私の読書日記  2013年4月

23.私が愛した東京電力 蓮池透 かもがわ出版
 福島原発事故前、東京電力で原子燃料サイクル部部長や福島第一原発技術課の副長、日本原燃燃料製造部副部長などを歴任した著者が、福島原発事故を受けて東京電力や今後の原発問題を論じた本。
 過去を振り返る場面で、下請の原発作業員がアラームメータを身につけずに線量の低いところにおいて作業をしていることがあった、東京電力の社員は作業がきちんと行われたかを最終確認しなければならず先に線量オーバーになっては確認ができないので全部の作業が終わってから入った(38〜39ページ)と述べていて、元現場監督の故平井憲夫さんが1990年代に話していた現場作業の実態(作業員は記録上の線量を抑えるために線量計は外して作業している、東京電録の社員は被ばくしないように遠くの線量が低いところに隠れているなど)が裏付けられています。著者自身が現場時代に5年半で合計約100ミリシーベルト被ばくしたけれども退職後東京電力から体調について尋ねられたこともない(39ページ、76〜77ページ)ということも書かれています。原子力計画課で安全審査を担当した時期に安全のために多重性を持たせていた機器のうち静的な機器、例えば格納容器スプレイ系のリングが2系統あったのをコスト削減のために1つにしたということが書かれています(48〜50ページ)。「そのリングが壊れたら全然水が来なくなりますが、『壊れない』という論理です。そういうものを減らす理屈をこねてコストダウンして本当にいいのか、という思いはありました」(49〜50ページ)とされています。そう思ったらその頃に言って欲しかったと思いますけど。玄海原発で問題となった世論誘導(やらせ発言)について、現職の頃自分も現実にやったとも述べています(80ページ)。2002年のトラブル隠しについて小泉訪朝に合わせてプレス発表し扱いを小さくしたことについて、「『東電の広報もやるな』と当時思いました。」(66ページ)という感性ですから、本当の意味での危機感・罪悪感はなかったのでしょうけど。
 福島原発後のことについては、東電バッシングでは済まないといい(78〜81ページ)、危険性ではなく核燃料サイクルが完結せず放射性廃棄物の処分問題がクリアできないことから原発をフェイドアウト(漸減)していくべきと論じています。東京電力で技術部門におり東京電力と日本原燃で核燃料サイクルを担当していた著者がそういうことの重みはあるものの、福島原発事故後の発言としてはそれほどのインパクトを感じません。
 東京電力での過去の話の方が、私には興味深く、そちらの方をもう少し詳しく書いてくれた方がよかったかなと思いました。

22.原発賠償を問う 除本理史 岩波ブックレット
 福島原発事故による被害者への賠償について、責任を曖昧にした賠償枠組みの問題点を指摘し、特に避難民への賠償が進まない現状について問題提起する本。
 福島原発事故の賠償は、東京電力が主体という形を取っていながらその支払原資は「原子力損害賠償支援機構」を通じて国が実質は無制限に資金援助をし、最終的に東京電力はそれを電気料金から返済するしくみで、結局は税金か電気料金として国民負担となる、それにも関わらず東京電力は潤沢な財産を奪われず東京電力の債権者(銀行)も株主も破綻処理による負担はなく守られる、東京電力は加害者でありながらその自覚がなく、政府は延命している東京電力の陰に隠れて金を出すだけで責任を正面から果たそうとしない、そういった責任を曖昧にした枠組みが被害者への賠償を進ませない元凶になっているというのが、著者の立場です。原子力損害賠償紛争審査会が作成した「中間指針」とその追補は、裁判をしなくても補償されるべきことが明らかないわば最低限の補償範囲のめやすであるはずなのに、東京電力はこれを補償の天井のように扱い東京電力が指針に基づいた補償基準を作成した上、東京電力が被害者に対して煩雑な請求書類への記載・裏付け書類の提出を課して、東京電力が査定している、つまり加害者である東京電力が第三者機関が作成した指針を勝手に制限し被害者に過大な手続・立証責任を課し、好きなように査定して賠償額を制限している(「それがいやなら裁判をしろ、徹底的に争ってやるから」ということですね)ことが指摘されています。
 そして、特に避難民に対する賠償では、自主避難者が当初は補償対象者から外され、指針の追補で対象者とされても金額が低く抑えられていることや、実態に反した事故収束宣言や避難指示の段階的解除によって避難民への補償を打ち切ろうとする政府の姿勢にも疑問が呈されています。避難指示の解除に伴う補償打ち切りは、指針を作成した原子力損害賠償紛争審査会を開かずに経産省が「考え方」を示し、東京電力がそれを受けて具体的基準を作成するというやり方をしたという手続の問題もあるとされます。
 原発事故を起こして十数万人の避難者を出し住処と郷土、コミュニティを根こそぎ奪った東京電力が、送電システムの分離さえ受けずにのうのうと生き残り、被害者への賠償を制約していることについては憤りを禁じ得ません。JCOもそうでしたが、原子力事業者という連中は、事故直後のマスコミが注目している間だけは土下座していますが、マスコミの関心がなくなれば被害者に対しても、今どきはビデオ撮影して公開されかねないことからか言葉遣いだけは丁寧でも、実質的には横柄で傲慢な態度を平気で取ります。彼らはどんな事故を起こしても、現実には反省など全くしていないのだと思うことがしばしばです。
 原発推進政権に変わり、政府の政策がより悪辣になることはもちろん、それを受けて東京電力の横柄さ・傲慢さも酷くなっていくことが予想されます。そういう状況の中で本当はこうなんだけど部分の思考枠組を確認させてくれる本だと思います。
 「美しい国」を標榜し、尖閣諸島や竹島問題には先鋭な対応をする人は、福島原発事故では尖閣諸島や竹島とは比べものにならない規模の郷土が汚され奪われたことについてどう考えているのでしょう。

21.アメリカ黒人の歴史 上杉忍 中公新書
 イギリス植民地時代のアメリカに砂糖プランテーションでの労働者として黒人奴隷が導入されて以来のアメリカでの黒人の歴史を解説した本。
 南北戦争時の奴隷解放、1960年代の公民権運動で、奴隷制や黒人差別問題は法的には解決していたはずですが、現実にはその後も問題は解決していないというあたりに焦点が当てられています。でもそれ以前の昔話にしても知らなかったことが多く、アメリカ史としても勉強になりました。また、知っていることでも、黒人側からの視点で書かれているので、これまでの理解と少し違って見えるところが少なからずありました。リンカーンやキング牧師のような黒人解放の英雄の活動についても、黒人側から見れば妥協を繰り返していたと評価されているところもあり、新鮮に思えました。
 黒人の歴史以外の部分でも、勉強になる部分が多々ありました。ワシントンD.C.(アメリカの首都)が「南部」ということも南北で区切られた地図を示されて初めて気づきました。そして、現在黒人票の多くが民主党の母体となっていることやジェシー・ジャクソン、オバマら歴史的に著名な黒人政治家が民主党ということから錯覚していましたが、かつては共和党が奴隷制廃止を主張し、リンカーンは共和党で、民主党は奴隷制廃止に反対し抵抗し南部の白人が民主党の母体だったのですね。近年の「麻薬との戦争」での厳罰主義で、黒人の特に若者の収監が激増し(20代黒人男性で見ると10人に1人が収監されているという)、それが家庭崩壊を多発させるとともに収監された人々の多くがレイプその他の暴行被害や麻薬の洗礼を受け、HIV感染者となりギャング組織に組み込まれて収監前より暴力的になって一般社会に戻りさらなる暴力犯罪を引き起こすが、収監者は選挙権を奪われるので貧しい人々の政治的発言権が奪われ、他方刑務所が誘致される地域は収監者を含めた人口で議席が配分されて一票の価値が増して刑務所利権のある人々が厳罰主義者に投票して議会で厳罰主義者が増殖するということが指摘されています(199〜208ページ)。日本でも厳罰主義者が増えていますのでアメリカの轍を踏んでいくのでしょうけれども、その先行きは厳罰主義者の期待するところともずれているように思えます。

20.永遠者 辻仁成 文藝春秋
 1899年にパリに派遣されていた27歳の外交官ザマ・コウヤが、モンマルトルのキャバレー「ムーランルージュ」の踊り子カミーユに夢中になり、カミーユの一族の手で執り行われたセックスと日本刀と血の「結婚儀式」によって永遠の命を得て、パリ万博のパリ、戦争中・東京大空襲下の東京・聖路加病院、1970年の大阪とパリ、アポロ11号月面着陸時(1969年…)のニューヨークとパリ、1986年4月のパリとその後1998年までの東京、1999年から2000年の東京と2001年9月のパリ、2003年のニューヨーク、そして2011年3月の東京を舞台に、カミーユ、ヴァンパイアと人間のハーフのダムピールであるウピエルツィカ、2人の妻、娘のミワコ、不老長寿細胞の研究者フリードマン博士らと交錯しながら、老いることも死ぬこともできない命を持て余しつつ人間の在り方や宿命を模索するという小説。
 永遠の命を持て余して命がはかないからこそ愛や輝きがあると考え退屈し退廃的な日常を送るコウヤと、永遠の命を持つ者には時間など関係ないとしてコウヤはいずれ自分しか愛せなくなるとうそぶいて時々現れ、原子力マフィアを操り世界を動かして見せると豪語するカミーユ。どちらも観念的に過ぎ、そして長く生き続けて思索と経験を重ねたにしてはその行動にあまり成長が見られず、どこか考えが子どもっぽい。そして、後半に進むにつれ原子力の問題を、原子力推進派を操り支配していくカミーユとチェルノブイリ事故などを見て危険を感じるコウヤという対比で取り上げていきながら、福島原発事故直前で話をストップし、そこから100年を飛ばして、今・ここの原子力問題は避けてしまうという中途半端さに、フラストレーションがたまりました。観念的思弁をするのならそれをもっと追求した方がいいでしょうし、現代社会や科学技術の問題をテーマにしたいなら背景的なエピソードの切り貼りではなく正面から取り上げた方がいいと思います。

19.コンカツ? 石田衣良 文藝春秋
 恵比寿ガーデンプレイス付近の高級住宅街の一軒家で共同生活する自動車メーカー広報部勤務の29歳岡部智香、清涼飲料メーカー企画部勤務の29歳小竹彩野、総合商社秘書室勤務の32歳森沙都子、グラフィックデザイナー27歳の中崎結有の4人の合コンと恋とセックスライフを描いた小説。
 アラサー女性から見た様々な男性と男性の生態・行動への評価、恋愛と結婚をめぐる事情と思惑を描いているということではあるのですが、私と同い年(1か月違い)の50代男が想像で書いたアラサー女性の心情を当のアラサー女性に読ませる(なんせ「CREA」連載です)という構図は、蛮勇というか、端から無理な気がします。60過ぎの父親が11歳年下の元部下と不倫の末に妻と別れる経緯を30前の娘に語るのに、50過ぎから更年期で性交痛を理由に妻からセックスを拒否されて以来10年まったく関係がなかった、最初はとてもつらかった、それには慣れてきていたが去年夫に先立たれた部下と25年ぶりに再会しデートするうちに石川町のラブホで、自分は10年ぶり相手は夫が亡くなって2年3か月ぶりでセックスして、できたこと自体に感動して泣いてしまった、そんなことは生まれて初めての経験だったと語り、それを聞いて、父親の不倫に激怒し軽蔑していた娘が父親に理解を示す(151〜159ページ)というのは、50過ぎの男にはわかる/同情する/切実かも(‥;)な話でしょうが、30前後の娘には無理じゃないでしょうか。むしろ、中高年の男は女性にこういうことを理解して欲しがっている、女性にこうなって欲しい、こう考えて欲しいと思っているということが、アラサー女性の読者からは読まれたのかなと思ってしまいました。

18.感染遊戯 誉田哲也 光文社
 警視庁捜査1課の女性警部補姫川玲子シリーズの番外編。
 姫川は脇役で、姫川の天敵ともいうべき勝俣健作、姫川の元部下の葉山則之、姫川が最初に登場した短編と思われる「過ぎた正義」(「週刊宝石」2004年10月号。「シンメトリー」所収)に登場する元捜査1課9係主任の倉田修二の3人の物語というところです。
 「感染遊戯」「連鎖誘導」「沈黙怨嗟」「推定有罪」の4つの短編連作という形ですが、いずれも厚労省、外務省、農水省、郵政省の元次官などの官僚が殺害されたり襲われる事件で、4作目の「推定有罪」で全体を束ねて前3作で謎として残った犯人がどうやって元次官らの自宅を知ったか、4作で交錯する人間関係などが描かれて、長編作品として読めないこともない程度にはまとめられています。ただ、やはり元は短編で書かれているので、ぶつ切り感があり、語りの視点が変わるので、読み通してのまとまりが十分とはいえず、少し中途半端な印象が残ります。
 高級官僚の悪辣さへの怨嗟を盛り上げておきながら、高級官僚の情報を提供するサイトを運営する人物に対しては、自分はネットの陰に隠れて姿を見せず直接怨みを抱く者に情報だけを巧みに提供し実行させる、そいつらは逮捕されてもあんたは逮捕されない、あんたが憎む官僚の手口とそっくり同じだなという評価はどうかなと思います。このサイト運営者についての落ちの付け方も最終的な評価を逃げた感じで、ぶち上げてみたものの最後まで扱いかねて投げたような印象です。そこへの絡ませ方も、倉田はどうせ警察を辞めて今は捨て駒、勝俣は例によってやり過ぎだけどそういうキャラ、葉山は今後有望株なのでディープなところへは絡ませず、姫川は完全に温存と使い分けられています。触りにくい分野にアタックしたということではありましょうけど、腰が引けてるということでしょうか。
 この作品、「推定有罪」が「インビジブルレイン」での姫川班の解体から2年半後の話とされています(187ページ)。「インビジブルレイン」の時点で「葉山が姫川班に配属されてきたのはもう3年も前」(「インビジブルレイン」19ページ)だった葉山は、「沈黙怨嗟」では3年弱捜査1課にいた後所轄に出て北沢署強行犯捜査係にいた(95〜96ページ)とされていますので、「インビジブルレイン」の終わりに姫川班が解体されたときに所轄に出たということになります。それが「推定有罪」の時点で北沢署におり、「つい去年まで」捜査1課にいた(180ページ)って…

17.シンメトリー 誉田哲也 光文社文庫
 警視庁捜査1課殺人班10係姫川班主任の姫川玲子シリーズの短編集。
 短編集ですので、犯人なりキーパースン側の独白を章の冒頭に挟んでいくスタイルは、表題作のシンメトリーを除いて登場せず、姫川サイドからの視点で単線的に展開します。ミステリーとしては複雑な布石も置けませんので当然にアイディア1点程度の勝負になり、基本的には、姫川玲子シリーズファン向けのサービス的な読み物と位置づけて読むべきでしょう。
 姫川玲子シリーズのファン向けとしてみた場合、「右では殴らない」はどうかなぁという気がします。姫川の取調、まるでガンテツみたいですし、ガンテツキャラのイメージをさておいても明らかにやり過ぎ。これが相手が女子高生ということを見ると、弱い相手には強く出てるって感じがして、姫川のキャラとしても好感を持てません。初出が「小説宝石」2005年2月号で、シリーズ第1作の「ストロベリーナイト」(2006年2月刊)より先に書かれた小品のため、まだシリーズとしての構想が確立していなかったのかという気もしますが、作品での姫川の設定は駆け出しの頃というわけではなく、既に警視庁捜査1課10係2班(姫川班)の主任で、監察医國奥、今泉係長、橋爪管理官も、部下の菊田、石倉、湯田、葉山も登場しています(そうすると時期としては「ストロベリーナイト」より後の設定ですね。大塚が死んだ後に葉山が来たわけですから)。このシリーズが、主要な登場人物のキャラ設定で読ませていること、やはり姫川玲子のキャラに好感を持てるかで読み続けるかどうかが決まると思えることからして、現に私も姫川玲子の一直線ではなくやや日和見的ではあるものの正義感を持ち戸惑いや弱気な一面と自信とプライドの交錯するキャラに好感を持って通し読みを試みたわけですが、「右では殴らない」の姫川はそういう読者の思いには冷水をかけるのではないかなと思います。

16.ソウルケイジ 誉田哲也 光文社
 警視庁捜査1課殺人班10係姫川班主任の姫川玲子シリーズの第2作。
 第1作とは打って変わって、猟奇性を抑え、ミステリーの王道的な展開で、純粋にミステリーとして読めました。ストーリー展開では、悪役の戸部真樹夫のキャラ設定がすごく、仕事柄悪役にも裏側にいい面を読みがちの私から見ても、こいつは殺していい、できるだけ酷い目に遭わせてやりたいと思え、そういう方向を期待しながら読んでしまいました。
 「ソウルケイジ」では、10係のもう一つの班である日下班の主任日下守と姫川玲子の争いがストーリー展開上の軸になります。姫川が日下を「この世で2番目に嫌いな男」と位置づけ、天敵扱いすることについては、直感を重視して突っ走るスタイルの姫川に対して、あらゆる予断を排して証拠に基づき着実に犯人に迫りしかもそれが速い「有罪判決製造マシン」と呼ばれる日下のスタイルに基づく捜査過程での対立として表れることにはなっているのですが、姫川が日下を嫌う本当の理由が姫川が高校生のときに逢ったレイプ被害の犯人の顔に似ていることにあるというのでは、姫川の心情はわかるものの、やはり日下がかわいそう。そういうこともあり、日下を悪役にし続けるのは当然無理筋で、この作品では日下の現在のスタイルを確立するに至る経緯と心情が描かれ、ある意味で日下の物語になっています。
 映画を見てても思ったのですが、姫川に思いを寄せ、姫川も思っているという設定の姫川の部下の菊田。姫川に寄り添って見ているだけで、積極的に話もしないし、事件でもお手柄も挙げないというか何やってんだかよくわからず登場も少ない(ストーリーとしては、いなくても全然影響しません)。恋愛感情に理屈は不要だし現実にも理屈に合わないことは少なくないとは思いますが、作品としてみると、姫川がなぜ菊田を好きなのか、今ひとつストンと落ちないなぁという気がします。

15.ストロベリーナイト 誉田哲也 光文社文庫
 警視庁捜査1課殺人班10係姫川班主任の姫川玲子シリーズの第1作。
 映画化されたシリーズ長編第3作の「インビジブルレイン」に続いて、第1作「ストロベリーナイト」、第2作「ソウルケイジ」を読んでみました(長編第4作最新作の「ブルーマーダー」は図書館では予約多数のため断念)。少なめの章構成(「ストロベリーナイト」が4章+終章、「ソウルケイジ」と「インビジブルレイン」は序章+5章+終章)で、各章の冒頭に犯人ないし事件のキーパースンの独白的な語りを入れるのが共通したスタイルになっています(序章があるときは序章がそれに当たるので第1章ではそれが入りません。「ストロベリーナイト」の第4章と終章はそうなっていません)。
 「ストロベリーナイト」は、かなりグロテスクな描写が多く、事件の猟奇性、展開とも、ミステリーとしてはやり過ぎ感があり、キワモノっぽく感じました。確か「武士道シックスティーン」だったか「武士道セブンティーン」だったかのあとがきで、自分の作品で人が死なないのは「武士道シックスティーン」が初めてだとか書かれていたので、どういう作家かとも思っていたのですが、こういうことだったのかと。この作品では特に連続殺人事件の性質や犯人の動機の設定もあって、意図的に挑発的にやっているのでしょうけれど、読んでいて少し気持ち悪くなります。
 登場する警察官のキャラ設定が魅力的です。姫川玲子の高校生のときの事件被害をめぐるところやガンテツこと勝俣健作の言動、各主任の手柄争い意識などは、極端に過ぎるように思えますが。どちらかと言えば、そのキャラの魅力で読ませているシリーズのように見えます。第1作の「ストロベリーナイト」は、姫川玲子対ガンテツの戦いであり、ある種ガンテツの物語といえます。
 文庫本の解説では、作者が作品の登場人物について顔写真入りのキャスト表を作って書いていると紹介されています。作者のイメージでは姫川玲子は松嶋菜々子だそうです(434ページ)が、ドラマ化・映画化では実現しませんでした。原作には登場しないエルメスのバーキンを持たせてシンボルにしたことも含め、映画と原作のイメージの違いが、大差はないとも、作品世界にこだわれば落差があるとも、いろいろに評価がありそうです。

14.インビジブルレイン 誉田哲也 光文社
 警視庁捜査1課の女性刑事姫川玲子が殺人事件に挑むミステリー小説。
 今年(2013年)1月公開の映画「ストロベリーナイト」の原作(映画の感想記事はこちら)。映画を見てから読んだので、映画との設定の違いが目についてしまいました。原作では、姫川の暴走は組織的な指揮系統に独断で反しているわけでもなく、姫川は上から捜査するなといわれた柳井健斗の捜査を怠ることには反対ですが事件処理は何とか柳井健斗に触れないで済ませたいと思うやや日和った姿勢で、こちらの方がしっくりくる感じがします。姫川班の部下たちはほとんど登場せず、姫川と牧田の関係も寸止めです。いずれの点でも映画は姫川の暴走を強調し、それぞれの人物のキャラ設定を少しずつオーバーにし、姫川班の登場場面を増やす形で原作を変形しています。読み物としてはやはり原作の方がすっと入るかなと思いました。
 姫川玲子のある程度の度胸のよさと突っ張った姿勢とともに、悩んだり落ち込んだり日和ったりしながら前に進む姿が、共感しやすくすんなりと読めました。
 警察組織関係の描写は、捜査1課長が自分以外の進退まで答弁できるかとか疑問はありますが、それなりに楽しめました。

13.ヴァンパイレーツ11 夜の帝国 ジャスティン・ソンパー 岩崎書店
 海賊船(ディアブロ号)とその属する「海賊連盟」、吸血海賊船ヴァンパイレーツ(ノクターン号)と反旗を翻して独立したシドリオたち、ディアブロ号とノクターン号に命を救われた双子の兄弟コナーとグレースの運命で展開するファンタジー。
 11巻では、10巻までで実はシドリオの子で人間とヴァンパイアのハーフの「ダンピール」であると知ったコナー、グレースがそのことに悩みつつそれを受け入れ、チェン・リー(海賊船タイガー号)やモッシュ・ズー(ノクターン号)側でもその事実とそれに基づく思惑からコナーとグレースに使命を課し、シドリオはコナーとグレースを取り込むべく招待し、コナーとグレースがシドリオの元を訪れるという展開になります。
 10巻でコナーが首をはねたローラがあっさり復活し、作者が気が変わったのか元々の構想なのかわかりませんが、まだ続きそうな感じです(原書は2011年に第6巻:"IMMORTAL WAR"が出版されています)。
 日本語版11巻は、原書第5巻(原題:EMPIRE OF NIGHT)を例によって小分けして訳した1つめです。読者の興味をそそるプロローグがあり、これは作品の途中のハイライト部分につながっているのですが、これが日本語版では小分けされているがために11巻の中ではそこに至りません。原書の読者はプロローグの続きにたどり着けるのに、日本語版の読者は12巻が(場合によれば13巻が)発売されるまでそこにたどり着くことができません。これまでの前例からすると12巻が発売されるのは11巻発売の4か月程度後で2013年8月と予想されます。「トワイライト」シリーズでも声高に文句を言い続けたことですが、こういう販売政策、もうやめてくれませんかねぇ。読者をバカにしてると思います。製本や価格の関係でどうしても分冊にしたいなら、せめて一気に発売して欲しい。

12.猫はときどき旅に出る 高橋三千綱 集英社
 楠三十郎という名の小説家兼脚本家兼演出家兼映画監督が小説を書くのに苦慮し芝居と映画で生じた多額の借金を抱え、苦心惨憺しながら南極やアメリカを放浪する様子を描いた、自伝的小説。
 3部構成を採ってはいますが、初出が「すばる」の第1部が2001年12月号、第2部が2003年12月号、第3部が2012年9月号という、11年越しで、エピソードも重なっていますが、トータルのストーリーとしての展開はあまりなく、酒浸りの愚痴と妄想を読ませる作品という気がします。
 アルコール漬けの三十郎の酔った頭に浮かぶよしなしごとで、「人妻を略奪する勇猛果敢、純粋劣情、あとは野となれ山となれ精神が長寿の源である」(15〜16ページ)と断言されています。う〜ん、深遠な人生の極意か…残念ながら私は長生きできそうにない。
 タイトルの主語は猫なのに、冒頭に「これは猫の話ではない」と書かれ、猫が初めて登場するのは全体の7割が流れ去った243ページ。与太話とアル中の妄想につきあうのがかなり苦しくなった挙げ句のことです。
 本の作りが、右ページでもページ数が左肩に振られていて、こういうの、しゃれてるようにも思えるけど、実際にページを繰っているとやっぱり見づらいとわかりました。

11.「生きづらい日本人」を捨てる 下川裕治 光文社新書
 日本で生きることに疲れてアジアで生きる日本人の話を聞き書きした本。
 日本であくせくと働いたがストレスがたまり、どこか心が壊れた人々がアジアに渡り、日本とは違うゆるい時間の流れと人情に癒されて、新たなアジア的な価値観で生きている姿を描いたレポート、とタイトルから思い描きました。確かに前半は、そういう話です。零細企業の社長業のつらさ、「給料−。それはずしりと重く肩にのしかかってくる。針のむしろとはよくいったものだ。ちくちくと、常に胃に針が刺さるようなストレスがある」(21ページ)とか、う〜ん、零細企業経営者でもある立場としてはよくわかります。そういうストレスから体や心を壊した人がアジアに移住してそこで儲からなくていいとゆるく過ごす話が、前半は続きます。納得の行く有機栽培を続けるために目の届く規模にこだわり、規模を拡大すれば儲かるのに少ない収益に踏みとどまる第6話のような話は、美しくもあります。
 しかし、現地の人々の間では日本人=金持ちという先入観からふっかけられたり、受け入れられず、アジアに行けばうまく行くということも幻想だと知るが、しかし日本ではもうこの年では仕事も見つからないことから帰国するわけにもいかないという話も一方で繰り返され、終盤では日本企業がコールセンター業務をアジアに移し、そこで日本人をアジア人より安く雇うという、日本での非正規労働がそのままアジアに移されただけのような話、さらには夢破れてタイでホームレス生活をする日本人の話も登場します。第8話で紹介されている「バンコクで会社を経営する知人の話」が象徴的です。「いまね、現地雇いの募集を出すと、どっと日本人から応募が来るんです。バンコクに住んでいる人だけじゃなくて、日本からも。給料は安いですよ。三万バーツもいかない。」「当然、能力のありそうな人を選びます。もう、現地雇いも狭き門なんですよ。コールセンターで働いている人にしたって、簡単に現地雇いに転職できないんです。昔はこんなことなかったんですけどね。とにかく日本人だったら、誰でもいいような時期はありました。それも給料は五万バーツ。それでも応募なんてほとんどなかった。タイで働くってことは、日本で働くことに比べれば、一格も二格も下。都落ちっていうか、日本落ちっていう感覚でしたから。それがいまや……ね。それだけ日本が厳しいっていうことなんでしょうけど」(212〜213ページ)。いまや日本で夢敗れた人がアジアに行きさえすれば楽に生きられるという状況にはない、もともとそれは幻想だったということかもしれませんが。
 それでもなお、アジアに魅せられ、経済的にはアジアでも楽ではないけれども生き方を変え肩の力を抜きほどほどの暮らしを送るというスタンスであれば心地よいという線で、この本はまとめられています。アジアに行けば大名暮らしとか楽園という時代は過ぎ、経済的には楽な生活を望まず現地の人々の生活のリズムやスタンスになじめるのならばアジアはいいよという、人を選んだお誘いの本かなと思います。

10.エストニア紀行 梨木香歩 新潮社
 ロシア、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、ソ連と周辺諸国に支配され続けた森と湖沼の小国エストニアを首都タリンから郊外、島部へと旅して人々と歴史に彩られた建物と風物、食べ物や民俗、そして森、茸、苔、葦、鳥たちの様子を綴った紀行文。
 さっぱりとしているようで少しウェットな文体と、水辺と鳥への思い入れ、人々への柔らかな視線がつくるこの著者の独特の世界に惹かれます。
 チェルノブイリの放射能汚染のために人の立入が制限されている地域で野生生物が「繁栄」していることについて、放射能による変異種がほとんど見られないことを野生生物の場合変異種は死に、人の目に決して触れないのはその前に腐食動物が食べてしまうからと指摘した上で、「ヒトといてその経済活動の影響を被り、絶滅するよりは、たとえ短命になろうが、遺伝子に傷がつこうが放射能の方がまし、というわけなのだろう。」「だから放射能で汚染されても大丈夫だ、といっているのではない。ヒトはここまで嫌われているのだ。ヒトが生活する、ただそれだけで、多くの種が絶滅に追いやられている。放射能汚染よりも遥かにシビアに。薄々は気づいていた事実だったが、こうもはっきり知らされると愕然とする」(145ページ)と嘆いています。茸や果実、森の収穫への賛美と喜びの記述が続く中では、チェルノブイリ原発事故でまき散らされた放射能への言及はなく、終盤で「一九八六年四月二十六日、チェルノブイリ原発事故発生後、二日間にわたって風はスウェーデン方向に吹いた。実はそのことを、この旅で森の中に行く都度、何度も考えた。」「エストニアもまた、無傷でいられたはずがない。森や海とともに生きるということ。それは悲壮な覚悟の余地すらない、生物のごく当然な在り方なのかもしれない、としみじみ思う」(153〜154ページ)と書いています。放射能汚染が生じても、結局動物やそして多くの人々もそこで生き続けるしかない。「けれどこういう幸福も、ある種の覚悟を持ってしか獲得できないものに、時代はなりつつある。昨年(二〇一一年)の冬はいつも摘むスイバの生えている地の土壌が放射能で汚染され、その深紅色の葉を摘むことはできなかった。アケビも茸も、クルミもヨモギも野苺も」(175ページ)という嘆きとあわせて、静かな抑えた怒りと読むか、抗議を回避した諦念と読むか。私は前者と読んでおきたいところですが。

09.放射化学概論[第3版] 富永健、佐野博敏 東京大学出版会
 「放射能や放射性元素の分離・測定を行い、また放射能の起源やその効果を明らかにする分野」と定義される核化学または放射化学の基礎と応用を解説した教科書。
 福島原発事故後に改訂されたこの第3版のはしがきでは、「科学技術の応用には光と影の部分があると言われているが、原子核や放射線の利用においてもリスクとメリットの両面がある」と書かれています。初版、第2版ではこのような記述は影も形もなかったことからすれば、どのような「リスク」の記載がなされたのか興味深いところですが、原子炉のところに「注」としてチェルノブイリ事故、福島事故、スリーマイル事故、ウラルの核惨事、JCO事故についての記載が見られるほかには、放射性物質の危険性を想起させる記載はないに等しいように思えます(推進側の文献にいつも見られるように、200mSv以下の線量では臨床症状が確認されていないと書かれています:76ページ)。
 放射性物質を研究し応用する放射化学には、原子炉以外に様々な領域があり、そちらに大きな有用性があるということに目を向けさせて放射化学が生き延びたいという意向と、福島原発事故は注でサラッと触れただけで核燃料サイクルや核融合炉の推進をいう原発についてさえ実はまったく反省していない姿勢が見えます。
 内容的には、放射能測定や分析の領域が興味深く読めました(事故等の度に放射能測定や分析・同定のミスや時間がかかることの言い訳を原子力関係者から聞かされますが、そのあたりの事情が少し見えるという程度ですけど)が、測定値が1回しかないときの信頼性の評価で測定値の平方根を標準偏差として付記する(99ページ)っていうのはどうなんでしょう。標準偏差は多数の測定値があり、その平均値に対して求められるものであり、また平均値との関係で意味があるもののはず。1回しか測定していない測定値は、多数回測定すれば求められる平均値からどれだけずれているかわからないのだから、そのズレがその測定値の平方根に収まる保障はありません。仮に多数回測定した場合の平均値がその1回の測定値とその平方根の幅に収まっていたとしても、1回の測定値±測定値の平方根は、平均値±標準偏差とは意味が大きく異なるはずです。1回の測定値の平方根を「標準偏差」と称して、あるいはそのように見せかけて発表することは誤解を呼ぶことになると思います。こういうことを平気で言える人を、私は信用したくないと思いました。
 「これから読む本」のページに2012年1月1日以来1年3か月あまり居座り続けた最長記録ホルダーです。開いても眠くなり、気乗りがせず、何度も「挫折の部屋」入りを検討しつつ、読まないわけにもいくまいと意地で残しただけという感じですが。

08.ピレネーの城 ヨースタイン・ゴルデル NHK出版
 30年前に学生時代の5年間をオスロで同棲して過ごしたスタインとソルルンが、あるできごとを機に別れ、それぞれに結婚して子どもも生まれた後、想い出のホテルで再会し、電子メールで過去を振り返りつつ現在の思いを募らせるミステリー仕立ての恋愛小説。
 30年前の別れの原因となったできごとを前半では封印して、現在の考えと今に至る経緯を電子メールでやりとりする形式の中で、科学史や宇宙論が延々と冗長に展開され続けます。これは小説ではなかったのかと放り投げたくなるほど独演会が続いた後で、質問に対して答えていないとか逃げだという非難か、場違いに見える賞賛の応答があり、ようやくこれが「会話」だったのだと思い出すということが繰り返されます。電子メールというものが、いかに相手を無視した独りよがりの書き物になり得るのかということを反省するいい材料と言えるかもしれません。
 問題のできごと以来唯心論者でキリスト者だというソルルンに対して、唯物論者と位置づけられるスタインが延々と語るという構図は、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官を意図したものかとも見えますが、議論がぶつ切れで一定の結末を意識しそこへと向けた「論」になっておらず、ただ知識をひけらかしただけという印象です。唯心論の立ち位置のソルルンが量子力学から量子の絡み合い、さらにはニュートリノを論じだすのも何だかなぁと思います。互いの批判が、「論」の構成・展開を分析検討したものではなく、また互いに未練・思いを残した元恋人の甘い評価で追及が打ち切られあまつさえ賞賛されたりするので、議論として読みにくく思います。
 30年前のできごとの中身をめぐる部分がミステリーとなっているのですが、後半になってもったいぶって語られたそれは、現実に自分の身に起これば確かに大きなできごとだとは思いますが、前半で哲学・宇宙論的な大風呂敷を拡げた挙げ句に読まされると、あれだけ引っ張ってこれですかとしらけてしまいます。衒学趣味的な科学史・宇宙論的大言壮語をばっさり切り落として、30年ぶりに再会した男女の思いの乱れと恋の駆け引きに徹した方がいい作品になったのではないかと思います。

07.リリー・Bの小さなつぶやき ヴェロニック M ル・ノルマン 文芸社
 14歳の少女リリー・Bが、5歳の頃にアイロンでけがした火傷の跡が残るこめかみや左右の太さが違う膝のことや、友人との関係、共働きでバリバリと働いていた両親が次々とリストラされ、不仲になり離婚を決めほかの相手と情事にふける様などに悩み、傷つき、街角で知り合った青年レオンに憧れ、カフェで隣にいたフロリアンやその友人エマとつきあう中で成長していく様子を描いた青春小説。
 あくまでもリリー・Bの目から描かれていて、客観的な事実としての提示はなく、疑いは真実の判明によってではなくリリー・Bの判断によって解決というか解釈されていきます。物語として読むには、回収・解説されない疑問が残っていき、不満に思えます。しかし、自分の身の回りのことも、同様に客観的な真実が判明するというよりは主体による判断の積み重ねで解釈されていくのですから、14歳の少女リリー・Bの目から見た世界としては、むしろ自然な描写ともいえます。ストーリーではなく、リリー・Bの気持ちの揺れ動きを描き、それを味わう作品として読むべきでしょう。
 憧れるレオンと、友人となったフロリアンを引き比べ、「フロリアンとレオンはまったくの別問題。レオンは情熱だもん、まばゆいほどの情熱だもん。フロリアンのことは友達として好き。でもフロリアンの態度にイライラすることがある。頭にくることだってある。だから、私にメロメロになってくれても困るけど、ほかのコのことは好きになってほしくない。彼がしつこくしてくるとはねつけて、離れていったらつきまとうんだ。もし、レオンと再会する日が来ても、フロリアンには苦しんでほしくないな。でも、今はレオンとの再会を待ちつつ、フロリアンと一緒にいるのがいい。」(174〜175ページ)という迷いのようにも現実的な判断ともみえる思い、自分の気持ちを認めているような認めたくないような揺れが瑞々しく微笑ましく感じられます。そういう思いをぶつけられる側はじれたりとまどったりするでしょうけれど、「それが青春」「それが恋」でもあって…

06.中東政治学 酒井啓子編 有斐閣
 中東諸国(各論ではエジプト、シリア、サウディアラビア、イエメン、レバノン、イラク、アフガニスタン、イラン、パレスチナ)の近年の歴史と政治について、政治学の視点から(編者の言葉によれば地域研究と比較政治・政治学の連結を目指して)解説した本。
 日頃総括的な情報を得る機会が少ない中東諸国の事情について学ぶ手がかりとなる本ではありますが、各国ごとの記載が少なく、書かれている内容は国・地域により異なり、重点の置き方も違っていますので全体として十分な情報を得たという満足感は得にくいように思えます。そして、執筆担当者によりその度合いは違いますが、各地の事情を一般人に読みやすく記述するという姿勢よりも、「政治学」の過去の論文・学説を紹介・引用して政治学の学説と概念に落とし込もうとする姿勢が強く感じられ、ペーパーバックの軽めの装丁等の外観に似合わず学者の世界向けの本かなと思いました。一般人の学習という点では、むしろ巻末の用語解説と体制比較表が本文より有用かもしれません。
 記述の姿勢として、アメリカによるイラク戦争とアフガニスタン空爆の批判を回避する姿勢が顕著です。イラクやアフガニスタンを論じるのに、これらのアメリカの行為については「イラクは、2003年の米軍侵攻という外部介入によって、35年間続いたバアス党権威主義体制が崩壊し民主体制へと移行した」(95ページ)、「9.11事件後、国際社会はアフガニスタンに対し近代的な民主主義体制への急速な転換を強く促してきた。2001年10月に米軍による空爆を受け、11月にターリバーン政権が崩壊して、12月のリスボン合意以降のプロセスの中で暫定統治機構が成立した」(109ページ)と書かれているだけです。軍事介入については国連の「人道的介入」の議論を挙げて人権保護のため内政不干渉はもう妥当しないなどと論じておきながら(217〜219ページ)、アラブ諸国の移民労働者に対する人権無視を批判するこれまでの意見に対しては「国際人権レジームの適用を前提に湾岸諸国の移民問題を分析することは建設的ではない」(204ページ)などと述べています(執筆担当者は違いますから担当者の意見の相違かもしれませんが)。そして、この本は、世間では「アラブの春」と呼ばれる民衆蜂起について、一貫して「アラブ動乱」と呼び、シリアのアサド政権の民衆蜂起への弾圧について「こうした動きを好機ととらえるかたちで、欧米諸国が同政権の弾圧を『人道に対する罪』と断じ、経済制裁の発動や反体制勢力の支援を通じて国内の混乱を煽っていることは事実である」(45ページ)などと論じていることに象徴的に表れているように、民衆蜂起に対して好意的とはいい難く、独裁的政権であれ現体制による「安定」を支持する姿勢をとっています。
 私には、学問としての中立性を保っているというよりは、体制側の視点に傾斜したものに見え、アラブの春を経たところでとりまとめられたものとしては、少なくとも一般読者の期待と感覚にはそぐわない本のように感じられました。

05.ダンス・ウィズ・ドラゴン 村山由佳 幻冬舎
 龍に見初められた女たち、夫と別居中の滝田オリエ、幼い頃龍の水場に導かれた巽マナミとその兄スグル、輪廻を生きる桐・キリコの不思議な体験・夢、龍との交わりを描いた短編連作ファンタジー。
 初回は、異界に根付く内側が異様に広く時々に部屋と蔵書の配置が変わる不思議な図書館とそこに勤める3人に焦点が当たる、魔法系のファンタジーに思えましたが、その後半でのオリエの龍との交接から第2話のマナミとスグルの関係に行くあたりから、マナミとスグル、そして龍の関係性の方に重心が移行したように見え、読み終えてみれば第1話以外はマナミとスグルの関係が焦点で、意思を持つ不思議な図書館はただのエピソードに過ぎなくなっています。また、オリエも幼い頃の恵まれず愛に飢えた過去が描かれているのにその後中心となるマナミとスグルとの間では過去での共通項も見つけられず、最後まで読むとオリエは何だったのだろうという気がします。そのあたり、今ひとつ一貫性が感じられないというか、途中で気が変わったのかなという印象を持ちました。
 ファンタジーとして読むには、第1話で不思議な図書館を設定したのにその後それを使いこなさずに放置していて、統一した世界観・舞台を作りきれず中途半端な読後感ですし、4話に共通する龍との交接を中心として読むにはその場面があっさりしていてやはり中途半端な感じです。

04.エアヘッド!売れっ子モデルになっちゃった!? メグ・キャボット 河出書房新社
 フェミニストでコンピュータゲーム好きの17歳女子高生エマソン・ワッツが、巨大ショッピングセンターのオープンイベントでの巨大モニター落下事故で致命傷を負い、同時に脳死したスーパーモデルのニッキー・ハワードの体に脳移植され、目が覚めたらスーパーモデルになっていたという設定の青春小説。
 メグ・キャボットの日本で出版されたものとしては最新作・新シリーズです。原書では1巻に当たるこの本が2008年3月、2巻の "Being Nikki" が2009年5月、3巻の "Ranaway" が2010年4月に出版されて完結しているようですが。
 一夜明けたら美人でナイスバディのスーパーモデルになっていてイケメン男たちに迫られるセレブライフが待っていたという憧れの設定に、それが見てくれのよさを競う女たちを生気も個性もないゾンビと罵りモデルの頭は空っぽ("Airhead")と評価する学業成績はいいフェミニストのオタク高校生に訪れるという落差を組み合わせたところがこの作品のポイントになっています。1巻にあたるこの本は、その落差をエマソンのモデル業界の連中に対する反感と体が変わり周囲の反応が変わることへの戸惑いという形で示し、それでもたせていますが、2巻以降はどうなっていくでしょうか。すでに仕事面では、半裸に近い姿で女性差別を思わせる媚びたポーズをとることになれてしまったようですし。内心と恋・友情の面でも、エマソン自身がイケメンたちへの憧れと反発を覚える上に、キスされるとノーと言えないニッキの体に挟まれ、エマソンの友人にして想い人のクリストファーはエマソンの死に落胆してスーパーモデルがアプローチしてもほとんど無視状態ですがこれもどこまでそういう態度が続くのか、あと2巻分そのまま続けるわけにも行かないでしょうし。美貌とグラマーな肉体が勝つのか、友情とフェミニズムが勝つのか、まぁさすがに美貌の全面勝利にはしないでしょうけど、エマソンのフェミニズム志向をどこまで日和らせるのかに注目しておきたいと思います。

03.肉骨茶 高尾長良 新潮社
 身長160cm、体重35kgの拒食症の高校生赤猪子が母親とのマレーシア旅行中に元留学生の友人ゾーイーとツアーを抜け出してゾーイーの兄の別荘に行き、そこでゾーイーのお抱え運転手アブドゥルやゾーイーの友人鉱一と過ごすが、接待をかいくぐって拒食を貫こうとしてトラブるという小説。
 ものを食べると腹の膨満感に耐えられず、そのカロリーを消費するために身体運動を続けるという主人公の体質・性行は、拒食の継続によって形作られ肉体が受け付けなくなっているのか、太るという強迫観念がなせる技なのか読んでいてよくわかりません。
 赤猪子が何故にこの計画に踏み出したのか、親の手を逃れれば食べずにいられると思ったのか、その後どうするつもりだったのか、今どきの高校生という設定にしては無思慮に過ぎる感じがしますし、そもそもものを食べたくないというだけの動機でそういうことを思いつくものか。行動パターンの大半で、この赤猪子という主人公には理解も共感もできませんでした。ゾーイーも鉱一も行動が突飛ですし、人物としてよくわからないというか、よくわかるほどに人物造形が描かれていないように思えます。ストーリーも収まりがない感じで、娯楽読み物として読むべきものではありません。
 安住の地かと思えばまた地獄がある「乗越駅の刑罰」(筒井康隆)を高く評価する向きやジュンブンガクの雰囲気・香りの好きな人向けの作品かなと思いました。

02.写真、撮られ術。 永田昌徳 講談社
 証明写真で印象をよくするためのテクニックを解説した本。
 基本は笑顔ということで、この本でもありがちな笑顔の練習、口角を上げる、そのためのマッサージとかも書いているのですが、それよりもイメージトレーニングのところが微笑ましい。ディズニーランドに入場しシンデレラ城に向かう道にミッキーとミニーがいて手を振ってくれる、走って近づき、ミッキーとミニーも走ってくる、そしてぎゅっとハグ、「やっと逢えたね…ミッキー、ミニー」(37〜38ページ)…これを運転免許センターのカメラの前でもイメージしましょうって(39ページ)。なんか、これだけでも読んでみてよかったと思えるから不思議。
 この他に証明写真機は意外に実力がある、むしろヘアスタイルや服の色、姿勢(座るときはおしりを少し上げて太ももに重心を置いた前傾姿勢)などに気をつけた方が印象がいいとか、できあがった写真のきれいなカットと貼り付けで印象がだいぶ違うなど、思わぬことに気付かされます。
 絞ったワンテーマについての読みやすく見やすい本という、出版のアイディアとしても好感が持てる本でした。

01.レアケース 大門剛明 PHP研究所
 大津市の福祉課で生活保護受給者の調査等を行うケースワーカーの石坂壮馬が、不正蓄財する金持ちから盗んで生活保護受給者に配る「ねずみ小僧」の疑いをかけられ、ねずみ小僧の正体を探るというミステリー小説。
 生活保護の実情をめぐって、正義や平等が実現されていないと論じていますが、基本は不正受給者や生活保護への甘えなどを批判する論調で、行政とタカ派マスコミ寄りの姿勢が感じられます。
 ミステリーとしては、一介の新米公務員の石坂壮馬が思いつき的に動いて解決してしまう過程がちょっと駆け足気味かなという印象を持ちました。
 それにしても、こういう作品でも人権派弁護士というのはとても嫌われているのだなと実感してしまいます。生活保護受給者に対する論調から見れば予想すべきことではありましょうけれど。

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