪物になっても治す方法があることを知りながら自己の権力を維持するためにそれを拒否し人びとにはそれを隠したままむざむざ多くの人びとを怪物化したり石像化するのを放置しているし、怪物派の人びとも怪物になって力を持ち力を行使することの快感に酔いしれた人びとと描いています。どちらにも正義がないわけです。その上、ペギー・スーらが怪物になったセバスチャンや石像になった人びとを元の姿に戻しても、セバスチャンは「怪物だったとき、僕は毎日わくわくしていた」「あんな力が内側で煮えたぎる経験なんて想像もできないさ」(289〜290頁)と言って勝手に助けたことを罵り、石像だった人びとも「石像でいることが、どれほど心地よかったか!」(310頁)と言って怒ります。その意味ではペギー・スーにも正義があるのかという問いかけが残ります。ファンタジーの枠組みを超えて、人間の愚かさ・思い上がりを、そして生き方を考えさせるような問題提起があるように感じます。この巻はちょっと対象年齢が上がっているのかなと思えます。
女の子が楽しく読める読書ガイドのコーナーで紹介
11.小鳥たちが見たもの ソーニャ・ハートネット 河出書房新社
母親の精神病のために母親から引き離され、父親からも見捨てられて祖母に育てられる臆病者で人見知りの9歳の少年エイドリアンが、近くの町での3人の子どもの失踪事件、裏の空き家に引っ越してきた3人の子ども、学校でのいじめや仲間はずれといった事件にあいながら思い悩み、裏に越してきた孤独な少女ニコルとともに冬の夜のプールに忍び込み事故にあうという設定の小説。親に見放され、祖母も今さらの子育てを苦痛に思う様子を盗み聞きしたり、学校では浮いてしまうことが嫌なばかりにいじめられっ子が屋上に上り「飛び降りてやる」というのに対してみんなと共に「飛べ」と囃し立て、いじわるな優等生に親友を奪われ、とエイドリアンの立場で描かれる心象風景は切ない。ストーリーの冒頭に展開している3人の子どもの失踪事件にも、エイドリアンの置かれた事態にも、積極的な打開策はなく、最後にエイドリアンが決断する家出も、エイドリアン自身、本気でもないし挫折することを見込んでいます。それが最後にニコルが突っ走るのについて行き、積極的な行動に出ますが、その結果は、現世での解決には導かれません。夢のような解決を示されても現実感がないでしょうけど、何か前向きの行動がなされてもよさそうに思えます。最後まで切なさだけを感じる作品でした。冒頭の時代設定、1977年についていろいろに位置づけた設定が、物語にどういう意味を持つのか、最後まで読んでもまるでわかりませんでした。
10.Q&Aケータイの法律問題 根田正樹、町村泰貴編著 弘文堂
携帯電話に関する法律問題についてのQ&A形式の解説書。法律問題ということで書いていますが、その前提として技術的なことにも少し触れてあって、そっちの方でも勉強になりましたが。電磁波の安全性のところなんていかにも役人的な安全強調が気になりましたけど。法律論でも多数の執筆者で書いているので方向性も様々。「デジタル万引き」(カメラでの書籍撮影)目的での書店への立入が「住居侵入罪が成立することも十分考えられます」(165頁)なんて、警察は喜ぶかもしれないけど極端な治安重視の主張がなされているのは、ちょっとビックリ。携帯電話の利用関係で規制が強化されているせいもあって、全体的に規制当局寄り、利用者を戒める内容が目立つ感じ。文章は、やっぱり法律業界用語が多く、携帯電話を「ケータイ」と表記している点以外は、関心のある一般人が読むにはちょっと苦しい。「関連業務に従事している方々」向けなんでしょうね。
09.フロリダウォルト・ディズニー・ワールド完全ガイド TDR DE GO情報局 双葉社
フロリダの本家ディズニーワールドのガイドブック。行く気じゃないのでまじめには読みませんが、クリスマスから正月にかけては東京ディズニーランド以上の混雑だけど10月から11月はすいてるそうです。結婚式ツァーもあって、お好きなキャラクターのリクエスト可とか、やっぱり商売してますね。激安チケット購入の裏技で、オーランドの不動産会社が販売している物件を午前中に見るという条件で正規料金の4分の1〜5分の1で買える(32頁)って、旅行者に不動産見せてどうするんでしょ。リタイヤ後にフロリダ永住を考える人を増やす投資でしょうか。アトラクションの説明を日本語で行う翻訳機(保証金のみで無料貸与:74頁)とかあるそうで、日本人入園者も経営の柱になっているんでしょうね。
08.トレイシー・ローズ トレイシー・ローズ WAVE出版
年齢を偽って15歳でポルノ女優としてデビューし児童虐待の被害者としてFBIに保護された著名ポルノ女優の自伝。FBIに保護されるまでを描いた前半は、まあおきまりの、家庭崩壊、デートレイプ、ドラッグ漬けといった凄まじい経験が並んでいます。後半は、その後も過去に対する好奇の目・非難の目を受けながらいかに立ち直り女優・歌手として成功したかというお話。トレイシー・ローズってポルノ女優としてしか名前を聞いたことなかったんですが、歌手としてヒットを飛ばしていたんですね。知りませんでした。でも、どうもその後半は今ひとつエピソードが羅列されているだけって感じで、色々あったのねとは思えるけど、まとまりがない。どうやって立ち直ったかということをまとめる視点がないせいか、うまくいったという話自体がおもしろくないのか、後半は読んでいて退屈しました。
07.「アンアン」1970 赤木洋一 平凡社新書
雑誌「アンアン」創刊当時の舞台裏のドタバタを書いた本。初めての全ページグラビア誌のため販売純益ゼロ(全部売れても)の上に返本率40%という評判は取っても売れない雑誌だったというのは、その後の躍進の印象からはちょっと意外。おきまりの創刊号のギリギリのドタバタの話や、取材の苦労の話の他に、1970年代前半の世情やなつかしい話もあり、70年代に青春を送った世代には、いろいろと興味深いところがあるかと思います。初期のモデルの「ベロちゃん」は毛沢東語録の愛読者で日本に来た後インドに向かったとか・・・時代を感じます。
06.ザンジバルの笛 富永智津子 未来社
東アフリカの小さな(といっても佐渡島の2倍くらいの)島ザンジバルの文化と歴史を解説した本。ザンジバルは今はタンザニアの一部に過ぎないけれど、インド洋の海洋貿易の盛んな時代は、ザンジバルの王や商人が東アフリカ一帯のスワヒリ文化圏、内陸のタンガニーカ湖のさらに西側までを支配していたそうです。ザンジバルの王族は遠くペルシャのシーラーズから渡ってきたとか、インドの商人と貿易が盛んだったとか、19世紀にはオマーン(アラビア半島の北東部)の王族がザンジバルを支配し、ストーン・タウン(世界遺産指定済だそうです)を建設したとか、ロマンを感じさせる話が紹介されています。そのような歴史から、住民にアラブ系、インド系、アフリカ系が入り交じり、盛んだったクローブ農園の利権をめぐって対立したりして、政治的には難しいみたいですけど。そのあたりの著者の専門の現代史部分はちょっと小難しいですが、海洋貿易盛んな頃の話や風土・文化の紹介が魅力的です。タイトルに使われ、はじめにで取りあげている「ザンジバルで笛ふけば、湖水の人びとが踊りだす」の俗謡のなぞが、最後まで読んでも解明されないのはちょっと不満が残りましたけど。
05.天と地の守り人 第2部 上橋菜穂子 偕成社
南の大陸の大国タルシュ帝国の大軍の侵略に脅かされる新ヨゴ皇国の皇太子チャグムと女用心棒のバルサが、タルシュ帝国に対抗するためにロタ王国とカンバル王国の同盟を説得するため、ロタ王国からカンバル王国に向かい、タルシュ帝国の刺客やカンバル王国幹部の裏切りに危機に会いつつカンバル王を説得するまでを描いたファンタジー。カンバル王国の牧童たち、ロタ王国の王族と「猟犬」カシャルたち、新ヨゴ皇国で徴兵された草兵たち、タルシュ帝国の幹部たち、カンバル王国の幹部「王の槍」たちの視点で立体的に描かれていますが、皇太子チャグムを中心に置き、国家間の折衝・思惑で展開するため、精霊の守り人など初期のシリーズで感じられた民・被差別民の視点が薄まっています。プロットの展開としてはファンタジーとして純化しておもしろいとはいえますが。敵を強大に設定している上にバルサの衰えを1つのモチーフにしているので、これまでにもましてバルサが傷だらけになり、読んでいて切ないというか痛々しい。ちょっとしか出てこない草兵として徴用されたタンダもこき使われて可哀想だし、ここまでいじめたら、最後はバルサとタンダは結ばれるハッピーエンドにしてあげて欲しいなあと、しみじみと思ってしまいます。(最初のシリーズから読んでないとわかりにくいですね。すみません)
女の子が楽しく読める読書ガイドで紹介しています。
04.交渉力 団野村 角川Oneテーマ21
プロ野球選手のエージェントで有名な(日本のマスコミでは悪名高い)著者による球団との交渉経験を元に、交渉を論じるという形で、むしろ日本のプロ野球の問題を論じている本。交渉に当たって複数のプランを用意する、誇張はしても嘘はつかない(交渉のベースは信頼関係)、事前調査(市場調査)の重要性、怒るときでも冷静に等は、交渉を業務としている身には、1つ1つ頷ける話。著者が最初に強調している、交渉の本質はお互いが納得しあうことにある、納得は妥協(折り合いを付ける)とは違うということ(8〜12頁)は、考えさせられます。著者の言うように、日本人はWin−Winの交渉が下手で、ゼロサム原理の下に交渉は一方が勝てばその分相手が負けたという態度で臨みがちです。アメリカ人が書くものはたいていWin−Winを目指すべきとされているのですが。日頃交渉している身としては、でも言うは易く行うは・・・。
03.スクール オブ デザイン 古平正義、平林奈緒美、水野学、山田英二 誠文堂新光社
職業としてのデザインについての格言的なアドヴァイスとか心得的なことをグラフィックデザインと見開きで並べた本。プロとしての自覚を求めて「デザインで夢を与えていますか?」(148頁)とか、本当は嫌だと感じながら「楽しい」と自分に言い聞かせるより嫌なことは嫌だと思い続けた方がいい、嫌だから早く終わらせたいと考えた方がいい(316頁)とか、締切は味方(188頁)とか、フリーだと誰もダメ出ししてくれない(186頁)とか、自営業者としてはいろいろと思うところのある言葉が並んでいます。ただ、4人の分担があるんでしょうけど、諦めというか長い物には巻かれろ的なものもあって、客商売としてはそういう面も当然あるわけですが、今ひとつ気持ちよくない。付いているグラフィックもなんか私にはピンと来ないし。全部英訳が付いていますけど、日本語を先に作って英訳しているので、なんとなくこなれてない感じ。何のために英文を付けているのかもわかりません。
02.YouTube革命 神田敏晶 ソフトバンク新書
動画共有サイトの勝ち組YouTubeの紹介本。テレビや著作権管理団体との確執、YouTubeと提携・利用を選択するメディアの戦略等を論じています。これだけコンテンツが増えると、自分の興味で検索してヒットする映像でなければ見ていられないというネットの現状からすると、検索機能の付いた動画共有サイトが人気沸騰するのは、当然のこと。テレビ局の都合で決められた時間にテレビ局が見せたいものにつきあっているほど暇じゃないし、今時のテレビの「情報番組」の信頼度なんてインターネットの有象無象の情報と大差ないことがわかってきましたし・・・。ただ著者が指摘するように、日本のユーザーの投稿には窮地にある人や何らかのミステイクを犯した人をさらし者にしたり揶揄したりするようなコンテンツが少なくない(91頁)のは残念。マスコミが取りあげてくれない企業の不正の告発に利用された例(58〜59頁)とか、そういう利用が増えるとすごくいいと思うんですが。
01.インドカレー伝 リジー・コリンガム 河出書房新社
インドの代表的な料理とイギリスや外国で考えられている料理の生まれた経緯や変容をテーマに近代インドの風俗と歴史を描いた本。「インドカレー」が実はインドに古くからあるものではないことを多方面から語っています。まずは、ムガル帝国時代、イスラム文化の繁栄する中央アジアと比べて不毛の地で菜食主義中心のインドに肉料理やプラオ(ピラフ)の文化をもたらしたのがムガル料理であったこと。インドでは古来香辛料は黒胡椒中心だったところにポルトガル人が新大陸から唐辛子をもたらし、これが栽培・保存が容易なことから安く入手でき庶民に支持されて普及したこと。それらの要素を取り込んでインド各地で様々な香辛料を用いたスープ料理が発達したのをイギリス人が「カレー」と総称してイギリスに紹介し、これがイギリス人がほとんど味付けのない当時のイギリス料理に飽きていたことと帝国・植民地への郷愁から支持されたこと。しかし、その際、インドでの料理と違って、冷めた肉の使い回し方法とされたり、カレー粉や小麦粉を使うという形で伝わり、インドでの料理とはかなり違うものになったこと・・・。また、今ではインドが最大の産地で大消費地になっている紅茶は、イギリス人がインドに伝え、売り込んで紅茶を飲む習慣を広めたのだそうです。知りませんでした。この手の料理の由来を語る本では、レシピを載せるのもいいんですが、やはりその料理の写真(できるだけカラー)をつけて欲しいなと思います。
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