私の読書日記 2010年2月
16.もっとも危険な長い夜 小手鞠るい PHP研究所
3人姉妹が、それぞれに自分の姉妹の恋人に横恋慕するというシチュエーションに胸をときめかせ、また良心の疼きを感じといった心もようを描いた小説。長姉瞳は、かつて恋人の元木に妹双葉が言い寄って肉体関係を持ってしまったことに傷つきその直後に夫と見合い結婚して、現在は夫はニューヨークに単身赴任して息子と2人暮らし。双葉が元木ともすぐに別れて男を好きになれずに10年が経ちようやくできた恋人の鈴木は、瞳と双葉の母の死後に父が再婚した藍子の連れ子の義妹美子と惹かれ合う。そして美子の同棲相手加藤は瞳に思いを寄せるという、ややこしいというか、「隣の芝生は青い」というか、恋の相手は手近な・安直なという関係。それぞれが裏切りを抱えているので、また許し合えるということでもあり、みんなおあいこにしたために収まったわけで、現実にはそうはいかないよねと思いつつ、それぞれの場面での人情の機微を味わうという作品でしょうね。雑誌連載でそれぞれの章が瞳、双葉、美子の視点から書き分けられ、現実の連載が3か月おきなので、章ごとに数か月時間間隔があります。途中にほのめかされた謎のうち、元木が付き合っていた年上の人「年上の恋人って、誰だと思う? それを知ったら、お姉ちゃんはもっとショックを受けると思う」(58ページ)は結局ほったらかされています(ここまで言うからには藍子以外考えにくいのですが)。書いてるうちに忘れたのでしょうね。
15.ルポ日本の縮図に住んでみる 日本経済新聞社編 日本経済新聞社
日本経済新聞の記者が1か月ほど現地に居住して取材連載したルポ「住んでみる」シリーズをまとめた本。対象となった地域は、「最西端の孤島」与那国、「変わりゆく労働者の街」横浜・寿町、奈良・吉野町の若者自立寮、競走馬と過疎の町北海道浦河町、「日本ブラジル共存の街」豊田・保見団地、ハンセン病療養所岡山邑久光明園の6か所。企画の趣旨は、通り一遍の取材では深みのある記事は生まれないということですが、連載の一本一本の記事を見る限りでは、住まなくても、地元のキーパースンとのコネがあれば、これくらいの話は聞けると思うけど、と思うことの方が多い。しかし、取材相手が話してくれる程度の問題よりも、取材記者自身が持つ発想の幅というか、記事にしようと思うテーマの広がりは、居住してみての方がいいというところでしょう。また、記事で登場した人やできごとのその後をフォローしやすいのも居住の効果かなと思いました。さらには、記事そのものよりも、居住することでその記者が持った問題意識と関心を、その後の記者生活でも維持できれば、その方が収穫かも知れません。その意味で、企画としてはどんどんやって欲しいものです。ただ、読者にとってさすが居住しての記事は違うと思えるかというと、もう少し工夫が欲しかったように思えます。
13.14.獣の奏者 V探求編、W完結編 上橋菜穂子 講談社
2006年に書かれた「獣の奏者 T闘蛇編、U王獣編」の続編。兵器として育成された闘蛇軍に襲われた真王らを助けるために、人知れず闘蛇の天敵王獣と心を通わせてきたエリンが王獣に乗って闘蛇の群れを殲滅した「降臨の野の奇跡」から11年後、真王の護衛士だったイアルと結婚し息子ジェシを産みカザルム王獣保護場で教導師を務めるエリンが、またしても政治と軍事に巻き込まれていくことになります。闘蛇や王獣が人の手によって兵器化されるとともに繁殖が制限された歪められた体にされていることに疑問を持ち、本来の姿で野に返したいという思いを持ち続けるエリンが、かつて闘蛇衆として世話をしていた最も強力な「牙」の大量死の責めを負って処刑された母の無念を思ってまたも起きた「牙」の大量死の謎を追うところから物語が始まり、かつて起きたという闘蛇と王獣の戦いにより生じた大惨劇を機に真王の祖先が確立した規則が実は闘蛇と王獣の繁殖力を奪っていることを突き止めたエリンが祖先はなぜそのような規則を定めたのか、そして伝説の大惨劇の真相は何なのかを追い求めていく、謎解きが物語の1つの軸となっています。そして、武力を代表していた「大公」と結婚した真王の神としての権威への民衆の疑念、真王派の貴族と大公派の軍人の対立、飢饉、東の隣国ラーザの軍事的脅威などから、闘蛇軍の拡大と王獣軍の設立を望む大公・真王からエリンへの圧力が強まり、最初は逃走を試みたエリンも息子を連れて逃走できないことや伝説の謎を解き明かしたいことから、結局は王獣の繁殖と調教の道を進むことになります。恐るべき知識は、少数の権力者なり「賢者」の秘密としておくべきか、広く知らせて人類の智恵とすべきか、そのことがこの続編を通じたテーマとなります。エリンが、王獣と心を通わせた者として、子の母として、また秘密のために命を落とした母の子としての人間的な思いと別に、自分だけが秘密を知ってしまった者のある種の驕りと知的好奇心と、さらには為政者の側の人民を支配する視点をもかいま見せる様子は、少し違和感を持ちました。こういう立場に立たされた者の実情を考えると、あるいは大量殺戮兵器と科学者のあり方のようなテーマを考えると、主人公の純真さではなく矛盾に満ちた人間像をこそ描きたかったのでしょうけれども。
女の子が楽しく読める読書ガイドでも紹介しています。
12.ロング・ウェイ 小手鞠るい 祥伝社
双子の姉楓の恋人だったフォトグラファー冬樹とアメリカに駆け落ちしたがうまく行かずに離婚した桜、冬樹の不倫相手で後に冬樹を結婚した乳癌を抱えたモデルのカリン、恋しい妹の桜に心ではどうしても受け容れられなかった冬樹と駆け落ちされて自分の同性愛に気づいた楓、ボーイフレンドと付き合いながら母の恋人に恋してしまう桜の娘美亜子らの恋愛もようを描いた短編連作集。姉の恋人を奪う桜、不倫の恋に目覚めるカリン、女を愛する楓、母親が再婚する予定の恋人に恋する美亜子、双子の姉妹とともに肉体関係を持ちさらに不倫を始める冬樹と、いずれも「道ならぬ恋」というか好きになってはいけない人を好きになったことがテーマとなっています。季刊雑誌への連載ですが、前の話から数年経ったという形の続き方になっています。通しタイトルの「ロング・ウェイ」は人生の長い道(Long
Way)ではいろいろあるさという意味と、間違った道(Wrong Way)がかけてあります。高校生を騙して全裸のヌード写真を撮った上に肉体関係を持ち続け、その双子の妹とも出会ったその日に関係を持ち、ふたりの体を比べながら妹と駆け落ちした挙げ句に、さらに公園で出会ったモデルをナンパして不倫を始める若い冬樹は、どうにも好感を持てませんが、美亜子の父としては、再婚したカリンのキャラもあって美亜子に慕われ、さらには年齢を重ねるとそれなりに味わいが出てくるのはちょっと不思議。それも人生の長い道の効果ってことでしょうか。
11.起業を目指す人のための会社設立の基礎知識 鶴田彦夫 PHP研究所
零細企業の会社設立を想定して、事業者が資本金を全額自分で現金(預金)出資して株主は自分1人で株式譲渡は制限して自ら取締役となり、取締役会はおかない会社(非公開会社、取締役会非設置会社の発起設立)の設立手続を解説した本。純然たる会社設立手続だけでなく、会社設立後事業開始にあたっての税務署や労働基準監督署、社会保険事務所等への届出等も解説していて勉強になります。著者は事業者が自分でこれらの手続をやってみることを推奨していて、それは正しい方針だと思います。しかし、会話パターンを入れて柔らかくしようという意識は読み取れるものの、法律用語そのままの説明が多く、後半に行くにつれそれが増える感じで、素人が読み通すにはけっこうきついと思います。まぁ起業して社長になるつもりの人は、これくらい我慢して読み通すくらいの覚悟がないと、とも言えますが。起業のイメージを持ってもらうために「杉山フラワー起業物語」のコラムを入れていますが、これが前書きでは「いくつか」のはずが2か所だけ。説明の進行に合わせて何度も入れておけばもっと読みやすくなったと思いますが。原稿を何度か修正していく過程で何か落ちたのではないかと思える不自然な所が何か所か後半に見られ、そういう点も残念。
10.カンランシャ 伊藤たかみ 光文社
かつての部下いずみと結婚し現在は独立して人材派遣会社を立ち上げてそこでの部下25歳沢田愛を愛人にしている蛭間直樹と、不動産会社時代の後輩の34歳瀬尾隆一と直樹の妻30歳いずみの恋愛もようを描いた中年恋愛小説。妻と別居中の身で先輩の妻に惚れコントロールが効かなくなる隆一の一直線ぶりがどこか切なく、頭は比較的冷静なのに平然と夫の後輩とほとんど絶え間なく肉体関係を続けるいずみがどこか怖い。夫が愛人との関係を続けているいずみと妻が年下の男と不倫したことから別居した隆一という、「被害者コンビ」にダブル不倫をさせているので、同情心からまぁ仕方ないかと思える設定ですけど、同じ不倫するにしても「先輩の妻」「夫の後輩」とするかなぁ。妻と愛人をともに騙して関係を続ける直樹が悪役になっているので許されるんでしょうけど、直樹も妻といると愛人が恋しく愛人といると妻が恋しい切なさを感じ、2人の女を手玉に取っているつもりで実は踊らされていた面もあり、なんかかわいそうな感じもしますしね。それにしても中年になっても恋に落ちるとブレーキが効かなくなるものでしょうか。ちょっと考え込んでしまいます。タイトルの観覧車は、観覧車は外から見る方がいい、中でいちゃついているやつらは馬鹿にしか見えない、乗ってみたら地上の人の方が馬鹿みたいに見えるかもしれない(6〜7ページ)、灯りの消えた観覧車って、なんだか惨め、光の渦みたいに見えてたのがただの鉄の塊になってしまう(175ページ)、観覧車にふたりで乗り込んで新しい頂上を目指そう、いつかまた地上に戻るのだとしても(236ページ)と、外からは愚かしく見えるが自分たちは夢中でしかしそれはいつまでも続かないという恋に落ちた姿を象徴しています。でも、この小説、一番すごいのは雑誌連載がちょうど作者自身の離婚と同時進行の時期ってところかもしれません。小説の中身や登場人物の不倫や離婚と作者の経験が一致するかどうかは別として、そういう時期にこういうテーマを書き続けられるのって、作家の魂か定めか業か・・・
09.大臣[増補版] 菅直人 岩波新書
第1次橋本内閣(1996年)で厚生大臣、鳩山内閣で副総理・国家戦略担当大臣を務める著者が、かつての経験から官僚主権、官僚内閣制の実情とその原因を論じた初版に民主党政権での挑戦・変化を書き加えた本。かつての状況については、政治家の大臣は、官僚機構の中に単身送り込まれ政治家の援助もなく孤立し、結局官僚に取り込まれて省庁の代弁者となってきたし、国会に拘束されセレモニーが多く政治主導にする時間的余裕が取れず、官僚は「ボトムアップ」で既に決まったことを選択肢なく上げてくるだけで政治家が選択・決定できない状態と振り返っています。閣議については、官僚が関係省庁の調整後に事務次官会議で決定したことを、案件だけ読み上げられて詳しい説明もなくただ順番にサインし続けるだけで回ってくる書類の中身をチェックする余裕もなく数十件の案件を10分から15分で署名してお終い、大臣自身が翌日新聞で初めて昨日の閣議でこんなことが決まったのかと知ることもあり、また閣議での議論を外部に漏らそうにも議論そのものが存在しない(48〜51ページ)そうです。こういう状態を、イギリスの政と官の関係に学び、政治任用を増やして政治家チームがまとまって省庁を所管し、決定は政治家がトップダウンで行い、官僚にはその実現の工夫をさせ、また官僚からの提案は複数の選択肢をつけてさせるなどで改革することを論じています。民主党政権での改革については、今後の動向を見ることになりますが、少なくとも著者の意気込みを読んでおく意味はあります。そして過去の実情を書いた部分がより詳しく、また現在これがすべて改善されたとも言えないことを考えれば、その点でも興味深い本だと思います。
08.司法官僚 裁判所の権力者たち 新藤宗幸 岩波新書
憲法上独立が保障されているはずの裁判官が最高裁事務総局を中心とする司法官僚の人事政策により統制されていることとそれが司法制度改革の議論の中でも取りあげられずに温存されてきたことを紹介し、改革の提言を行う本。裁判所法が予定した裁判官会議による司法行政の決定が骨抜きにされて地家裁所長、高裁長官、そして最高裁事務総局が司法行政、とりわけ裁判所の人事を握ったことから、再任、転任、昇給といった人事面から、また裁判官会同等での「最高裁見解」の周知などにより裁判官への統制が強められて行き、司法制度改革で新たにスタートした人事評価書の開示と裁判官指名諮問委員会も、開示対象の評価書には当たり障りのないことしか書かないようになり、諮問委員会には作業部会が「重点審議者」を選定して詳細な報告書を出すことによってすでに骨抜きにされていることなどが論じられています。そして著者の提言は司法行政における裁判官会議の復権と裁判所情報公開法の制定、事務総局の再編(実権を裁判官会議に移して裁判官でない事務官のみにする)です。著者の主張自体は大筋賛同できるものですが、それだけに論証はもう少し丁寧にやって欲しかったと思います。司法制度改革以前の問題点については「危機に立つ司法」(宮本康昭、汐文社、1978年)で既により緻密に指摘されているところです(参考文献リストに「危機に立つ司法」がないことは私には驚きでしたが)。司法官僚の人選の不透明性やそのキャリアパスについては、学者が論じるのならある一時期の人だけで分析するのではなく相当期間の人事をきちんと統計的に分析して欲しいと思います。民事事件の弁護士を「弁護人」(正しくは「代理人」)と呼び続けたり、裁判官が民事事件で期日以外に「弁護人」と頻繁に面談しているかのような記述があったり(14ページ)するのは、法律家業界で軽く見られてしまいます。また、使われている資料や本文中の「現在」が発行の丸1年前の2008年8月というのも、どうしたことかと思います。そのあたり、専門家向けには脇の甘さが目につきますが、裁判官の人事を中心とした司法行政の問題点と、司法制度改革以降のその動向を一般の人が知るには手ごろな本だとは言えます。
07.留学生と日本人学生のためのレポート・論文表現ハンドブック 二通信子ほか 東京大学出版会
大学生、大学院生がレポートや論文を作成する際の構成とそれぞれの部分での言い回し(本の趣旨としては日本語の言い回し)についての解説書。実験、調査に基づく検証型論文と文献検討による論証型論文に分けて解説していますが、部外者からはその点の差よりも表現としては人文科学・社会科学系特有の言い回しとしてコメントされているところの方が差異が目につきます。各項目の総論的説明部分と表現(言い回し)文例の部分に英訳が付いています。ただ、その英訳の位置づけがあいまいで、「本書の特色」では「辞書のように使えて便利」と売りにしているのに、「ページの例と使い方」(vxiiiページ)では「英語は原文の意味を示すものである。英語論文の文例としては、自然でない場合もある」としています。つまり英文は本書を読む留学生が本書で示す日本語独特の表現の意味がわかるように(敢えて)英語にしてみただけで英語でこれが正しいとは限らないと逃げを打っているわけです。英訳を見ていて、本当に英語でもこういう言い回しするのかなと疑問に思うところもあります。読者の多くは日本人でしょうから、英訳を付するなら英語論文として書くならこういう表現という英訳もつけて欲しかったと思います。留学生だって大学生、大学院生なのだから英語論文の表現は理解しているはずですし。そのあたりどこまで通じるのかという不安は残りますが、それでも論文調の言い回しの英語表現や日本語と英語での言い回しのギャップについての知的好奇心はそこそこ満たされました。
06.シナリオ錬金術 浅田直亮 彩流社
ドラマのシナリオの書き方についての解説本。キャラクター設定のコツ、ドラマの展開のさせ方、台詞の考え方、アイディアの出し方などについての基本やヒントを説明しています。小説と違ってドラマでは映像があるため、キャラ設定でも展開でも台詞でも常に映像との関係や映像をイメージできるかが重視されています。欠点のなさや合理性、常識よりも、面白いか、多くの視聴者が興味を持つか、見る気になるかが重視されます。シナリオとかドラマってこういう視点で作られてるのねという点で、いつもと違う発想を持てました。で、普通の人は主人公が失敗する話を好む、主人公が困る姿を見たい、人の不幸は蜜の味っていうんですが、私はどうもよっぽどイヤな奴でなければ人が不幸になる話は嫌いですし、主人公がどんどん幸せになってハッピーエンドの話ってもっと読みたいと思うんです。そう思ってふと考えたのですが、弁護士が仕事で聞く話ってトラブルにあった不幸な人の話がほとんど。それをなんとか改善するのが仕事なわけですし。主人公が苦しむ話を楽しめないのは職業病だったのでしょうか。月刊誌の連載(「月刊シナリオ教室」なんて雑誌があるんですね)のため、冒頭のつかみ部分とか引用例とかにダブりが多くて通し読みするとちょっとまたかと思うこともありますが、ちょっと違う視点が持ててシナリオを書くこと以外でも刺激になりそうな本だと思います。
05.タマラ・ド・レンピッカ シュテファニー・ペンク 岩波アート・ライブラリー
1920年代のパリで時代の寵児となったポーランド出身の女性画家タマラ・ド・レンピッカの解説付き画集。自分の個性についてとやかく言われることを嫌い日記や手紙類の記録資料を残さなかったため伝記が書かれなかったというタマラ・ド・レンピッカについて、娘のキゼットが書いた本などを材料に解説をしています。社交界への取り入りと唯我独尊的な発言は、人間的には私の好みとは反対ですが、1920年代の肖像画作品には輝きがあります。タマラ・ド・レンピッカの作品は、肖像画が中心で、古典派のアングルとキュビズムがミックスされたような画風です。キュビズムの採用は肖像部分では初期に軽くなされているだけで主として背景部分で用いられていますので、キュビズムの嫌いな人にもあまり嫌われない絵になっています。金儲けのために短期間に多作したということと表裏しているかもしれませんが、シンプルな色づかいとシンプルな力強く美しい曲面表現が特徴的です。また透き通るような眼差しも印象的で、現代のイラストに通じるものがあります。
04.「やるっきゃない!」 土井たか子、吉武輝子 パド・ウィメンズ・オフィス
サブタイトル「吉武輝子が聞く土井たか子の人生」通りの対談本。子ども時代の軍国少女経験と空襲で命からがら逃げ延びた話が、割と淡々と語られているのがかえって印象的でした。そうした体験が反戦と護憲、とりわけ憲法第9条への思いにつながっているはずですが、それを大上段に語らないところが人柄を感じさせます。インタビュアーの志向もあって憲法第9条よりも第14条、第24条の方に力が入っていますが、これも教条的な話でなく、人が語られていて、いい感じで読めました。政治家になってからの話は、いろいろ差し障りがあるのでしょうけれど、今だから話せるというような話はほとんどなくて、すでに知られていることが大半で、そこはちょっと残念。学生の時に学費値上げ闘争で試験ボイコットの全学ストライキに、そういう闘争は負ける、足並みをそろえてボイコットなんてできっこないと反対し、しかし決定された以上自分はボイコットして単位を落とした(67〜68ページ)というエピソードには、学生の頃でも冷静で読めているけど律儀な人だったんだなぁと感心しました。そういう来歴への関心で読む本かなと思います。
03.男性学の新展開 田中俊之 青弓社
男性/女性を抑圧者/被抑圧者と単純に捉えたり、男性の問題を男性の制度的特権と男性性の代償(男性の払う犠牲)のいずれを強調するかといった2項対立的に捉えることに対して、男性性の多様性、複数性の概念を導入すべきことを提唱する研究論文。社会的に構築された性ないし性別役割としてのジェンダーが強固に存在し続けるのは、あるべき男性像、あるべき男女関係としてのモデルのイメージが人々に自主的に選択されているからであり、人々に支持されるあるべき男性像は、現代日本社会では「サーヴィス化・消費社会化とフェミニズムの攻勢を受け止めて手直しされたアッパー・ミドルクラス(専門職・管理職)の男性像」(60ページ)であり、さらには「フルタイム労働に従事しながら妻子を養う男性像」(157〜158ページ)だという。著者は欧米の研究者が提唱する「ヘゲモニックな男性性」の概念でこれを説明し、このようなヘゲモニックな男性性はそれ自体で確立するのではなくそれに反する男性性の否定によって確立され、そのために覇権的でない周辺的な男性性が併存することが前提となり、複数形としての男性性を理解することが必要としています。欧米の研究者の間では異性愛男性がヘゲモニックな男性性と捉えられ、同性愛男性が否定される従属的男性性と位置づけられるが、日本では働けない/働かない男性としてのニートやパラサイトシングル、そしてオタクが否定される従属的男性性となると著者は論じています。オタクやニートを個人的な問題として否定的に捉えることが働けない状態を生じさせた側(企業の新規雇用抑制)の問題を隠蔽しているという指摘(86ページ)は頷けます。ただ、読み終えての感想としては、気負ったタイトルと大仰な第1章・第2章の問題提起の割には、言いたいことはそれだけかと思ってしまいます。学者さんの論文にはありがちですが。
02.イギリス東インド会社 軍隊・官僚・総督 浜渦哲雄 中央公論新社
17世紀から19世紀にかけてイギリスのインド支配とアジア貿易を担った東インド会社の興亡を通史的に記述した歴史書。東インド会社の当初の目的であったアジア貿易の観点でも、最初は香料貿易を目指していたがオランダに駆逐されてインドに転進しインドの綿・絹製品を輸入し、イギリスの繊維業者の反発を受け、またイギリスには魅力的な輸出品がなく(中国との関係でも同じで阿片を売りつけていたわけですし)貿易は赤字が続いたなどの経緯は、産業革命でイギリスが綿織物輸出国になり後には紬車がガンジーのスワデシ(国産品愛用運動)の象徴となったようにインドが綿織物業者の保護を打ち出さなければならなくなったことを考えると、興味深いところです。そして一民間会社である東インド会社が国王からアジアでは戦争の権限を与えられて傭兵による軍隊を持ち領土を獲得しベンガルの徴税権まで獲得したこと、東インド会社の戦争はインド人傭兵によってインドの藩主国などの勢力との間で行われたこと、東インド会社の株主の4分の1がライバル国のオランダ人だった時期もあること(78ページ)など、改めて国家という単位やその存在は自明の前提というわけではないことを考えさせられます。現代でも、戦争請負会社など似たような多国籍企業が暗躍しているわけで、国家とその権力をアプリオリに前提とすること自体が幻想なのかもしれません。そしてその東インド会社を財政難の救済を契機に規制して支配下に置こうとする国王と議会、政府の規制を受けつつ国王と議会の対立を利用して特権の維持を図る東インド会社役員会や現地官僚たちの確執も、興味深く読めます。著者は、現在のインドの発展はイギリスが残したインフラや官僚等の育成に負うところが大きいという立場から、イギリス支配の正の遺産を評価し直すべきという考えを「はじめに」で明らかにしています。植民地支配は正しかったというわけです。しかし、そういう考えであれば、イギリスの植民政策が現在のインドにどのように影響しているか、またそれをインドの人々がどのように評価しているかに言及があってしかるべきですが、この本にはそういう記述はほとんど見えず、イギリス本国の政府や世論、東インド会社内の動向の記述がほとんどを占め、視点は明らかにイギリスにばかり向けられています。インド民衆の側を向いていない著者にイギリスの支配はインドのためになったと言われても、素直にはうなずけないのですが。
01.なぜ無実の人が自白するのか スティーヴン・A・ドリズィン、リチャード・A・レオ 日本評論社
アメリカで1970年代以降になされた自白で後に虚偽であったこと、つまり自白者が無実であることが証明された125例について分析した研究論文とその著者らによる名張毒ブドウ酒事件第7次再審請求特別抗告審(最高裁)に提出された意見書を合冊した本。ここで取りあげられた事例は、犯罪そのものが発生していないことが客観的に立証された、被告人が犯罪を犯すことが物理的に不可能(完全なアリバイ:事件の時刑務所に拘禁されていたなど)、真犯人が突き止められかつ真犯人の有罪が客観的に立証された、科学的証拠(最近ではDNA鑑定が多い)により被告人の無実が立証されたの4パターンのものに限定されています(39〜40ページ)。そのように客観的には無実の者が犯行を自白した例が、少なくとも現実に125例明らかになっていること自体、恐るべきことです。このこと自体で、罪を犯していない者がやってもいない犯罪を自白するはずがないという、検察官や裁判官そしてマスコミと一般人がことあるごとにいうことが誤りであることが明確に示されています。アメリカではロースクール内の「イノセンス・プロジェクト」が冤罪を訴える囚人のうちDNA鑑定により無実の証明ができる事件を受けて捜査機関が保管しているサンプルにアクセスしてDNA鑑定を行い冤罪を明らかにし続け(4ページ)2004年の論文執筆時点で有罪判決を受けて服役していた受刑者がDNA鑑定の結果無実と判明して釈放された事例が140に上り(24ページ)、2008年の意見書執筆時点では211そのうち死刑囚だけで124人に及んでいるそうです(151ページ)。他方、日本では、民間人が捜査機関が保管するサンプルにアクセスすることなどできず、このような試みは行われていません。同じことが日本で行われたら一体どれだけの無実の死刑囚・服役囚が判明するでしょうか。この論文では、無実の人が自白した原因の考察の中で警察の取調時間に触れて次のように述べています。「虚偽自白者の80%以上が6時間以上の取調べを受け、50%が24時間以上の取調べを受けている。取調べの平均時間は16.3時間であり、取調べ時間の中央値が12時間である。この数字はとりわけ、米国における日常的な警察の取調べの研究と比較すると衝撃を受ける。それらの研究によれば、通常の取調べの90%以上は2時間以内に終了している」(52ページ)。このような記述を見ると、日本の弁護士としてはそれこそ衝撃を受けます。日本では軽い犯罪でも逮捕すれば20日あまりの拘束が認められ、重罪事件では、例えば殺人事件は殺人と死体遺棄に分けるなどして何度も逮捕して1か月以上拘束して取り調べることが日常的に行われていますし、重罪事件で取調が6時間未満で済むことなどおよそ考えられません。名張毒ブドウ酒事件の再審開始決定を取り消した名古屋高裁刑事2部の決定は6日間49時間の取調を比較的短いと述べ無実の被疑者であればそのようなストレスのない取調で自白することはないと判断しています(157ページ)。日本の法律と司法の実際の運用が許している取調時間は、無実の者にも虚偽の自白をさせるに十分すぎるものということを意味しているわけです。そういう点を明らかにしているだけでも極めて注目すべき研究というべきでしょう。ただ、私はこの論文で2点違和感を持ちました。1つは、この論文が、取りあげられた事例のうち有罪判決が出されたものは客観的には虚偽の自白以外にそれを補強する証拠がないのに有罪判決が出されていると何度も指摘していることです(56ページ、64ページ等)。この論文では被告人の無実が立証されたケースを分析していますが、補強証拠として何があるかは少なくとも論文上は全く分析検討されていません。もちろんほとんど補強証拠がない事案もあったでしょうけれども、それを統計的にそうだという論拠は全く示されていません。実質的な補強証拠もないのにということは、裁判の判断者が自白に影響されやすい・自白に依存していることを示す方向です。しかし、私はむしろ客観的には無実である者の虚偽自白に裁判時には正しいと思える信用性のあると見えた補強証拠があったとしたら、それがどのように作られたかも含め、そっちの方がもっと深刻だと思います。それを考えれば、十分な根拠・検証なく、補強証拠がなかったと断じて欲しくない。2つめは、虚偽自白の圧倒的多数が殺人(81%)・強姦(9%)等の重罪事件に集中しているとしている(50〜51ページ)ことです。確かに重罪事件では解決のプレッシャーを受けた捜査機関の焦りが虚偽自白を生みやすいという事情はあるでしょう。しかし、DNA鑑定で無実を立証できるということが事件の性質と捜査機関がサンプルを保管している可能性から考えて殺人・強姦に偏らざるを得ないこと、イノセンスプロジェクトが活動するのも重罪事犯だからこそそこまでやろうという気持ちが出てくることからすれば、そういった活動で無実を立証できた事件が最初から殺人・強姦事件に偏っていると考えられるわけです。重罪事件で無実の者がこんなに虚偽自白をさせられたという事実は重要ですが、研究対象の中で殺人事件が何%という数字はあまり意味がないように思えます。そういう研究としての疑問はないではないですが、全体としてはとてもいい問題提起で、ぜひ多数の人に読んでもらいたい本だと思います。
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