庶民の弁護士 伊東良徳のサイト

  私の読書日記  2013年10月

25. 堂場瞬一 集英社
 1989年大学卒業の与党政治家の息子大江波流と小説家志望の鷹西仁の友人2人が、大江は大蔵省に入省したが父親が急死して巨額の借金を残し窮地に陥って昵懇だった引退した与党の重鎮堀口保に相談に行き口論の上殺害してその金庫にあった金を原資にIT企業を興して成功し潤沢な資金を背景に政治家となって44歳にして官房長官となって総理大臣の椅子を伺うに至り、鷹西は新聞記者をしながら小説を書き次第に人気作家となっていくが最初の赴任地で出くわしながら転勤で取材が不十分だった堀口保殺害事件に後ろ髪を引かれ続けという社会人出世物語的ミステリー小説。
 最初の方で殺人事件の犯人が明かされているので(それでここでも最初にハッキリ書いてしまいましたが)ミステリーとしては刑事コロンボ的な、順風満帆のエリート大江がいかに挫折し追い詰められるかという興味で読むことになりますが、そこは詰めの甘さを感じ、すっきりしません。
 大江側には、妻敦子とのほのぼのとした柔らかい時間が描かれ、そこが読んでいてホッとする点になっているのですが、ただ敦子が登場することで気持ちが温かくなるという以上のストーリー上の役割がなく、中途半端さというか物足りなさを残します。
 鷹西には、新聞記者をしながら小説を書き、新人賞を取っても記者を辞めず、受賞作と別分野で文庫書き下ろしで人気を集め、最近になって新聞社を辞めたという作者の経歴をほぼ踏襲させた上で、小説家としてのぼやきを多々書き込んでいて、う〜ん、小説家の愚痴を書きたい小説?といぶかしみます。まぁ、そういうところはそういうところなりに読みどころともいえますけどね。
 奥書で「学生運動で命を落とした高校生の死の真実を巡り『昭和』の罪を描いた『衆』は本書と対をなす作品」と書かれているので、「衆」に続いて読んでみたのですが、どう「対をなす」のか、私にはよくわかりませんでした。共通する登場人物は、「衆」の主人公といえる鹿野が政治学者としてテレビでコメントするところが1か所出てくるのと、小沢一郎とおぼしき「藤崎総理」が登場するくらい。大江は、経歴は明らかに違うんですが、若くして官房長官で(東日本大震災の時の官房長官ですし)クリーンが売りという設定は枝野幸男をイメージさせるともいえますので、左翼(枝野幸男や民主党が左翼とは思えませんけど、ネット右翼から見れば左翼)と人権派弁護士が嫌いで貶めたいという意思が感じられる点では「衆」と共通しているということかも。

24. 堂場瞬一 文藝春秋
 1968年6月17日に東京から約2時間の盆地にある中規模の都市麗山にある私立大学麗山大学で医学部の学費値上げ反対闘争で正門前でピケラインを張っていた学生と機動隊が衝突する中に紛れ込んでいた高校1年生が死亡し、闘争の退潮につながった「麗山事件」の真相を、麗山大学が新たに設けた地域政治研究所の所長に招聘されて2011年に麗山に戻った麗山大学出身の政治学者鹿野道夫が調査を始め、事件を忘れたかった人々の反感を買いながら調査を進めていくミステリ仕立ての全共闘批判小説。
 学園紛争当時、死んだ高校生が憧れていた闘争のリーダー実川誠と鹿野道夫を、実川は闘争当時から直情径行型で客観的状勢判断ができない人物と描いた上で仲間を粛正して長期間刑務所に入り出獄後はヤクザと麻薬取引を行い元の仲間の鹿野を恐喝するという非道で低劣な人物として描き出し、鹿野は転向してうまく立ち回り政治学者として名を上げたが独善的で傲慢で反省しない人物と描き出しています。
 最初は鹿野が語り手で始まりますが、1963年生まれ(1968年の事件当時5歳)の大学での鹿野の教え子だった元新聞記者の市会議員石川正に語り手が移って行き、後半はもっぱら石川の視点からの鹿野・実川批判に終始します。全共闘世代というか全共闘の活動家は傲慢で反省せず展望もなく破壊ばかりして何も創造しなかった、その後の世代にとっては迷惑千万と、要するにそれが言いたい小説なんだなと、思いました。既に現役を引退している現在も権力を持たないかつて反権力の側にいた人々を、これまでもずっと安全でいて今ますます安全な体制側・警察側の視点でこき下ろすような小説を書いて何がうれしいんだろ、この人は、と思ってしまいました。その全共闘活動家実川・鹿野コンビを批判する作者の化身といえる1963年生まれ元新聞記者という設定(作者はこの小説を書いてるときは現役の読売新聞記者だったそうな)の石川は、事件被害者の遺族という設定にして批判を正当化しています。この設定自体、そういう設定にしないと、こんな時期になって安全な場所から全共闘の元活動家批判をすることが恥ずかしいこと、そういう設定なら理屈抜きで批判が正当化されやすいという浅ましい意識が感じられます。
 人権派弁護士もお嫌いなようで、遺族が真相を解明したいと起こした裁判も弁護士の売名のために行われ遺族も批判的だったしただ傷ついたと描写しています。子どもが死んでその犯人もわからないという状態では遺族が事件の真相を知りたいと裁判を起こすことはよくありますし、その心情はよくわかります(私自身の経験で言えば、松本サリン事件でお子さんを亡くされた遺族の方からは、損害賠償そのものよりも事件の真相を少しでも解明したいということとオウム真理教を潰して欲しいという要請を受けました)。弁護士としての経験で言えば、そういう事件は多くの場合かなりの労力を注ぐことになり奉仕的な色彩が強いと思うのですが。元全共闘の活動家に対する視線と合わせ、この作品では、左翼や人権派に対する敵意・非難の感情が強く感じられます。
 率直に言って、そういう政治的なメッセージ性が表に出すぎて、作品としては今ひとつに思えました。例えば鹿野の元同級生の秋月祐子とか、さらりとしたキャラでその後の展開に私は少し期待しましたが、書き込まれないままにしょぼい脇役で投げ捨てられています。事件をめぐる思いも最初の方はいろいろな登場人物が出て来たのにその後フォローされずに、石川正だけに収斂しています。もう少し周囲の人物を書き込んで膨らませたら作品としての味わいが出たと思うんですが。

23.ニューレフト運動と市民社会 「六〇年代」の思想のゆくえ 安藤丈将 世界思想社
 1960年代から1970年代初めにかけて青年を中心に広く支持を獲得した学生運動、ベトナム反戦運動、青年労働者運動が現代の私たちにどのような影響を及ぼしたか、逆に言えばヨーロッパでは反原発運動などを通じて既成政党の変革や緑の党の創設につながったニューレフト(新左翼)運動がなぜ日本では現在の政治に影響力を持ち得ていないのかを考察する本。
 日本における新左翼運動の特徴を、管理との闘いであるとともにベトナム戦争等の捉え方として自己の加害者性という視点を持ち、加害者である(加害者側にいて黙認してきた)自己の変革を必要としその自己の変革、自己の行動を通じて社会を変えていくという信念にあったと、著者は捉えています。沿革的には、60年安保の敗北後、「ふるさとへ民主主義を」をスローガンに帰郷して郷里で受け入れられなかった学生たちが自らの啓蒙的な姿勢、「上からの運動」を反省し「内からの運動」でなければならないという考えを培い、1960年代後半の学費値上げ闘争、ベトナム反戦をめぐる佐藤訪米阻止闘争(羽田事件)、エンタープライズ寄港阻止闘争(佐世保事件)を通じて、自己変革と直接行動という思想とスタイルが固まっていったと論じられています。これらの闘争を通じて、自己に忠実に正直に生きること、自己を変革することが問われ、とりわけ羽田事件での京大生山崎博昭の死を見て衝撃を受け己の命を賭けてまで打ち込めるものがあるのかという問いかけを自己に課して、直接行動に出ていった者が多数いたことが強調されています。
 他方において、直接行動はマスコミから批判され続け、佐世保闘争では市民の支持を得て(その際記者も警察の暴力を受けたこともあり)マスコミの批判も緩んだものの、その後の大学・街頭での直接行動は商店街の自警団の登場や警察側の「過激派」「暴力」キャンペーンとマスコミの批判で否定されていきますが、その際、新左翼活動家側が自分の生き方、自己の変革が最重要という捉え方であったために世論を味方につけようとか広報戦略という発想が希薄であったために警察側の広報戦略に簡単に負けてしまったことが指摘されています。そして、直接行動という自己解放の場を失っていった新左翼活動家は、自己の変革において内向きの自己反省・自己批判に比重が移り、しかも政策課題そのものよりも自己の変革を求めてきた結果その運動は常時かつ永続的なものとなってのしかかり、多くの者はその重圧に押しつぶされ運動への関わりを断念し挫折感にとりつかれて自己の経験に触れることさえためらわれる状態となって運動の経験が継承されなかったと、著者は論じています。
 こういった分析を元に著者は、1960年代から1970年代初めのニューレフト運動の遺産として、積極面では日本では草の根のボランティアの個人・小グループの自発的参加が多くニューレフト運動の自己変革という考えがその源泉となっていると考えられること、消極面では社会運動の政治への影響力が小さく、ヨーロッパでは広範に行われ支持されている施設の占拠や封鎖などの直接行動への嫌悪感が強いことを挙げています。後者については、自己変革を重視する思想が政治制度への影響力行使に結びつかずあるいはそれを嫌悪したり倫理観の強さが時として仲間に対して求めるハードルを上げて批判的になりがちで連帯を損ねるという新左翼の思想の特徴に起因する要素と、警察とマスコミにより直接行動を暴力と同視する風潮が広がったことが原因とされています。
 こうして見ると、自己の成長のために修行・修練を自ら課する仏教的な価値観・倫理観と警察の強さ、マスコミの警察寄りの姿勢といった点が、日本社会と1970年代の運動を特徴づけ運命づけていったように思えます。悲しいですけど、その事実を見つめつつそこから抜け出すためにどうするかを考えていく必要がありそうです。
 1976年生まれの全共闘が消え去った後に生まれた著者による分析は、全てが文献によるもので、私(1960年生まれ)ですらおぼろげな記憶を持つ安田講堂攻防戦やよど号ハイジャック、あさま山荘事件などへの記憶・経験のしがらみからの自由さを感じます。闘争を知らない世代が何を言うか、ではなく、経験として知らない故の視点を提供してくれたと読んでおくべきでしょう。

22.避難弱者 あの日、福島原発間近の老人ホームで何が起きたのか? 相川祐里奈 東洋経済新報社
 福島原発事故のために避難を命じられたいくつかの老人ホームでの当日の避難の様子、避難開始後の受入と受け入れ側の態勢や事故の拡大との関係での再避難、避難後の介護、特に物資の不足と施設・器具の不備や職員の離脱・分散避難による利用者数に対する職員の不足などの厳しい条件下での介護とそれらの条件下での利用者(高齢者・病者)の死亡などについて、主として老人ホームの経営者・職員のインタビューを元にレポートした本。
 停電等によりテレビ・インターネット等の情報が届かなくなった被災地で、行政から突然避難勧告、次いで避難命令を受け、バスやヘリが来るといわれて待っていてもなかなか来なかったり、バス等の車両が来ても寝たきりの老人を乗せるには不適切だったり、すぐに戻れるという説明で着の身着のままで貴重品や資料類、特に老人介護に必要な利用者の個人情報等が記載された資料類も持ち出せず(後日は立入禁止となって取りに戻ることもできず)、行き先も事前にわからなかったり行ってみたら他の避難者でいっぱいで次の受け入れ先を探さなければならなかったり、受け入れ先では介護環境が劣悪で介護ができなかったり職員の労働が過酷になっていく様子、そういった条件の中で自分の家族の安否もわからない中、職員の一部は離脱して避難し、そのために残った職員の労働条件はますます過酷になり、しかも移動の負担や環境の変化(寒さ、ベッドや畳もなくコンクリートの床に毛布だけで寝かされる、通常の食事ができない老人に対し経管栄養剤が不足したり、そもそもふつうの食事さえ準備できないなど)のために老人が次々に命を落としていく様子が描写されています。
 読んでいて、何の落ち度もないのに、一方的に避難を強いられ、避難時の移動の負担や避難先の環境による負担で病状を悪化させたり避難前は元気だったのに衰弱したりして死んでいく老人たちや、厳しい条件の下で過酷な労働を強いられ自らの家族の安否もわからないという精神的負担といつまで続くか先の見えない避難と一所懸命に介護をしても自分の担当していた老人が死んでいくことの精神的な負担にさらされながら働き続けた職員、また家族のために避難を選択したがそのために職場離脱をしたことに負い目を感じ続ける職員らの姿に涙を禁じ得ませんでした。それぞれの場面では、直接目の前にいる人間に対して怒りの矛先が向いてしまいますので、無責任に場当たり的な対応を採る行政や、避難しないという選択をした老人ホームに興味本位の取材をかける記者や匿名の非難者たちに対して、怒りを感じますが、根本的には事故を起こした東京電力と事故対策を後回しにして原発を推進してきた行政と原発推進者たちに最大の責任があることを見誤ってはなりません。行政や報道は「震災関連死」などという言葉を使い続けていますが、この本で書かれているような避難自体の負担や避難先での環境の負担によって病状が悪化したり衰弱して死亡した老人たちは、原発事故による避難のために死亡したもので「避難死」とか「原発事故関連死」と呼ぶべきだと思います。「原発事故で死んだ人はいない」などと公言する恥知らずの原発推進者の非道ぶりを改めて実感するとともに、東京電力が犯した罪の深さ、それを恬として恥じずに被害者への賠償を値切り賠償請求に抵抗し福島原発事故の原因は想定外の津波などと嘘を言い続けあまつさえ放射能汚染水を垂れ流してその対策も費用をけちって満足に行わないまま柏崎刈羽原発の再稼働まで言い出すという傲慢な態度をとり続ける東京電力に対する怒りを、改めて感じさせられました。

21.目で見てわかる作業工具の使い方 愛恭輔 日刊工業新聞社
 身の回りにある基本的な工具を中心に作業工具の使い方の基礎を説明した本。
 木ハンマは頭部の角で叩くものだそうですね(40ページ)。ハンマだから平らなところで叩けというのかと思っていました。
 マイナスドライバは先端部幅、先端分厚さ、軸の長さの組み合わせが決まっているとして表になっています(32〜33ページ)。これによれば先端部幅が大きいほど軸の長さ(本体の長さ)が大きくなっています。そう決まっていた方が、ねじ(頭)の大きさとの関係でどのドライバを使うかわかりやすいとは思うのですが、実際にはそういう組み合わせでないドライバがあると思います。32ページの写真にも先端部幅が大きいけど軸の長さが短いドライバが写っていますし。
 ペンチで針金を曲げるとき、針金は横にくわえてはならず縦にくわえるように注意されています(48ページ)。たぶん、くわえ部の溝の切り方との関係で縦にくわえた方が針金がしっかりくわえられるということと思いますが、一応理由の説明があった方がいいと思いました。さまざまな工具で、使用時にハンマで叩くなという注意が繰り返されていますが、これもスパナ・レンチ系ではボルトが傷むため、ペンチ(46〜47ページ)では工具の方が傷むためかと思います。多くの部分でひと言理由が示されているので、こういうところも一応書いてもらった方がいいと思いました。
 弓のこの刃の装着方向について、「押したときに切る方向」に取りつけると説明されている(87ページ)のですが、そこまでの弓のこの写真が全て右側にハンドル部がある写真なのに87ページの刃の説明が右側(右向き)が切る方向の写真が使われていて、このイメージだと「引いたときに切る方向」に取りつけてしまいそうです。88ページ以降の切る作業の写真では左側にハンドルがある写真に切り替わっているのですが、それなら最初の写真からハンドル部を左側にした写真で統一する方が親切だと思います。
 「抜く工具」では、あまり身近でない「プーラ」だけが紹介されていて釘抜きは紹介されていません。今どきは家庭でも釘なんて使わないんでしょうかね。ちょっと寂しく思いました。

20.東京バビロン 新堂冬樹 幻冬舎
 超高ビーなトップモデル福山音菜が、同じ事務所に所属しナンバー2にのし上がってきた後輩モデルレイミの挑発に切れて、事務所の社長、ファッション雑誌編集長らに高圧的な態度でレイミの排除を求めて圧力をかけるが、上り調子のレイミの排除には皆消極的で、振り上げた拳を下ろせない音菜が売り言葉に買い言葉で感情的対応を続けて自分の立場を悪くして孤立し、周囲に嫌われて転落していく芸能界栄枯盛衰小説。
 音菜のあまりのジコチュウぶりというか専横ぶりは、遠く異朝をとぶらい近く本朝をうかがっておごれる者たけき者を数え上げてもなお心も言葉も及ばないほど(平家物語の平清盛みたい)で、音菜が置かれたシチュエーションは突き放して冷静に見れば哀れにも思えるのですが、その言動のあまりの尊大さ・傲慢さにまったく同情できず、読んでいて不快感が募ります。また転落した後の状況認識の現実からの乖離ぶりも、音菜の精神の異常を示していることはわかるのですが、それを延々とリピートし続けるのがあまりにくどくて、やはり読み味が悪いです。ふつうなら、ある程度音菜の転落と精神の失調を示唆したところで切り上げると思うのですが、ここまでくどく続け、突っ走るのはある意味で立派と言えるかもしれません。ラストシーンも唖然とさせてくれますし。
 振り上げた拳が下ろせなくて感情的な対応を続けてしまうということは、私自身少なからず経験していますので、そういう点では音菜の姿は身につまされます。闘うのが仕事でもあるのでそれが期待されている場面もありますが、それでも冷静な目でコントロールせねばと、改めて反省しました。そういう「人のふり見てわがふり直せ」小説かも。

19.リバース 中村啓 SDP
 2016年、総選挙を控えた日本で、男性の出産を可能として出産の軛から逃れようとする極端なフェミニスト秘密結社「メデューサ」と、メデューサを目の敵とする超保守秘密結社「皇血倶楽部」が繰り広げる政争と連続殺人事件をテーマにした政治空想小説。
 「二〇一二年、民政党から再び政権の座を奪い返した新自党は、経済政策の要として大規模な規制緩和を行なったが、弱肉強食の強い市場原理が働いたことで、労働条件はより過酷になり、リストラが増え、大衆の暮らしはさらに厳しくなった。当然、格差は大きくなり」(15ページ)は、現状をよく表しています。が、続く「治安は悪化。一昨年度、昨年度と重要犯罪の認知件数には、著しい増加が見られた。」(同)はどうでしょう。日本人は格差が拡大してもそれで凶悪犯罪に走るという感じじゃないと思います。役人に生活保護の受給を妨害されてもおとなしく餓死して行ったりしますし。ましてや、政権を奪われて以降人材不足が叫ばれていた「民政党」が若くリベラルな女性国際政治学者が代表となって息を吹き返し「若年層や女性、中産階級以下、幅広い層からの圧倒的な支持を受けている」というのは、希望的観測の域を出ません(作者がそれを「希望」しているかは、またかなり疑問ですけど)。
 私の同僚の福島さんがモデルとみられる「中道左派思想の強い社守党」の森山可南子議員。同性婚を合法化するために憲法24条を改正し(婚姻は両性の合意…を「両人」の合意に改正など)男性が出産できるように無差別妊娠法案の成立をもくろんでいる(おまけにレズビアンとか)とされていますが、う〜ん…フェミニスト嫌い/ネトウヨからはそういう目で見られているのかと驚きました。
 衆議院第二議員会館へ入る際、「一階の玄関ロビーにある受付へ行き、面会証に必要事項を記入した。それから、金属探知機によるボディチェックを受け、ようやく入館を許された。」(117〜118ページ)とありますけど、議員会館は衆議院第一も衆議院第二も参議院もすべて金属探知機のゲートをくぐった後で面会票を書くシステムです。国会敷地内の衆議院事務局がある「衆議院第一別館」なら面会票が先でその後に金属探知機ですが。全体が荒唐無稽な小説ですからどうでもいいかもしれませんが、こういうところで取材を手抜きされると、きちんと構想した上での荒唐無稽ではなくただいい加減なのねと思えてしまいます。

18.図説世界史を変えた50の機械 エリック・シャリーン 原書房
 1801年以降に実用化・商品化された機械で世界史に大きな影響を与えたと著者が考える機械50点をリストアップして製品写真と図版をつけてその製造・製品化と構造・機能について解説した本。
 「世界史を変えた発明」ではなく「世界史を変えた機械」とされたタイトルにあるように、最初の発見・発明・アイディアよりも、商品化されて広く使用されたものを優先的に取り上げるという姿勢を打ち出していますが、先行した商品と後続でそれを打ち負かした商品のどちらを取り上げるかの選択は後半では先行して敗北した商品の方に寄っているきらいもあり、必ずしも一貫していないように見えます。そういう点も含め、取り上げている機械の選択には、著者の好みがかなり反映されている印象です。私が読んでいて受けた印象としては、イギリスとアメリカが競合する場面ではイギリス側に選択が偏っていたり、アメリカ製品でも設計者がアメリカ人でないものが選択されているような感じがしました。発明よりも商品化・世間へのアピールがうまかったと解されるエディソンは、この本の最初の方で見られるコンセプトでは取り上げられやすいようにも思えるのですが、1つも取り上げられていません。競合者としては4回も名前を挙げた上に、ヘンリー・フォードを紹介する際に「本書の読者にとってはもうおなじみの有名人、トマス・エディソン(1847−1931)のもとで働くことになる」(106ページ)などと必要性もないと思われるところで皮肉っぽく言及しています。著者がよほどエディソンが嫌いらしいということはよくわかります。
 説明にはその機械の写真かイラストがついていて、一部構造図もあり見やすいのですが、もう少し仕組みの説明としっかりした図面が欲しいなという欲求不満も残ります。本の紙面(特に四辺付近)を薄くセピア色付けし写真もモノクロ・セピア色系を多用してレトロな印象を与える作りになっています。そういうグラフィック面での志向を貫くならば、一部の機械の紹介で用いられている背景に薄く配した図面をもっと多用した方がいいと思いますが。
 記述には偏りを感じますが、工業製品や日用品に愛着を感じる人が流し見てノスタルジーに浸るにはいい本かなと思いました。

17.クモはなぜ糸をつくるのか? 糸と進化し続けた四億年 レスリー・ブルネッタ、キャサリン・L・クレイグ 丸善
 クモの種類や進化と糸の使い方や巣の張り方について考察し説明する本。
 体重を支えられるほど強靱な糸を用いて、クモは餌を捕まえるための網を張ったり自らが隠れるための巣を作るほかにも、危険を察知すれば素早く空中に懸垂下降したり糸をたどって元のところに戻ったり、糸を風に流して放出して木の枝などに糸を張って移動したりさらには高いところで糸を空中に漂わせ風・上昇気流に乗ってふわりと飛ぶ(バルーニング)などすることができることが説明されています(77〜83ページ)。こうして体重を支えられる強靱な糸や粘着質の糸などさまざまな糸が作れるようになったため、クモは空中を速く自由に移動する能力を得て活動能力が大幅に拡大し繁栄したとされます。
 人間の目には完成された美しさを持つ垂直円網(垂直な平面上の円形のクモの巣)は、制作効率がよいが、クモ自身が隠れ逃げる場所がなくクモの捕食者に狙われやすいという欠点があり、水平円網や漏斗状の網の方がクモに隠れ場所ができる、投げ縄や地上に届く垂糸を張った立体網の方が狩りの効率がいいとして選択するクモもいる(199〜214ページ)など、進化の道は一直線ではなくまた人間の感覚とは異なることがあることが説明されていて、なるほどと思います。
 企業が莫大な金をかけて研究してきたクモの糸の正体と工業生産方法についてはまだ充分にはわかっておらず(はじめになど)、クモがなぜ自分の網にくっつかないのかという一般人が強く興味を持つことがらもまだよくわかっていないとか(143ページ)。
 そういう一般読者が一番興味がありそうなところはよくわからないで終わっていることもあり、クモとクモの糸についての解説書というよりは、クモを題材にして進化論を説明した本という捉え方をして読んだ方がいいかもしれません。進化論と聞いてイメージしがちな、進化はまっすぐに進むとか最も環境に適応できた者が生き残るという考えは誤りで、多様な種類の者が同時並行で生き残り最も適応できた者だけでなくほどほどに適応できた者は生き残るというようなことが度々説明されています。ゲノムに不安定な断片があり卵や精子を作るときに複製の間違いを起こしやすい生物ほど遺伝子変異を起こす頻度が高く「進化しやすい」、クモはそういう進化しやすい生物なのだそうです(216〜217ページ)。
 もっぱらクモの進化と糸・網(巣)に絞っているのでクモの生態全般の博学的な記述を期待すると肩すかしになりますが、クモという存在に新たな興味を抱かせてくれる本です。

16.B級恋愛グルメのすすめ 島本理生 角川書店
 恋愛小説家の著者によるラーメン等のB級グルメと私生活上の経験としての恋愛を素材にした連載エッセイ。
 初回がラーメン、2回目が日本酒なので、食のエッセイかと思いながら読んだのですが、次第に恋愛の話(といってもうまく行かない方の結果的には色気のない話が多い)に比重が移り、終盤はバツイチだった(知りませんでした…)著者が元夫とよりを戻して再婚する話で締められて、結局のろけ話かと思ってしまいます。もちろん連載開始時点ではそういうことは思いもよらなかったのでしょうけど。
 どちらかというとちょっと重い深刻系で少し切ない恋愛小説家というイメージの著者が、色気より食い気方向やうまく行かないというかそもそも深くならない恋愛(未満)エピソードばかり書いているのを読むと、だいぶイメージ変わるかなと思います。まぁ、現実がどうだとしても小説と同じような恋愛をしてるとかそれよりもっとヘビーなとか爛れた私生活を送ってると書いたら社会人としてはまずいから書けない、そういう経験をしたらそれはエッセイじゃなくて小説に書くということかもしれませんけどね。

15.生活保護 知られざる恐怖の現場 今野晴貴 ちくま新書
 生活保護の受付や生活保護開始後の指導等の現場の状況について著者が代表を務めるNPOの活動の経験からレポートし、現在の生活保護行政の問題点を検討し、安倍政権が行おうとしている法改正がなされるとどうなるのかを論じる本。
 生活保護の申請をしに行っても窓口で申請書も渡してもらえず追い返されるという役所のいわゆる「水際作戦」が横行し、それが昨今のマスコミによる不正受給キャンペーンなどの生活保護バッシングでさらに酷くなっているという様子が、著者が代表を務めるNPO法人が扱った天王寺区と舞鶴市の事例を挙げて説明された上、生活保護の申請で追い返された後に餓死した事例や自殺した事例、さらには生活保護を一旦受給できたがケースワーカーによる医師の診断を歪曲してなされた厳しい就労指導のために生活保護を打ち切られてその後餓死した事例が紹介されています。収入も所持金もないために生活保護の申請に訪れた人を収入も所持金もないことを知っていながら追い返して餓死させるのは、行政の怠慢というレベルではなく、行政によって死に追いやっているということではないか、こういうことを許していたら生活保護は何のためにあるのかと思います。現在の日本で人を餓死させるということを役人は恥じるべきですし、その人が生活保護の申請に窓口を訪れなかった場合でさえ、生活保護を強く必要としている人を把握できなかった、生活保護という制度を活用してもらえなかった/信頼してもらえなかったこと自体を役人は恥じるべきだと思います。そういう意識を持てない役人、今よりもさらに生活保護の申請をしにくくする法改正をもくろむ役人と政治家、生活保護の不正受給ばかりをキャンペーンして生活保護バッシングに走るマスコミには、ほとほと呆れます。
 生活保護受給者が一旦生活保護を受給するとなかなかそこから脱却できないのは働けるのに勤労意欲がないからというよりも完全に生活や労働の資源を失うまで生活保護を受けさせない行政のために生活保護受給に至った時点では再就職など無理になっているためで、もっと早い段階で一時的なサポートで生活保護を受給できていればより早く再就職が可能なケースが相当あるとか、生活保護受給者がワーキングプアの労働者より収入が多いという批判は最低賃金が低すぎるためで生活保護費の削減ではなく最低賃金の方を上げるべきという著者の指摘はもっともなことと思います。

14.世界一賢い鳥、カラスの科学 ジョン・マーズラフ、トニー・エンジェル 河出書房新社
 カラスが餌を得るために道具を利用するどころか道具を作ったり、人間の音声をまねししかもそれを聞いた人間の反応からの学習でその言葉の意味も理解しているらしいこと、人間の顔を識別し記憶と結びつけて危険な人物と友好的な人物を分別して態度を変えているなど、カラスの思考・学習能力について解説した本。
 著者の専門はフィールドワークだということですが、この本はカラスの能力についての観察や他の人の報告からの評価を最終的には脳神経科学的に説明する体裁となっていて、脳神経科学的な記述になじみのない読者にはやや取っつきにくいように思えます。特に、鳥類の脳神経科学的な説明をまとめている第2章とそこで引用されている巻末の補足図表は、この種の専門書としてはわかりやすく書かれているのだと思いますが、門外漢には眠気を誘うところで、ここをスムーズに乗り越えられるかどうかが読み通せるかどうかを左右すると思います。理論的には、そこを先に理解してもらえないと説明がしにくいということでしょうけど、素人には読みにくい部分を最初の方に持ってくるのは読者を増やすには向かない構成でしょう。
 脳重量の体重との比較では、人間は1.9%程度で、ワタリガラスは1.4%、カレドニアガラスは2.7%(50〜51ページ)。鳥の脳は成鳥になっても新しいニューロンをつくりだしていて最高齢のカラスでも新たな危険や好機をすぐさま学ぶそうです(54ページ)。人間の場合、この能力はあまり発達していないとされています(同)が、この点は人間も成人しても新たなニューロンが生成されているという報告もあります。鳥類は脳の一方の半球を眠らせておいてもう一方を働かせることができる(58ページ)とか。渡り鳥や海鳥は飛びながら眠れるというわけです。
 鳥類は2本の気管支にそれぞれ2枚計4枚の唇(内鳴管筋)があるため2つのメロディをさえずることもでき(70〜72ページ)、その高度な発声装置で人間の音声をまねすることは十分可能だそうです。人間の会話をまねるカラスの話がいくつも紹介されています。
 他にも、上昇気流があるところで樹皮のボードを脚でつかみウィンドサーフィンに興じるカラス(159ページ)や駐車場の車のワイパーのゴムブレードを手際よく外し続けるカラス(「ヒッチコック」と名付けられたとか:93ページ)、車が通るところに貝類を落とし車の通過後に割られた中身を食べるカラス(136ページ)など、さまざまなカラスの生態が紹介され、カラス類は、自己認識、洞察、復讐、道具使用、頭の中でのタイムトラベル、欺き、言語、遊び、計算された命知らずの行為、社会的学習、伝統といった、従来は人間だけに特有のものとされてきた特徴を備えている(262ページ)と論じられています。
 カラスの話とはずれますが、プレーリーハタネズミでは脳内物質のドーパミンがD2受容体と結合するとつがいの形成が促され、D1受容体と結合するとつがいになった雄が他の雌を選ぶ気持ちが特に減るのだそうで、雄のニューロンは交尾の後D1受容体により多くのドーパミンが結合するように変容し、それによって別の相手との絆の形成は妨げられ、本当に生涯にわたる単婚が強化されるとされています(192ページ)。う〜ん、貞操を守るかどうかは結局化学物質の問題なのか、意思の力は無力なのか、人間にはそういう仕組みはないのか弱いのか、あった方がいいのかない方がいいのか、そちらの方により考えさせられたりも…

13.民族紛争 月村太郎 岩波新書
 スリランカ(シンハラ人vsタミル人)、クロアチア(クロアチア人vsセルビア人)・ボスニア(ボスニア人=ムスリムvsセルビア人)、ルワンダ(フトゥ人vsトゥチ人)、ナゴルノ・カラバフ(アルメニア人vsアゼルバイジャン人)、キプロス(ギリシャ人vsトルコ人)、コソヴォ(アルバニア人vsセルビア人)の6つの民族紛争を個別に取り上げた上で、民族紛争の発生と拡大の条件、再発防止の条件などを検討し論じる本。
 学者・研究者の視点からの淡々とした冷静で学術的な筆致が特徴で、おそらくはそれが長所なのだと思います。しかし、人が大量に死んでいることがらを記述するのに、その事件の実情なり詳細がほとんど説明されず(これは新書で6つも個別紛争を取り上げることの紙幅の限界でしょう)その被害・事件をめぐる当事者の思い・感情部分が省かれ(これは冷静に書くための著者の意思でしょう)、政治的国際的な流れとできごとがなぞられるのでは、「紛争」の実情に触れた気がしません。
 ボスニア紛争で、「クライナ・セルビア人共和国が滅亡して、孤立していくセルビア人共和国に追い打ちをかけたのが、民族浄化の実行者としての国際的イメージの悪化であった。民族浄化は、ボスニア人もクロアチア人も行っていたが、セルビア人は国際メディア対策に後れを取っていた」(63ページ)とセルビア側に同情的な記述を行っていることも、紛争当時サラエヴォを包囲して生活物資を枯渇させて一般市民を苦しめた挙げ句に高台から一般市民を狙撃し続けるセルビア兵の姿をテレビでリアルタイムで見て、こんなことが許されていいのかと思い続けた経験からは、納得のいかないものを感じます。
 民族紛争というものを、民族紛争にもさまざまなパターンがあることを理解して一般的にその発生や予防を考えるという、一歩引いた学問的見地から捉えるのには、あるいは虐殺への怒りから頭を冷やすのにはいい本かなと思いますが、紛争のことを詳しく知りたいとか民族浄化や虐殺への怒りを持って読むのにはあまり適切な本ではないだろうと思います。

12.美少女教授・桐島統子の事件研究録 喜多喜久 中央公論新社
 8年前に原因不明の「若返り病」に罹り危険を排除するために大学地下の隔離施設内で研究中のノーベル賞受賞生化学者桐島統子88歳から雑用係に雇われた免疫力が抜群に優れた学生芝村拓也が、同級生が高熱を発生する原因不明の病に倒れた事件について調査し桐島統子の力を得て事件を解決するというミステリー小説。
 人工改変したウィルスを用いた犯人の陰謀と無謀な計画を推理していくサイエンス系のミステリーを美女を複数登場させてラブコメっぽくしたエンタメ小説です。
 ミステリー部分は半分は中盤あたりで大方見当がつきますが謎解きで残してあったどんでん返しで意表を突かれてしまいました。ほんわかしたラブコメとしてもミステリーとしてもそこそこ楽しめると思います。
 桐島教授の「若返り病」の設定はあまりに荒唐無稽の上、端的に言うとストーリー展開上必然性も感じられず、どうしてわざわざそうしたのかと不思議に思えます。あり得ないって設定を最初に出すことと美少女キャラをむりやり作ることで雰囲気を柔らかくしたかっただけかもしれません。
 プロローグの最後の行(8ページ)で「どういうプロセスをたどるにしても、いずれ僕は桐山先生と再会していただろう」とあるのは最初から気になっていました。ミステリーだし、ノーベル賞学者の桐島統子88歳が若返り病で美少女の姿形で現れるという荒唐無稽な設定ですから、どこかで桐島統子と別に桐山先生という人物が出て来て「若返り病」の謎に絡んでくるのだろう、その布石としてあえて一見誤植に見える「桐山」を書いておいて最後に「プロローグで桐島ではなく桐山と予告していたでしょう。はぁっはっはぁ」などというどんでん返しが待っているのではないかなどと気を回していたのですが、やはり単なる誤植でした。こういうのはきちんとチェックして欲しいなぁ。

11.仏教の真実 田上太秀 講談社現代新書
 インド仏教学専攻の著者が大学の最終講義として行った講義を元に、現代仏教の風習と釈迦の教えの違いについて説明した本。
 まずのっけから「仏教は神を信仰しない宗教である」「宗教には大きく分けて、神を立てる宗教と神を立てない宗教がある。神を信仰しない宗教は唯一、仏教だけで、その他の宗教はみな神を信仰している。この意味で考えると、無神論者と自称する人たちは、仏教を信仰している人かまったく宗教的信仰を持たない人かのいずれかである」(14ページ)とあるのにショックを受けます。確かに釈迦の教えは人生哲学というべきもので、目指す先は自分が「悟る」ことで、そこには「神」はありません。でも、子どもの頃に神様仏様と仏壇の前で手を合わせながら拝まされた記憶、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の釈迦が救いをもたらすイメージ、阿弥陀・弥勒が西方浄土から救済に現れるイメージから、いつのまにか仏教も天の上あるいは西方浄土にある存在が救済をもたらす教えなのだと思い込んでいました。無神論者は、仏教信者とお友達というのも…
 釈迦の遺言となった教えは「悪いことをしない。善いことをする」とされ、〜してはいけない、しなければならないという命令形ではないとされます(40〜46ページ)。命令でも規律でもない自律こそが大事だというのです。他の宗教が大切だとする「愛」について、釈迦は人を愛する行為は相手をわがもののように思う心情の現れと考え、自己を中心として愛するからさまざまな愛が迷いやむさぼりや怒りやおごりなどの多くの煩悩を生じる原因となっていると説き、相手の身となり力となることを意味する「慈悲」の行い、相手の思いをくみ取ってやさしく語りかけること、見返りを求めず、ひたすら他のために尽くすこと、そして他を差別することなく、我がことのように相手の力になることが大切だと説いたそうです(26〜31ページ)。神の愛は神を信じる選ばれた者にだけ及ぼされるが、ブッダの慈悲は関わりのない者にも平等に及ぼされるとも(同)。う〜ん、深い。けど、そうしたら人生が楽しくないような気がしてしまう。やっぱり私は単なる無神論者…
 著者は釈迦は「薪を焚いて清浄ありと思うことなかれ。外なる物によって清浄を求める人はついに清められないと知者は知る」として火による供養を否定しさらには祈祷ではなく正しい生き方に精力を注ぐようにいっているのに、日本の寺では護摩を焚き祈祷をし、しかし釈迦が45年説き続けてきた八正道の修行は教えないと指摘しています(47ページ、146〜149ページ)。正しい指摘で、葬式仏教・金儲けに終始する現代の寺院のおかしさをついていると思います。同時に釈迦の言葉が全てと言い出すと、これも一種の原理主義ではありますが。
 慈悲の説明で「六法礼経」を引いて論じているところで「従業員は事業主に尽くすこと、事業主は従業員を愛すること」(66ページ)とあるところは、その後の文脈からは逆で「事業主は従業員に尽くすこと、従業員は事業主を愛すること」だろうと思います。六法礼経の記述では「太夫」と「奴客婢使」で事業主と従業員と読むべきかという問題もないではなく、また尽くすと愛するの対比が明示されているのではなく太夫が奴客婢使に対するときの心得と奴客婢使が太夫に対するときの心得が列挙されているだけで尽くすと愛するの対比は著者の読み方・評価ですので、間違いと断ずるわけにはいきませんが。

10.「動かない」と人は病む 生活不活発病とは何か 大川弥生 講談社現代新書
 病院や自宅で「安静」にし続けたり出歩かないようになると、筋力や心肺機能が低下したり、関節が硬くなるなどして、次第に動きにくくなり、動かないでいることで動けなくなっていくという「生活不活発病」について解説しその予防を薦める本。
 このような症状は第二次世界大戦後広く知られ、日本では「廃用症候群」と呼ばれていましたが、体をまったく使わない場合だけではなく使い方が減ったときに生じること、「廃用」という言葉が患者に衝撃的で不愉快な印象を与えることから、著者が「生活不活発病」という用語を提唱して定着したそうです(177〜181ページ)。
 生活不活発病は、高齢者だけではなく、宇宙飛行士にも発症し、安静を徹底すれば若者や2歳児でも発症し、災害後の避難所や仮設住宅でも多発しているのだそうです。
 病気には安静第一とか、お年寄りに楽をさせようとして何でも周りの人がやってしまうという常識や善意が生活不活発病につながる、車椅子の効用を重視して車椅子による自立を最優先にすることで車椅子に座らせ切りになって歩行がより困難になるなどの指摘が注目されます。
 生活不活発病の治療や予防には、筋トレやとにかく動けという姿勢ではなく、人との交流の場や家庭でも家事や孫の世話など本人がやりがいを感じることを見いだして、充実感・達成感のあるような動く機会を作っていくことが大切だと著者は訴えています。配偶者に死なれて一人暮らしをしている元気な高齢者を一人暮らしは不安だと子が引き取ったら、まわりに友人知人もいないし環境も大きく違うので歩き回りにくいし行くところ(行きたいところ)もないので家に閉じこもり途端に動けなくなって老けてしまったというような例はよく聞きます。1人1人の生きがいとか満足感というものは軽く見てはいけないなとしみじみ思います。

09.それを愛とまちがえるから 井上荒野 中央公論新社
 結婚15年目のセックスレス夫婦袴田匡42歳と袴田伽耶41歳が、それぞれの愛人鍼灸師28歳の逢坂朱音、売れない漫画家43歳の星野誠一郎の存在を明らかにしながら日常生活を続け、伽耶の発案で4人でキャンプに行くという中年夫婦不倫回春小説。
 夫を愛していると思いながら自分を女として求めない夫に苛立ち夫とセックスレスになった3年前にさっそく昔の男とよりを戻し不倫にまるで罪悪感を感じない伽耶、かつて18歳の伽耶とつきあうが飽きて放置したのに伽耶に男ができるとその男(匡)をあざ笑うようなマンガを書き38歳の伽耶と不倫の関係になるが単にプロを買い続ける経済力がなく新しい女を作るのもめんどうだからキープしている誠一郎、1年前に鍼治療を受けに行って一回り若い鍼灸師に夢中になり不倫の関係を結ぶが妻に罪悪感を持ち続ける匡、不倫という意識もあまりなく一回り年上の匡の一生懸命さに一定の満足を覚えつつときおり若い男を求めてしまう酒乱気味の朱音という組み合わせを、読者はどう読むのでしょう。50代妻帯者の私としては、どうしても匡の目から読んでしまうけれども、私の感覚では、匡が一番ふつうで、次いで朱音、誠一郎は性格悪すぎというかたぶんよくいるタイプなのだろうけどどうしても好意的には見ることができず、伽耶に至っては理解できません。でも「婦人公論」連載の小説ですから、基本的に中高年女性を読者として想定しているはずで、そうすると中心的読者層は伽耶の視点で読んでいくことになるのでしょう。今どきの中高年女性は、不倫に全然罪悪感がなく、それでも自分は夫を愛してると主観的には思えるという伽耶に共感できるのでしょうか。
 そして、この小説では、伽耶が、夫に自分の愛人と夫の愛人をあわせた4人でキャンプに行こうと言い出し、実行してしまうというど外れたというか突き抜けたというか異様なアイディアがポイントになっています。う〜ん、この4人の立ち位置からすれば、他の3人にとっては迷惑というか行きたいはずもないことが明らかなのに、なんでこの人はこういうことをやり出すんだろと思います。それで、愛人同士でテントに入りながら、結局は妻が夫を取り戻すという、要するに中高年妻がわがまま勝手なことをしながらそれが自分に都合のいい結果を招くストーリー展開は、読んでいて、ああこれが「婦人公論」連載なんだよねと思ってしまいました。

08.電気料金はなぜ上がるのか 朝日新聞経済部 岩波新書
 福島原発事故後に電力会社が続々と電気料金を値上げ申請した際に行った、原発が止まり火力発電の燃料費が増えたためという説明について検証する本。
 電気料金を決める仕組みは「総括原価方式」と呼ばれ、発電の原価に一定割合を掛けた電力会社の利益を乗せて計算されます。つまり、原価が大きければ大きいほど電力会社の利益が増え、電気料金は上がるという仕組みになっているのです。その原価の中には、「事業報酬」という費目が含まれ、その事業報酬は「電気事業用資産」の評価額に一定割合を掛けて算出すれるのだそうです(46〜48ページ)。これは電力会社の懐に入るのに原価とされてさらにそれを含めた「原価」に対して一定割合で電力会社の利益が上乗せされて確保されるというのです。無駄な施設でも巨額な費用をかけた方が、電力会社の利益は多くなるというわけ。発電用に巨額の費用をかけた施設を造れば造るほど電力会社の事業報酬や利益が膨らむことになります。電力会社が巨額の建設費のかかる原発を造りたがり、廃炉に徹底的に抵抗するのはそういうことだったのかと納得させられます。
 そして福島原発事故後、ほとんどの原発は止まったままなのに原発の維持費、さらにいえば原子力専業会社(日本原子力発電や日本原燃サービス)の救済のために本来はまったく不要の巨額の費用が支出され続け、それも「原価」に入れられて電気料金の値上げが認められていることになります。
 核燃料サイクルの一環として海外再処理の委託やそれに伴う高レベル廃棄物などの輸送が行われていますが、その輸送を行っている会社は実態のない幽霊会社のような企業でその株主は日本の電力会社とその関連企業で、高額の輸送料が支払われその利益が株主である電力会社の懐に入る仕組みになっているそうです(96〜103ページ)。電力会社が核燃料サイクルの維持に熱心な背景にはそういうこともあるのかと思いました。
 電力会社がさんざん理由にしている火力発電の燃料費にしたところで、日本の電力会社は燃料を高く買えば原価が上がり電力会社の利益を膨らませて電気料金を値上げできる仕組みのために安く買おうとする努力をしてこなかったようです。日本の電力会社が購入しているLNGの価格はアメリカのガスの5倍以上だというのです(74ページ)。
 そして料金値上げでは、他の会社から購入するというオプションがある大企業は安い料金で、地域独占のために電力会社を選べない家庭には高い料金が課せられているのです。
 今や、原発の再稼働や原発の維持がいわれる理由は、電力不足ではありません。福島原発後3度の夏を、かなり厳しい猛暑も経験し、電気を湯水のように使うのではなくある程度節度を持って利用するならば原発などなくても電力需要が十分に満たせることは、既に誰の目にも明らかになっています。原発がなければ江戸時代に逆戻りとか戦前に逆戻りといったかつての宣伝は、原発に関してはもう何度も経験したことですが、まったくの嘘でした。今では、原発の再稼働を必要とする理由は電力会社の会計上の都合に過ぎません。それを一般市民に対しては原発を稼働させないと電気料金が上がるという恫喝に言い換えているのです。その電気料金の値上げも、実は原発を再稼働しないと費用がかかるからではなく、原発を維持しつつ高い価格で火力発電の燃料を買い続けるから、あるいは電力会社が経費節減の努力をしなくても電力会社だけは十分に儲かる仕組みでしかも地域独占のために家庭から高い電気料金を取り続けられる仕組みが維持されているから、どんどん値上げされてしまうのです。
 電力会社のいう原発を動かさないから電気料金値上げが必要という説明が嘘であることがわかるとともに、原発事故がなかったとしても電力会社という存在がいかに小ずるく不経済な利権屋であったか、財界がいつもいっていた世界的に見て高すぎる電力料金が誰のせいであったかを考えてしまう本です。

07.Hard After Hard かつて絶望を味わったJリーガーたちの物語 大泉実成 カンゼン
 脚光を浴びもてはやされたサッカー選手のその後、現役引退と引退後の生活をテーマとし、その選手や周囲の人へのインタビューを素材にして論じた本。
 1993年の日本開催のU−17世界選手権でベスト8に輝いた日本代表メンバーで、その後活躍する中田英寿や宮本恒靖よりも当時は評価が高かった財前宣之、船越優蔵を中心に、他のU−17日本代表や1994年度の全国高校選手権大会得点王として脚光を浴びた森崎嘉之、草創期のガンバ大阪を支えたミッドフィルダー磯貝洋光らを取り上げています。
 ある者は再三の負傷と戦いながらサッカーにこだわり続け、ある者はもてはやされた高校生時代から注目度の低い社会人サッカーに移りプロの壁にもぶつかって早々にサッカーに見切りをつけ、ある者はけがでサッカーをあきらめ、ある者は淫行事件で挫折しといった具合にさまざまな人生を歩んでいきますが、順風満帆で来たサッカー人生がけがやチームの事情で試合に出られないことなどで躓き、厳しい状態に陥ったという点で共通しています。その躓きの時に何を考えたか、次の人生をどのように選択していったかがインタビューの中心となっていて(絶頂時の回顧も、もちろん含まれていて、中年以上の読者にはそちらの方にノスタルジーを覚え惹かれるかもしれませんが)、他の分野にも通じる人生論的な中身になっています。
 絶頂時には注目度が高くもてはやされるが選手生命の短い(登録抹消平均年齢26歳だって:14ページ。私らの頃の司法試験合格平均年齢より若い…弁護士ならスタートラインにさえ着く前)サッカー選手ならではの部分もありますが、有名サッカー選手を題材にした懐古趣味とゴシップ的興味を入口に、他の職業でも必ずあるやりがいといつかはやってくる引退をどう捉えていくかという問題を考えさせてくれる本だと思います。

06.原発と活断層 「想定外」は許されない 鈴木康弘 岩波科学ライブラリー
 原子力規制委員会の地震・津波に関する規制基準の検討チームに参加した変動地形学者である著者が、なぜこれまで原発周辺の活断層が見過ごされてきたかをはじめとする原発と活断層の問題を解説した本。
 福島原発事故後、原子力規制委員会が敦賀原発2号機などで原発の敷地直下の断層を調査して活断層と判断したことから、原発と活断層の問題が注目を集めています。しかし著者が指摘するように、活断層の評価・判断の基準は、原子力規制委員会で規則の形にされより拘束力が強まったものの、基準の内容自体はほとんど変わっていません。実は、福島原発事故よりも前の2006年の改訂指針で耐震設計上考慮する活断層は「後期更新世以降(12〜13万年前以降)の活動が否定できないもの」とされ、2008年に定められた活断層等に関する安全審査の手引きでは、いずれかの調査手法によって耐震設計上考慮する活断層が存在する可能性が推定される場合には安全側の判断を行うことなど、端的に言えば変動地形学の手法で活断層と判断される場合には他の方法で活断層であることが否定できなければ活断層として扱うことが定められていました。要するに活断層かどうかわからないときは活断層と扱うというルールが明記されたのです。
 ところが、そのように基準が定められた後も、事業者は活断層であることが明確にならない限りは活断層を想定する必要はないという立場をとり続け、行政もそれを追認してきたのです。そのことについて著者は、現在の原発各サイトが立地された頃は活断層や活断層調査についての知見が十分ではなかったこと、活断層の調査が立地時点ではなく立地決定後の施設の安全審査の段階で初めてなされる(そのため事業者としてはもう引き返せないという思いが強い)こと、活断層調査が事業者の手でなされ規制当局は事業者が提出する資料をチェックするだけという態勢であること、活断層調査は調査計画が最も重要で例えばトレンチ調査の場所を数メートルずらすだけで活断層が存在してもその存在を確認できなくなるという性質のものであること、その調査を活断層を可能な限り否定したい事業者任せにしたのでは活断層が発見できる可能性は低くなることなどを指摘しています。
 著者の指摘は、福島原発後に発足した原子力規制委員会で、学会が推薦した学者によって構成されたメンバーでトレンチを掘る場所なども指定して活断層調査をすると、これまで規制当局の判断でも活断層性が否定されてきた原発敷地内の断層が次々と活断層と判明していったことからも裏付けられます。事業者側はメンバーの人選が偏っているなどと言っているようですが、これまでの原子力ムラの御用学者が一本釣りされていた時代こそが不公正の極みだったわけで、学会の推薦による人選は科学的見地からの極めて公正なものと評価できます。
 この本では、そういった活断層判定に関する基準や評価方法の移り変わりと最近話題となっている各原発サイトの活断層の様子について、初心者向けにわかりやすく、広く薄く解説しています。
 原子力規制委員会での活断層問題は、今のところ敷地直下の活断層問題に集中していて、敷地直下以外でも周辺に活断層がある場合の評価などの問題が置き去りにされている感があります。また島崎委員が担当する活断層問題では、旧原子力安全・保安院等よりも厳しい規制をする姿勢を見せている原子力規制委員会ですが、他の分野では旧原子力安全・保安院等と変わらないとか前より酷い(規制が後退している)と評価できますし、島崎委員の任期が来年切れれば後任にまた原子力ムラの御用学者が起用されて元の木阿弥という恐れがあります(なんせ、原発推進一辺倒の政権ですからね。汚染水だけでなく活断層も「コントロールされている」なんて言い出すかも)。そんなことにならないように良識ある人が頑張って欲しいと思うのですが。
 なお、弁護士の感覚でいうと、この本に書かれている問題意識は、判断者の公正さ、証拠が一方当事者の手にあるときの立証の際の判断者の指導のあり方(証拠開示や調査命令)、そして事実がどちらかハッキリしないときにどちらに結論を出すかの基準(立証責任)の問題がいかに大切かということにもつながります。活断層問題のみならず、一般的に事実を認定評価することとはという問題にまで考えを及ぼすことができます。
 ちょっと最後は問題を拡げすぎましたが、原発と活断層の問題について知り、いろいろなことを考える上で有益な本だと思います。

05.なぜかいつも満席の居酒屋のおやじがやっている「つかみ方」 氏家秀太 扶桑社
 ふつう規模の居酒屋の店主を例に挙げて顧客の心をつかみリピートにつなげるためのテクニックを解説する本。
 最初の方はタイトル通り居酒屋の場合の例で説明をしていますが、次第に居酒屋を離れて一般化されていき後半はふつうの営業について語るふつうのビジネス書になっています。この本自体も、ビジネス書としてだいじな最初のつかみ部分は居酒屋の親父で行こうという意味なんでしょうね。最後まで全部居酒屋の親父の具体的なテクニックで書いてくれれば、独創性もあり総合的な捉え方も考えられるおもしろい本になったと思うのですが。
 既存客へのダイレクトメールの話では、バースデーサービスのDMは本人(だけ)ではなく家族や友人に送るというアイディア(67〜70ページ)がなるほどと思えました。飲食店や旅館などのサービスの場合、バースデーサービスで反応するのは本人じゃなくて祝ってあげたい側ですからね。
 はじめに部分で行動心理学と言っていますが、坂本龍馬式に1のものを10くらい喜ぶと周囲に活気を呼び相手はもっと喜ばそうと思い得をする(130〜131ページ)はそうかなと思いますが、「脳の神経回路は、楽観的に物事を捉えることで、潜在能力を発揮できるようになっている」(142〜145ページ)となると本当かなと、「脳科学から見ても左脳に作用させた方が、聞き入れてもらえる可能性が高いのです。商談や相手に何かを頼むときは右側からの方がいいのです。」(187〜189ページ)になるとおいおい本当かい?と思ってしまいます。

04.東電OL事件 DNAが暴いた闇 読売新聞社会部 中央公論新社
 1997年に発生した東電OL事件の再審請求審の過程で東京高検が弁護団の要求と東京高裁の要請に基づき行った被害者の膣内容物を拭き取ったガーゼと殺害現場に落ちていた体毛のDNA鑑定で共通する第三者のDNA型が検出されたことを読売新聞記者が知り、その鑑定結果の開示を拒否しようとする検察の姿勢を見てスクープしたところから再審開始決定・刑の執行停止・ゴビンダ氏(再審請求人)の釈放・帰国に至るまでを報じたノンフィクション。
 その後、検察側がゴビンダ氏の犯行を裏付ける証拠(再逆転のための証拠)を求めてそれまでに鑑定をしていなかった資料を大量に鑑定し、その過程で、裁判所や弁護団に示していなかった被害者の乳房に付着した唾液やコートの血痕からも同一の第三者のDNA型が検出され、ゴビンダ氏の逆転有罪判決(1審は無罪だった)を支えた論理がさらに崩されていく様子が、読み応えがあります。
 それにしても、圧倒的な権力と組織力で証拠になりそうなもの一切合切を手中にして抱え込みながら、自己に有利なもの以外は開示しない検察。少なくとも当時はそれが当然だったと取材に答える検察官たちは、自らが「裁判所に正当な法の適用を請求する」公益の代表者と定められていること(検察官法第4条)をどれくらい理解しているのか。一介の市民レベルの権限しかない弁護士と同レベルでまるで子どもの喧嘩のような感情的な対応をしているようでは検察官としての職務をまっとうしていないと思う。日本の刑事司法は、圧倒的に検察に有利で、弁護側から見ればあまりにもアンフェアな仕組みになっていて、犯人必罰・重罰を求めるマスコミと「世論」がこれを後押ししてきたのだと思います。裁判員裁判に伴い整備された公判前手続と証拠開示でどの程度事態が改善したのか、その頃から刑事事件を担当していない私にはわかりませんが、心もとないように思えます。
 取材によれば、ゴビンダ氏と同居していた外国人たちは一方で警察から就職を世話され金銭を渡され、他方では暴行を受けて、ゴビンダ氏に不利な供述を求められたそうです。いまなお、そのような取調を平然と行う警察と無実の客観的証拠があってもこれを弁護側には開示しないで握りつぶそうとする検察。そういう連中のためにゴビンダ氏は15年も拘置所・刑務所に身柄拘束され、故郷の妻子はゴビンダ氏とひき裂かれてきたというわけです。再審開始決定前のネパールでの取材で描かれるゴビンダ氏の家族の様子と東京高裁前で再審開始決定を迎える家族の様子のレポートには涙ぐみました。先進国だと無条件に考えている私たちが、現実にはどんな国に住んでいるのか、考えてみるためにもいい本だと思います。
 実は、この問題については、私のサイトでは、「子どもにもよくわかる裁判の話」の「有罪と無罪の境界線」というページで書いています。事件の内容はとても子ども(一応小学校高学年から中学生を想定して書いています)には説明できないので、触れてはいませんけど(‥;)

03.スイートリトルライズ 江國香織 幻冬舎文庫
 うちに帰ると鍵を閉めて部屋に閉じこもりゲームに没頭しウォークマンを手放せず人とのコミュニケーションが苦手な28歳会社員の岩本聡と、テディベア作家の30歳岩本瑠璃子のセックスレス夫婦が、瑠璃子は恋人のためにテディベアを譲ってくれといってきた脱サラして翻訳家になろうとしているという居酒屋店員の津川春夫から、聡は大学のスキー部の3年後輩で遊園地勤務の三浦しほからアタックされてともに不倫しながら夫婦の日常を続けていく小説。
 設定からすると、部屋に鍵をかけて閉じこもり、同じ家にいながらお茶を出すにも携帯で連絡して初めて鍵を開けるという聡の異常性と、聡を思い続けているのにセックスレスとスキンシップの少なさに飢餓感を持つ瑠璃子の強い思い込みの組み合わせで、瑠璃子の思い込みの強さにもちょっと怖いものを感じますが、それでも聡への違和感の方が強く感じられます。総論的には、セックスレスでなかったら、あるいはせめて鍵をかけずに同じ部屋で過ごせていたら、瑠璃子が触れたいときに聡の体に好きなだけ触れられていたら、瑠璃子の不倫はなかったのかもと思わせてくれます。
 でも、聡に対して浮気をしたらその場で刺すといった(11ページ、174ページ)瑠璃子が、夫のいない昼間に2日に1度春夫の部屋を訪れてセックスしながら何の罪悪感も感じない、春夫と会っている/セックスしているときも、家で帰ってきた聡を迎えるときも自分が裏切っているという思いを微塵も感じないことに、驚きます。そういうものなんでしょうか。
 聡の方は、しほとデートを重ねながら、しほといるとなぜだか瑠璃子のいいところばかり思い出し(126ページ)、家で迎える瑠璃子と相対しながら自分が裏切っていると罪悪感を持ちます。こうしてみると異常なオタク男でも、聡の方が共感できてしまいます。
 そして恋人がいながら、人妻に迫り、キスした後さらにはセックスした後で自分の店に夫と飲みに来いとか自分と恋人と不倫相手とその夫で食事をしたいと誘い現実にそうするし、不倫相手が夫と温泉旅行に行くというのを行かせないといい、夫の留守中の自宅にも押しかける春夫って最低限の良心とか節度もない男。こういうのに惹かれる女がいるというのも私には理解できないし、でもそれが世の中の現実でもあり私は悲しい。このど厚かましい最低男が恋人と別れたからというなり振られるのは、ざまあみろという気持ちになりますが、同時に、恋する男ってものごとが見えなくて哀しいものだねという感慨も持ちます。
 禁じられた遊びのミシェルとポーレットのように寄り添って暮らしたい(18ページ、233ページ)と思う30女ってどうでしょう。30歳にもなって禁じられた遊びの世界で生きられるのかという意味でも、30歳でなぜ禁じられた遊び(1952年の映画だべ)なのかという点でも。
  映画「スイートリトルライズ」(2010年)の感想はこちら

02.風景を見る犬 樋口有介 集英社インターナショナル
 那覇の売春宿を経営するシングルマザーの一人息子の高校3年生が、近くの売春宿を買い取って経営する中年女性と、2回Hしていたバイト先の先輩の女性の連続殺人事件に遭遇するライトタッチのミステリー小説。
 勉強は苦手で料理には研究熱心な主人公の高校生が、次々登場する若い「沖縄には稀な」美女に粉をかけられるモテモテの設定を、快感と思うか都合よすぎと思うか僻むかというあたりで好みが分かれそうな小説です。
 ミステリーとしては「不思議なことに、被害者の爪から皮膚片や血痕の生物反応が出てこない。ふつうなら首を絞められたとき、被害者も相手の腕ぐらいはひっ掻くはずなんだが」(91ページ)の謎は360ページで解いたことになるのでしょうか。皮膚片が出なくても繊維とか、さらにはその繊維に汗とかが付着しているという可能性も十分にあり、爪の皮膚片を気にしている警察がそれに気づかないということがあるんでしょうかねぇ。それに警察官が一高校生に捜査情報をこんなに一から十までしゃべるという設定は、無理な印象が強いし、真犯人の動機(361ページ)も無理じゃないかなぁ。本当にそれで、その状況で、殺す?
 作者は2011年から那覇市在住とプロフィール紹介されていますが、那覇の人々の昨今のしゃべりはこんな感じなのでしょうか。三線(沖縄三味線:私の知る限りでは「さんしん」と読むはず)に「さんせん」とルビを振っている(7ページ)のは誤植なのか、最近の沖縄ではそう読むのか。そのあたりもちょっとミステリー…

01.ヤバい会社の餌食にならないための労働法 今野晴貴 幻冬舎文庫
 会社で働く人のいじめ・残業代不払い・休暇妨害・低賃金・解雇などの悩みについて、労働法を知り、労働基準監督署や労働組合(特に地域労組=コミュニティ・ユニオン)、労働審判、裁判などを利用して解決することを薦める本。
 多くの労働者が残業代の不払いや有給休暇を取らせない、悪辣な解雇などの仕打ちを受けてもすぐにあきらめたり自分を責めたりして会社の違法行為を追及していない。NPO法人の活動として労働者の相談を受けている立場から著者はこの現実を変えたいという思いで、あきらめるな、自分を責めるな、会社とサクッと闘おうと呼びかけています。
 この本で書かれている労働法と労働審判と裁判の状況は、間違っているというところは特にないと思いますが、勝てる可能性がそれなりにある(もちろん事案の内容次第)くらいのところが簡単に勝てるというニュアンスになっていて、弁護士の目からは労働者側に過大な期待を与えるように思えます。労働者の多くがあきらめる必要がないケースであきらめすぎている現状からすればこれくらいの書き方が運動論的には正しいともいえるのでしょうけど。労働者側の弁護士としては、自分で書くにはちょっとここまでの思い切った書き方はできないけど、こういう本があった方がいいというところですね。
 残業代請求のための証拠として著者が代表を務めるNPO法人が作った「しごとダイアリー」などのメモを第1選択として、そこまでできない人はタイムカードのコピーでもいいとしている(43〜45ページ)のは、疑問があります。メモでも証拠になる、メモは詳しいほどいいというのはその通りですが、証拠としての力を考えると、タイムカードが正しく記録されているのであれば(タイムカードで退社の記録をした後またデスクに戻って仕事しているとかいうのでなければ)タイムカードの方が残業代請求の証拠としては有利です。同様に、会社が作成した文書とか、電子メール、録音とかが自分の主張を裏付けるのに使えれば、やはりメモよりもそちらの方が証拠としては有利です。メモはそういったものを使えないときでも証拠として使えるとか、他の証拠を補強するのに(また自分の記憶を喚起するのに)使えるという意味で重要だというあたりで位置づけておくといいと思います。

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